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第1章
始まりのキス
しおりを挟むそれから世界はすべてが灰色になったように見えたけれど、とにかく季節は巡って、俺は高校生になった。
新しい生活が始まったら心機一転、新しい恋を見つけようと思っていた。
まだまだ心の傷は残っていたけれど、それはきっと時間が解決してくれる――良き出会いが、俺の心を変えてくれる――そう期待していたのに。
どうやら神様はなかなか意地が悪いらしい。
いや、単に俺の下調べが甘かったのか。
まさか、高校でも日和と一緒になるなんて思っていなかった。
進学先が同じだった上、クラスまで被るなんて。
まあ、俺が安易に地元の高校を選んでしまったのが間違いだったんだろうけれど。
しかしせっかく心を入れ替えようと思っていたのに、これではまた、彼女への想いをぶり返してしまう。
「はぁ……」
さてどうしたものかと教室で一人項垂れていると、
「旭くん」
と、聞き慣れた声が降ってきた。
顔を上げると、そこには悩みの種である張本人――日和の姿があった。
「また同じクラスだね」
そう言って明るく笑いかけてくる彼女は、まるで告白のことなんて忘れているかのようだった。
人懐こそうな真ん丸な瞳を細めて、向日葵のようなあたたかな笑みを浮かべている。
ああ、頼むからそんな顔をしないでくれ。
あんなことがあったのに、どうして彼女はこんな風にできるのだろう。
俺の心を弄んでいるのか。
わからない。
戸惑う心を隠して、俺は作り笑いを浮かべた。
「……ほんとに、意外だったよ。お前ぐらいの成績ならもっと上の高校も狙えただろ。家からの近さで選んだのか?」
「えへへ、買い被りすぎだよ。でも地元を離れたくなかったのは当たり。あと、ここの制服って結構可愛いでしょ?」
そう言って、彼女は照れ隠しのように胸元のリボンを正してみせる。
黒いブレザーに、赤いチェック柄のスカート。
中学時代のセーラー服もそれはそれで良かったけれど、今の制服はさらに彼女の魅力を引き立たせていた。
少し前までは長かった髪も、今は肩の辺りで切り揃えられている。
それもまたこの上になく似合っていた。
彼女はどんな格好をしても様になる。
俺が色眼鏡で見ているせいかもしれないけれど。
彼女の愛らしい姿に思わず口元が緩んでしまうものの、依然として俺の心境は複雑だった。
過去を忘れ、未来に生きよう――そう思っていたのに。
日和の存在を前にすると、たちまちその意志は崩れてしまう。
彼女への想いが忘れられず、未練をずるずると引きずってしまう。
◯
だから、最近はできる限り教室から離れて過ごすようにしていた。
授業中はどうしようもないけれど、休み時間になれば必ずといっていいほど席を外した。
朝は遅めに登校し、帰りは誰よりも早く教室を出る。
今日もまた、その繰り返し。
昼休みになると、市販のオニギリを持って一人屋上へと向かった。
そこには意外と人が来ないので、ほぼ完全に俺だけのためのスペースとなっている。
短い昼食を終え、大の字で仰向けになってみると、空は清々しいほどの陽気に満ちていた。
ゴールデンウィーク明けの爽やかな空気が全身を包み、すぐにまどろみがやってくる。
軽く目を閉じれば、そこから先はもう完全に自分だけの世界だった。
誰とも干渉しない、自然とも切り離された孤独な場所。
少し寂しい気持ちにもなるけれど、教室で叶わぬ恋に思いを馳せているよりかはいくらかマシだった。
このまま目が覚めなければいいのに、と思った。
せっかく新しい生活が始まったというのに、俺は去年の夏から何も変わっていない。
周りが楽しそうにしているのを見ていると、自分だけが後ろに取り残されているように感じてしまう。
寂しかった。
たった一度、失恋しただけなのに。
多くの人間が、どこかで通る道なのに。
どうしても受け入れられなかった。
惨めで仕方がなかった。
人知れず、俺の心は悲鳴を上げていた。
だから、このタイミングで『彼女』が現れたのは、きっと偶然なんかじゃなかったんだと思う。
神様なんて気紛れで、味方をしてくれることなんてほとんどないけれど。
それでも、この時だけは運命だったのだと信じたい。
その日の、その瞬間。
ふわりと甘い匂いがして、俺は目を開いた。
「……?」
予鈴まではまだ時間があった。
けれど、人の気配がした。
仰向けのまま寝惚け眼を擦ってみると、普段は青空しか見えないはずのそこには、キレイな唇が……──いや、一人の女子生徒の顔があった。
(誰だ……?)
