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第20話 一時の休息
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〈ビハーラ〉はエージェントを滞在させる二階建ての家屋であり、その家屋の裏手には四方をコンクリートで覆われている二十畳ほどの空き地があった。
四方八方から砂とゴミの匂いが漂ってくるものの、都市部でありながら芝生が茂っていて人目のつかない空き地は絶好の屋外トレーニング場になる。
現にユタラは空き地においてTシャツにハーフパンツ姿で空手の稽古に励んでいた。
三戦立ちの状態から鋭い貫手を繰り出しながら前進。
続いて虚空に円を描くような平手回し受けと呼ばれる上地流空手の代表的な受け技で仮想敵手の攻撃を捌く。
そして拳を固めた状態から、人差し指の第二関節を突出させた小拳突きを放つ。
この小拳突きは上地流空手の流祖・上地寛文の得意技として知られている。
正拳突きと見せかけて筋肉の薄い部分や、肋骨を小拳で突くことで敵を悶絶させたと伝えられている。
他にも組んできた相手の両目を突く技や、後方から掴みかかってきた相手の金的を振り向かずに突く技なども上地流空手にはある。
スポーツ化される前の古伝空手では、相手の急所を攻撃するなど当たり前だった。
それゆえに目や金的を狙うなど特別ではないのだ。
だが、上地流空手にはこれらの攻撃を上回る武技も存在する。
稽古の締めとしてスニーカーの中で右足の指を固めたとき、ユタラは自分を見つめている視線に気がついた。
右足の指を緩めて視線を感じた方向に顔だけを振り返らせる。
「さすがプロのエージェントは違うわね。任務が終わったあとでもそういった格闘トレーニングは欠かさないんだ」
視線の主はプラムであった。
空き地と直結している裏口に佇み、女性用の花柄シャツを着て化粧を施している。
「さあ、どうなんでしょう。僕も〈青い薔薇〉で働いているエージェント全員の性格を知っているわけではないですから」
ユタラは壁際に置かれていた空のドラム缶に近づくと、あらかじめ用意していたスポーツドリンクを手に取った。
キャップを外して半分になるまで一気に飲み干す。
「〈青い薔薇〉か……そういえば疑問だったのよね。どうして組織は自分たちのことを〈青い薔薇〉なんて呼んでいるのかしら」
プラムの意外な告白にユタラはドリンクを噴出しそうになった。
「まさか、知らないんですか? 自分が属している組織なのに?」
「組織に属していると言っても私は末端の構成員に過ぎないのよ。こうしてエージェントの世話をする以外の日は薬局の仕事に忙しいしさ。だからって本部にわざわざ組織の名前の由来は何ですか、なんて訊けないでしょう?」
確かにそうかもしれない。
ユタラのような組織の中核を担うエージェントならともかく、プラムのような現地工作員に組織名の由来を聞かせる必要などなかった。
口元の水気を拭ったユタラは、仕方ないとばかりにプラムに組織名の由来を語る。
古来より高貴な花として珍重されていた薔薇の花は赤色が一般的であり、青い色の薔薇は一種たりとも市場に出回ってはいなかった。
理由は薔薇の花自体に、青色の色素を作るデルフィニジンという酵素がないからである。
そこで青色の薔薇の開発に取り組んだ日本のサントリーフラワーズは、オーストラリアの植物工学企業と共同開発を進めた末に、当時の最先端技術であった〝遺伝子組み換え〟によって青色の花から青色の色素を取り出すことに成功。
悲願だったデルフィニジンをほぼ百パーセント有した世界で初の青い薔薇を完成させたのだ。
そして現〈アーツ製薬〉の社長である百合子は、青い薔薇の開発研究に携わっていた研究者の一人だった。
サントリーフラワーズを退社してからは夫が設立した〈アーツ製薬〉の研究員として働いていたが、副社長が百合子の夫を殺害して新薬の成分データと候補物質を盗んで行方を晦ましてしまった。
