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お清の中臈
弐 犬去りし後猫来たる
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下屋敷に文が届くより一刻ほど前のこと。
月野家の上屋敷の奥では、留守を守る女達が一室に集まり、下屋敷で食べられている膳を作った料理屋が持って来た弁当を食べ始めていた。
「おいしい」
「でも。富士のお山を見たかった」
外出の機会がめったにない奥勤めの女達にとっては、富士を眺められる下屋敷への奥方様のおでましのお供だけでも、よい気晴らしになるのである。確かに弁当はおいしいが、どうせなら富士を見ながらと思うのが人情である。
「いずれ、国に戻れば旅の途中で富士を見ることもできよう」
そう言ったのは、豊かな髪を片外しに結い、目は切れ長、鼻筋通り、口は大きくもなく小さくもなく、きりりと引き締まった表情の二十ばかりに見える奥女中であった。
すると先ほど富士のお山が見たかったと言った少女が不満そうに言う。
「江戸にいると国に帰りたくなくなります。お佳穂様だって、そうでしょう」
「そなたは国に許婚者がおろう。それなのに、国に帰りたくないとは」
「でも、もう三年も会っていないので、顔を忘れそうです」
まわりの少女が笑った。
「ほんに。忘れそうじゃ」
佳穂はもし許婚者がいたら忘れたくとも忘れられるものではないと思ったが口にしなかった。少女と同じことを言っていた女中らは帰国が決まれば喜びを隠しきれない表情で出立まで毎日過ごしていたものである。
佳穂には許婚者ではないけれど、忘れられない人がいる。故郷を離れたのはその人に会えたらと思う気持ちがどこかにあったからかもしれない。けれど、いまだ会うことはかなわない。だからもう諦めている。
それに、どのみち、ここで奥女中として一生奉公していくという気持ちは変わらない。故郷月影の水は恋しいが、味の違う江戸の水を飲んで生きていこうと決めたのだから。
奥女中として女一人生きていくことを誓って江戸に出たからには、富士の山を東海道から見上げることなど夢のまた夢の話……。
「ん、なに」
離れてはいるが、不意に庭の方から何かけだものような声が聞こえた。佳穂はどうも他の者に比べて耳がいいらしく、遠くの半鐘の音も最初に気付いてしまう。
またけだものの声が聞こえた。今度は他の女達も気付いて顔を見合わせた。
「何」
「狆かしら」
「狆にしては声が大きいような」
佳穂は立ち上がった。
「見て参る」
「狼だったらいかがします」
今度は女の悲鳴が聞こえた。台所の方角である。
少女達は震え上がった。
今、この屋敷の奥の留守居をしている中で一番高位なのは、中臈の佳穂だった。佳穂は留守を守る身としては当然のことと毅然とした表情で命じた。
「そなたらはここにおれ。見て参るゆえ。おくら、おくめ、そなたらは奥方様の狆の部屋へ行き戸締りをして狆が外へ出ぬようにせよ。まこと狼や野犬であれば、食い殺されるやもしれぬ」
「かしこまりました」
小姓のおくらとおくめは連れ立って狆のいる部屋へ向かった。
佳穂はけだものの声のする方へ小走りに向かった。懐剣はめったに抜いたことはないが、小太刀は勤め始めてから奥の別式女に教えを受け免状を得ている。いざとなったら抜く覚悟はある。
台所に近づくと、声がはっきり聞こえてきた。
「なんじゃ、これは」
「熊の子ではないか」
熊が江戸の市中に出たとは聞いたことがない。だが、見世物小屋にいた熊の子が逃げたのかもしれぬ。佳穂は気を引き締めた。
台所は北側にあった。日陰の多い廊下を進むうちに庭に面した廊下に出たので目の前が明るくなった。台所近くの植え込みのある庭の中央に白い塊が見え、台所の御末らがそれを遠巻きに見て騒いでいた。
白い毛むくじゃらの生き物はよく見れば犬のようであった。鳴き声も太いが犬のものだった。ただ狆よりも大きく毛がふさふさしているだけであった。国で兄が飼っていた南蛮犬の血を引く猟犬がこのような感じであったことを思い出した。
