2 / 27
第一章
【第1話】もう一度、始めるために
しおりを挟む
「嘘でしょ……」
その朝、出勤直後。
勤める事務所の、下りたシャッターの前に立って、亜矢香は呆然とつぶやいた。
目の前にはワープロソフトで印字された貼り紙。
【当事業所は、諸般の事情により、令和〇〇年〇月〇日付で全ての業務を停止することと――】
〇月〇日、つまり昨日。
普通に出社して、普通に仕事を終えて「お疲れさまです」と言って帰った。けれど。
……思い返してみれば、社長も、上司である経理の責任者も、どこかぎこちなかったかもしれない。
小さな商社だった。売上が良い時ばかりではなかったけれど毎月の給与は支払われたし、ささやかながらボーナスもあった。会社を一人で興した社長が採用した社員たちはみんな真面目で、素朴な人たちだった。
だから、多いとは言えないお給料でも、三年間懸命に勤めてきたのに。バイトで雑務をやっていた大学生はこの事態を知っていたのだろうか。
いや、他人の心配をしている場合ではない。
「……どう、しよう」
こんないきなり、職を失くすことになるなんて思っていなかった。
高校二年の時に、父が病気で亡くなって。
卒業してすぐ、実家の生活を助けるために就職し、そのまま八年――ずっと家計を、虚弱な母と双子の弟妹を支えてきた。
毎月の仕送り、食費のやりくり、進学の相談……家族の誰よりも現実と向き合ってきたし、大抵のことは乗り越える自信もある。
だけど今、その現実が足元から崩れていく音を、初めて聞いた気がした。
……すぐに、路頭に迷うというわけではない。当面の生活費も借りているアパートの部屋もある。けれど光熱費や家賃の支払いは容赦なく毎月やって来る。食事も最低限摂らなければ生きていけない。当然、実家への仕送りも必要だ。
一日でも早く、新しい仕事に就く必要があった。
四月も半ばになり、桜は花を散らして枝葉を伸ばしている。暖かな外の気候とは裏腹に、亜矢香の心には冷たい風が吹き抜けていた。
『応募者多数につき、慎重に選考を進めさせていただいております。合格者のみに連絡させていただきますこと、ご了承ください』
『未経験の職種のため、今回はご縁がなかったということでご理解ください。貴殿のご活躍を心よりお祈り致します』
ここ数日で何枚見たかわからない、不採用通知。
手の中のそれを、亜矢香はローテーブルに放り出した。
とうに新卒ではない。これまでの学歴や職歴に華やかな何かがあるわけでもない。そんな自分を採用したいと思ってくれる会社が、果たしてどれだけあるのか――日が経つたびに心許なくなる。
「……どこだったら、ご縁があるのかな」
スマホの画面を覗き、開きっぱなしの求人アプリを、トップページに戻す。
そこに出てきた、新着のおすすめ求人。
【Cafeワイズ 契約社員(店舗担当)募集】
オレンジに白抜きのロゴは、どこかで見た覚えがあった。
……ああ、確かテレビでCMをやっていたっけ。
おしゃれで雰囲気の明るい、いかにも今どきなチェーンカフェ。大手の飲食会社が展開している店のはず。
詳細ページを開くと、羅列された雇用条件の中、「正社員登用あり」の文字が目に飛び込んできた。応募資格に「未経験可」の文言もある。
この数週間、どれほどその四文字に救われると同時に、失望を味わわされてきただろう。
けれど書いてある以上は、可能性がゼロではないということ。接客業の経験はないが、今の状況で選り好みをしている場合ではない。
亜矢香は思い切って「応募フォーム」のボタンを押した。
幸いにも書類選考をパスした亜矢香は、面接のため数日後、Cafeワイズ親会社のオフィスに呼び出された。
支社とはいえ自社ビルの建物に気後れしたが、面接は想像よりも穏やかな雰囲気で進んだ。
面接官が父親のような年齢の、温和そうな人だったからかもしれない。
「接客業は未経験とのことですが、人と話すのは得意ですか?」
「はい。これまで事務職でしたが、来客対応や電話応対などはしておりました」
笑顔を絶やさず、丁寧に。
少しでも前向きな姿勢を見せようと、亜矢香は背筋を伸ばして質問に答えていく。
「高校卒業後、進学なさらなかったのはなぜですか」
「高校二年の時に、父が亡くなりまして――母がフルタイムの仕事は無理な身体だったので、家計を助けるために就職いたしました」
「弟さんと妹さんがおられますね。お二人は今?」
「今年大学を卒業しました。アルバイトと勉強を両立しながら就職活動をしまして、今月から就職先に勤めております」
「ふむ……困難な状況でも、ご家族そろって前向きに取り組んできたのが伝わります。良いご家族ですね」
「ありがとうございます」
面接官にそんなふうに言われるとは思わず、亜矢香はこみ上げる思いを抑えて頭を下げた。
「では、面接はここまでです。採用の場合は後日ご連絡差し上げますので、お待ちください」