その後、百合子は亡き夫に代わって〈アーツ製薬〉の社長に就任すると同時に会社内部に非合法活動を生業とする部門を設立したのである。
〝遺伝子組み換え〟によって誕生した〈発現者〉を中心に構成された組織。
この組織名を百合子は自分が最初に研究していた奇跡の花に因んで〈青い薔薇〉と命名したという。
「僕も社長の口から直に聞いたわけではないので本当かどうかは知りません。だから信じるか信じないかはプラムさんの自由ですよ」
そう言うとユタラは、肌にまとわりついていたTシャツを脱ぎ捨てる。
「プラムさん、すいませんがシャワーを貸してくれませんか? やっぱり屋外でトレーニングするにも時期を考えないといけませんね。身体中汗だくですよ」
「当たり前じゃない。今の時期のインドは日本で言うところの夏なのよ。それに、いくらここが日陰になっているからって長時間の運動は身体に毒。さっさと浴びてきなさい」
「ありがとうございます」
ユタラは濡れそぼっていたTシャツを持って裏口へと向かう。
「シャワーを浴びたら台所へ来てね。遅めの昼食を用意してあるから」
ユタラはプラムの心遣いに深く頭を下げると、裏口からシャワールームへと足を運んだ。
冷たい水を浴びて全身の汗を洗い落とす。
それだけでユタラは幸せな気分になった。
なぜならデリーは第四次印パ戦争後も深刻な水不足に陥っており、そんな貴重な水を貯めるタンクは家屋の屋上に設置されていた。
となると殺人的な太陽熱をタンクは一心に受け止めることになるのは当然。
しかもタンクの色は熱を最も吸収しやすい黒色である。
つまり暑期のインドでは水道からお湯しか出ないということだ。
けれども〈ビハーラ〉は違う。
家屋の屋上にこそタンクが設置されていたが、タンクの色を白へと塗り替えて太陽熱を遮断する屋根が取りつけられている。
これらの工夫を施したのはプラム自身だ。
〈青い薔薇〉の命令でデリーの現地工作員の任務を与えられたとき、水道からお湯しか出ないことに我慢がならなかったらしい。
そこでプラムは太陽熱を遮断する工夫を自費で施したのだという。
ほどしばらくすると、ユタラは黒地のTシャツに迷彩柄のハーフパンツを穿いたラフな格好でシャワールームから出てきた。
リラックスした顔で台所に顔を出す。
「ようやくお出ましね」
台所に立っていたプラムは銀のお盆をユタラに差し出した。
お盆の上にはナンに似たパンのような食べ物が二枚乗せられている。
「これはナンですか? 何か日本で食べたナンとはちょっと違うようですけど」
「惜しい。これはナンじゃなくてチャパティよ」
このとき、ユタラはナンとチャパティの違いを聞かされた。
チャパティとは小麦粉に水を混ぜて練り合わせ、油を引いたフライパンでクレープのように薄く伸ばして焼いたインド料理の一つだという。
また同じ材料で作るにもチャパティとナンはインド料理において一線を画しているらしく、一般家庭で作れる物がチャパティでタンドールという粘土製の壷窯型のオーブンで焼いた物がナンらしい。
「じゃあ、このスープは何です?」
お盆の上にはチャパティの他にも丸皿に入ったスープも置かれていた。
淡いオレンジ色をしたスープには豆のようなものが入っている。
「そうか……あなたは難民キャンプの出身だから家庭料理とは縁遠かったのね。これはインドの家庭料理でダールスープって言うのよ。ダール豆を使ったスープだからダールスープ。このスープはとても消化にいいからお穣ちゃんに持っていきなさい。彼女、昨日の夜から何も食べてないんでしょう」
「ええ、口にするといったら水くらいで」
「それは大変ね。だけど、インドの生水はとっても危険よ」
だから、とプラムは着ていた花柄シャツの胸ポケットから透明の小袋を取り出した。
中には小麦粉のような白い粉薬が入っている。
「あなたに当店自慢の浄化剤を売ってあげる。ちなみに一袋千ルピーよ。い・か・が?」
浄化剤をちらつかせているプラムは笑っていたが、舞弥に対して未だに若干の憤りを感じているのはプラムが口にした浄化剤の価格で察しがついた。