「皆の者、これは犬じゃ。何の悪さもせぬ」
女達は佳穂を一斉に見た。
「これが犬とは」
「これは猟犬。南蛮犬の血を引くゆえ、大きいのだ」
佳穂はゆっくりと言った。
「猟犬であれば、近くの御家から逃げて来たのかもしれぬ。ここで犬を退治などすれば、後々禍根を残すことになる」
佳穂は腰に巻いていた打掛を脱いで庭の上に裸足のまま下りた。口笛を吹くと、毛むくじゃらが駆け寄って来た。兄の犬と同じだった。女達はおおっと言って、道を開けた。
「迷ったのだな、心細かったであろう」
お佳穂はもふもふとした首筋をなでてやった。やはり犬だった。毛の硬さが犬のものだった。
犬は甘えるように袷の裾にすりよった。
女達は狆や小型の犬には慣れているが、それより大きな犬には慣れていないようで、まだ遠巻きにしていた。
このままにはしておけないと思った時だった。
「その犬、返してもらえぬか」
唐突に声がした。それも男のものだった。女達はざわめいた。ここに男がいるはずがない。
「申し訳ない。犬が逃げてしまって」
佳穂は声のする方を見上げた。台所と隣の分家月影藩上屋敷を隔てる土塀の上から男が顔を覗かせていた。塀は一間と二尺(約二・四メートル)ほどの高さである。その上に見える男の顔は総髪で顔の面積の半分が髭に覆われていた。まるで山の中に住む樵か猟師である。佳穂は悲鳴を上げそうになったが堪えた。分家の家臣を見て叫んだとあっては笑いものになる。
女達は怯えたように後ずさった。
犬はそちらを見て、クオ―ンと甘えるように鳴いた。どうやら、まことに犬の世話役らしい。
「それでは、門番に預けますので、門まで取りにおいでください」
「いや、急いでおるので、今すぐ犬を返して欲しいのだ。門番を通すと、時間がかかる。どうしてもこれから出かける用事があるゆえ」
犬も早く飼い主の元に戻りたいらしく、佳穂の足元から塀へとまっしぐらに駆けた。女達は悲鳴を上げた。
佳穂はこれは早く犬を返さねばならぬと思った。門番もこの犬を怖がるかもしれぬ。
「わかりました。私がお返しします」
女達はひいっと悲鳴をあげた。
「怯えるでない。こちらが害を与えねば犬は噛んだりせぬ。梯子を持て。煤払いの時に使うものがあったはず」
すぐに女二人が動いた。
佳穂は塀に近づいた。
「畏れながら、月影の家中にお仕えの方ですか。この犬がこちらに来たということは、塀に穴が開いているということ。どこから入ったかわかりませぬか」
髭もじゃの男は佳穂の顔をじっと見ていた。佳穂はその不躾な視線を避けずに受け止めた。
「穴か。いや、それがわからぬ。シロが話せればよいのだが」
「シロ」
「犬の名だ。真っ白だからシロ」
「南蛮犬でございますか」
「ああ。狩り犬だ」
そこへ梯子が届いた。女達は塀に梯子を立てかけた。
佳穂は袷の裾をからげ襷を懸けると、犬を片手で抱き上げた。見かけ以上にずっしりと重かった。
「お女中、大丈夫か」
上から心配そうに声が掛けられ、佳穂は意外に感じた。見かけによらず、優し気な声だった。
「この犬は抱かずとも、おぶればよい」
言われたように犬の身体を背中に乗せると、犬は前脚を肩に後ろ足を帯に乗せた。国にいた頃、幼かった妹をおぶったような重みが背中にかかった。この程度なら両手が使える。
佳穂は犬を背負って梯子を上った。
背中の犬は主の姿を見て興奮しているのか、はあはあ息をしている。その息がうなじにかかってくすぐったいが、佳穂は耐えた。
「おお、かたじけない」
梯子を上って塀の上に顔を出すと、髭もじゃの顔が目の前にあった。
「シロ様を確かにお返しします」
「すまぬ」
背中の犬は主人を見ると佳穂の背と肩を踏んで、男の両腕に飛び込んだ。見れば、男は梯子ではなく木の箱の上に乗っていた。これなら両手が使える。男は犬を抱いたまま、佳穂を見つめた。
なぜか、佳穂は目を合わせてしまった。長いまつげだった。髭が濃いと、まつげも長くなるらしい。
「お女中、もしや、川村様の御息女か」
なぜ、そんなことをこの男は知っているのか。佳穂は驚いた。こんな男に会った記憶はない。
