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第二話 魔女
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第二話
わたしの気持ちなんて、誰も聞こうとしなかった。
あれよあれよという間に、婚姻の準備は進められて、私はただ、波に飲まれるしかなくて。
決定が下ったその日から、私はジルナード様のそばから引き離された。
「ジルナード殿下のお世話は侍女たちがする。お前はもう……忘れるのだ」
兄、ヘイワードは冷えきった声でそう言った。
でも、私はまだ言いたかった。まだ、伝えたいことがあった。
「……最後にお別れだけ、させてください。それさえ叶えば、あとは従いますから」
兄は、しばらく黙ったあと、ため息をついて、それだけは許してくれた。
*
ジルナード様の寝室は、以前と同じ香りがして、泣きたいほど胸が痛くなった。
ベッドの中、やつれきったお姿が横たわっている。
ああ、あの誇り高いジルナード様が──こんなふうに。
「……フィリス、私を見捨てるのか?」
乾いた声。その奥には、拭いきれない怒りと寂しさが混ざっていて。
「いいえ。私は、あなたのために嫁ぐのです。
そうして、きっと……あなたを国王にして差し上げます」
私は、もう覚悟を決めている。
「ふっ……君がそう言えば、そう、なりそうな気もしてくるな」
ジルナード様は口元だけ笑った。けれど目は閉じたまま。
「はい。ですから、どうか待っていてください。私は、必ず戻ってきます。あなたの元に」
これは約束だった。
誰の許しもいらない、わたしだけの、わたしの心からの誓い。
*
あの日、王妃から差し出された瓶の中身は、明らかだった。
白い粉。その向こうにあるのは死。
「これは魔女の秘薬、心臓を徐々に弱らせる薬です。証拠は、何も残りません」
その言葉を聞いて、確信した。やはり、この方は──メイラ妃を殺した。
「一年も飲ませれば、自然に命は尽きます。その為、あなたは潤を拒んではいけません。寵愛を受けるのです」
「……そ、それは……本当に、必要なのですか?」
口にするだけで、吐き気がした。でも。
「ええ。サイラスが誕生しても、なお陛下に寵愛されていたあの女……。でも、その寵愛があったからこそ、病は気付かれずに、早く進行した。滑稽でしょう?」
王妃は、楽しそうに笑った。
「王妃殿下。もし……もし、事をうまく運べば、私は……ジルナード様の元に戻れますか?」
「もちろん。ジルナードはあなたに、永遠に感謝するでしょうよ」
純潔を差し出すことになる。
けれど、私は迷わなかった。ジルナード様のためなら、たとえ地獄に落ちても。
王妃はもうひとつ、瓶を渡してきた。
「こちらは避妊薬です。必要なことは、わかってますね?」
頷いた。わたしは、ジルナード様の子以外を産む気などない。
その瞬間、たしかに自分が「戻れない場所」に足を踏み入れたと感じた。
*
サイラス殿下と初めて顔を合わせたのは、挙式の一週間前だった。
背が高い。ジルナード様より、頭ひとつ分はある。
漆黒の髪に、瞳。日に焼けた肌に、鍛え上げられた体。
立っているだけで、圧のある美しい男。だけど、鋭かった。
「……フィリス嬢。不満は、ないのか?」
唐突すぎて、言葉が出なかった。でも。
「私は、バーモット公爵の娘です。父の意志は、わたしの意志。不満など、あるはずがありません」
「清々しいまでに割り切っているな。蛮族と蔑まれてきた俺に嫁いでも……王太子妃になりたい、と?」
サイラス殿下の声には、どこか痛みが混じっていた。
「私は七歳の頃から、そのために育てられてきました。サイラス殿下に忠誠を、誓います」
そう言った私を、殿下はしばらく黙って見て、それから低く笑った。
「ふん。まあ、いい。俺も、お前と同じだ。どれだけあがいても、国には逆らえない。──だが、忘れるな。俺はお前を信用していない。あのジルナードの元婚約者だった女。下手な真似をすれば、命はないと思え」
脅すように、けれど、それ以上に、自分の不安を押しつけてくるような声だった。
信用されていないうちは、薬も使えない。
だからこそ、まずは彼の心に、少しずつ、確実に入り込まなければならなかった。
「心得ました、サイラス殿下」
そう言って、私は微笑んだ。
その笑顔が偽りであっても……信頼を勝ち取らなければ、先に進めない。
ジルナード様の手を、二度と離さないために。
けれど、挙式が近づくにつれて、胸の奥にじくじくと広がっていく不安。
あの男の妻になる。
サイラス殿下。あの黒い目に射抜かれれば、こちらの足場が崩れていくような、底知れぬ不安。
愛さなくてはならない。
笑顔を見せ、手を取り、抱かれ、たぶん名前を呼ばれ……。
でも、私はジルナード様を愛している。
彼を想いながら他の男に抱かれるなんて、呼吸すら止まりそうで──。
ああ、これはもう拷問だ。
王子妃などではなく、私は狂った囚人。
*
そんなふうに塞ぎ込んでいたとき、父に呼び出された。
応接室の扉を開けると、空気が変わった。
壁際に、黒い衣をまとった女が立っていた。
口元は微かに笑っているようにも見え、私を値踏みするように見ている。
そして、顔。額から頬にかけて、異国のような、あるいは呪術のような紋様が刻まれていた。まるで刻印のように。
「こちらが、依頼のご令嬢?」
その声だけで、ゾワリと背中を撫でられたような寒気が走った。
この人、普通じゃない。
そう思った瞬間だった。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
音が遠のく。自分の足元がふわふわと浮いて、落ちて──。
思考も、記憶も、名前さえも、すべてが沈んでいった。
(魔女……?)
