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37 先んずれば人を制す
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「陛下がお呼びだ」
文書を各省に運んで秘書官控室に戻ると、同僚のエメリヒから声をかけられた。大舞踏会の日、エメリヒはフランク王の側近から用事を頼まれてエルンストから遠ざけられたのだった。用事を済ませて戻るとエルンストがいたので、エルンストの災難に全く気付いていない。
エルンストはすぐに国王の執務室に入った。
「エルンスト・フィンケ入ります」
「入れ」
ドアを閉めた途端、グスタフが駆け寄った。誰もいないことはわかっていたが、周囲を見回してからエルンストは抱きしめた。
しばしじっと互いのぬくもりを感じ合った後、エルンストはささやいた。
「何かあったのですか」
グスタフは身を離した。
「妃を娶れと皆うるさい。来る者、来る者、そればかりだ。こっちは初等教育の話を詰めていきたいのに」
「あのフランク王にさえ妃がおいでですからね」
戴冠式では妃を連れて来る国王が多かった。それでますます家臣たちが妃を早く娶れと口にするようになったらしい。
「まだいいと言うのに」
「でも、いずれは。いつまでも避けてはいられないでしょう」
「いいのか、エルンスト」
「私は構いません。妃を娶るのも国王の大事なお仕事ですから」
グスタフはため息をついた。宮殿に入ってからため息が増えたとエルンストは思う。
「わかっているが、想像すると……」
それはエルンストも同じである。けれど耐えねばならない。その先に二人の幸せがあるのかわからないが。
「それで、来週はライマンの屋敷に行く」
「え? 宰相様のところにですか?」
「ああ。ライマンが屋敷でチェリーの花が見頃になるから花を見に来ないかと。彼の屋敷の庭には珍しい樹木も多いと聞く。他は少数の客しか呼ばないので疲れを癒すのにいいだろうと」
「お招きに応じたのですか?」
「ああ。宮殿にいると気がふさぐ。エルンストも供についてくればいい」
ライマン、少数の客、エルンストは嫌な予感を覚えた。
「ディアナ妃も来るのですか」
「いや。宰相の遠縁の子女は数人来るそうだが」
遠縁の子女。もうこれで確実だった。
「行ってはなりません」
強い口調でエルンストは言った。久しぶりのことにグスタフは驚いた。宮殿に入ってから、エルンストは大きな声を出すことはなかった。
「どうして?」
「恐らくディアナ妃の差し向けた愛妾候補の令嬢が来るはずです」
「なんだって?!」
エルンストはアレクサンドラから聞いた話をした。それから彼女が唯一の相手を探し求めていることも。そのために妃にならねばならぬと考えていることも。
グスタフは話の途中で来客用のソファに腰を下ろした。あまりのことに立っていられなかったのだ。
「公爵令嬢はあなたの子どもを産む覚悟があると仰せでした」
「なんと……」
グスタフの想像を超える話だった。妊娠出産は命懸けの行為と言っていい。レームブルック領内でも産後の肥立ちが悪くて死んだ女の話は珍しくなかった。貴族の女性達でもそれは同じだった。
「令嬢の話では、この宮殿の中には同性しか愛せぬ者が他にもいるようです。令嬢は彼らや彼女らの立場を守るためにも後宮の主となりたいと仰せでした」
「そこまでのお考えがあるとは」
グスタフは宙を見つめた。生き抜くため、エルンストと公爵領を出てここまで来た。国王となったからには、ただ生き延びるだけでなく己の目指す政治を進めていかねばならない。それが王として生きるということではないのか。そのためにはどうすればよいのか。
グスタフは立ち上がった。
「エルンスト、すぐにシュターデン公爵の屋敷へ行ってくれ。公爵にただちに宮殿に来るようにと」
「かしこまりました」
心の底にじわじわと湧く悲しみにじっと堪えながらエルンストはグスタフの命令に従った。
翌日の午前、急遽宮殿の大会議室に宰相をはじめとする大臣ら、王国議院上下院それぞれの議長、王国大裁判所大判事、大聖堂の大司教らローテンエルデの政府中枢の人々が集められた。皆何事かと顔を見合わせた。が、大会議室に最後に入って来た侍従長と女官長が妙にそわそわしているのに気づいた下院議長は何があるか予想し、頬を緩めた。
そして下院議長の予想通り、侍従長は口を開いた。
「これよりかねてからの懸案であった国王陛下の妃について、陛下御自身からお話しになられます。皆様、謹んでお聴きください」
グスタフが入室し、シュターデン公爵令嬢アレクサンドラを妃にすると宣言した。誰も異議を唱えなかった。
