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事件
弐 取調
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お志麻の襲撃の七日前。
その日、梶田仁右衛門はお志麻の方の部屋に行き、近々、御前様が隠居されて奥方様、淑姫様とともに中屋敷に移るので、どうかいったん実家に立ち退いてもらえぬかと話に行った。
お志麻の方は写経をしていた最中だったらしく、部屋には墨の香りが漂っていた。
「若殿様はこちらには見えぬのですか」
「若殿様でございますか。分家の屋敷からそのまま上屋敷に入られますので、こちらにはお入りになられません」
お志麻の方はよくわかっていないらしいので、説明した。
「中屋敷は世継ぎと隠居の住まいです。ゆえに若殿様が家督を相続されれば、そのまま上屋敷に留まられます。今の御前様は隠居されて大殿様になられますので、こちらへおいでになるのです」
お志麻の方は血相を変えた。
「困る、それは」
「なぜに」
仁右衛門はお志麻が中屋敷にこだわる理由がいまだわからなかった。しかも隠居が来ると困ると言う。
「若殿様はこちらには見えぬのですか」
同じ問いに仁右衛門は首をひねった。よもや、お志麻は前の若殿様のことを言っているのではあるまいか。亡くなられた衝撃で、頭が混乱して、まだ生きておいでと思っているのかもしれない。
だが、小机の上には写経の途中の巻紙が載っている。若殿様が亡くなったことはわかっているということである。
「御方様、若殿様にいかなる御用があるのですか」
「それは……」
お志麻は言い淀んだ。がすぐに早口で言った。
「光信院様のところに若殿様がよくおいでになっていたので、一言御礼を申し上げたいと。私も同席してお話を伺っていましたので」
確かに生前の光信院の元には、分家の又四郎が時々立ち寄っていた。お志麻もその場にいたことがあった。
「ならば、お文を贈られては」
「じかに会ってお話ししたいのです。そうでなければここを出るわけには参りません」
前の世継ぎの御手付きの女性が今の世継ぎに会うとなると、周囲はおかしな憶測をするものである。
「それは無理です」
仁右衛門はそう言って、断ったのだった。
襲撃当日の昼過ぎ、仁右衛門はお志麻の家からの使いが来たと知らせを受けた。
中屋敷を取り仕切っているのは用人頭の村井権太夫だが、この時彼は蔵屋敷に所用で出かけていたので、仁右衛門が応対した。
お志麻の母親の使いというのは金三という四十ばかりの男だった。白髪交じりの町人髷を結った実直そうな男はおかみさんが今朝倒れたのでお嬢さんを迎えに参りましたと言った。見れば駕籠まで門前に用意させている。
仁右衛門は奥に連絡を入れ、お志麻に金三を知っているかと確認させた。すると、知っている、義父の家の下男だとすぐに返答が来た。
金三の言葉を伝えるとすぐに参りますという返答があった。一晩だけ実家に泊まってよいと許しを出し、同行する小姓のおみちとともに奥の門を駕籠で出たのは八つ(午後二時頃)過ぎだった。
仁右衛門としては、母の病を理由にこのまま中屋敷に戻らねばそれでもいいと思っていた。
夕刻村井権太夫が戻って来たので、この件を報告すると、村井もまた、このまま帰って来なくともよいであろうと言った。その時は奥にある荷物をまとめて実家に送り返し、後日慰労の金品を贈ればよかろうという話にもなった。
その後、仁右衛門は上屋敷に行き、宴席に出た後中屋敷に戻った。そこで上屋敷でのお志麻の一件を知らされ、慌てて上屋敷に再び向かったのだった。
すぐに吉井は仁右衛門から以上の話を聞き出した。
「つまり、行き先はお志麻の実家だと思って小姓一人を付けただけで、町駕籠で出したと言うか」
吉井の声は抑揚はないが、十分に怒りを感じさせた。
「乗り物で行けば、近所の者がが見て騒ぎになるからと言われまして。あまり大ごとにしたくないと」
「それで警護の者も付けなんだか」
「まことに申し訳ございません」
仁右衛門は平身低頭するしかなかった。