「舞弥が口にしたのは市販の飲料水ですから大丈夫です。それよりも舞弥が浄化剤を盗んだ件に関してはもう勘弁してくれませんか。その分の代金は払ったでしょう」
ふん、とプラムは笑みを消して浄化剤を胸ポケットに仕舞った。
「どこの国だろうと窃盗は犯罪よ。それにあとから代金を払うぐらいなら、わざわざ盗んだりせずにきちんと買いなさい」
「返す言葉もありません」
「あなたじゃなくて、あなたの手癖の悪いバディに強く言い聞かせておいてよね」
「わかりました。舞弥には僕から強く注意しておきますから」
ユタラは苦笑いを浮かべるなり、ダールスープが入った丸皿とチャパティが乗せられていたお盆を持って台所から非難しようとした。
「ねえ、結局のところ油田施設で〈発現者〉は見つからなかったのよね?」
そして台所から出ようとしたとき、プラムが低い声で問いかけてきた。ユタラは振り返って首肯する。
「そうですね。お陰で無駄足を食いましたよ。スカウト対象の〈発現者〉が行方不明なら僕たちがインドに留まる理由はないですから」
「そのことなんだけどさ。もうしばらくインドに滞在する許可は下りないのかしら」
「それってどういうことです?」
ユタラが訊き返すと、プラムは「いや、何でもないわ」と苦笑した。
「変なこと言ってごめんなさい。今のは聞かなかったことにして……さあさあ、スープが冷める前に子猫ちゃんに届けてあげてちょうだいな」
「失礼します」
小首を傾げながらユタラは台所をあとにした。
そのままロビーを抜けて二階へ。舞弥にあてがわれていた寝室の前に到着する。
「舞弥、起きてる?」
扉をノックして部屋に入ると、最初に聞こえてきたのはテレビの音だった。
「舞弥?」
てっきり部屋の主はテレビを観ていると思ったのだが、ベッドの上にもソファの上にも部屋の主はいなかった。
自分たちにあてがわれていた部屋は十畳ほどのワンルーム。
余計な調度品は置かれていなかったので、わざと隠れようとしても隠れる場所が圧倒的に少ない。
そうなると部屋の持ち主がいる場所は一つしかなかった。
ユタラは慌てて振り向いた。
部屋の主が出てくる前に退室しようと考えたのだ。
しかし、ユタラの行動は遅すぎた。
振り向くと同時に出入り口の隣に設けられていた扉が開いたのだ。
シャンプーの匂いが混じった大量の湯気がユタラの全身にまとわりついてくる。
「どうしたの? 馬鹿みたいに口を半開きにして」
部屋の主である舞弥と目が合ったユタラは、無意識に視線を下に落としていく。
正直、目が離せなかった。
水着姿や下着姿は何度も見たことはあったが、一糸まとわぬ舞弥の裸体を見たことはこれまでに一度たりともなかったからだ。
だからだろうか。
初めて見る異性の柔肌にユタラは目が釘づけになってしまった。
若干の水滴を付着させていた白い肌。
無駄な贅肉を削ぎ落としたスレンダーな体型。
適度に盛り上がっている胸は男を魅了させる張りがあり、しなやかな筋肉で構成されていた美脚に挟まれていた股間の位置には、手入れが行き届いた逆三角形の秘毛の森が生い茂っている。
「あのさ、そこにいられると着替えを取りに行けないんだけど」
「え? あ……ああ、そうだね。ごめんごめん。すぐにどく――熱っ!」
気が激しく動転していたせいだろう。
ユタラは思いっきり親指を熱々のスープに突っ込んでしまった。
それでもお盆は落とさない。
軽度の火傷の耐えながら後方の壁に背中をつける。
「姉の裸を見たぐらいで大げさなのよ」
一方、舞弥は裸を見られてもどこ吹く風だった。
親指に息を吹きかけているユタラの前を落ち着いた足取りで通り過ぎ、ベッドの上に置かれていた下着と衣服を着用する。
無地のタンクトップにカットジーズンという動きやすい格好だ。
「それで? あたしに何か用?」
「用があるから来たんじゃないか」
ユタラはベッドに腰を下ろした舞弥の元へ向かうと、ダールスープとチャパティを乗せたお盆を差し出す。
「お腹減ったでしょう。ほら、プラムさんが作ってくれた昼食を持ってきたよ」
「ごめん、今はあんまり食欲がないの」
「そんなこと言わずに食べてみなよ。せっかくプラムさんが作ってくれたんだからさ」
