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事件
漆 ホーム
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佳穂の脳裏をよぎったのは叔母だった。叔母のまとう甘い香りはこの袱紗から漂う香りと似ている。
「心当たりがあるのか」
「勘違いかもしれません」
だが、例の薬の一件もある。
「ここでは」
目付の配下のいる場所では話せないことだった。彼らが信用できないわけではないが、重大なことをここで言うわけにはいかなかった。
それは又四郎も気付いたようであった。
又四郎は配下達に礼を言い、吉井に中奥に来るように伝えてくれと命じ部屋を出た。
手燭を持った小姓に先導され再び中奥へ戻った。今度は食事の間ではなく、又四郎の私室に入った。
「よろしいのですか」
中臈が中奥の小座敷以外の殿や若殿の私室に入ることなどない。
「よろしいも何も、ここが一番いい」
小姓は部屋の行灯を灯すと出て行き、二人きりになった。
「まあ」
灯りに照らされた部屋の壁の前には書物が山のように積まれていた。
「部屋住みの頃から集めた書だ。漢訳の洋書が多いな」
「英吉利の言葉もこれで勉強されたのですか」
「さる方から辞書を書写させていただいた。家中の中には独自に通詞を置いているところもあるのだ」
「つうじとは何でしょうか」
「外国の言葉を日の本の言葉に言い換える者だ。阿蘭陀だけでなく清の言葉も朝鮮の言葉もだ。その方々からも教わった」
又四郎は山の中から一冊取り出した。
「これは私が書写したもの。英吉利語と本邦の言葉を対比してある。これを読んで学ぶとよい。私はこの分は覚えておるゆえ、すぐに返さずともよい」
驚く佳穂の手に又四郎は書を渡した。
「よろしいのですか」
「よい。次に会う時はどれくらい覚えたか確かめよう」
「まあ、さような」
殿様から櫛を贈られた奥女中はいても、このようなものを贈られた者はいないだろう。だが、佳穂は櫛よりも又四郎らしいと思い、嬉しかった。
「かたじけないことでございます」
「大したことではない。これは英吉利語の勉強をしたいと言うたら、さる御家中の若殿様が貸してくださった書物の写しでな。若殿様は海外のことをあれこれ学んで、家を継がれる日を待っておられるのだが、父上がなかなか隠居されず、家臣もまた、蘭癖の若君は金使いが荒いと申して他の弟君を推している。私が先に家督を相続することになり、まことにに申し訳ないと思っておるのだが」
何やら若殿様同士もいろいろな交友関係があるらしかった。
「私も家督を相続したら、このような勉強にばかり銭を使うわけにはいかぬ。だが、家臣に学ばせることはできる。手始めにお佳穂にもやってもらいたいのだ」
「私などにできましょうか」
買いかぶられても困ると佳穂は思う。
「英吉利では子どもも英吉利語を話すのだ。お佳穂にできぬわけはあるまい」
そう言うけれど、逆に日本の子どもが話すからといって、すぐに英吉利人が日本の言葉を話せるようになるとは思えない。つまりはそう簡単にできるとは思えなかったのである。
「その御家中の若殿様もお話しになるのですか」
「少しな。その方のひいおじい様という方は清や阿蘭陀の言葉を話せたそうだ」
佳穂はそれを聞き、さる御家中がどこかわかってしまった。江戸に出る前に、父が話していたことがあった。昨年亡くなった十一代将軍の大御台所様の御実家ではないか。
「よもや、それは高輪の下馬将軍と言われた御方の」
「そうだ」
又四郎がそのような大藩の若殿様と親しく交際していたとは意外だった。
「気前のよい方でな。カステイラもいただいたことがある」
「光信院様のところへ持って行った豚の肉もでございますか」