宰相ライマンは笑顔でおめでとうございますと言った。彼は宮殿を出るまで誰にも不満げな表情を見せなかった。エルンストはさすが宰相になる人間は違うと思った。腹の底では怒りを感じていても顔にも仕草にもそれを見せないのはもはや役者であった。
国王婚約の話題は翌日の新聞に掲載され、新聞社始まって以来の売上となった。都の市民が争うように買っただけでなく、新聞を買うために近郊の村人達までが新聞社にやって来た。新聞社は急遽増刷し、周辺の村だけでなく遠方の町にまで馬車を借りて売りに行ったところあっという間に売り切れる始末であった。これをきっかけに都の新聞社が地方の町に販売拠点を設けるようになり、ラジオが登場するまで新聞がローテンエルデの重要なメディアとなった。
一週間後、宰相ライマンの屋敷の庭園を歩くグスタフとアレクサンドラの姿があった。やや離れた後ろには供のエルンストがいた。
「美しい花ですこと」
アレクサンドラは案内のライマンに微笑んだ。頭上にはけぶるような薄いピンクの花が寄り集まって雲のように見えた。
「はい。早咲きのチェリーです。東の国で手に入れた苗を育てたのです」
「ラグランドから輸入したのか」
グスタフの問いにライマンは頷いた。
「はい」
庭を見渡すと芝生の上では娘たちがおしゃべりに興じていた。彼女達はグスタフらに気付くと、駆けて来た。
「遠縁の娘たちです」
ライマンは娘たちを紹介した。いずれも美しく快活そうだった。遠縁というのに、ライマンとは似ていなかった。
グスタフはさほど関心はなかったので挨拶を頷いて聞くだけだった。
アレクサンドラのほうは一人一人に声をかけていた。が、そのうちの一人に目を留めた。器量は良くも悪くもない、他の娘たちの引き立て役のように感じられる少女だった。
「あなた、お名前は何というの?」
娘はわずかに頬を染めた。まるでチェリーの花のような色であった。
「ヒルデガルト・ロイスナーと申します」
「ヒルダね」
「家族からはそのように呼ばれております」
「それでは私にもそう呼ばせてね」
「おそれいります」
ライマンは不思議そうな顔になった。
「シュターデン公爵令嬢、あの娘はカロッサ男爵令嬢の侍女です」
「そう。ならば、今日から私の侍女にしましょう。カロッサ男爵令嬢、よろしいわね」
カロッサ男爵令嬢に否と言えるはずもなかった。
ライマンはディアナ妃の差し向けた令嬢に国王が関心を向けず、その侍女を王妃となる女性が侍女として宮殿に連れ帰ってしまったことに唖然とするしかなかった。
文書を各省に運んで秘書官控室に戻ると、同僚のエメリヒから声をかけられた。大舞踏会の日、エメリヒはフランク王の側近から用事を頼まれてエルンストから遠ざけられたのだった。用事を済ませて戻るとエルンストがいたので、エルンストの災難に全く気付いていない。
エルンストはすぐに国王の執務室に入った。
「エルンスト・フィンケ入ります」
「入れ」
ドアを閉めた途端、グスタフが駆け寄った。誰もいないことはわかっていたが、周囲を見回してからエルンストは抱きしめた。
しばしじっと互いのぬくもりを感じ合った後、エルンストはささやいた。
「何かあったのですか」
グスタフは身を離した。
「妃を娶れと皆うるさい。来る者、来る者、そればかりだ。こっちは初等教育の話を詰めていきたいのに」
「あのフランク王にさえ妃がおいでですからね」
戴冠式では妃を連れて来る国王が多かった。それでますます家臣たちが妃を早く娶れと口にするようになったらしい。
「まだいいと言うのに」
「でも、いずれは。いつまでも避けてはいられないでしょう」
「いいのか、エルンスト」
「私は構いません。妃を娶るのも国王の大事なお仕事ですから」
グスタフはため息をついた。宮殿に入ってからため息が増えたとエルンストは思う。
「わかっているが、想像すると……」
それはエルンストも同じである。けれど耐えねばならない。その先に二人の幸せがあるのかわからないが。
「それで、来週はライマンの屋敷に行く」
「え? 宰相様のところにですか?」
「ああ。ライマンが屋敷でチェリーの花が見頃になるから花を見に来ないかと。彼の屋敷の庭には珍しい樹木も多いと聞く。他は少数の客しか呼ばないので疲れを癒すのにいいだろうと」
「お招きに応じたのですか?」
「ああ。宮殿にいると気がふさぐ。エルンストも供についてくればいい」
ライマン、少数の客、エルンストは嫌な予感を覚えた。
「ディアナ妃も来るのですか」
「いや。宰相の遠縁の子女は数人来るそうだが」
遠縁の子女。もうこれで確実だった。
「行ってはなりません」
強い口調でエルンストは言った。久しぶりのことにグスタフは驚いた。宮殿に入ってから、エルンストは大きな声を出すことはなかった。