ユタラの思いが通じたのだろうか。
舞弥は無言でお盆を受け取るなり、息で湯気を追い払いながらダールスープを口に含んだ。
「どう? 美味しい?」
「普通」
返ってきた言葉はにべもない感想だった。
「そ、そうなの……じゃあ、チャパティはどう? これは美味しいと思うよ」
乾いた笑みを作りながら、ユタラがチャパティに手を伸ばしたときだ。
バイクのCMが終わったテレビの画面に油田施設の映像が映し出された。
十時間以上も前にユタラと舞弥が忍び込んだタール砂漠の油田施設である。
直後、舞弥は持っていたお盆を床に落とした。
ダールスープは床に飛び散り、食欲をそそる香辛料の匂いが部屋の一角に充満する。
「あ~あ、中身が入っているのに容器を落としたら駄目じゃないか。早く拭かないと」
ユタラはタオルが完備されているバスルームに向かおうとした。
しかし、今ほどまで呆然としていた舞弥に素早く腕を掴まれてしまった。
「ねえ、ユタラ。あれからどうなったか聞かせてよ」
「あれからって?」
「とぼけないで! あんたが管制室であたしを気絶させてからよ!」
舞弥は怒気を露にすると、ユタラの右腕を掴んでいた手にさらなる力を込めた。
けれどもユタラは一向に痛がる様子を見せない。
上地流空手の有段者であったユタラには、舞弥の握力でも蚊に刺された程度の痛みにしか感じなかったからだ。
「率直に言うなら何もなかったよ。どうやら爆弾はブラフだったらしくて、建物はどこも爆破されなかった。あとは聞かなくてもわかるよね? 撤退したレンタル・ソルジャーの代わりに軍隊が突入して油田施設の奪還に成功。それだけさ」
ユタラは自分の腕を掴んでいる舞弥の手を優しくほどいた。
「それに油田施設内で〈発現者〉は見つからなかったよ。騒ぎに便乗して逃げたのか、それとも最初からいなかったのか。どちらにせよ〈発現者〉の所在が不明になった今、残念ながら僕たちがインドに留まっている理由はない」
「留まる理由がないって……まさか、このまま大人しく日本に帰るって言うの!」
「そのまさかだよ。僕たちは今夜の飛行機で日本に帰る」
四方八方から砂とゴミの匂いが漂ってくるものの、都市部でありながら芝生が茂っていて人目のつかない空き地は絶好の屋外トレーニング場になる。
現にユタラは空き地においてTシャツにハーフパンツ姿で空手の稽古に励んでいた。
三戦立ちの状態から鋭い貫手を繰り出しながら前進。
続いて虚空に円を描くような平手回し受けと呼ばれる上地流空手の代表的な受け技で仮想敵手の攻撃を捌く。
そして拳を固めた状態から、人差し指の第二関節を突出させた小拳突きを放つ。
この小拳突きは上地流空手の流祖・上地寛文の得意技として知られている。
正拳突きと見せかけて筋肉の薄い部分や、肋骨を小拳で突くことで敵を悶絶させたと伝えられている。
他にも組んできた相手の両目を突く技や、後方から掴みかかってきた相手の金的を振り向かずに突く技なども上地流空手にはある。
スポーツ化される前の古伝空手では、相手の急所を攻撃するなど当たり前だった。
それゆえに目や金的を狙うなど特別ではないのだ。
だが、上地流空手にはこれらの攻撃を上回る武技も存在する。
稽古の締めとしてスニーカーの中で右足の指を固めたとき、ユタラは自分を見つめている視線に気がついた。
右足の指を緩めて視線を感じた方向に顔だけを振り返らせる。
「さすがプロのエージェントは違うわね。任務が終わったあとでもそういった格闘トレーニングは欠かさないんだ」
視線の主はプラムであった。
空き地と直結している裏口に佇み、女性用の花柄シャツを着て化粧を施している。
「さあ、どうなんでしょう。僕も〈青い薔薇〉で働いているエージェント全員の性格を知っているわけではないですから」
ユタラは壁際に置かれていた空のドラム缶に近づくと、あらかじめ用意していたスポーツドリンクを手に取った。
キャップを外して半分になるまで一気に飲み干す。
「〈青い薔薇〉か……そういえば疑問だったのよね。どうして組織は自分たちのことを〈青い薔薇〉なんて呼んでいるのかしら」