「評定の沙汰があるまで中屋敷にて謹慎を申付ける」
翌朝早く、仁右衛門は目付の部下とともに中屋敷に戻らされると自室に謹慎となった。部下は他の中屋敷の者から金三の人相を聞き出し、お志麻の部屋を捜索し、数通の文を押収した。
一方、別の部下は実家に行きお志麻が帰宅していないこと、母親が元気なことを確認した。また下男の金三という男は存在するものの、腰の曲がった老人で中屋敷に来た男とは別人であったことが判明した。
つまり、お志麻は偽の呼出しで中屋敷を出て、いかなる手段を使ったか上屋敷に入って中奥で若殿様を待ち伏せし命を狙ったということになる。
吉井の部下らは金三の正体と駕籠と小姓のおみちの行方を調べるため、市中に散った。
梶田仁右衛門以外の者も吉井は取り調べた。
益永寅左衛門は呼ばれるまで騒動に気付かなかったらしく、寝ぼけ顔で吉井の前に出て来た。だが、さすがにお志麻が若殿を襲ったと聞かされると、真っ青になった。
「して、そなたらは、お志麻を若殿の寝所に送ろうなどと考えていたのではないか」
「滅相も……」
言いかけて、寅左衛門は分家でも目付の吉井の名が恐怖の表情でささやかれていたことを思い出した。下手に隠し事をしてもすぐに見破られる。
「実は、それに近いことを考えたことはあります。サプライズということで」
「さぷらいずとは何だ。阿蘭陀の言葉か」
「英吉利語です。驚かせる贈り物です」
「贈り物というものは驚かせる物ではなかろう」
吉井にとって、いや当時の普通の日本人にとっては贈り物というのは、定番の物を贈るのが常識である。たとえば歳暮に干鯛を贈るのは武家の常識である。常識通りの物が贈られるから、お返しも常識通りにできる。
それなのに、若殿様を驚かせる贈り物とは、吉井の常識にはない考え方だった。
「はあ。ですが、若殿様は分家においでの頃からそのような贈り物を好まれておいででしたので」
「だからといって、女子を贈られて喜ぶと思っているのか。この、たわけが」
吉井もさすがに呆れた。益永寅左衛門は若殿様同様蘭学を嗜んでいるというのに、浅はかとしか言うしかない。それとも蘭学を学ぶとかように軽薄になるのか、だとすれば百害あって一利なしだと吉井は不安を覚えた。
「仰せの通りでございます。なれど、若殿様は分家では部屋住みで食事だけでなく小遣いも少なく。まるで子どもの小遣いのような額で。それで時折阿蘭陀の書物などを書き写す仕事等をしておいででしたが、その少ない謝礼も書物に消える始末。当然のことながら、女子のいるところへ足を向けたこともありません。若殿様は女子に不慣れなのです。ここは一つ、若殿様を助けるということで、一晩手ほどきをしてもらえばと。お志麻の方とは顔見知りでございますし」
忠義というにはあまりに情けなかった。
「して、なぜ考えただけで終わったのだ」
「佐野と田原に、どうやってするつもりだと言われまして。身内が病だとか言えば中屋敷の奥から出すのはたやすいでしょうが、上屋敷の中奥にどうやって入れるのかと」
吉井ははっとした。
「その話をしたのは佐野と田原だけか」
「はい。よくよく考えれば、若殿様はお佳穂の方様にすっかり熱を上げておいでですし。それがしらも本家に参ってから忙しくなりましたので、それどころではなく」
佐野覚兵衛と田原十郎左衛門もそれぞれ同じような内容のことを語った。
彼らの行動、特にこの数日の上屋敷の出入りを調べたが、特に怪しいこともなかった。
田原に関しては父親が蘭方医なので、お尋ね者の長岡英仙との関わりがありはしまいかと分家にいる頃から吉井は調べていた。が、彼単独での外出先は実家か蘭学者の中田英春宅かで、怪しいところはなかった。
佐野の外出先については単独の場合は神田於玉ヶ池の玄武館か神田小川町の長屋に住む友人宅、たまに品川ということでやはり不審はなかった。品川への行きがてらに病の友人のいる長屋に寄ることもあったが、取り立てて怪しい動きはなかった。