「ああ。たくさんいただいても食べきれぬゆえ。あの方は、私が痩せているのでたくさん食わせねばと思っておいでのようだが、腹八分目がちょうどよいので食べぬだけなのだが。今度お会いしたら、お断りせねばな」
「その必要はないかと。淑姫様が」
又四郎はぷっと吹き出した。
「そうだな。ももんじ屋の件、漏れ聞いたが、山鯨より豚のほうが臭みがないゆえ、きっと気に入るだろう。お佳穂、そなたにもな」
淑姫のももんじ屋の件は表にも知られているようだった。淑姫が直接言う必要はないようである。そう思った佳穂ははっとした。淑姫様は高輪のことをご存知だった。一体なぜご存知だったのだろうか。奥では誰も又四郎が高輪に行ったことがあるなどとは話していないはずなのに。
「お佳穂、いかがした」
「いえ、私は遠慮させていただきます」
「そうか。それは残念。ところで、先ほどの件だが」
そうだった。あの香りの持ち主のことであった。話せばどういうことになるか、佳穂にも想像がつく。もし、佳穂の思う通り叔母の香りなら、叔母も又四郎襲撃の一件に関わっているということになる。つまり、佳穂もまた叔母に連座するということだ。
けれど、又四郎に嘘はつけない。偽ったまま仕えるのは不実なことだった。
佳穂はこれまで誠心誠意I奥方様や淑姫に仕えてきた。同じように又四郎に仕えるのは当然のこと。たとえ奥女中として尊敬する叔母のことであっても、話さないのは家臣として許されないことだった。
佳穂は姿勢を正し、正面に座る又四郎を見つめた。
「畏れながら、あの香りは叔母の川村がいつも焚き染めているものと同じ香り。叔母は御客応答をしておりますゆえ、奥方様とも目通りができます」
又四郎は何も言わず、両手を胸の前で組んだ。
「そういうことか。ならば合点がいく。分家の奥に私は行くことはなかったが、広敷の役人が川村から何か品を下された際に香りがついて、それを何かの折に私がかいだのかもしれぬ」
「いかなるわけで袱紗に香りが沁みたのかわかりませんが、叔母が関わっていたのではないかと」
そう口にした後で胸がきりりと痛むような心地がした。癪など持っていないのに。
「まだそうと限ったことではあるまい」
又四郎の言うように推測でしかない。だが、疑いが出ること自体、問題なのだ。すでにお園は兄が故意ではないのに、一件に関わっていたということで謹慎となっている。佳穂もまた謹慎になってもおかしくないのだ。
「同じ香りを使う者もおるかもしれぬ。香りだけでは確かな証拠にはならぬ。ゆえに、この香りの件は誰にも言わずともよい」
「え、そんな」
目付にも鳴滝にも言うなということであろうか。
「なれど、叔母が関わっていたとすれば、私はおそばにいるわけには参りません」
そう言った途端に、前にいる又四郎が佳穂に近づき、両の腕でがしっと抱き寄せられた。汗のにおいと鬢付け油の香りが佳穂を包んだ。癪のような胸の痛みが薄らいだように感じられた。
「叔母は叔母、お佳穂はお佳穂。別の者だ」
「若殿様……」
「さっきも申したようにそなたとは家族になるのだ。家族となってホームを作るのだ。叔母のことなど気にしてはならぬ」
「ほおむ」
これも英吉利語だろうか。
「夫と妻と子どもが一緒に仲良く暮らす家のことだ。食事を一緒にし、一緒に眠る」
またも危ない発言だった。大名にはありえぬ暮らしだった。
「私はずっと一人だった。母を失い、故郷を離れ、江戸に出て父上と一緒に暮らせると思っていたが、父にはめったに会えなかった。だから、私はホームという英吉利の言葉を知った時、必ず我が手でホームを作ろうと思ったのだ」
「なれど、叔母が」
「それは関係なかろう。私は川村家の娘ではなく、お佳穂と家族になってホームを作りたいのだ」