「あなた様はどちらの」
男が何か言おうと口を開けかけた時だった。犬が男の腕からすり抜けた。木箱の上に降りた犬はさらに地面に飛び降りた。
「待て、待たぬか」
犬は待つわけもなく駆けだした。男は慌てて木箱から飛び降り、犬を追った。
佳穂は呆気にとられたまま、梯子を下りた。
佳穂が両足を地面に着けると、台所の人々はほっと胸をなで下ろした。
佳穂もまた、騒ぎが大きくならずに済んでよかったとほっとした。
「どうぞ、足をお洗いください」
台所の仲居が桶にぬるま湯を用意していた。佳穂は足を洗い、身なりを整え、先ほどまで昼食を食べていた部屋に向かった。
隣の分家の屋敷との境目の塀に犬が通れる穴があることを年寄の鳴滝様がお帰りになったら報告しなければならない。そう思いながら広敷という男の役人らが詰めている場所の近くを歩いていると声が聞こえた。お戻りにしてはずいぶん早いと思っていると、どうもおかしい。
「困ります、急にさような」
広敷の役人の困惑した声は珍しい。年寄や御客応答といった奥の上級の女中とも渡り合う広敷役人は、めったなことでは騒がない。
「ここはわらわの実家。帰って何が悪いのじゃ」
大きな声に、佳穂はぎょっとして立ち止まった。ありえない。ここでこの声を聞こうとは。
広敷に行くのは鳴滝の許しがいるのだが、今は鳴滝はいない。佳穂は広敷の座敷の前の廊下に向かった。
「失礼いたします。何かあったのでしょうか」
襖を開けた。役人が助かったと言わんばかりの顔で振り返った。
役人の前には背の高い女性が立っていた。
「姫、様……」
信じられなかった。
女性はおおっと声を上げた。その背後には胸に手を当てて癪に耐えている奥女中の姿があった。
「いかがされたのですか。御里帰りなら知らせてくだされば。皆様は白金にお出ましで」
「里帰りではない。離縁じゃ」
女性は笑った。とても姫様と呼ばれる女性の笑い声ではない。オホホでも、フフフでもない。敢えて文字に起こすならガハハである。
「離縁でございますか」
「ああ、離縁じゃ、離縁。ゆえに帰って参った。女中達も猫も連れて帰ってきたゆえまずは昼餉をと思ってな。広敷の者たちが急に帰ったと言われても困ると言いおる。まあ、留守居役の桂木にもまだ伝えておらぬからな」
信じられなかった。一昨年祝言を挙げたはずの姫様が突然離縁で帰って来るとは。
猫の鳴き声が聞こえた。小姓の腕に抱かれた白猫である。嫁ぐ時に連れて行った白猫は一回り大きくなっていた。別の小姓は子猫が数匹眠る籠を持っていた。猫まで連れて来るということは間違いなく離縁であろう。
「お佳穂、部屋の支度をお園と頼む」
胸を押さえていた奥女中が小走りに近づいた。助けを求める顔だった。佳穂には拒めなかった。
「かしこまりました」
呼吸を整え、考えを瞬時にまとめる。
まずは下屋敷にこの事態を伝えねばならなかった。奥方様の衝撃を少しでも和らげてから姫様と対面させないと大変なことになる。奥方様は最近のぼせに悩んでいる。屋敷で姫から直接離縁などと聞いたら倒れかねない。それから癪に耐えるお園を休ませ、淑姫様に部屋を用意し、食事を出し……。そうだ、留守居役の桂木に知らせなければ。桂木が知らなかったではすまない。花尾家に真偽を確認し、もしまことに離縁なら様々な交渉をすることになるのだ。
「姫様方はとりあえず座敷へ。小姓は今すぐ奥へ参り姫様の部屋の用意をするように留守居の者に伝えよ。いま一人は台所へ行き昼餉の支度をするように人数を伝えよ。広敷の方は桂木様にこのことをお伝えを。医師の森山様をこちらにお呼びくだされ。それから紙と墨をお借りします」
広敷の小机を借り少しでも衝撃が少なくなるようにと願いながら事態を婉曲に表現して書いた。それを下屋敷にいる鳴滝へ至急渡すようにと広敷の役人に頼んだ。鳴滝なら奥方様に衝撃を与えぬように事態を伝えるはずである。
森山がやって来たのはその直後である。佳穂はお園が休んでいる隣の小座敷へ医師とともに入った。
お園はみぞおちを押さえていた。額に脂汗がにじんでいた。
