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第五章
【第22話】告げられた現実
しおりを挟む『ワイズホールディングス』専務取締役・相沢恒一郎は、人事部門を統括するのが役割である。
先刻、人事部から上がってきた報告書に目を通しながら、彼は深く息を吐いた。
「やはり、出始めましたか」
副社長・吉羽俊輔の、プライベートな交際に関する噂。
まだ公式な問題ではないが、火種としては充分すぎるほどの、格好のネタだ。
事実、俊輔に近い立場の社員を起点に、噂は徐々に広まってきている。
彼個人は、恋愛自体を否定するつもりはない。だが、立場が変われば、その意味も重要性も変わる。それが世間というもの。
副社長の肩書きを持つ者は、もはや個人ではいられない。それが組織の「常識」だ。
「能力はある。だが感情に寄ると、人は判断を誤りがちだ」
紙の上の文字をなぞりながら、相沢は考える。
――このまま見過ごすか。
――それとも、早めに芽を摘むか。
「組織を守るためには、犠牲が必要な場合もある」
それが、彼の信じてきた理論だった。
善悪ではない。事象がもたらす、社の利益と結果の問題だ。
相沢はデスクに置いたスマートフォンを取り上げ、人事部の担当者に短く指示を送る。
【副社長の動向、要観察】
「感情で動くならば、それ相応の代償は払ってもらうしかない」
恋人たちにとって冷たい現実が、静かに、確実に動き始めていた。
◆ ◆ ◆
その呼び出しは、あまりにも唐突だった。
「副社長。社長と桐谷顧問から、少し時間を都合してほしいとのご要望です」
秘書の声に、俊輔は一瞬、キーボードを操作する手を止めた。
予定されていない面談。こちらのスケジュールの合間を狙うような――いや、実際に狙ったのだろう。寡黙だが有能な秘書が、俊輔と亜矢香の交際に気づかないわけがなく、それを社の一員として懸念しないはずがなかった。
「……社長と、顧問の二人か?」
「いえ、もうお一方。相沢専務も同席なさるそうです」
その顔ぶれを聞いた瞬間、俊輔の胸に、重いものが静かに沈んだ。
「――承知した、と伝えてくれ」
「かしこまりました」
淡々とした秘書の返答を聞きながら、俊輔は奥歯を噛みしめる。
何の用件か……話であるのかは、見当がついている。だからこそ、胸の内が重かった。
指定された会議室に入ると、窓のブラインドは半分下ろされ、外の光が遮られていた。
和子は、先日の会議で見た時のような、一見穏やかな微笑みを浮かべて窓を背に座っている。その横で、相沢専務は無表情のまま、机に並べた資料の一部を手に取っていた。
「お呼びと伺いましたが、何でしょうか」
「まずは座って」
和子の一言で、場の雰囲気はほぼ、決定されているものと察する。
そして話は始まった。
「副社長。最近、社内であなたに関する噂が出ているのは、知っているかしら」
「どのような噂でしょうか」
俊輔は感情を表に出さず、努めて冷静に尋ねた。
不思議そうに首を傾げ、和子は説明する。
「本当に知らない? あなたが、特定の女性と親密な関係にあるという話なのだけど」
ねえ、と言いたげな視線を相沢専務に送る様子からすると、とっくに調べ上げているに違いない。二人の交際も、亜矢香の素性についても。
「――噂が事実であることは、もうご存じなのでしょう」
和子は唇の端を上げることで、質問に答えた。
「わかるかしら。副社長というあなたの立場上、相手がどんな女性かということも関心を持たれてしまうのよ。誰彼かまわずね」
相沢専務が資料の束を、俊輔の前に滑らせた。
調査報告書、と書かれたそれに記されているのは、亜矢香の経歴――年齢、勤務先、学歴に家族構成。
「やはり、調べましたか」
「必要な範囲でよ、あくまでも」
和子は悪びれもせず言う。
「あなた個人の恋愛を否定しようというのではないわ。ただね」
一拍置き、視線をさらに鋭くする。
「副社長の伴侶となる人物は、否応なく『会社の顔』にもなるの」
俊輔の胸に、氷水をぶちまけられたような冷たさが広がった。
「ファミリーレストランの試用中スタッフ。一般家庭育ち。当人の今後に目覚ましい可能性は見いだせない――率直に言えば、不安材料が多すぎるわ」
刃のように冷たく、正確に切り込んでくる和子の言葉に、俊輔は抑えた声で問うた。
「つまり……交際を解消しろと?」
「『考え直してほしい』だけよ」
心外と言わんばかりの和子に続き、相沢が淡々と言葉をつなげる。
「このまま関係を続ければ、人事のみならず、広報や取引先への影響も出るでしょう。我が社の副社長として、それをどう判断なさるのか――今が分岐点ではありませんか」
机の上でそっと拳を握り、俊輔は声を絞り出す。
「彼女は、何も悪いことをしてません」
「ええ。だからこそ、厄介なの」
和子は、ほんのわずか眉を下げた。
「悪意がない分、切り捨てづらい。でも、組織は個人の情では動かない、動かしてはならないものよ。あなたはそれを、よく知ってるはずでしょう?」
いっそ優しいほどの声音で、それでいて冷酷な現実を、和子は告げる。
……言い返したい言葉は、いくらでもあった。
だが、それを口にすればするほど、彼女たちは俊輔に「副社長失格」の烙印を押すのだろう。
「――少し、時間をください」
そう言うのが精一杯だった。
「いいわ。ただし、長くは待てないわよ」
和子は話を終わらせる合図に立ち上がり、こう締めくくった。
「あなたが選ぶのは、恋なのか会社なのか。その覚悟を見せてちょうだい、副社長」
その日の夜、俊輔は一人で部屋にいた。
灯りもつけないままの暗いリビングで、ソファに深く沈み込む。
――彼女を守りたい。
――でも、このままでは彼女を傷つける。
亜矢香の顔が脳裏に浮かぶ。
明るい笑顔も、不安そうにうつむく横顔も、全部。
スマホを手に取り、何度も彼女の番号を呼び出しかけては、やめることを繰り返す。
今、何を伝えればいいのかわからなかった。
「……俺は、何を選ぶんだ」
自分に問いかけても、うまく答えは出てこない。
◆ ◆ ◆
同じ頃、亜矢香は自室で、何度もスマホを確認していた。
今日は俊輔から連絡が来ない。
それだけで、胸がざわつく。
具体的な話は何も聞いていない。
でも、わかっていた。彼の世界で、何かが起きているということは。
「大丈夫……大丈夫」
自分に言い聞かせながら、ベッドに横になる。
不安は消えないけれど、俊輔を信じたい気持ちの方が、亜矢香の中ではまだ勝っていた。
同じ夜空の下。
それぞれが、重い現実と向き合いながら、眠れぬ夜を過ごしていた。
――これは、恋が試される夜だった。
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