その優しい人は、特別なお客様でした。

紬 祥子(まつやちかこ)

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第一章

【第1話】もう一度、始めるために

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 「嘘でしょ……」

 その朝、出勤直後。
 勤める事務所の、下りたシャッターの前に立って、亜矢香あやかは呆然とつぶやいた。

 目の前にはワープロソフトで印字された貼り紙。

 【当事業所は、諸般の事情により、令和〇〇年〇月〇日付で全ての業務を停止することと――】

 〇月〇日、つまり昨日。
 普通に出社して、普通に仕事を終えて「お疲れさまです」と言って帰った。けれど。
 ……思い返してみれば、社長も、上司である経理の責任者も、どこかぎこちなかったかもしれない。

 小さな商社だった。売上が良い時ばかりではなかったけれど毎月の給与は支払われたし、ささやかながらボーナスもあった。会社を一人で興した社長が採用した社員たちはみんな真面目で、素朴な人たちだった。
 だから、多いとは言えないお給料でも、三年間懸命に勤めてきたのに。バイトで雑務をやっていた大学生はこの事態を知っていたのだろうか。

 いや、他人の心配をしている場合ではない。

 「……どう、しよう」

 こんないきなり、職を失くすことになるなんて思っていなかった。

 高校二年の時に、父が病気で亡くなって。
 卒業してすぐ、実家の生活を助けるために就職し、そのまま八年――ずっと家計を、虚弱な母と双子の弟妹を支えてきた。

 毎月の仕送り、食費のやりくり、進学の相談……家族の誰よりも現実と向き合ってきたし、大抵のことは乗り越える自信もある。
 だけど今、その現実が足元から崩れていく音を、初めて聞いた気がした。

 ……すぐに、路頭に迷うというわけではない。当面の生活費も借りているアパートの部屋もある。けれど光熱費や家賃の支払いは容赦なく毎月やって来る。食事も最低限摂らなければ生きていけない。当然、実家への仕送りも必要だ。
 一日でも早く、新しい仕事に就く必要があった。


 四月も半ばになり、桜は花を散らして枝葉を伸ばしている。暖かな外の気候とは裏腹に、亜矢香の心には冷たい風が吹き抜けていた。

 『応募者多数につき、慎重に選考を進めさせていただいております。合格者のみに連絡させていただきますこと、ご了承ください』

 『未経験の職種のため、今回はご縁がなかったということでご理解ください。貴殿のご活躍を心よりお祈り致します』

 ここ数日で何枚見たかわからない、不採用通知。
 手の中のそれを、亜矢香はローテーブルに放り出した。

 とうに新卒ではない。これまでの学歴や職歴に華やかな何かがあるわけでもない。そんな自分を採用したいと思ってくれる会社が、果たしてどれだけあるのか――日が経つたびに心許なくなる。

 「……どこだったら、ご縁があるのかな」

 スマホの画面を覗き、開きっぱなしの求人アプリを、トップページに戻す。
 そこに出てきた、新着のおすすめ求人。

 【Cafeワイズ 契約社員(店舗担当)募集】

 オレンジに白抜きのロゴは、どこかで見た覚えがあった。

 ……ああ、確かテレビでCMをやっていたっけ。
 おしゃれで雰囲気の明るい、いかにも今どきなチェーンカフェ。大手の飲食会社が展開している店のはず。

 詳細ページを開くと、羅列された雇用条件の中、「正社員登用あり」の文字が目に飛び込んできた。応募資格に「未経験可」の文言もある。

 この数週間、どれほどその四文字に救われると同時に、失望を味わわされてきただろう。
 けれど書いてある以上は、可能性がゼロではないということ。接客業の経験はないが、今の状況で選り好みをしている場合ではない。
 亜矢香は思い切って「応募フォーム」のボタンを押した。


 幸いにも書類選考をパスした亜矢香は、面接のため数日後、Cafeワイズ親会社のオフィスに呼び出された。

 支社とはいえ自社ビルの建物に気後れしたが、面接は想像よりも穏やかな雰囲気で進んだ。
 面接官が父親のような年齢の、温和そうな人だったからかもしれない。

「接客業は未経験とのことですが、人と話すのは得意ですか?」
「はい。これまで事務職でしたが、来客対応や電話応対などはしておりました」

 笑顔を絶やさず、丁寧に。
 少しでも前向きな姿勢を見せようと、亜矢香は背筋を伸ばして質問に答えていく。

「高校卒業後、進学なさらなかったのはなぜですか」
「高校二年の時に、父が亡くなりまして――母がフルタイムの仕事は無理な身体だったので、家計を助けるために就職いたしました」
「弟さんと妹さんがおられますね。お二人は今?」
「今年大学を卒業しました。アルバイトと勉強を両立しながら就職活動をしまして、今月から就職先に勤めております」

「ふむ……困難な状況でも、ご家族そろって前向きに取り組んできたのが伝わります。良いご家族ですね」
「ありがとうございます」

 面接官にそんなふうに言われるとは思わず、亜矢香はこみ上げる思いを抑えて頭を下げた。

「では、面接はここまでです。採用の場合は後日ご連絡差し上げますので、お待ちください」
「お時間を頂き、ありがとうございました」

 少し大げさなぐらいにお辞儀をして、面接室の扉を閉める。
 建物の外に出た時、肩の荷がひとつ下りた気がして、大きく息をついた。


 翌日、亜矢香のスマホにメールが届いた。
 件名を見て、思わず息を詰める。

 【Cafeワイズ採用のご連絡】

 本文を読み進める指先が震えていた。
 そこには確かに、『熟考の結果、貴女の店舗担当契約社員としての採用を決定いたしました』という文章があった。

「やった……よかった……っ」

 つぶやくたび、胸の奥がじんわりと熱を帯び、心臓の鼓動が大きくなる。

 浮かんでくる涙をまばたきで散らしながら、亜矢香はスマホの画面を見つめた。
 来週の月曜日が勤務開始日とある。出社時間や必要な持ち物を手帳に書き出し、何度もチェックした後、やっとスマホを置いて一息ついた。

 未経験の仕事。未知の環境。知らない人との出会い。
 どれも想像の域を出ないけれど、今はそれでもいい。
 新しく歩き出せる場所ができただけで、こんなにも気持ちが救われている。

「よし、頑張ろう」

 ぽつりと呟いたその言葉が、少しだけ心に灯をともした。
 春の夕方は少し肌寒かったけれど、胸の内に芽生えた希望は、確かにゆっくりと、花を咲かせるために育とうとしていた。


 ――そして。
 やっとつかんだ仕事が、人生を大きく変える出会いに繋がるとは、この時の亜矢香は想像すらしなかった。
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