佳穂にとってそれは理解を超越した言葉だった。自分は川村三右衛門の娘であり、叔母川村の姪なのだ。一人の独立した人間ではない。それは又四郎も同様のはずである。
「わかりません」
「何がだ」
「私は川村家の娘です。それをまるで川村と関わりがないかのように」
又四郎はため息をついた。
「そなたはまことに真面目だな。そなたのよいところだが、それだけでは人は幸せになれぬのだぞ」
わけがわからなかった。真面目だけでは幸せになれぬとはどういう意味なのか。
佳穂の疑問に答えるかのように、又四郎は続けた。
「真面目に生きるのは悪いことではない。けれど、それは誰のためなのだ。御家のためであろう。そなた自身のためではあるまい」
「御家のためにというのは当たり前のことでは」
「当たり前が当たり前ではない世もある。日の本の当たり前が別の国では当たり前ではないこともあるのだ」
佳穂は前に又四郎が言ったことを思い出した。
「何も他の国がすべて優れているということではない。他の国の中には乱暴な考えを持つ国もあるのだ。だが、日の本が真似してもよい考えもある。御家のためではない己自身の幸せを追うという生き方があるのだ。私はそれを知った時、少しだけ息をするのが楽になった。部屋住みの身であっても、ささやかな幸せを求めようと思い生きてきた。本家の世継ぎの身となった今は己自身よりも御家を大切にしなければならぬというのは致し方ない、だが、それでも、私は己の幸せも欲しい。それがそなたとホームを作ることなのだ」
欲張りだと佳穂は思った。けれど、母を失い、江戸で父にめったに会えず、部屋住みとして生きていた又四郎が「ほおむ」というものを求める気持ちはわかった。佳穂もまた国許で父や継母、兄、異母弟、異母妹と暮らしていても、どこか居心地がよくなかった。ここは自分がいるべき場所ではないように感じていた。もし、「ほおむ」という物を作ることができたら、どんなにか幸せなことかと思う。
ただ、又四郎と一緒に「ほおむ」を作るのが、果たして佳穂でいいのか。どこぞの姫様を奥方に迎えて作るべきではないのか。
「私などでよいのでしょうか」
「良いに決まっている。ホームという言葉を知った時に浮かんだのは、そなたと暮らす家だったのだ」
またも思いも寄らぬことだった。
「そなたとホームを作るためなら、なんでもしようと私は思ったのだ」
佳穂は混乱した。危うい「ほおむ」という物を佳穂と作るために、なんでもしようと思ったということは、佳穂こそが危険の根源ではないのか。己がいることが、危険なのではないか。
癪のような痛みが胸をしめつけた。
けれど、又四郎の両腕も佳穂の身体を締め付けた。
「えっ」
又四郎の唇が佳穂の唇に当たった。そして唇をこじ開けようとする。
ここは寝所ではないのに。なんと、危ういことを。
けれど、佳穂は又四郎の唇に抗えなかった。抱き締める手が身八ツ口から小袖の下に入り、身体を襦袢の上から撫でていた。その感触は佳穂を動けなくしてしまう。
一体どれくらいの間、又四郎の舌が佳穂の口の中にあったのかわからぬほど、佳穂は又四郎の指と手の与える熱を感じていた。
「吉井ですが、よろしいでしょうか」
その声で又四郎はやっと佳穂を解放した。佳穂は放心状態で、そこに座っているのがやっとだった。
「しばし待て」
襖の向こうに声をかけた又四郎は懐紙を出して、佳穂の唇のまわりを拭いた。
「申し訳ありません」
「いや、私のせいだ」
佳穂は少しだけ乱れた着衣を直し、姿勢を正した。
「入れ」
吉井采女は厳しい顔つきであったが、佳穂を見てわずかに微笑んだ。何をしていたか、この人にはお見通しかもしれないと佳穂は思った。
だが、吉井はきわめて事務的に話を始めた。