ぼんやりと見えたのは、知らない顔。
その子は両目を閉じたまま、その小さな顔をゆっくりとこちらに近づけてくる。
薄桃色をしたキレイな唇が、俺の方へと迫ってくる。
「…………えっ?」
予期せぬ事態に頭が追いつかず、俺は思わず間抜けな声を上げた。
途端、眼前の少女もハッとしたように目を開いた。
至近距離で、お互いの視線がぶつかる。
「……えっと?」
俺はどうすればいいのかわからず、仰向けのまま固まっていた。
見知らぬ少女はその垂れ目がちで大きな瞳をぱちくりとさせ、しまった、というような表情を浮かべたかと思うと、見る見るうちに頬を真っ赤に染め上げていく。
けっこう可愛い子だった。
二つに結われた長い黒髪と、瑞々しい雪肌に、優しげな癒し系の顔を持つ。
彼女は緊張した面持ちのまま、
「……ごっ……」
「ご?」
短い声を上げると、そのまま腰を抜かしたようにヘナヘナとその場に崩れ落ちた。
「ごめんなさいっ……!」
言うなり、彼女はその麗しい瞳からぽろぽろと大粒の涙を零し始めた。
「えっ、ええっ!?」
素っ頓狂な声を上げ、俺は上体を起こした。
眠気なんて一気に吹き飛ぶ。
「ど、どうした!? なんで泣いてんだよ!?」
事態を把握できず、ひたすら混乱した。
少女は嗚咽を上げながら、控えめな声で途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ちがっ……これはっ……、ちがうんです。私……そんな、寝込みを、襲おうだなんて……っう……」
「んん?」
なんだか聞き捨てならないフレーズが聞こえた気がするけれど、とにかく今は聞き役に徹することにする。
「そのっ……キス……ごめ、なさ……っ」
かろうじて聞き取れた単語は、キス。
「え、キス? って、もしかして君──」
まさかとは思った。
さすがにそれはないだろうと。
けれど、先ほどの状況や体勢を思い出してみれば考えられなくもない。
「キス……しようとしてたのか?」
そんな俺の問い掛けに、少女は目元を両手で隠したまま、躊躇いがちにこくりと頷いた。
「……嘘だろ?」
にわかには信じられなかった。
何かの間違いだと思った。
彼女とは全く面識がない。
同じ高校の生徒であること以外は、どこの誰だかもわからない。
もしも俺が絶世の美男子で、他のクラスでも噂になるような人物だったなら話は別だけれど。
しかし生憎、そんな噂はついぞ聞いたことがない。
平凡なのは自覚している。
したがって、キスを迫られる覚えなんて微塵もなかった。
なのに、まさかこんな可愛い女の子がいきなり訪ねてくるなんて有り得ない。
「もしかして、罰ゲームでやらされてるとか?」
恐る恐る聞いてみるも、少女はふるふると首を横に振る。
さっぱり謎だ。
何が何だかわからない。
そのうち今度は、彼女は糸が切れたかのようにふらりと脱力して、いきなりこちらに倒れかかってきた。
「って、おい!?」
慌ててその華奢な上半身を抱きとめてみると、耳まで真っ赤にした彼女の不安げな顔が俺をゆっくりと見上げた。
涙を滲ませた瞳はどこか虚ろで、上気した肌にはほんのりと汗が滲んでいる。
(なんか……息が荒い?)
ぼうっとした彼女の額に手を当ててみると、相当な熱が感じられた。
これは、風邪か?
