その優しい人は、特別なお客様でした。

紬 祥子(まつやちかこ)

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第五章

【第24話】逆風の中で

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 新しい職場に勤めて1ヶ月が過ぎ、少しずつ仕事に慣れてきた、そんな頃。

 亜矢香は、ランチタイムの客が引いたホールを見つめながら、深く息を吐く。
 前職と同じ、飲食業界。カフェの勤務当初はいろいろ右往左往していたけれど、慣れるうちに、サービス業も楽しいと思えるようになり、このレストランチェーンを受けるきっかけにもなった。

 正社員として迎えられたこの職場は、亜矢香にとって「自分で選んだ未来」そのものだった。
 ここなら、きっと長く勤められるはず。大丈夫だ。

 ――そう思っていたのだが。

「桜田さん、少しお時間よろしいですか」

 声をかけてきたのは直属の上司、ホール担当の主任だった。
 やわらかな口調なのに、なぜか胸の内がひやりとする。
 相手の、周囲をはばかるような視線に、予感を覚えたのかもしれない。

 促されて休憩室に行くと、そこには女性がひとり、すでに座っていた。主任によれば「本社の人事担当」とのこと。
 雨雲のような嫌な予感が、確信に変わった。

「桜田亜矢香さんですね」
「……はい」
「少し確認させてほしいことがありまして。座ってください」

 人事担当が、言葉を選びながらといった慎重な口調で言った。
 パイプ椅子に座った亜矢香に、相手はこう切り出した。

「以前、お勤めされていた会社での、交友関係についてです」

 亜矢香の指先が、置いた膝の上でわずかに強張った。

「役員クラスの方と個人的なお付き合いがあった、という話が、本社に最近届きましてね」

 担当の女性は極力表情を抑えているようだが、目にある好奇の色は隠せていない。

 ――そんなところにまで。

 転職し、環境を変えた。
 自分なりに前へ進んだつもりだった。
 ……だが、社会は簡単に切り離してくれない。それを思い知らされる。

「今日は、事実確認をさせていただこうと」
「そのような関係ではありません」

 気がはやり、相手の言葉をさえぎるように口から言葉が飛び出した。

「桜田さん?」

 主任の不安そうな問いかけに、我に返る。
 失礼しました、とできるだけ落ち着いた声で亜矢香は謝罪する。

「お客様と店員として、お話をする機会があっただけです。今の仕事に支障が出るようなことは、これからも一切ありません」

 懸命な亜矢香の回答に、人事担当者はゆっくりとうなずいた。

「話してくださってありがとうございます。私たちも、桜田さんがそのような事態を引き起こすとは考えていません。堅実な仕事ぶりと、こちらの店長からは聞いています」
「恐れ入ります」
「まあ、あえて言うなら――立場のある方との関係は、どうしても誤解を招きやすいものです。お客様だからこそ、対応は慎重になさってください」
「……はい、承知しました」

 責められてはいない。
 けれど、注意喚起という形の線は、確実に引かれた。

「確認は以上です。勤務に戻ってください」
「失礼いたします」

 休憩室を出た後、背中に冷たい汗が滲んでいることに気づく。

 ――離れても消えないのは、気持ちだけじゃない。
 俊輔と交際する限り、彼の立場は亜矢香の人生に、どこまでもつきまとってくるのだ。

 ◆ ◆ ◆

 同じ頃、俊輔は本社の最上階、社長室の応接間にいた。

「影の社長」とささやかれるほどの実力者である、和子。
 理論と利益で常に判断する、冷徹な人事担当専務・相沢。
 そして、俊輔を養子とし、跡取りとして育ててきた養父である社長。

 誰ひとり、声を荒らげてはいない。
 だからこそ、彼らから逃げられる場所はなかった。

「彼女は、すでに転職したそうね」

 和子が、資料を閉じながら言う。

「それでも、噂は消えていない。むしろ『本気だったから』と周囲は判断しているわ」
「……ですから、これ以上彼女を巻き込まないようにしているつもりです」

 俊輔の言葉を、相沢が淡々と「結果的には逆です」と封じる。

「副社長が距離を取れば取るほど、何かあったと勘ぐられている。あなたの行動は、本当にその女性のためになっているでしょうか」

 返す言葉が出なかった。
 現実は、残酷なほど容赦がなく、一度生まれた噂は容易に覆せない。

「俊輔」

 社長が、低い声で名を呼ぶ。

「この件はもはや、私情では済まない。おまえが、選ばなければならない段階に来ている」

 俊輔は、視線を伏せた。

 ――彼女は、逃げずに自分の道を歩いている。
 ――それなのに、自分は。

 黙ったままの俊輔に、わずかに目を細めた和子が、静かに告げた。

「覚悟を決めなさい。立場も、将来も、すべて含めてよく考えるのよ」

 それは、最終通告と言って良かった。

「……わかりました。そうすることにします」

 長い沈黙の後、俊輔はやっと、それだけを答えた。


 その夜。
 俊輔は亜矢香に、会えないかと連絡を入れた。実に数週間ぶりのことだ。

 彼女の新しい職場からは少し離れた、人目の少ない小さな公園に呼び出す。

 亜矢香の転職後、初めて二人きりで向き合った。
 何かを言いよどむような表情に、俊輔は尋ねた。

「何かあったかな」
「……その。今日、人事の担当者に事実確認をされました」

 亜矢香が先に告げると、俊輔の表情が曇る。

「やっぱり、そうか。……そうならないよう、距離を置いたはずなのに」
「でもまだ、俊輔さんの『関係者』として見られてるみたいです」

 苦笑しながらも、彼女の唇と声は、はっきりわかるほどに震えていた。

「すまない。俺のせいだ」
「違います」

 俊輔の言葉に、亜矢香は間髪入れずに首を振る。

「私、自分で選んだんです。俊輔さんとお付き合いすることも、転職することも。それを否定されたくありません――たとえ俊輔さんにでも」

 震えてはいるが、強い決意のにじんだ声。
 彼女は彼女なりに、必死に闘おうとしている。容赦のない現実と。

 俊輔は目を閉じ、深呼吸をした。

 目を開けた時、亜矢香はこちらをまっすぐに見上げていた。その瞳から視線をそらさず、俊輔は言葉を紡ぐ。

「このままだとまた、君が傷ついてしまうかもしれない。けど」
「……けど?」
「それでも……俺は、君を手放したくない」

 初めて、弱さも自分の願いも、隠さずに表した言葉。
 亜矢香は静かにうなずき、こちらに一歩近づく。

「私もです。だから、俊輔さんが決断するなら私も、一緒に逃げずに向き合います」

 しばし、沈黙が落ちる。
 俊輔は小さく息を吐いた。

「ありがとう、亜矢香」

 冷えた頬にそっと、手を添える。

「でも、次に動くのは俺だ」
「逃げないんですね」
「ああ」

 それは、逃げるために取る距離ではない。
 闘うために、今はまだ一人でいる。そういう覚悟と同義だった。

 逆風は真正面から、止まずに激しく吹きつけている。
 けれど二人の想いは、同じ方向を、顔をそらすことなく向いていた。
 ――揺るがない強さが、確かにそこに存在していた。
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