アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳

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部屋住みの又四郎

壱 豚の御礼

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「うまい、これはよい」

 若殿斉倫は口に入れた豚肉を噛みしめ呑み込むとそう言って、破顔した。

「お志麻、そなたも食べてみよ。これは美味じゃ。脂身がなんともいえず甘いぞ」
「遠慮いたします」

 小柄でほっそりとした奥女中は困惑気味の顔でそう言った。

「そなたはもう少し肥えねば。肉を食べれば精もつく」

 そう言いながら、小鍋から肉とねぎを小皿にとった斉倫であった。
 ここは赤坂の月野家中屋敷。若殿斉倫は夕刻訪ねてきた分家の次男又四郎の持ってきた土産の豚肉を町人がよく食べるねぎま鍋のようにして小鍋に仕立てさせ、夕餉の膳に載せていた。
 四足の肉を食べるのは禁忌なのだが、実は妹の淑姫同様斉倫は肉が好きだった。又四郎が時々高輪の若殿様の屋敷に行き、豚肉を土産にもらうと知るとうちにも分けてくれとこっそりねだるようになっていた。
 部屋住みで贅沢のできぬ又四郎のために、高輪の若殿様が屋敷の中で飼っている豚を解体した時に一部を取り分けたものということで、斉倫は豚肉の礼として又四郎が興味を持ちそうな書物を贈った。そういうわけで又四郎は高輪から戻る時は必ず赤坂に立ち寄った。
 この日もお供とともに午後斉倫の家に豚肉を持って来たのだった。
 同席している又四郎は自分の鍋の分だけ食べたが、斉倫はお志麻の膳の豚肉も食べてしまった。

「若殿様、胃の腑がもたれませぬか」

 又四郎の問いに、斉倫は妹そっくりにガハハと笑った。

「大事ない。又四郎殿こそ、足りるのか」
「それがしはこれで十分」
「もっと食わねば太れぬぞ」

 太るつもりはないと思ったものの、又四郎は口にはしなかった。

「それがしには書物があれば十分」
「南蛮の書物では腹の足しにならぬが」
「頭の足しにはなります」
「そういうものか」

 斉倫は国学関係の書物は読むが、蘭学となると少々苦手だった。最近は諸侯やその世継ぎらも海防の必要性を考え洋書を読む者も増えているが、斉倫には理解しがたかった。何も彼の頭が悪いというわけではない。彼の周囲に蘭学に関心を持つ人間がほとんどいなかったからである。父も家老も所領の経営のほうに重きを置いていた。分家の跡継ぎの斉陽に至っては武術に夢中で海外の事情などにほとんど興味を示さなかった。ただただ武力で夷戎いてきを討つべしと唱えているありさまだった。洋書に興味を持つのは分家の次男の又四郎くらいだったのだ。
 お志麻の方は食事を終えると席を外した。又四郎が来る時はお志麻は食後席を外すように斉倫に言われていた。
 又四郎は二人だけになると声を低めて言った。

「ところで、先だってお願いしていた件ですが」
「それなら仁右衛門に帰りに渡すように言っておる」
「かたじけない」
「なんのこれしき。人助けじゃ」
「先月の分、たいそう喜んでおりました」
「そうか、よかった」

 そう言った斉倫だが、決してよかったという表情はしていない。むしろ少しばかり緊張しているように見えた。

「何かあったのですか」
「近頃、屋敷の人の出入りを伺っている者がおる」
「まことか」
「仁右衛門が言うには、あれは町方ではないと」
「御庭番ですか」
「恐らく」
「しばらく、私は参らぬほうがいいでしょうね」
「そうだな。来月からは佐野覚兵衛にでも取りにこさせたほうがよいかもしれぬ」
「わかりました。肉も覚兵衛に持たせましょう」
「それは助かる」

 肉の話になってやっと斉倫は顔をほころばせた。

「まことに若殿様は豚がお好きですね」
「父上の跡を継いだら、私は豚を飼うぞ。高輪の若殿様につがいを頼んでくれぬか」
「わかりました。そういたしましょう。ですが、豚はたくさん仔を生みますぞ」
「増えたら国許にも連れて行く。増やして塩漬けを売るのだ」
「それはよろしいですね」
「その時は月影にも豚を分けるからな。そなたはその頃は国の執政。豚どもを可愛がってくれ」
「かしこまりました」