「お佳穂さん、ごめんなさい」
「気にしないで」
一体姫様の嫁ぎ先花尾家で何があったのか。佳穂は知りたかったが、お園にとっては他家の奥向きであったことを主の許しなく語るなどもってのほかだった。何より今はお園を休ませることが先決だった。
そこへ淑姫の小姓がやって来た。
「台所へおいで願えませんか」
やはり急な話で無理があったのだろうか。佳穂は分かったとすぐに台所に向かった。
この後も奥の部屋の支度をあれこれ指示したり下屋敷から戻ってきた奥方様らを出迎えたりで、佳穂が落ち着いたのは皆が夕餉を食べた後だった。
白い犬と髭もじゃの男のことなど佳穂はすっかり忘れていた。
月野家の上屋敷の奥では、留守を守る女達が一室に集まり、下屋敷で食べられている膳を作った料理屋が持って来た弁当を食べ始めていた。
「おいしい」
「でも。富士のお山を見たかった」
外出の機会がめったにない奥勤めの女達にとっては、富士を眺められる下屋敷への奥方様のおでましのお供だけでも、よい気晴らしになるのである。確かに弁当はおいしいが、どうせなら富士を見ながらと思うのが人情である。
「いずれ、国に戻れば旅の途中で富士を見ることもできよう」
そう言ったのは、豊かな髪を片外しに結い、目は切れ長、鼻筋通り、口は大きくもなく小さくもなく、きりりと引き締まった表情の二十ばかりに見える奥女中であった。
すると先ほど富士のお山が見たかったと言った少女が不満そうに言う。
「江戸にいると国に帰りたくなくなります。お佳穂様だって、そうでしょう」
「そなたは国に許婚者がおろう。それなのに、国に帰りたくないとは」
「でも、もう三年も会っていないので、顔を忘れそうです」
まわりの少女が笑った。
「ほんに。忘れそうじゃ」
佳穂はもし許婚者がいたら忘れたくとも忘れられるものではないと思ったが口にしなかった。少女と同じことを言っていた女中らは帰国が決まれば喜びを隠しきれない表情で出立まで毎日過ごしていたものである。
佳穂には許婚者ではないけれど、忘れられない人がいる。故郷を離れたのはその人に会えたらと思う気持ちがどこかにあったからかもしれない。けれど、いまだ会うことはかなわない。だからもう諦めている。
それに、どのみち、ここで奥女中として一生奉公していくという気持ちは変わらない。故郷月影の水は恋しいが、味の違う江戸の水を飲んで生きていこうと決めたのだから。
奥女中として女一人生きていくことを誓って江戸に出たからには、富士の山を東海道から見上げることなど夢のまた夢の話……。
「ん、なに」
離れてはいるが、不意に庭の方から何かけだものような声が聞こえた。佳穂はどうも他の者に比べて耳がいいらしく、遠くの半鐘の音も最初に気付いてしまう。
またけだものの声が聞こえた。今度は他の女達も気付いて顔を見合わせた。
「何」
「狆かしら」
「狆にしては声が大きいような」
佳穂は立ち上がった。
「見て参る」
「狼だったらいかがします」
今度は女の悲鳴が聞こえた。台所の方角である。
少女達は震え上がった。
今、この屋敷の奥の留守居をしている中で一番高位なのは、中臈の佳穂だった。佳穂は留守を守る身としては当然のことと毅然とした表情で命じた。
「そなたらはここにおれ。見て参るゆえ。おくら、おくめ、そなたらは奥方様の狆の部屋へ行き戸締りをして狆が外へ出ぬようにせよ。まこと狼や野犬であれば、食い殺されるやもしれぬ」
「かしこまりました」
小姓のおくらとおくめは連れ立って狆のいる部屋へ向かった。
佳穂はけだものの声のする方へ小走りに向かった。懐剣はめったに抜いたことはないが、小太刀は勤め始めてから奥の別式女に教えを受け免状を得ている。いざとなったら抜く覚悟はある。
台所に近づくと、声がはっきり聞こえてきた。
「なんじゃ、これは」
「熊の子ではないか」
熊が江戸の市中に出たとは聞いたことがない。だが、見世物小屋にいた熊の子が逃げたのかもしれぬ。佳穂は気を引き締めた。
台所は北側にあった。日陰の多い廊下を進むうちに庭に面した廊下に出たので目の前が明るくなった。台所近くの植え込みのある庭の中央に白い塊が見え、台所の御末らがそれを遠巻きに見て騒いでいた。