「お時間を頂き、ありがとうございました」
少し大げさなぐらいにお辞儀をして、面接室の扉を閉める。
建物の外に出た時、肩の荷がひとつ下りた気がして、大きく息をついた。
翌日、亜矢香のスマホにメールが届いた。
件名を見て、思わず息を詰める。
【Cafeワイズ採用のご連絡】
本文を読み進める指先が震えていた。
そこには確かに、『熟考の結果、貴女の店舗担当契約社員としての採用を決定いたしました』という文章があった。
「やった……よかった……っ」
つぶやくたび、胸の奥がじんわりと熱を帯び、心臓の鼓動が大きくなる。
浮かんでくる涙をまばたきで散らしながら、亜矢香はスマホの画面を見つめた。
来週の月曜日が勤務開始日とある。出社時間や必要な持ち物を手帳に書き出し、何度もチェックした後、やっとスマホを置いて一息ついた。
未経験の仕事。未知の環境。知らない人との出会い。
どれも想像の域を出ないけれど、今はそれでもいい。
新しく歩き出せる場所ができただけで、こんなにも気持ちが救われている。
「よし、頑張ろう」
ぽつりと呟いたその言葉が、少しだけ心に灯をともした。
春の夕方は少し肌寒かったけれど、胸の内に芽生えた希望は、確かにゆっくりと、花を咲かせるために育とうとしていた。
――そして。
やっとつかんだ仕事が、人生を大きく変える出会いに繋がるとは、この時の亜矢香は想像すらしなかった。
その朝、出勤直後。
勤める事務所の、下りたシャッターの前に立って、亜矢香は呆然とつぶやいた。
目の前にはワープロソフトで印字された貼り紙。
【当事業所は、諸般の事情により、令和〇〇年〇月〇日付で全ての業務を停止することと――】
〇月〇日、つまり昨日。
普通に出社して、普通に仕事を終えて「お疲れさまです」と言って帰った。けれど。
……思い返してみれば、社長も、上司である経理の責任者も、どこかぎこちなかったかもしれない。
小さな商社だった。売上が良い時ばかりではなかったけれど毎月の給与は支払われたし、ささやかながらボーナスもあった。会社を一人で興した社長が採用した社員たちはみんな真面目で、素朴な人たちだった。
だから、多いとは言えないお給料でも、三年間懸命に勤めてきたのに。バイトで雑務をやっていた大学生はこの事態を知っていたのだろうか。
いや、他人の心配をしている場合ではない。
「……どう、しよう」
こんないきなり、職を失くすことになるなんて思っていなかった。
高校二年の時に、父が病気で亡くなって。
卒業してすぐ、実家の生活を助けるために就職し、そのまま八年――ずっと家計を、虚弱な母と双子の弟妹を支えてきた。
毎月の仕送り、食費のやりくり、進学の相談……家族の誰よりも現実と向き合ってきたし、大抵のことは乗り越える自信もある。
だけど今、その現実が足元から崩れていく音を、初めて聞いた気がした。
……すぐに、路頭に迷うというわけではない。当面の生活費も借りているアパートの部屋もある。けれど光熱費や家賃の支払いは容赦なく毎月やって来る。食事も最低限摂らなければ生きていけない。当然、実家への仕送りも必要だ。
一日でも早く、新しい仕事に就く必要があった。
四月も半ばになり、桜は花を散らして枝葉を伸ばしている。暖かな外の気候とは裏腹に、亜矢香の心には冷たい風が吹き抜けていた。
『応募者多数につき、慎重に選考を進めさせていただいております。合格者のみに連絡させていただきますこと、ご了承ください』
『未経験の職種のため、今回はご縁がなかったということでご理解ください。貴殿のご活躍を心よりお祈り致します』
ここ数日で何枚見たかわからない、不採用通知。
手の中のそれを、亜矢香はローテーブルに放り出した。
とうに新卒ではない。これまでの学歴や職歴に華やかな何かがあるわけでもない。そんな自分を採用したいと思ってくれる会社が、果たしてどれだけあるのか――日が経つたびに心許なくなる。
「……どこだったら、ご縁があるのかな」
スマホの画面を覗き、開きっぱなしの求人アプリを、トップページに戻す。
そこに出てきた、新着のおすすめ求人。
【Cafeワイズ 契約社員(店舗担当)募集】
オレンジに白抜きのロゴは、どこかで見た覚えがあった。
……ああ、確かテレビでCMをやっていたっけ。
おしゃれで雰囲気の明るい、いかにも今どきなチェーンカフェ。大手の飲食会社が展開している店のはず。
詳細ページを開くと、羅列された雇用条件の中、「正社員登用あり」の文字が目に飛び込んできた。応募資格に「未経験可」の文言もある。
この数週間、どれほどその四文字に救われると同時に、失望を味わわされてきただろう。
けれど書いてある以上は、可能性がゼロではないということ。接客業の経験はないが、今の状況で選り好みをしている場合ではない。
亜矢香は思い切って「応募フォーム」のボタンを押した。