 斉倫はふとそこでにやりと笑った。

「いかがされましたか」

 又四郎の問いに斉倫はクククと笑った。

「いや、豚をいつも持って来てもらうゆえ、礼をせねばと思ってのう」
「この書物だけでも過分の礼と思うております」
「いつも私のほうがたくさん豚を食べているではないか。書物だけではとても足りぬ。それでな、そなたに縁組を世話しようと思う」
「それがしは部屋住みにて」
「遠慮するな。考えたのだ、私なりに。そなたがいずれ月影に戻り執政になるなら、あちらの家老とも親しくならねばな。ならば、一番よいのは縁続きになることぞ。かの中臈との縁組をすれば」
「若殿様!」

 又四郎は酒を口にしていないのに顔を真っ赤にして叫んでいた。

「そなたが先日珍しく女子おなごの話などするゆえな」
「あれは犬の話のついで」
「まあ飲め」

 斉倫は盃に酒を注いで又四郎によこした。

「これはどうも」

 又四郎は一息に飲んだ。
 斉倫は愉快そうに笑う。

「そなたはいずれ月影の執政になるのだぞ」
「なれど、そうたやすい話では」
「もっと自信を持て。そなたのことは下野守様も我が父も認めておる。部屋住みにしておくには惜しい。私もそなたのような家臣、いや家老がいればと思う。土井大炊頭おおいのかみ様に鷹見忠常という家老がいるようにな。といっても、私は大炊頭様とは大違いだが」

 土井大炊頭とは昨年老中を辞めた土井利位としつらのことである。「土井の鷹見か、鷹見の土井か」と世間で言われるほど、家老の鷹見忠常は優れた手腕で主君土井利位を支えていた。

「畏れ多いことです」
「家老はともかく、実際、執政として国に戻るとなれば、嫁はとらねばなるまい」
「ですが、私には過分なこと」
「川村の娘は年頃もよいと思うがな」
「あの方は、眩し過ぎます」

 あれは又四郎にとって突然の出会いだった。まさか、あのようにろうたけた奥女中になっていたとは思いも寄らなかった。不意打ちを喰らった己はさぞかし阿呆のような顔をしていたであろうと思う。

「そなたとて、髭、月代を剃れば、見られる顔であろうが。一体、何を好き好んでさような熊のようななりをしておるのだ」
「熊とはまた」
「熊であろうが。それでは女子は近づかぬ。もしや、女子よけか。川村の娘以外を避けるためか」
「め、滅相もないことでございます」

 斉倫は自分の盃の中身をぐいっと飲んだ。

「あの娘が上屋敷の奥に入った時、母上に釘を刺されたのだ。お清の中臈として奉公するつもりだから決して手出しするなと。だが、あたら惜しいと思わぬか」
「まさか、若殿様は」

 又四郎の目つきに剣呑なものを感じ、斉倫はいやいやと首を振った。
 
「お佳穂は苦手じゃ。なんとなく母上に似ておるのでそういう気になれぬ」
「奥方様にですか」
「ああ。母上の若い頃はあんなふうではなかったかと。まあ、それはよい。そなたがその気ならば、私から母上に話をしてもいい」
「お清の中臈として奉公するのならば、それがしなど無理な話」

 又四郎はうつむいた。斉倫は呆れたとばかりの口調で言った。

「のう、分家の次男とはいえ、執政になる男に嫁がせたくないと思う親がおると思うか」
「なれど、御中臈は嫌がるのでは」
「そこを口説くのが、醍醐味ではないか。そなた、学問のことであれば、高輪でも日比谷でも、平気で参るくせに、女子のこととなると少々弱腰ではないか。そんなことではいつまでも独り身。好機を逃してはならぬぞ。今なら父上も江戸におるゆえ、話が進めやすかろう。父上が下野守様に話せばすぐに話はまとまる。下野守様の命なら国許の川村家老も承知する」
「若殿様……」