昨日は分家からお呼びがあったということで午後出かけたが夕刻には戻り宴に出ている。佐野の実家は支藩にあり、分家の殿様が一時期そちらの養子であったこともあるので殿様から用事を託されることもあるのである。昨日は月影領から届いた漬物を分けるからということで呼ばれている。恐らく、殿様はついでに若殿の様子を聞いたのであろうと吉井は思っている。斉理は息子が本家の世継ぎになったということで、影響力を及ぼしたいのであろうが、けじめというものがある。吉井はその点で分家の殿を警戒している。分家はあくまでも本家を支えるもので、分家を本家が支えるというのはおかしな話なのである。吉井個人としては分家はいらぬと思っている。さすがにそれを口にすることはないが。
三人については直接の罪はないが、誤解のないように振る舞えと言って調べを終えた。ただし、それぞれ横目に監視をするように極秘に命じた。横目とは同じ職務に就いている者を監視する役目の者で、吉井自身の部下ではないが、目付の命令があれば同僚の監視をし報告することになっている。要するに密告担当である。
お志麻の調べは昨夜の事件直後から奥の者の協力を得て行った。夜中にもかかわらず中年寄の松村が調べ座敷に同席した。また早朝になると別式女の堀江麻乃も立ち会った。吉井はその厳めしい顔ゆえ、女子の調べには向かぬと自分でもわかっていたので、五十過ぎた穏やかな顔の書院番の工藤という男に任せた。穏やかな表情ゆえに、取り調べを受けた者は言わずともよいことまで自白してしまうという噂のある男だった。
梶田仁右衛門の話から判明したのは、お志麻は少なくとも七日前までは、若殿又四郎に会うために、中屋敷を出るつもりがなかったということである。無論、礼を言いたいというのは表向きのことで、実際は又四郎を光信院の仇と思い込み、仇を討とうと思っていたに違いなかった。だが、仁右衛門から又四郎が中屋敷に来ないことを知らされ、それ以後に上屋敷に行くことを考えたのだろう。
問題はその七日の間にお志麻が金三(もしくは金三の関係者)とどうやって連絡を取り合ったかである。文のやり取りは実家としかしていないのである。
だが、工藤の調べと中屋敷の捜索で見つかった文でその手段が判明した。
「そうかい、そりゃつらかっただろうね」
工藤はお志麻の話を聞きながらうなずいた。お志麻は目を潤ませていた。
最初は半狂乱で手に負えなかったお志麻だが、調べ座敷に上がり、工藤が黙って話を聞くと、次第に落ち着いてきて話をするようになったのである。
「あんまりです。あんな立派な若殿様がお亡くなりになって、又四郎のような者が御世継だなんて。あの男は若殿様を殺したのです。豚肉に毒を入れて」
「豚に毒とは恐ろしいことだねえ」
「ええ。伶観様が教えてくださらねば、わらわも騙されるところでした」
「れいかん様とは」
「立派な尼様です」
「ほお」
「顔の相を見て何でも言い当てられるのです。わらわの親のことも何もかも」
工藤は内心、それなら若殿様の死も当てたであろうにと思う。恐らく尼はお志麻の境遇を調べた上で近づいたに違いなかった。貴人に取り入る者というのはいつの世もいるのである。
「ほお、凄いのう」
「わらわの母が再婚した相手のことも妹や弟がいることも全部言い当てました。あの世で若殿様が苦しんでおいでだとも。仇を討ってもらいたいとおっしゃっていることも。そうだ、お願いします。又四郎を討たせてくださいませ」
そばで聞いていた堀江麻乃は正気の沙汰ではないと思った。現世のことがわかるからと言ってあの世のことがわかるとは限るまいに、かようにいい加減な尼のことを信じてしまうとは。やはり武芸の心得もない町方の者は心根が弱いのであろう。心の弱さを見透かされて騙されたに違いない。
「まあ、その件は待ってくれぬか。それがしの一存では決められぬゆえ」
「そんな、御無体な」
お志麻はさめざめと泣き出した。なんとか治まった頃合いを見て、工藤は尋ねた。
「伶観様が金三をよこしたのかい」
「金三……はい。実家の下男の金三と同じ名の者を迎えによこすゆえ、ついて行けばよいと。伶観様はわらわの実家の下男の名までご存知なのです」
そんなもの、調べればすぐわかると堀江麻乃は思う。
「ところで、どこを通って上屋敷に来たんだね」
お志麻は思い出し思い出し、ゆっくりと話した。
「わかりません。駕籠から外が見えなかったのです。外が見えないように内側に布が貼ってありました。途中でどこかの町家に寄りました。そこでおみちと食事をした後、目隠しをされて、別の駕籠、いえたぶん乗り物に乗り替えました。駕籠と比べて揺れが少なかったので」
「時の鐘の音はしなかったかい」
「七つの鐘の音は聞いたような気がします」
「その乗り物をどこで降りたんだい」
「わかりません。ずっと目隠しをされていました。乗り物を下りるのも誰かの手を借りて。話をするなと言われてずっと手を引かれて歩いているうちにあの部屋に来てました。座らされて目隠しを外されて、驚いて目を開けたら目の前に床が敷いてあって」
「目隠しを外した人はどうしたんだ」
「そういえばどうしたんでしょう。気が付いたら誰もいなくて、ただ行灯の光だけで。そしたら足音がして又四郎が入って来たんです」
お志麻はまたも泣き出した。
「ああ、口惜しい。なぜ、あの時、殺せなんだか」
こうやって取り調べ中に急に泣き出すので、なかなか終わらなかった。
小姓のおみちについて聞いても、どこでいなくなったかわからない、どうしようとまたも泣き出してしまった。
夜中から立ち会っていた松村は五つ(午前八時)前に気分が悪くなったと言って、奥に戻った。
結局、四つ(午前十時頃)過ぎまでかかって調べは終わった。さすがの工藤も疲れていたが、小姓のおみちのことがあるから一休みしてもいられない。
吉井采女に報告に上がり、おみちの探索を最優先にと訴えた。尼伶観の件は調べの途中で吉井の部下に至急探索をするようにと伝えているので、すでに広尾村に調べの者が向かっているはずである。
報告の途中で、留守居役の桂木が入って来た。
「先ほど、分家から今朝早く本家の奥女中が屋敷の前にいたのでお預かりしていると知らせがありました。年の頃は十五、六でおみちと名乗っておりますので、例の行方のわからぬ中屋敷のおみちかと」
工藤も吉井もこの日初めて安堵の息をついた。
その日、梶田仁右衛門はお志麻の方の部屋に行き、近々、御前様が隠居されて奥方様、淑姫様とともに中屋敷に移るので、どうかいったん実家に立ち退いてもらえぬかと話に行った。
お志麻の方は写経をしていた最中だったらしく、部屋には墨の香りが漂っていた。
「若殿様はこちらには見えぬのですか」
「若殿様でございますか。分家の屋敷からそのまま上屋敷に入られますので、こちらにはお入りになられません」
お志麻の方はよくわかっていないらしいので、説明した。
「中屋敷は世継ぎと隠居の住まいです。ゆえに若殿様が家督を相続されれば、そのまま上屋敷に留まられます。今の御前様は隠居されて大殿様になられますので、こちらへおいでになるのです」
お志麻の方は血相を変えた。
「困る、それは」
「なぜに」
仁右衛門はお志麻が中屋敷にこだわる理由がいまだわからなかった。しかも隠居が来ると困ると言う。
「若殿様はこちらには見えぬのですか」
同じ問いに仁右衛門は首をひねった。よもや、お志麻は前の若殿様のことを言っているのではあるまいか。亡くなられた衝撃で、頭が混乱して、まだ生きておいでと思っているのかもしれない。
だが、小机の上には写経の途中の巻紙が載っている。若殿様が亡くなったことはわかっているということである。
「御方様、若殿様にいかなる御用があるのですか」
「それは……」
お志麻は言い淀んだ。がすぐに早口で言った。
「光信院様のところに若殿様がよくおいでになっていたので、一言御礼を申し上げたいと。私も同席してお話を伺っていましたので」
確かに生前の光信院の元には、分家の又四郎が時々立ち寄っていた。お志麻もその場にいたことがあった。
「ならば、お文を贈られては」
「じかに会ってお話ししたいのです。そうでなければここを出るわけには参りません」
前の世継ぎの御手付きの女性が今の世継ぎに会うとなると、周囲はおかしな憶測をするものである。
「それは無理です」
仁右衛門はそう言って、断ったのだった。