「例の浪人について判明したことを報告します。今しがた、南町奉行所の内与力の近藤という者が浪人の件で話があると参りました。その者の話によると、町方の調べでは名は赤岩半兵衛。神田小川町の裏長屋住まいで、近所の子どもに手習いなどを教えていたとのこと。今日は休みにすると言って、昨日から長屋を出て戻っておらぬとのこと。
赤岩は以前仕えていた家で不義密通をしたということで、相手の奥女中とともに放逐されたとのことです。奥女中と長屋に所帯を持ったのですが、先立たれ、この数年はやもめの暮らし。赤岩が仕えていた家というのが、星川美作守様のお屋敷であったと」
「星川家だと」
又四郎の顔色が変わった。佳穂もまたただごとではないと気づいた。
星川家とは、分家の奥方瑠璃姫の実家である。美作守は瑠璃姫の兄である。
紅梅の印の入った袱紗といい、瑠璃姫に関わりのあることがまた出てきた。
又四郎は内与力の近藤のことを尋ねようと思ったが、佳穂の前なのでそれは後にしようと決めた。
「よくも町方は浪人の素性をそこまで調べたものよ」
「浪人を見ていた者が多かったとのこと。尼の庵のあたりは田畑が多く、すでに大勢が働いておりましたゆえ」
まるで見てくれと言わんばかりだった。又四郎は不可解なものを感じた。
吉井は佳穂の方を見た。
「それから、お佳穂の方様が仰せの薬ですが、箱を姫様から預かり、中に残った粉を医者に調べさせております。明日の午後にはわかるはずです」
「かたじけない。まことにお手数をおかけします」
佳穂は吉井に礼を言った。だが、又四郎は不思議そうに佳穂を見た。
「薬とは何だ」
佳穂は又四郎には話していなかった。食事の際に話すことではなかった。
だが、吉井は躊躇しなかった。このことは又四郎も知っておくべきことだと思ったからである。恐らくお佳穂の方は遠慮して話していないはずと彼は推量していた。
「御方様が分家の奥方様から昨日子宝の薬として頂いた物です。姫様が子流しの薬ではないかと疑って半分以上は捨てられましたが、中身が少しだけ残っておりました」
「なんだと」
又四郎の声の大きさと荒々しさに佳穂は思わず、後ずさった。
「なぜ、そのことを言わなかった」
佳穂は又四郎がこれほど怒りを見せるとは思わなかった。
「なにぶん、奥でのことですので。表に語るべきではないと。それに確かな証もございません」
「お佳穂の命にも関わることではないか。吉井、もしまことに子宝の薬ならよいが、もしそうでなければ、私は許さぬ……」
吉井采女は落ち着いていた。
「明日にならねば、わかりません。それに、姫様は医師ではありません。ただの勘違いかもしれません。それに御方様は一口も口にしておりません。御安心を」
「安心など、できぬ」
又四郎はそう言うと、佳穂も吉井も信じらぬことを口にした。
「お佳穂、そなた、今宵からここに侍れ。私のそばから離れるな」
あり得なかった。いくら寵愛の深い側室であっても、中奥でずっと殿様に侍るなどありえない。
「若殿様、それはなりません」
吉井は叫んだ。
「心当たりがあるのか」
「勘違いかもしれません」
だが、例の薬の一件もある。
「ここでは」
目付の配下のいる場所では話せないことだった。彼らが信用できないわけではないが、重大なことをここで言うわけにはいかなかった。
それは又四郎も気付いたようであった。
又四郎は配下達に礼を言い、吉井に中奥に来るように伝えてくれと命じ部屋を出た。
手燭を持った小姓に先導され再び中奥へ戻った。今度は食事の間ではなく、又四郎の私室に入った。
「よろしいのですか」
中臈が中奥の小座敷以外の殿や若殿の私室に入ることなどない。
「よろしいも何も、ここが一番いい」
小姓は部屋の行灯を灯すと出て行き、二人きりになった。
「まあ」
灯りに照らされた部屋の壁の前には書物が山のように積まれていた。
「部屋住みの頃から集めた書だ。漢訳の洋書が多いな」
「英吉利の言葉もこれで勉強されたのですか」