 又四郎は斉倫のお節介に困惑していた。斉倫はその様子に少々不安になったのか尋ねた。

「まさか、そなた、他に好いた女子でも」
「それはありません」

 又四郎はきっぱりと言った。斉倫はニヤリと笑った。やはりそういうことかと。

「では、明日上屋敷に参った折に母上に話してみよう」
「困ります、さようなことをされては」
「困るとは? そなた、嬉しそうに言うておったな。犬を背負って梯子を上る女子など初めて見たと。あの顔はどう見ても惚れた男の顔ぞ」

 又四郎は盃を取り落としてしまった。が、床に落ちる直前に斉倫の手がそれを拾った。元より中身は空になっている。そこに酒を注いで渡した。

「若殿様、それがしは、さようなつもりで話したわけでは」
「つもりはなくとも、思いは顔に出るもの。素直に認めたらどうだ」

 又四郎は盃の中身を飲み干した。江戸に出て以来親しくしている斉倫に嘘偽りは言えぬ。

「御明察の通りです」

 斉倫はうなずいた。なにごとも素直がよいのだ。

「ならば、早いほうがよかろう。もし、分家の斉陽が目を付けたらいかがする。あれは年下で武辺者だが、目の付け所は悪くないぞ」
「まさか」
「それに、奥の者の話では、淑の再婚相手にそなたの名を挙げている者がいるらしいぞ。淑だぞ、そなた、あれでいいのか。妹のことをこう言ってはなんだが、あれは暴れ馬ぞ。グズグズしていると、そなたは淑と縁組させられてしまうぞ。今の内に逃げねば」
「まことにございますか」
「まこともまこと。いいか、好機というのはそうそうあるものではない。今がその時と思ったらすぐにつかみ取らねば。お佳穂は少々堅い女子だが、そなたならきっとうまくいく」
「さようなことはわかりません」
「私が言うのだから、間違いない。男女のことなら、そなたよりずっと修練を積んでおるからな」

 斉倫はそう言うと銚子を取った。

「さあ、飲め。前祝いだ」

 又四郎の盃はみるみるうちに満たされてゆく。





 屋敷の玄関を出たところで梶田仁右衛門は何も言わずにずっしりと重い紙包みを渡した。

「かたじけない」

 又四郎に礼を言われて初めて仁右衛門は口を開いた。

「若殿様の命でございますから」
「来月は佐野が参りますので」
「畏まりました」

 門の外まで又四郎と供の佐野覚兵衛を見送った仁右衛門は不審を覚えた。

「佐野殿、気配が」
「うむ」

 佐野覚兵衛も感じていた。又四郎も少し酔っていたが、背中に刺さるような視線に気付いていた。
 誰かが自分達を見ていると。殺気ではないが、気分のいいものではない。酔いも醒めてくる。
 提灯を持った覚兵衛と二人、不快感を背中に浴びながら外桜田へと向かった。二人とも神田於玉ヶ池の北辰一刀流の道場玄武館で修業し免状を得ている身だから、いざ襲われれても対処する自信はあるが、ただ見られている感覚だけは相手にしようがなかった。いつもより足を速めてみたが、二人を追う者もまた同じ速度でついてくるようで、視線はずっと背中にまとわりついていた。
 分家の門の前まで来たところで、薄気味悪い感覚がすっと消えた。又四郎と覚兵衛はほぼ同時にほっと息をついた。尾行者は彼らを威嚇しつつ行先を確認しただけらしい。
 覚兵衛が門の横のくぐり戸を叩き又四郎様のお帰りと声を掛けると、戸が開き、そこから二人は屋敷に入った。
 その後、又四郎の住まいになっている部屋に戻るまで二人はほとんど口をきかなかった。
 部屋の障子を閉め、行灯に火を入れて初めて又四郎は口を開いた。

「明日は行かぬほうがよいかもしれぬな」
「十郎右衛門に行かせましょうか」
「いや、十郎右衛門はまずい。一番目を付けられているのだから」
「では明後日、それがしが」
「そうだな。あまり遅らせたくないからな」