白い毛むくじゃらの生き物はよく見れば犬のようであった。鳴き声も太いが犬のものだった。ただ狆よりも大きく毛がふさふさしているだけであった。国で兄が飼っていた南蛮犬の血を引く猟犬がこのような感じであったことを思い出した。
「皆の者、これは犬じゃ。何の悪さもせぬ」
女達は佳穂を一斉に見た。
「これが犬とは」
「これは猟犬。南蛮犬の血を引くゆえ、大きいのだ」
佳穂はゆっくりと言った。
「猟犬であれば、近くの御家から逃げて来たのかもしれぬ。ここで犬を退治などすれば、後々禍根を残すことになる」
佳穂は腰に巻いていた打掛を脱いで庭の上に裸足のまま下りた。口笛を吹くと、毛むくじゃらが駆け寄って来た。兄の犬と同じだった。女達はおおっと言って、道を開けた。
「迷ったのだな、心細かったであろう」
お佳穂はもふもふとした首筋をなでてやった。やはり犬だった。毛の硬さが犬のものだった。
犬は甘えるように袷の裾にすりよった。
女達は狆や小型の犬には慣れているが、それより大きな犬には慣れていないようで、まだ遠巻きにしていた。
このままにはしておけないと思った時だった。
「その犬、返してもらえぬか」
唐突に声がした。それも男のものだった。女達はざわめいた。ここに男がいるはずがない。
「申し訳ない。犬が逃げてしまって」
佳穂は声のする方を見上げた。台所と隣の分家月影藩上屋敷を隔てる土塀の上から男が顔を覗かせていた。塀は一間と二尺(約二・四メートル)ほどの高さである。その上に見える男の顔は総髪で顔の面積の半分が髭に覆われていた。まるで山の中に住む樵か猟師である。佳穂は悲鳴を上げそうになったが堪えた。分家の家臣を見て叫んだとあっては笑いものになる。
女達は怯えたように後ずさった。
犬はそちらを見て、クオ―ンと甘えるように鳴いた。どうやら、まことに犬の世話役らしい。
「それでは、門番に預けますので、門まで取りにおいでください」
「いや、急いでおるので、今すぐ犬を返して欲しいのだ。門番を通すと、時間がかかる。どうしてもこれから出かける用事があるゆえ」
犬も早く飼い主の元に戻りたいらしく、佳穂の足元から塀へとまっしぐらに駆けた。女達は悲鳴を上げた。
佳穂はこれは早く犬を返さねばならぬと思った。門番もこの犬を怖がるかもしれぬ。
「わかりました。私がお返しします」
女達はひいっと悲鳴をあげた。
「怯えるでない。こちらが害を与えねば犬は噛んだりせぬ。梯子を持て。煤払いの時に使うものがあったはず」
すぐに女二人が動いた。
佳穂は塀に近づいた。
「畏れながら、月影の家中にお仕えの方ですか。この犬がこちらに来たということは、塀に穴が開いているということ。どこから入ったかわかりませぬか」
髭もじゃの男は佳穂の顔をじっと見ていた。佳穂はその不躾な視線を避けずに受け止めた。
「穴か。いや、それがわからぬ。シロが話せればよいのだが」
「シロ」
「犬の名だ。真っ白だからシロ」
「南蛮犬でございますか」
「ああ。狩り犬だ」
そこへ梯子が届いた。女達は塀に梯子を立てかけた。
佳穂は袷の裾をからげ襷を懸けると、犬を片手で抱き上げた。見かけ以上にずっしりと重かった。
「お女中、大丈夫か」
上から心配そうに声が掛けられ、佳穂は意外に感じた。見かけによらず、優し気な声だった。
「この犬は抱かずとも、おぶればよい」
言われたように犬の身体を背中に乗せると、犬は前脚を肩に後ろ足を帯に乗せた。国にいた頃、幼かった妹をおぶったような重みが背中にかかった。この程度なら両手が使える。
佳穂は犬を背負って梯子を上った。
背中の犬は主の姿を見て興奮しているのか、はあはあ息をしている。その息がうなじにかかってくすぐったいが、佳穂は耐えた。
「おお、かたじけない」
梯子を上って塀の上に顔を出すと、髭もじゃの顔が目の前にあった。
「シロ様を確かにお返しします」
「すまぬ」
背中の犬は主人を見ると佳穂の背と肩を踏んで、男の両腕に飛び込んだ。見れば、男は梯子ではなく木の箱の上に乗っていた。これなら両手が使える。男は犬を抱いたまま、佳穂を見つめた。