「さる方から辞書を書写させていただいた。家中の中には独自に通詞を置いているところもあるのだ」
「つうじとは何でしょうか」
「外国の言葉を日の本の言葉に言い換える者だ。阿蘭陀だけでなく清の言葉も朝鮮の言葉もだ。その方々からも教わった」
又四郎は山の中から一冊取り出した。
「これは私が書写したもの。英吉利語と本邦の言葉を対比してある。これを読んで学ぶとよい。私はこの分は覚えておるゆえ、すぐに返さずともよい」
驚く佳穂の手に又四郎は書を渡した。
「よろしいのですか」
「よい。次に会う時はどれくらい覚えたか確かめよう」
「まあ、さような」
殿様から櫛を贈られた奥女中はいても、このようなものを贈られた者はいないだろう。だが、佳穂は櫛よりも又四郎らしいと思い、嬉しかった。
「かたじけないことでございます」
「大したことではない。これは英吉利語の勉強をしたいと言うたら、さる御家中の若殿様が貸してくださった書物の写しでな。若殿様は海外のことをあれこれ学んで、家を継がれる日を待っておられるのだが、父上がなかなか隠居されず、家臣もまた、蘭癖の若君は金使いが荒いと申して他の弟君を推している。私が先に家督を相続することになり、まことにに申し訳ないと思っておるのだが」
何やら若殿様同士もいろいろな交友関係があるらしかった。
「私も家督を相続したら、このような勉強にばかり銭を使うわけにはいかぬ。だが、家臣に学ばせることはできる。手始めにお佳穂にもやってもらいたいのだ」
「私などにできましょうか」
買いかぶられても困ると佳穂は思う。
「英吉利では子どもも英吉利語を話すのだ。お佳穂にできぬわけはあるまい」
そう言うけれど、逆に日本の子どもが話すからといって、すぐに英吉利人が日本の言葉を話せるようになるとは思えない。つまりはそう簡単にできるとは思えなかったのである。
「その御家中の若殿様もお話しになるのですか」
「少しな。その方のひいおじい様という方は清や阿蘭陀の言葉を話せたそうだ」
佳穂はそれを聞き、さる御家中がどこかわかってしまった。江戸に出る前に、父が話していたことがあった。昨年亡くなった十一代将軍の大御台所様の御実家ではないか。
「よもや、それは高輪の下馬将軍と言われた御方の」
「そうだ」
又四郎がそのような大藩の若殿様と親しく交際していたとは意外だった。
「気前のよい方でな。カステイラもいただいたことがある」
「光信院様のところへ持って行った豚の肉もでございますか」
「ああ。たくさんいただいても食べきれぬゆえ。あの方は、私が痩せているのでたくさん食わせねばと思っておいでのようだが、腹八分目がちょうどよいので食べぬだけなのだが。今度お会いしたら、お断りせねばな」
「その必要はないかと。淑姫様が」
又四郎はぷっと吹き出した。
「そうだな。ももんじ屋の件、漏れ聞いたが、山鯨より豚のほうが臭みがないゆえ、きっと気に入るだろう。お佳穂、そなたにもな」
淑姫のももんじ屋の件は表にも知られているようだった。淑姫が直接言う必要はないようである。そう思った佳穂ははっとした。淑姫様は高輪のことをご存知だった。一体なぜご存知だったのだろうか。奥では誰も又四郎が高輪に行ったことがあるなどとは話していないはずなのに。
「お佳穂、いかがした」
「いえ、私は遠慮させていただきます」
「そうか。それは残念。ところで、先ほどの件だが」
そうだった。あの香りの持ち主のことであった。話せばどういうことになるか、佳穂にも想像がつく。もし、佳穂の思う通り叔母の香りなら、叔母も又四郎襲撃の一件に関わっているということになる。つまり、佳穂もまた叔母に連座するということだ。
けれど、又四郎に嘘はつけない。偽ったまま仕えるのは不実なことだった。
佳穂はこれまで誠心誠意I奥方様や淑姫に仕えてきた。同じように又四郎に仕えるのは当然のこと。たとえ奥女中として尊敬する叔母のことであっても、話さないのは家臣として許されないことだった。
佳穂は姿勢を正し、正面に座る又四郎を見つめた。
「畏れながら、あの香りは叔母の川村がいつも焚き染めているものと同じ香り。叔母は御客応答をしておりますゆえ、奥方様とも目通りができます」
又四郎は何も言わず、両手を胸の前で組んだ。
「そういうことか。ならば合点がいく。分家の奥に私は行くことはなかったが、広敷の役人が川村から何か品を下された際に香りがついて、それを何かの折に私がかいだのかもしれぬ」
「いかなるわけで袱紗に香りが沁みたのかわかりませんが、叔母が関わっていたのではないかと」
そう口にした後で胸がきりりと痛むような心地がした。癪など持っていないのに。
「まだそうと限ったことではあるまい」
又四郎の言うように推測でしかない。だが、疑いが出ること自体、問題なのだ。すでにお園は兄が故意ではないのに、一件に関わっていたということで謹慎となっている。佳穂もまた謹慎になってもおかしくないのだ。
「同じ香りを使う者もおるかもしれぬ。香りだけでは確かな証拠にはならぬ。ゆえに、この香りの件は誰にも言わずともよい」
「え、そんな」
目付にも鳴滝にも言うなということであろうか。
「なれど、叔母が関わっていたとすれば、私はおそばにいるわけには参りません」
そう言った途端に、前にいる又四郎が佳穂に近づき、両の腕でがしっと抱き寄せられた。汗のにおいと鬢付け油の香りが佳穂を包んだ。癪のような胸の痛みが薄らいだように感じられた。
「叔母は叔母、お佳穂はお佳穂。別の者だ」
「若殿様……」
「さっきも申したようにそなたとは家族になるのだ。家族となってホームを作るのだ。叔母のことなど気にしてはならぬ」
「ほおむ」
これも英吉利語だろうか。
「夫と妻と子どもが一緒に仲良く暮らす家のことだ。食事を一緒にし、一緒に眠る」
またも危ない発言だった。大名にはありえぬ暮らしだった。
「私はずっと一人だった。母を失い、故郷を離れ、江戸に出て父上と一緒に暮らせると思っていたが、父にはめったに会えなかった。だから、私はホームという英吉利の言葉を知った時、必ず我が手でホームを作ろうと思ったのだ」
「なれど、叔母が」
「それは関係なかろう。私は川村家の娘ではなく、お佳穂と家族になってホームを作りたいのだ」
佳穂にとってそれは理解を超越した言葉だった。自分は川村三右衛門の娘であり、叔母川村の姪なのだ。一人の独立した人間ではない。それは又四郎も同様のはずである。
「わかりません」
「何がだ」
「私は川村家の娘です。それをまるで川村と関わりがないかのように」
又四郎はため息をついた。
「そなたはまことに真面目だな。そなたのよいところだが、それだけでは人は幸せになれぬのだぞ」
わけがわからなかった。真面目だけでは幸せになれぬとはどういう意味なのか。
佳穂の疑問に答えるかのように、又四郎は続けた。
「真面目に生きるのは悪いことではない。けれど、それは誰のためなのだ。御家のためであろう。そなた自身のためではあるまい」
「御家のためにというのは当たり前のことでは」
「当たり前が当たり前ではない世もある。日の本の当たり前が別の国では当たり前ではないこともあるのだ」
佳穂は前に又四郎が言ったことを思い出した。
「何も他の国がすべて優れているということではない。他の国の中には乱暴な考えを持つ国もあるのだ。だが、日の本が真似してもよい考えもある。御家のためではない己自身の幸せを追うという生き方があるのだ。私はそれを知った時、少しだけ息をするのが楽になった。部屋住みの身であっても、ささやかな幸せを求めようと思い生きてきた。本家の世継ぎの身となった今は己自身よりも御家を大切にしなければならぬというのは致し方ない、だが、それでも、私は己の幸せも欲しい。それがそなたとホームを作ることなのだ」