 覚兵衛が部屋を出た後、又四郎は斉倫から渡された書物を開いた。オランダ語で書かれた兵法書だった。
 オランダ。現在唯一ヨーロッパの国で日本と貿易をしている国。日本は海外の情報をオランダ商館長から風説書という形で受け取っている。多くの蘭学者はオランダ語を学び、オランダの書を読む。
 だが、又四郎には腑に落ちなかった。なぜ、オランダ語なのか。
 出入りするさる大名家の関係者の屋敷で又四郎はヨーロッパの地図を見せられて驚愕した。なんと小さい国かと。一体オランダ語を話す者はヨーロッパにどれほどいるのかと。しかも一時的ではあるが、オランダという国はナポレオンというフランスの軍人に征服され消えていたこともあるのだと言う。
 果たしてオランダという国の言葉を学ぶだけでよいのだろうか。それだけで西欧の文明を知ることができるのであろうか。又四郎はそんな疑念をここ数年抱いている。
 ことに清がエゲレスという国と戦って敗れたと知った時、オランダ一辺倒ではまずいのではないかと思った。大国清を破ったエゲレスとはいかなる国かと見れば、オランダの向こう岸にある島国であった。島国ながら、海外に多くの植民地を持ち産業が発展し豊かな国であると言う。日本と同じ島国が! エゲレスはオランダより人口が多く、植民地があるため、エゲレス語を話す者が多いともいう。ならば、エゲレス語を学ぶほうが後々いいのではないか。又四郎はそう考えた。
 以来、言葉を学ぶために三十年ほど前に編纂された辞書を伝手を頼って借り書き写した。またエゲレスの言葉を知る幕府の役人にも会い教えを乞うた。
 オランダ語に興味がないわけではないが、以前より情熱は薄れていた。エゲレスへの興味のほうが勝っていた。
 それでも兵法書なら何かの役に立つかもしれぬ。兵法書の中には他国の軍備について書かれたものもあるのだ。
 又四郎は書をめくり始めた。





「お志麻、すまぬが今宵は少々飲み過ぎた」

 斉倫はそう言ってお志麻を部屋に帰した。お志麻は大人しく畏まりましたと戻って行った。
 いつもは寝所で共に過ごすのだが、今宵は飲み過ぎてしまった。
 お志麻は口にはしないが、酒臭いのが苦手のようだった。亡くなった父親が飲んだくれで母親やお志麻を困らせていたと人づてに耳にしているので、恐らくそのせいだろう。だから飲み過ぎた時はお志麻を抱かないようにしていた。
 本当はもっといつもそばにいてやりたかった。
 間もなく縁組が決まる。秋には祝言だろう。そうなると、お志麻と一緒に過ごす時間も減る。それまでは存分に愛してやりたかった。もし、それで子ができれば、お志麻の地位も安泰となろう。それくらいしか斉倫にできることはない。
 お志麻はまことに可愛い女だった。二人だけの時に町方らしい言葉遣いをしたり、甘えたりするお志麻はまことに愛らしくいじらしかった。
 いずれは正室が来ることはわかっているから我儘も言わずにいるが、どれほど気を落としていることか、時折寂しそうな顔を見せることがあった。幸い、出入りしている尼僧のおかげで心穏やかに過ごせているようだった。仁右衛門などは胡散臭い尼などと言うが、高いお布施を要求することもないから、今のところ害はないように思われた。この先、おかしなまじないなどをされたらその時は出入りを禁じねばならぬであろうが。
 縁組相手の姫君は二十ということだった。聡明で奥ゆかしいと留守居役の桂木が言っていたので、そうなのだろう。聡明な女性なら嫉妬深いことはあるまいと斉倫は考えている。お志麻とうまくやってくれるだろう。
 四つ(午後十時頃)、いつも通り床に就いた。
 明日は上屋敷に行き、父とまつりごとの話をし、母には又四郎の縁組の相談をしよう。きっと母上は驚くだろう。相手は淑ではなくあの中臈なのだから。
 顔をほころばせ、斉倫は目を閉じた。明日の日を夢見て。
 しばらくするといびきの音が寝所に響き始めた。




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