プラムの意外な告白にユタラはドリンクを噴出しそうになった。
「まさか、知らないんですか? 自分が属している組織なのに?」
「組織に属していると言っても私は末端の構成員に過ぎないのよ。こうしてエージェントの世話をする以外の日は薬局の仕事に忙しいしさ。だからって本部にわざわざ組織の名前の由来は何ですか、なんて訊けないでしょう?」
確かにそうかもしれない。
ユタラのような組織の中核を担うエージェントならともかく、プラムのような現地工作員に組織名の由来を聞かせる必要などなかった。
口元の水気を拭ったユタラは、仕方ないとばかりにプラムに組織名の由来を語る。
古来より高貴な花として珍重されていた薔薇の花は赤色が一般的であり、青い色の薔薇は一種たりとも市場に出回ってはいなかった。
理由は薔薇の花自体に、青色の色素を作るデルフィニジンという酵素がないからである。
そこで青色の薔薇の開発に取り組んだ日本のサントリーフラワーズは、オーストラリアの植物工学企業と共同開発を進めた末に、当時の最先端技術であった〝遺伝子組み換え〟によって青色の花から青色の色素を取り出すことに成功。
悲願だったデルフィニジンをほぼ百パーセント有した世界で初の青い薔薇を完成させたのだ。
そして現〈アーツ製薬〉の社長である百合子は、青い薔薇の開発研究に携わっていた研究者の一人だった。
サントリーフラワーズを退社してからは夫が設立した〈アーツ製薬〉の研究員として働いていたが、副社長が百合子の夫を殺害して新薬の成分データと候補物質を盗んで行方を晦ましてしまった。
その後、百合子は亡き夫に代わって〈アーツ製薬〉の社長に就任すると同時に会社内部に非合法活動を生業とする部門を設立したのである。
〝遺伝子組み換え〟によって誕生した〈発現者〉を中心に構成された組織。
この組織名を百合子は自分が最初に研究していた奇跡の花に因んで〈青い薔薇〉と命名したという。
「僕も社長の口から直に聞いたわけではないので本当かどうかは知りません。だから信じるか信じないかはプラムさんの自由ですよ」
そう言うとユタラは、肌にまとわりついていたTシャツを脱ぎ捨てる。
「プラムさん、すいませんがシャワーを貸してくれませんか? やっぱり屋外でトレーニングするにも時期を考えないといけませんね。身体中汗だくですよ」
「当たり前じゃない。今の時期のインドは日本で言うところの夏なのよ。それに、いくらここが日陰になっているからって長時間の運動は身体に毒。さっさと浴びてきなさい」
「ありがとうございます」
ユタラは濡れそぼっていたTシャツを持って裏口へと向かう。
「シャワーを浴びたら台所へ来てね。遅めの昼食を用意してあるから」
ユタラはプラムの心遣いに深く頭を下げると、裏口からシャワールームへと足を運んだ。
冷たい水を浴びて全身の汗を洗い落とす。
それだけでユタラは幸せな気分になった。
なぜならデリーは第四次印パ戦争後も深刻な水不足に陥っており、そんな貴重な水を貯めるタンクは家屋の屋上に設置されていた。
となると殺人的な太陽熱をタンクは一心に受け止めることになるのは当然。
しかもタンクの色は熱を最も吸収しやすい黒色である。
つまり暑期のインドでは水道からお湯しか出ないということだ。
けれども〈ビハーラ〉は違う。
家屋の屋上にこそタンクが設置されていたが、タンクの色を白へと塗り替えて太陽熱を遮断する屋根が取りつけられている。
これらの工夫を施したのはプラム自身だ。
〈青い薔薇〉の命令でデリーの現地工作員の任務を与えられたとき、水道からお湯しか出ないことに我慢がならなかったらしい。
そこでプラムは太陽熱を遮断する工夫を自費で施したのだという。
ほどしばらくすると、ユタラは黒地のTシャツに迷彩柄のハーフパンツを穿いたラフな格好でシャワールームから出てきた。
リラックスした顔で台所に顔を出す。
「ようやくお出ましね」
台所に立っていたプラムは銀のお盆をユタラに差し出した。
お盆の上にはナンに似たパンのような食べ物が二枚乗せられている。