なぜか、佳穂は目を合わせてしまった。長いまつげだった。髭が濃いと、まつげも長くなるらしい。
「お女中、もしや、川村様の御息女か」
なぜ、そんなことをこの男は知っているのか。佳穂は驚いた。こんな男に会った記憶はない。
「あなた様はどちらの」
男が何か言おうと口を開けかけた時だった。犬が男の腕からすり抜けた。木箱の上に降りた犬はさらに地面に飛び降りた。
「待て、待たぬか」
犬は待つわけもなく駆けだした。男は慌てて木箱から飛び降り、犬を追った。
佳穂は呆気にとられたまま、梯子を下りた。
佳穂が両足を地面に着けると、台所の人々はほっと胸をなで下ろした。
佳穂もまた、騒ぎが大きくならずに済んでよかったとほっとした。
「どうぞ、足をお洗いください」
台所の仲居が桶にぬるま湯を用意していた。佳穂は足を洗い、身なりを整え、先ほどまで昼食を食べていた部屋に向かった。
隣の分家の屋敷との境目の塀に犬が通れる穴があることを年寄の鳴滝様がお帰りになったら報告しなければならない。そう思いながら広敷という男の役人らが詰めている場所の近くを歩いていると声が聞こえた。お戻りにしてはずいぶん早いと思っていると、どうもおかしい。
「困ります、急にさような」
広敷の役人の困惑した声は珍しい。年寄や御客応答といった奥の上級の女中とも渡り合う広敷役人は、めったなことでは騒がない。
「ここはわらわの実家。帰って何が悪いのじゃ」
大きな声に、佳穂はぎょっとして立ち止まった。ありえない。ここでこの声を聞こうとは。
広敷に行くのは鳴滝の許しがいるのだが、今は鳴滝はいない。佳穂は広敷の座敷の前の廊下に向かった。
「失礼いたします。何かあったのでしょうか」
襖を開けた。役人が助かったと言わんばかりの顔で振り返った。
役人の前には背の高い女性が立っていた。
「姫、様……」
信じられなかった。
女性はおおっと声を上げた。その背後には胸に手を当てて癪に耐えている奥女中の姿があった。
「いかがされたのですか。御里帰りなら知らせてくだされば。皆様は白金にお出ましで」
「里帰りではない。離縁じゃ」
女性は笑った。とても姫様と呼ばれる女性の笑い声ではない。オホホでも、フフフでもない。敢えて文字に起こすならガハハである。
「離縁でございますか」
「ああ、離縁じゃ、離縁。ゆえに帰って参った。女中達も猫も連れて帰ってきたゆえまずは昼餉をと思ってな。広敷の者たちが急に帰ったと言われても困ると言いおる。まあ、留守居役の桂木にもまだ伝えておらぬからな」
信じられなかった。一昨年祝言を挙げたはずの姫様が突然離縁で帰って来るとは。
猫の鳴き声が聞こえた。小姓の腕に抱かれた白猫である。嫁ぐ時に連れて行った白猫は一回り大きくなっていた。別の小姓は子猫が数匹眠る籠を持っていた。猫まで連れて来るということは間違いなく離縁であろう。
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「かしこまりました」
呼吸を整え、考えを瞬時にまとめる。
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お園はみぞおちを押さえていた。額に脂汗がにじんでいた。
「お佳穂さん、ごめんなさい」
「気にしないで」
一体姫様の嫁ぎ先花尾家で何があったのか。佳穂は知りたかったが、お園にとっては他家の奥向きであったことを主の許しなく語るなどもってのほかだった。何より今はお園を休ませることが先決だった。
そこへ淑姫の小姓がやって来た。
「台所へおいで願えませんか」
やはり急な話で無理があったのだろうか。佳穂は分かったとすぐに台所に向かった。
この後も奥の部屋の支度をあれこれ指示したり下屋敷から戻ってきた奥方様らを出迎えたりで、佳穂が落ち着いたのは皆が夕餉を食べた後だった。
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