「どうして?」
「恐らくディアナ妃の差し向けた愛妾候補の令嬢が来るはずです」
「なんだって?!」
エルンストはアレクサンドラから聞いた話をした。それから彼女が唯一の相手を探し求めていることも。そのために妃にならねばならぬと考えていることも。
グスタフは話の途中で来客用のソファに腰を下ろした。あまりのことに立っていられなかったのだ。
「公爵令嬢はあなたの子どもを産む覚悟があると仰せでした」
「なんと……」
グスタフの想像を超える話だった。妊娠出産は命懸けの行為と言っていい。レームブルック領内でも産後の肥立ちが悪くて死んだ女の話は珍しくなかった。貴族の女性達でもそれは同じだった。
「令嬢の話では、この宮殿の中には同性しか愛せぬ者が他にもいるようです。令嬢は彼らや彼女らの立場を守るためにも後宮の主となりたいと仰せでした」
「そこまでのお考えがあるとは」
グスタフは宙を見つめた。生き抜くため、エルンストと公爵領を出てここまで来た。国王となったからには、ただ生き延びるだけでなく己の目指す政治を進めていかねばならない。それが王として生きるということではないのか。そのためにはどうすればよいのか。
グスタフは立ち上がった。
「エルンスト、すぐにシュターデン公爵の屋敷へ行ってくれ。公爵にただちに宮殿に来るようにと」
「かしこまりました」
心の底にじわじわと湧く悲しみにじっと堪えながらエルンストはグスタフの命令に従った。
翌日の午前、急遽宮殿の大会議室に宰相をはじめとする大臣ら、王国議院上下院それぞれの議長、王国大裁判所大判事、大聖堂の大司教らローテンエルデの政府中枢の人々が集められた。皆何事かと顔を見合わせた。が、大会議室に最後に入って来た侍従長と女官長が妙にそわそわしているのに気づいた下院議長は何があるか予想し、頬を緩めた。
そして下院議長の予想通り、侍従長は口を開いた。
「これよりかねてからの懸案であった国王陛下の妃について、陛下御自身からお話しになられます。皆様、謹んでお聴きください」
グスタフが入室し、シュターデン公爵令嬢アレクサンドラを妃にすると宣言した。誰も異議を唱えなかった。
宰相ライマンは笑顔でおめでとうございますと言った。彼は宮殿を出るまで誰にも不満げな表情を見せなかった。エルンストはさすが宰相になる人間は違うと思った。腹の底では怒りを感じていても顔にも仕草にもそれを見せないのはもはや役者であった。
国王婚約の話題は翌日の新聞に掲載され、新聞社始まって以来の売上となった。都の市民が争うように買っただけでなく、新聞を買うために近郊の村人達までが新聞社にやって来た。新聞社は急遽増刷し、周辺の村だけでなく遠方の町にまで馬車を借りて売りに行ったところあっという間に売り切れる始末であった。これをきっかけに都の新聞社が地方の町に販売拠点を設けるようになり、ラジオが登場するまで新聞がローテンエルデの重要なメディアとなった。
一週間後、宰相ライマンの屋敷の庭園を歩くグスタフとアレクサンドラの姿があった。やや離れた後ろには供のエルンストがいた。
「美しい花ですこと」
アレクサンドラは案内のライマンに微笑んだ。頭上にはけぶるような薄いピンクの花が寄り集まって雲のように見えた。
「はい。早咲きのチェリーです。東の国で手に入れた苗を育てたのです」
「ラグランドから輸入したのか」
グスタフの問いにライマンは頷いた。
「はい」
庭を見渡すと芝生の上では娘たちがおしゃべりに興じていた。彼女達はグスタフらに気付くと、駆けて来た。
「遠縁の娘たちです」
ライマンは娘たちを紹介した。いずれも美しく快活そうだった。遠縁というのに、ライマンとは似ていなかった。
グスタフはさほど関心はなかったので挨拶を頷いて聞くだけだった。
アレクサンドラのほうは一人一人に声をかけていた。が、そのうちの一人に目を留めた。器量は良くも悪くもない、他の娘たちの引き立て役のように感じられる少女だった。
「あなた、お名前は何というの?」
娘はわずかに頬を染めた。まるでチェリーの花のような色であった。
「ヒルデガルト・ロイスナーと申します」
「ヒルダね」
「家族からはそのように呼ばれております」
「それでは私にもそう呼ばせてね」
「おそれいります」
ライマンは不思議そうな顔になった。
「シュターデン公爵令嬢、あの娘はカロッサ男爵令嬢の侍女です」
「そう。ならば、今日から私の侍女にしましょう。カロッサ男爵令嬢、よろしいわね」
カロッサ男爵令嬢に否と言えるはずもなかった。
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