幸いにも書類選考をパスした亜矢香は、面接のため数日後、Cafeワイズ親会社のオフィスに呼び出された。
支社とはいえ自社ビルの建物に気後れしたが、面接は想像よりも穏やかな雰囲気で進んだ。
面接官が父親のような年齢の、温和そうな人だったからかもしれない。
「接客業は未経験とのことですが、人と話すのは得意ですか?」
「はい。これまで事務職でしたが、来客対応や電話応対などはしておりました」
笑顔を絶やさず、丁寧に。
少しでも前向きな姿勢を見せようと、亜矢香は背筋を伸ばして質問に答えていく。
「高校卒業後、進学なさらなかったのはなぜですか」
「高校二年の時に、父が亡くなりまして――母がフルタイムの仕事は無理な身体だったので、家計を助けるために就職いたしました」
「弟さんと妹さんがおられますね。お二人は今?」
「今年大学を卒業しました。アルバイトと勉強を両立しながら就職活動をしまして、今月から就職先に勤めております」
「ふむ……困難な状況でも、ご家族そろって前向きに取り組んできたのが伝わります。良いご家族ですね」
「ありがとうございます」
面接官にそんなふうに言われるとは思わず、亜矢香はこみ上げる思いを抑えて頭を下げた。
「では、面接はここまでです。採用の場合は後日ご連絡差し上げますので、お待ちください」
「お時間を頂き、ありがとうございました」
少し大げさなぐらいにお辞儀をして、面接室の扉を閉める。
建物の外に出た時、肩の荷がひとつ下りた気がして、大きく息をついた。
翌日、亜矢香のスマホにメールが届いた。
件名を見て、思わず息を詰める。
【Cafeワイズ採用のご連絡】
本文を読み進める指先が震えていた。
そこには確かに、『熟考の結果、貴女の店舗担当契約社員としての採用を決定いたしました』という文章があった。
「やった……よかった……っ」
つぶやくたび、胸の奥がじんわりと熱を帯び、心臓の鼓動が大きくなる。
浮かんでくる涙をまばたきで散らしながら、亜矢香はスマホの画面を見つめた。
来週の月曜日が勤務開始日とある。出社時間や必要な持ち物を手帳に書き出し、何度もチェックした後、やっとスマホを置いて一息ついた。
未経験の仕事。未知の環境。知らない人との出会い。
どれも想像の域を出ないけれど、今はそれでもいい。
新しく歩き出せる場所ができただけで、こんなにも気持ちが救われている。
「よし、頑張ろう」
ぽつりと呟いたその言葉が、少しだけ心に灯をともした。
春の夕方は少し肌寒かったけれど、胸の内に芽生えた希望は、確かにゆっくりと、花を咲かせるために育とうとしていた。
――そして。
やっとつかんだ仕事が、人生を大きく変える出会いに繋がるとは、この時の亜矢香は想像すらしなかった。
12
あなたにおすすめの小説
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
Melty romance 〜甘S彼氏の執着愛〜
yuzu
恋愛
人数合わせで強引に参加させられた合コンに現れたのは、高校生の頃に少しだけ付き合って別れた元カレの佐野充希。適当にその場をやり過ごして帰るつもりだった堀沢真乃は充希に捕まりキスされて……
「オレを好きになるまで離してやんない。」
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
アダルト漫画家とランジェリー娘
茜色
恋愛
21歳の音原珠里(おとはら・じゅり)は14歳年上のいとこでアダルト漫画家の音原誠也(おとはら・せいや)と二人暮らし。誠也は10年以上前、まだ子供だった珠里を引き取り養い続けてくれた「保護者」だ。
今や社会人となった珠里は、誠也への秘めた想いを胸に、いつまでこの平和な暮らしが許されるのか少し心配な日々を送っていて……。
☆全22話です。職業等の設定・描写は非常に大雑把で緩いです。ご了承くださいませ。
☆エピソードによって、ヒロイン視点とヒーロー視点が不定期に入れ替わります。
☆「ムーンライトノベルズ」様にも投稿しております。
鬼上官と、深夜のオフィス
99
恋愛
「このままでは女としての潤いがないまま、生涯を終えてしまうのではないか。」
間もなく30歳となる私は、そんな焦燥感に駆られて婚活アプリを使ってデートの約束を取り付けた。
けれどある日の残業中、アプリを操作しているところを会社の同僚の「鬼上官」こと佐久間君に見られてしまい……?
「婚活アプリで相手を探すくらいだったら、俺を相手にすりゃいい話じゃないですか。」
鬼上官な同僚に翻弄される、深夜のオフィスでの出来事。
※性的な事柄をモチーフとしていますが
その描写は薄いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる