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第五章
【第25話】揺るがないもの
しおりを挟む『もう少し、一緒にいてほしい』
そう言われ、俊輔と手をつないで、夜道をしばらく歩く。
以前にも何度か歩いた、川沿いの遊歩道にたどり着いた。
街灯の光が暗い水面に揺れ、静かな夜の匂いが漂っている。
亜矢香は、俊輔の手の温もりを感じながら、彼の横顔を見上げた。光に浮かび上がる輪郭は、少し痩せたというか、引き締まったようにも見える。
久しぶりに見る彼は、疲れているようではあるけれど、何事かを心に決めやり遂げると己に誓った、そんな強い気持ちを感じさせた。
「今日は、来てくれてありがとう」
ふいに俊輔がこちらを振り向き、静かに言った。
「いえ」
それだけのやりとりで、二人の間にはまた、沈黙が落ちる。
言葉を選んでいるのは、きっとお互い同じだ。
けれど、その沈黙は、決して苦しいものじゃない。
相手を気遣うゆえの心がこもった、温かな静けさだった。
遊歩道の中ほどで来た頃、俊輔が足を止める。
「今日、会社ではっきり言われたんだ。もう私情の範囲を超えている、と」
夜風に混じる声は低く、落ち着いている。
けれど、内側に強い緊張を孕んでいるのが伝わってきた。
「立場を取るか、人生を取るか――そういう段階に来ているとも」
亜矢香は、黙って耳を傾けた。
励ましも、慰めも、今は違う気がした。
「――俺はこれまでずっと、選ばされる人生を生きてきた」
俊輔は、遠くの水面を見つめながら続ける。
「はい」
「進学も、仕事も、役職も。期待されて、与えられて、それに応えることが正しいと思っていた。そうすれば、誰も傷つかないと……信じていたから」
言葉を切り、小さく息を吐く音が聞こえる。
「でも、君と出会って……初めて、自分で選びたいと思ったんだ。自分の進む道を」
亜矢香の胸が静かに、強く震えた。
「これまで積み上げてきたものを失うのは、正直言って怖さもある。けど」
そこで、俊輔は亜矢香に再び振り向いた。
「それでも……君を手放す選択だけは、どうしてもできなかった」
まっすぐな視線。
そこには迷いではなく、定まった覚悟があった。
「立場を失うかもしれない。会社にいられなくなるかもしれない……それでも」
言葉を区切り、彼ははっきりと告げる。
「俺は、君を選びます」
一瞬、世界が静まり返ったように感じた。
その言葉が、あまりにも重く、それでいて純粋で。
沈黙の後、亜矢香は、ゆっくりと息を吸った。
「……ありがとうございます」
それは、感謝であり、同時に確認だった。
「でも、俊輔さん」
亜矢香は、視線をそらさずに口を開く。
「私は、守られるために選ばれたいわけじゃありません」
俊輔が、わずかに目を見開く。
「あなたと一緒に、選びたいんです」
「……亜矢香」
「俊輔さんが決断したことなら、私も自分の人生として、一緒に向き合います」
転職を決めた日のことが、脳裏をよぎる。
逃げるためではなく、自らの足で立つために選んだ道。
「だから……もし、これから先が簡単じゃなくても、あなたのせいとは思いません」
少しだけ、声が震えた。
「あなたを好きになったのは、私の意思ですから」
俊輔は、しばし目を閉じた。
そしてゆっくりと、亜矢香の手を握り直す。
「ありがとう」
その手は、震えていた。けれど離れなかった。
「君がそう言ってくれるなら、俺はもう迷わない」
二人の手が、しっかりとつながれる。
寒さではない震えが、指先から伝わってきた。
「何があろうと、他の何を失うとしても、君を一人にはしない」
「……はい」
短い返事だった。けれど、そこには確かな意志があった。
川の流れは、変わらず続いている。
世界は、何も変わっていない。
それでも。
この夜、二人の中で決まったものは、もう揺るがなかった。
――選ばされた未来ではなく。
――自分たちで選ぶ未来へ。
静かな誓いを胸に、二人はまた、並んで歩き出した。
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