「これはナンですか? 何か日本で食べたナンとはちょっと違うようですけど」
「惜しい。これはナンじゃなくてチャパティよ」
このとき、ユタラはナンとチャパティの違いを聞かされた。
チャパティとは小麦粉に水を混ぜて練り合わせ、油を引いたフライパンでクレープのように薄く伸ばして焼いたインド料理の一つだという。
また同じ材料で作るにもチャパティとナンはインド料理において一線を画しているらしく、一般家庭で作れる物がチャパティでタンドールという粘土製の壷窯型のオーブンで焼いた物がナンらしい。
「じゃあ、このスープは何です?」
お盆の上にはチャパティの他にも丸皿に入ったスープも置かれていた。
淡いオレンジ色をしたスープには豆のようなものが入っている。
「そうか……あなたは難民キャンプの出身だから家庭料理とは縁遠かったのね。これはインドの家庭料理でダールスープって言うのよ。ダール豆を使ったスープだからダールスープ。このスープはとても消化にいいからお穣ちゃんに持っていきなさい。彼女、昨日の夜から何も食べてないんでしょう」
「ええ、口にするといったら水くらいで」
「それは大変ね。だけど、インドの生水はとっても危険よ」
だから、とプラムは着ていた花柄シャツの胸ポケットから透明の小袋を取り出した。
中には小麦粉のような白い粉薬が入っている。
「あなたに当店自慢の浄化剤を売ってあげる。ちなみに一袋千ルピーよ。い・か・が?」
浄化剤をちらつかせているプラムは笑っていたが、舞弥に対して未だに若干の憤りを感じているのはプラムが口にした浄化剤の価格で察しがついた。
「舞弥が口にしたのは市販の飲料水ですから大丈夫です。それよりも舞弥が浄化剤を盗んだ件に関してはもう勘弁してくれませんか。その分の代金は払ったでしょう」
ふん、とプラムは笑みを消して浄化剤を胸ポケットに仕舞った。
「どこの国だろうと窃盗は犯罪よ。それにあとから代金を払うぐらいなら、わざわざ盗んだりせずにきちんと買いなさい」
「返す言葉もありません」
「あなたじゃなくて、あなたの手癖の悪いバディに強く言い聞かせておいてよね」
「わかりました。舞弥には僕から強く注意しておきますから」
ユタラは苦笑いを浮かべるなり、ダールスープが入った丸皿とチャパティが乗せられていたお盆を持って台所から非難しようとした。
「ねえ、結局のところ油田施設で〈発現者〉は見つからなかったのよね?」
そして台所から出ようとしたとき、プラムが低い声で問いかけてきた。ユタラは振り返って首肯する。
「そうですね。お陰で無駄足を食いましたよ。スカウト対象の〈発現者〉が行方不明なら僕たちがインドに留まる理由はないですから」
「そのことなんだけどさ。もうしばらくインドに滞在する許可は下りないのかしら」
「それってどういうことです?」
ユタラが訊き返すと、プラムは「いや、何でもないわ」と苦笑した。
「変なこと言ってごめんなさい。今のは聞かなかったことにして……さあさあ、スープが冷める前に子猫ちゃんに届けてあげてちょうだいな」
「失礼します」
小首を傾げながらユタラは台所をあとにした。
そのままロビーを抜けて二階へ。舞弥にあてがわれていた寝室の前に到着する。
「舞弥、起きてる?」
扉をノックして部屋に入ると、最初に聞こえてきたのはテレビの音だった。
「舞弥?」
てっきり部屋の主はテレビを観ていると思ったのだが、ベッドの上にもソファの上にも部屋の主はいなかった。
自分たちにあてがわれていた部屋は十畳ほどのワンルーム。
余計な調度品は置かれていなかったので、わざと隠れようとしても隠れる場所が圧倒的に少ない。
そうなると部屋の持ち主がいる場所は一つしかなかった。
ユタラは慌てて振り向いた。
部屋の主が出てくる前に退室しようと考えたのだ。
しかし、ユタラの行動は遅すぎた。
振り向くと同時に出入り口の隣に設けられていた扉が開いたのだ。
シャンプーの匂いが混じった大量の湯気がユタラの全身にまとわりついてくる。
「どうしたの? 馬鹿みたいに口を半開きにして」