それが、意識の底に沈む直前、かろうじて浮かんだ言葉だった。
わたしの気持ちなんて、誰も聞こうとしなかった。
あれよあれよという間に、婚姻の準備は進められて、私はただ、波に飲まれるしかなくて。
決定が下ったその日から、私はジルナード様のそばから引き離された。
「ジルナード殿下のお世話は侍女たちがする。お前はもう……忘れるのだ」
兄、ヘイワードは冷えきった声でそう言った。
でも、私はまだ言いたかった。まだ、伝えたいことがあった。
「……最後にお別れだけ、させてください。それさえ叶えば、あとは従いますから」
兄は、しばらく黙ったあと、ため息をついて、それだけは許してくれた。
*
ジルナード様の寝室は、以前と同じ香りがして、泣きたいほど胸が痛くなった。
ベッドの中、やつれきったお姿が横たわっている。
ああ、あの誇り高いジルナード様が──こんなふうに。
「……フィリス、私を見捨てるのか?」
乾いた声。その奥には、拭いきれない怒りと寂しさが混ざっていて。
「いいえ。私は、あなたのために嫁ぐのです。
そうして、きっと……あなたを国王にして差し上げます」
私は、もう覚悟を決めている。
「ふっ……君がそう言えば、そう、なりそうな気もしてくるな」
ジルナード様は口元だけ笑った。けれど目は閉じたまま。
「はい。ですから、どうか待っていてください。私は、必ず戻ってきます。あなたの元に」
これは約束だった。
誰の許しもいらない、わたしだけの、わたしの心からの誓い。
*
あの日、王妃から差し出された瓶の中身は、明らかだった。
白い粉。その向こうにあるのは死。
「これは魔女の秘薬、心臓を徐々に弱らせる薬です。証拠は、何も残りません」
その言葉を聞いて、確信した。やはり、この方は──メイラ妃を殺した。
「一年も飲ませれば、自然に命は尽きます。その為、あなたは潤を拒んではいけません。寵愛を受けるのです」
「……そ、それは……本当に、必要なのですか?」
口にするだけで、吐き気がした。でも。
「ええ。サイラスが誕生しても、なお陛下に寵愛されていたあの女……。でも、その寵愛があったからこそ、病は気付かれずに、早く進行した。滑稽でしょう?」
王妃は、楽しそうに笑った。
「王妃殿下。もし……もし、事をうまく運べば、私は……ジルナード様の元に戻れますか?」
「もちろん。ジルナードはあなたに、永遠に感謝するでしょうよ」
純潔を差し出すことになる。
けれど、私は迷わなかった。ジルナード様のためなら、たとえ地獄に落ちても。
王妃はもうひとつ、瓶を渡してきた。
「こちらは避妊薬です。必要なことは、わかってますね?」
頷いた。わたしは、ジルナード様の子以外を産む気などない。
その瞬間、たしかに自分が「戻れない場所」に足を踏み入れたと感じた。
*
サイラス殿下と初めて顔を合わせたのは、挙式の一週間前だった。
背が高い。ジルナード様より、頭ひとつ分はある。
漆黒の髪に、瞳。日に焼けた肌に、鍛え上げられた体。
立っているだけで、圧のある美しい男。だけど、鋭かった。
「……フィリス嬢。不満は、ないのか?」
唐突すぎて、言葉が出なかった。でも。
「私は、バーモット公爵の娘です。父の意志は、わたしの意志。不満など、あるはずがありません」
「清々しいまでに割り切っているな。蛮族と蔑まれてきた俺に嫁いでも……王太子妃になりたい、と?」
サイラス殿下の声には、どこか痛みが混じっていた。
「私は七歳の頃から、そのために育てられてきました。サイラス殿下に忠誠を、誓います」
そう言った私を、殿下はしばらく黙って見て、それから低く笑った。
「ふん。まあ、いい。俺も、お前と同じだ。どれだけあがいても、国には逆らえない。──だが、忘れるな。俺はお前を信用していない。あのジルナードの元婚約者だった女。下手な真似をすれば、命はないと思え」
脅すように、けれど、それ以上に、自分の不安を押しつけてくるような声だった。
信用されていないうちは、薬も使えない。
だからこそ、まずは彼の心に、少しずつ、確実に入り込まなければならなかった。
「心得ました、サイラス殿下」
そう言って、私は微笑んだ。
その笑顔が偽りであっても……信頼を勝ち取らなければ、先に進めない。
ジルナード様の手を、二度と離さないために。
けれど、挙式が近づくにつれて、胸の奥にじくじくと広がっていく不安。
あの男の妻になる。
サイラス殿下。あの黒い目に射抜かれれば、こちらの足場が崩れていくような、底知れぬ不安。
愛さなくてはならない。
笑顔を見せ、手を取り、抱かれ、たぶん名前を呼ばれ……。
でも、私はジルナード様を愛している。
彼を想いながら他の男に抱かれるなんて、呼吸すら止まりそうで──。
ああ、これはもう拷問だ。
王子妃などではなく、私は狂った囚人。
*
そんなふうに塞ぎ込んでいたとき、父に呼び出された。
応接室の扉を開けると、空気が変わった。
壁際に、黒い衣をまとった女が立っていた。
口元は微かに笑っているようにも見え、私を値踏みするように見ている。
そして、顔。額から頬にかけて、異国のような、あるいは呪術のような紋様が刻まれていた。まるで刻印のように。
「こちらが、依頼のご令嬢?」
その声だけで、ゾワリと背中を撫でられたような寒気が走った。
この人、普通じゃない。
そう思った瞬間だった。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
音が遠のく。自分の足元がふわふわと浮いて、落ちて──。
思考も、記憶も、名前さえも、すべてが沈んでいった。
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それが、意識の底に沈む直前、かろうじて浮かんだ言葉だった。
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