襲撃当日の昼過ぎ、仁右衛門はお志麻の家からの使いが来たと知らせを受けた。
中屋敷を取り仕切っているのは用人頭の村井権太夫だが、この時彼は蔵屋敷に所用で出かけていたので、仁右衛門が応対した。
お志麻の母親の使いというのは金三という四十ばかりの男だった。白髪交じりの町人髷を結った実直そうな男はおかみさんが今朝倒れたのでお嬢さんを迎えに参りましたと言った。見れば駕籠まで門前に用意させている。
仁右衛門は奥に連絡を入れ、お志麻に金三を知っているかと確認させた。すると、知っている、義父の家の下男だとすぐに返答が来た。
金三の言葉を伝えるとすぐに参りますという返答があった。一晩だけ実家に泊まってよいと許しを出し、同行する小姓のおみちとともに奥の門を駕籠で出たのは八つ(午後二時頃)過ぎだった。
仁右衛門としては、母の病を理由にこのまま中屋敷に戻らねばそれでもいいと思っていた。
夕刻村井権太夫が戻って来たので、この件を報告すると、村井もまた、このまま帰って来なくともよいであろうと言った。その時は奥にある荷物をまとめて実家に送り返し、後日慰労の金品を贈ればよかろうという話にもなった。
その後、仁右衛門は上屋敷に行き、宴席に出た後中屋敷に戻った。そこで上屋敷でのお志麻の一件を知らされ、慌てて上屋敷に再び向かったのだった。
すぐに吉井は仁右衛門から以上の話を聞き出した。
「つまり、行き先はお志麻の実家だと思って小姓一人を付けただけで、町駕籠で出したと言うか」
吉井の声は抑揚はないが、十分に怒りを感じさせた。
「乗り物で行けば、近所の者がが見て騒ぎになるからと言われまして。あまり大ごとにしたくないと」
「それで警護の者も付けなんだか」
「まことに申し訳ございません」
仁右衛門は平身低頭するしかなかった。
「評定の沙汰があるまで中屋敷にて謹慎を申付ける」
翌朝早く、仁右衛門は目付の部下とともに中屋敷に戻らされると自室に謹慎となった。部下は他の中屋敷の者から金三の人相を聞き出し、お志麻の部屋を捜索し、数通の文を押収した。
一方、別の部下は実家に行きお志麻が帰宅していないこと、母親が元気なことを確認した。また下男の金三という男は存在するものの、腰の曲がった老人で中屋敷に来た男とは別人であったことが判明した。
つまり、お志麻は偽の呼出しで中屋敷を出て、いかなる手段を使ったか上屋敷に入って中奥で若殿様を待ち伏せし命を狙ったということになる。
吉井の部下らは金三の正体と駕籠と小姓のおみちの行方を調べるため、市中に散った。
梶田仁右衛門以外の者も吉井は取り調べた。
益永寅左衛門は呼ばれるまで騒動に気付かなかったらしく、寝ぼけ顔で吉井の前に出て来た。だが、さすがにお志麻が若殿を襲ったと聞かされると、真っ青になった。
「して、そなたらは、お志麻を若殿の寝所に送ろうなどと考えていたのではないか」
「滅相も……」
言いかけて、寅左衛門は分家でも目付の吉井の名が恐怖の表情でささやかれていたことを思い出した。下手に隠し事をしてもすぐに見破られる。
「実は、それに近いことを考えたことはあります。サプライズということで」
「さぷらいずとは何だ。阿蘭陀の言葉か」
「英吉利語です。驚かせる贈り物です」
「贈り物というものは驚かせる物ではなかろう」
吉井にとって、いや当時の普通の日本人にとっては贈り物というのは、定番の物を贈るのが常識である。たとえば歳暮に干鯛を贈るのは武家の常識である。常識通りの物が贈られるから、お返しも常識通りにできる。
それなのに、若殿様を驚かせる贈り物とは、吉井の常識にはない考え方だった。
「はあ。ですが、若殿様は分家においでの頃からそのような贈り物を好まれておいででしたので」
「だからといって、女子を贈られて喜ぶと思っているのか。この、たわけが」
吉井もさすがに呆れた。益永寅左衛門は若殿様同様蘭学を嗜んでいるというのに、浅はかとしか言うしかない。それとも蘭学を学ぶとかように軽薄になるのか、だとすれば百害あって一利なしだと吉井は不安を覚えた。