部屋の主である舞弥と目が合ったユタラは、無意識に視線を下に落としていく。
正直、目が離せなかった。
水着姿や下着姿は何度も見たことはあったが、一糸まとわぬ舞弥の裸体を見たことはこれまでに一度たりともなかったからだ。
だからだろうか。
初めて見る異性の柔肌にユタラは目が釘づけになってしまった。
若干の水滴を付着させていた白い肌。
無駄な贅肉を削ぎ落としたスレンダーな体型。
適度に盛り上がっている胸は男を魅了させる張りがあり、しなやかな筋肉で構成されていた美脚に挟まれていた股間の位置には、手入れが行き届いた逆三角形の秘毛の森が生い茂っている。
「あのさ、そこにいられると着替えを取りに行けないんだけど」
「え? あ……ああ、そうだね。ごめんごめん。すぐにどく――熱っ!」
気が激しく動転していたせいだろう。
ユタラは思いっきり親指を熱々のスープに突っ込んでしまった。
それでもお盆は落とさない。
軽度の火傷の耐えながら後方の壁に背中をつける。
「姉の裸を見たぐらいで大げさなのよ」
一方、舞弥は裸を見られてもどこ吹く風だった。
親指に息を吹きかけているユタラの前を落ち着いた足取りで通り過ぎ、ベッドの上に置かれていた下着と衣服を着用する。
無地のタンクトップにカットジーズンという動きやすい格好だ。
「それで? あたしに何か用?」
「用があるから来たんじゃないか」
ユタラはベッドに腰を下ろした舞弥の元へ向かうと、ダールスープとチャパティを乗せたお盆を差し出す。
「お腹減ったでしょう。ほら、プラムさんが作ってくれた昼食を持ってきたよ」
「ごめん、今はあんまり食欲がないの」
「そんなこと言わずに食べてみなよ。せっかくプラムさんが作ってくれたんだからさ」
ユタラの思いが通じたのだろうか。
舞弥は無言でお盆を受け取るなり、息で湯気を追い払いながらダールスープを口に含んだ。
「どう? 美味しい?」
「普通」
返ってきた言葉はにべもない感想だった。
「そ、そうなの……じゃあ、チャパティはどう? これは美味しいと思うよ」
乾いた笑みを作りながら、ユタラがチャパティに手を伸ばしたときだ。
バイクのCMが終わったテレビの画面に油田施設の映像が映し出された。
十時間以上も前にユタラと舞弥が忍び込んだタール砂漠の油田施設である。
直後、舞弥は持っていたお盆を床に落とした。
ダールスープは床に飛び散り、食欲をそそる香辛料の匂いが部屋の一角に充満する。
「あ~あ、中身が入っているのに容器を落としたら駄目じゃないか。早く拭かないと」
ユタラはタオルが完備されているバスルームに向かおうとした。
しかし、今ほどまで呆然としていた舞弥に素早く腕を掴まれてしまった。
「ねえ、ユタラ。あれからどうなったか聞かせてよ」
「あれからって?」
「とぼけないで! あんたが管制室であたしを気絶させてからよ!」
舞弥は怒気を露にすると、ユタラの右腕を掴んでいた手にさらなる力を込めた。
けれどもユタラは一向に痛がる様子を見せない。
上地流空手の有段者であったユタラには、舞弥の握力でも蚊に刺された程度の痛みにしか感じなかったからだ。
「率直に言うなら何もなかったよ。どうやら爆弾はブラフだったらしくて、建物はどこも爆破されなかった。あとは聞かなくてもわかるよね? 撤退したレンタル・ソルジャーの代わりに軍隊が突入して油田施設の奪還に成功。それだけさ」
ユタラは自分の腕を掴んでいる舞弥の手を優しくほどいた。
「それに油田施設内で〈発現者〉は見つからなかったよ。騒ぎに便乗して逃げたのか、それとも最初からいなかったのか。どちらにせよ〈発現者〉の所在が不明になった今、残念ながら僕たちがインドに留まっている理由はない」
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「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
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