「おい、しっかりしろ! とりあえず保健室に――」
「だっ、だめです……っ」
小さな手で、きゅっと胸の辺りを掴まれた。
「いけません、保健室は……」
彼女は困ったように視線を泳がせる。
「なんでだよ。このままじゃ危ないだろ」
「これは……いつものことなのです。この発作を抑える方法も、よくわかっていますから」
「発作? 薬でも持ってるのか? じゃあ早くそれを──」
そのとき、少女はまたしても俺の胸元をきゅっと掴んだ。
「あ、の……」
か細い声で、懇願するように、小さく口元を動かして言う。
「キス……していただけませんか?」
「はあ?」
まだ言うか、と俺は眉を顰めた。
「おい、今はふざけてる場合じゃ……」
「きっ、キスをしていただければ、それで治りますからっ……!」
なんて、彼女は訳のわからないことを言う。
「な、なに言って……」
初対面の相手にいきなりキスをしてほしいだなんて、どうかしているとしか思えなかった。
何か、心に病を抱えているのではないかと。
そこで、ああそうか、と思った。
これはあれだ。
彼女は高熱のあまり、頭がおかしくなってしまっているのだ。
きっと、気を落ち着かせることができれば正常に戻る……はず。
「……本当に、治るんだな?」
俺はそう確認した。
別に、彼女の言うことを鵜呑みにしたわけじゃない。
ただ、彼女を落ち着かせるためにはまず、彼女の要求を受け入れるのが近道だと考えたのだ。
「キスして……いただけるのですか?」
「ああ。やってやろうじゃねーか」
この際、治るか治らないかは重要じゃない。
とにかく彼女を落ち着かせて、それから保健室に連れて行けばいい。
そうすれば後は保健室の先生がなんとかしてくれるだろう。
それに。
ここでこの子とキスをしてしまえば、俺も踏ん切りが付くのではないかと思ったのだ。
新しい経験を経ることで、過去の失恋を――日和への未練を断ち切れるのではないかと。
あまりよろしくない手段だとは思う。
けれどこの際、お互いにメリットがあるのならそれほど悪い選択ではないだろう。
キッカケは何だっていい。
とにかく前へ進みたかった。
過去から脱却できるのならと、俺は半ばヤケになっていた。
そして、腹を括った。
少女の肩に右手を添え、こちらを向かせて、俺はゆっくりと顔を近づけていった。
緊張のあまり、手が震えそうになる。
(……お、落ち着け。別に、ただキスをするだけじゃないか)
胸の中で呟く。
何も意識する必要なんてない。
相手は知り合いでも何でもないのだから──そう思いながらも、心臓の音はうるさいほどに頭の中で響く。
少しでも注意を逸らすために他のことを考えようとすると、案の定というべきか、脳裏を掠めたのは日和の顔だった。
そういえば、生まれて初めてのキスは日和とだったな、なんてことを思い出す。
あれは確か、俺たちがまだ幼稚園に通っていた頃。
当時はお互いに思春期すら迎えていない幼い子どもだったから、キスという行為にも何の意味もなくて、ただ大人の真似事をしているだけだった。
あの頃の日和は、俺を拒むことなんてなかったのに。
そして、いま目の前にいる少女は俺のことなんて何も知らない。
なのに、まるですべてを受け入れているかのように瞳を閉じている。
(……ああ、そうか)
そこでやっと、納得した。
何も知らないからこそ、受け入れることができるのだと。
相手の悪い部分を見たことがないから。
俺がどういう人間であるのかを知らないから、逆に安心して受け入れることができるのかもしれない。
「…………」
俺は、そんな世間知らずな少女の唇へと、自分のそれを静かに重ねた。
優しい感触だった。
やわらかくて、儚げで。
身体の内側をほのかに温めてくれるような淡い熱が、じんわりと広がっていくようだった。
俺はすぐに唇を離したけれど、口元の温もりが遠のいていくことに、少しだけ名残惜しさを感じていた。
少女の涙に濡れた白い瞼が、再び開かれていく。
「……は……ぁ……」
まるで本当に熱が治まっていくかのように、彼女は蕩けるような表情を浮かべていた。
「どうだ、治ったか?」
その質問に、彼女はこくりと頷く。
「……ご、ごめんなさい」
蚊の鳴くような、弱々しい声だった。
「あ、いや。……正気に戻ったか?」
少しだけ落ち着きを取り戻したらしい彼女を前に、俺はホッと胸を撫で下ろした。
なんとか冷静さを取り戻せたようだけれど、やっぱり、キスが解熱剤になるなんてそんなはずはないよな――なんて考えていると、
「本当に……すみませんでした。キスというものは本来、好きな人としかしてはいけないのに……」
「あ、うん。…………って、そこ?」
思わずツッコんでしまった。
なんだか、謝る箇所がちょっとだけずれているような。
すると彼女は、今度こそやっと我に返ったらしい。
いきなりボッと音が出そうなほど顔を真っ赤にさせたかと思うと、そのまま目を回して卒倒してしまった。
「って、おい!? 結局ダウンするのかよ!」
ぐんにゃりと熱で溶けたかのように、少女は白い喉を反らせたまま気絶してしまった。
直後にわかったことだけれど、それまで彼女の身体を蝕んでいた熱は、いつの間にかきれいさっぱり治まっていた。
その不可思議な現象に首を傾げつつも、それからどうするか迷った末、俺は彼女を背負い、保健室まで送り届けることにしたのだった。
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