「仰せの通りでございます。なれど、若殿様は分家では部屋住みで食事だけでなく小遣いも少なく。まるで子どもの小遣いのような額で。それで時折阿蘭陀の書物などを書き写す仕事等をしておいででしたが、その少ない謝礼も書物に消える始末。当然のことながら、女子のいるところへ足を向けたこともありません。若殿様は女子に不慣れなのです。ここは一つ、若殿様を助けるということで、一晩手ほどきをしてもらえばと。お志麻の方とは顔見知りでございますし」
忠義というにはあまりに情けなかった。
「して、なぜ考えただけで終わったのだ」
「佐野と田原に、どうやってするつもりだと言われまして。身内が病だとか言えば中屋敷の奥から出すのはたやすいでしょうが、上屋敷の中奥にどうやって入れるのかと」
吉井ははっとした。
「その話をしたのは佐野と田原だけか」
「はい。よくよく考えれば、若殿様はお佳穂の方様にすっかり熱を上げておいでですし。それがしらも本家に参ってから忙しくなりましたので、それどころではなく」
佐野覚兵衛と田原十郎左衛門もそれぞれ同じような内容のことを語った。
彼らの行動、特にこの数日の上屋敷の出入りを調べたが、特に怪しいこともなかった。
田原に関しては父親が蘭方医なので、お尋ね者の長岡英仙との関わりがありはしまいかと分家にいる頃から吉井は調べていた。が、彼単独での外出先は実家か蘭学者の中田英春宅かで、怪しいところはなかった。
佐野の外出先については単独の場合は神田於玉ヶ池の玄武館か神田小川町の長屋に住む友人宅、たまに品川ということでやはり不審はなかった。品川への行きがてらに病の友人のいる長屋に寄ることもあったが、取り立てて怪しい動きはなかった。
昨日は分家からお呼びがあったということで午後出かけたが夕刻には戻り宴に出ている。佐野の実家は支藩にあり、分家の殿様が一時期そちらの養子であったこともあるので殿様から用事を託されることもあるのである。昨日は月影領から届いた漬物を分けるからということで呼ばれている。恐らく、殿様はついでに若殿の様子を聞いたのであろうと吉井は思っている。斉理は息子が本家の世継ぎになったということで、影響力を及ぼしたいのであろうが、けじめというものがある。吉井はその点で分家の殿を警戒している。分家はあくまでも本家を支えるもので、分家を本家が支えるというのはおかしな話なのである。吉井個人としては分家はいらぬと思っている。さすがにそれを口にすることはないが。
三人については直接の罪はないが、誤解のないように振る舞えと言って調べを終えた。ただし、それぞれ横目に監視をするように極秘に命じた。横目とは同じ職務に就いている者を監視する役目の者で、吉井自身の部下ではないが、目付の命令があれば同僚の監視をし報告することになっている。要するに密告担当である。
お志麻の調べは昨夜の事件直後から奥の者の協力を得て行った。夜中にもかかわらず中年寄の松村が調べ座敷に同席した。また早朝になると別式女の堀江麻乃も立ち会った。吉井はその厳めしい顔ゆえ、女子の調べには向かぬと自分でもわかっていたので、五十過ぎた穏やかな顔の書院番の工藤という男に任せた。穏やかな表情ゆえに、取り調べを受けた者は言わずともよいことまで自白してしまうという噂のある男だった。
梶田仁右衛門の話から判明したのは、お志麻は少なくとも七日前までは、若殿又四郎に会うために、中屋敷を出るつもりがなかったということである。無論、礼を言いたいというのは表向きのことで、実際は又四郎を光信院の仇と思い込み、仇を討とうと思っていたに違いなかった。だが、仁右衛門から又四郎が中屋敷に来ないことを知らされ、それ以後に上屋敷に行くことを考えたのだろう。
問題はその七日の間にお志麻が金三(もしくは金三の関係者)とどうやって連絡を取り合ったかである。文のやり取りは実家としかしていないのである。
だが、工藤の調べと中屋敷の捜索で見つかった文でその手段が判明した。
「そうかい、そりゃつらかっただろうね」
工藤はお志麻の話を聞きながらうなずいた。お志麻は目を潤ませていた。
最初は半狂乱で手に負えなかったお志麻だが、調べ座敷に上がり、工藤が黙って話を聞くと、次第に落ち着いてきて話をするようになったのである。
「あんまりです。あんな立派な若殿様がお亡くなりになって、又四郎のような者が御世継だなんて。あの男は若殿様を殺したのです。豚肉に毒を入れて」
「豚に毒とは恐ろしいことだねえ」
「ええ。伶観様が教えてくださらねば、わらわも騙されるところでした」
「れいかん様とは」
「立派な尼様です」
「ほお」
「顔の相を見て何でも言い当てられるのです。わらわの親のことも何もかも」
工藤は内心、それなら若殿様の死も当てたであろうにと思う。恐らく尼はお志麻の境遇を調べた上で近づいたに違いなかった。貴人に取り入る者というのはいつの世もいるのである。
「ほお、凄いのう」
「わらわの母が再婚した相手のことも妹や弟がいることも全部言い当てました。あの世で若殿様が苦しんでおいでだとも。仇を討ってもらいたいとおっしゃっていることも。そうだ、お願いします。又四郎を討たせてくださいませ」
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「まあ、その件は待ってくれぬか。それがしの一存では決められぬゆえ」
「そんな、御無体な」
お志麻はさめざめと泣き出した。なんとか治まった頃合いを見て、工藤は尋ねた。
「伶観様が金三をよこしたのかい」
「金三……はい。実家の下男の金三と同じ名の者を迎えによこすゆえ、ついて行けばよいと。伶観様はわらわの実家の下男の名までご存知なのです」
そんなもの、調べればすぐわかると堀江麻乃は思う。
「ところで、どこを通って上屋敷に来たんだね」
お志麻は思い出し思い出し、ゆっくりと話した。
「わかりません。駕籠から外が見えなかったのです。外が見えないように内側に布が貼ってありました。途中でどこかの町家に寄りました。そこでおみちと食事をした後、目隠しをされて、別の駕籠、いえたぶん乗り物に乗り替えました。駕籠と比べて揺れが少なかったので」
「時の鐘の音はしなかったかい」
「七つの鐘の音は聞いたような気がします」
「その乗り物をどこで降りたんだい」
「わかりません。ずっと目隠しをされていました。乗り物を下りるのも誰かの手を借りて。話をするなと言われてずっと手を引かれて歩いているうちにあの部屋に来てました。座らされて目隠しを外されて、驚いて目を開けたら目の前に床が敷いてあって」
「目隠しを外した人はどうしたんだ」
「そういえばどうしたんでしょう。気が付いたら誰もいなくて、ただ行灯の光だけで。そしたら足音がして又四郎が入って来たんです」
お志麻はまたも泣き出した。
「ああ、口惜しい。なぜ、あの時、殺せなんだか」
こうやって取り調べ中に急に泣き出すので、なかなか終わらなかった。
小姓のおみちについて聞いても、どこでいなくなったかわからない、どうしようとまたも泣き出してしまった。
夜中から立ち会っていた松村は五つ(午前八時)前に気分が悪くなったと言って、奥に戻った。
結局、四つ(午前十時頃)過ぎまでかかって調べは終わった。さすがの工藤も疲れていたが、小姓のおみちのことがあるから一休みしてもいられない。
吉井采女に報告に上がり、おみちの探索を最優先にと訴えた。尼伶観の件は調べの途中で吉井の部下に至急探索をするようにと伝えているので、すでに広尾村に調べの者が向かっているはずである。
報告の途中で、留守居役の桂木が入って来た。
「先ほど、分家から今朝早く本家の奥女中が屋敷の前にいたのでお預かりしていると知らせがありました。年の頃は十五、六でおみちと名乗っておりますので、例の行方のわからぬ中屋敷のおみちかと」
工藤も吉井もこの日初めて安堵の息をついた。
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歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
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