欲張りだと佳穂は思った。けれど、母を失い、江戸で父にめったに会えず、部屋住みとして生きていた又四郎が「ほおむ」というものを求める気持ちはわかった。佳穂もまた国許で父や継母、兄、異母弟、異母妹と暮らしていても、どこか居心地がよくなかった。ここは自分がいるべき場所ではないように感じていた。もし、「ほおむ」という物を作ることができたら、どんなにか幸せなことかと思う。
ただ、又四郎と一緒に「ほおむ」を作るのが、果たして佳穂でいいのか。どこぞの姫様を奥方に迎えて作るべきではないのか。
「私などでよいのでしょうか」
「良いに決まっている。ホームという言葉を知った時に浮かんだのは、そなたと暮らす家だったのだ」
またも思いも寄らぬことだった。
「そなたとホームを作るためなら、なんでもしようと私は思ったのだ」
佳穂は混乱した。危うい「ほおむ」という物を佳穂と作るために、なんでもしようと思ったということは、佳穂こそが危険の根源ではないのか。己がいることが、危険なのではないか。
癪のような痛みが胸をしめつけた。
けれど、又四郎の両腕も佳穂の身体を締め付けた。
「えっ」
又四郎の唇が佳穂の唇に当たった。そして唇をこじ開けようとする。
ここは寝所ではないのに。なんと、危ういことを。
けれど、佳穂は又四郎の唇に抗えなかった。抱き締める手が身八ツ口から小袖の下に入り、身体を襦袢の上から撫でていた。その感触は佳穂を動けなくしてしまう。
一体どれくらいの間、又四郎の舌が佳穂の口の中にあったのかわからぬほど、佳穂は又四郎の指と手の与える熱を感じていた。
「吉井ですが、よろしいでしょうか」
その声で又四郎はやっと佳穂を解放した。佳穂は放心状態で、そこに座っているのがやっとだった。
「しばし待て」
襖の向こうに声をかけた又四郎は懐紙を出して、佳穂の唇のまわりを拭いた。
「申し訳ありません」
「いや、私のせいだ」
佳穂は少しだけ乱れた着衣を直し、姿勢を正した。
「入れ」
吉井采女は厳しい顔つきであったが、佳穂を見てわずかに微笑んだ。何をしていたか、この人にはお見通しかもしれないと佳穂は思った。
だが、吉井はきわめて事務的に話を始めた。
「例の浪人について判明したことを報告します。今しがた、南町奉行所の内与力の近藤という者が浪人の件で話があると参りました。その者の話によると、町方の調べでは名は赤岩半兵衛。神田小川町の裏長屋住まいで、近所の子どもに手習いなどを教えていたとのこと。今日は休みにすると言って、昨日から長屋を出て戻っておらぬとのこと。
赤岩は以前仕えていた家で不義密通をしたということで、相手の奥女中とともに放逐されたとのことです。奥女中と長屋に所帯を持ったのですが、先立たれ、この数年はやもめの暮らし。赤岩が仕えていた家というのが、星川美作守様のお屋敷であったと」
「星川家だと」
又四郎の顔色が変わった。佳穂もまたただごとではないと気づいた。
星川家とは、分家の奥方瑠璃姫の実家である。美作守は瑠璃姫の兄である。
紅梅の印の入った袱紗といい、瑠璃姫に関わりのあることがまた出てきた。
又四郎は内与力の近藤のことを尋ねようと思ったが、佳穂の前なのでそれは後にしようと決めた。
「よくも町方は浪人の素性をそこまで調べたものよ」
「浪人を見ていた者が多かったとのこと。尼の庵のあたりは田畑が多く、すでに大勢が働いておりましたゆえ」
まるで見てくれと言わんばかりだった。又四郎は不可解なものを感じた。
吉井は佳穂の方を見た。
「それから、お佳穂の方様が仰せの薬ですが、箱を姫様から預かり、中に残った粉を医者に調べさせております。明日の午後にはわかるはずです」
「かたじけない。まことにお手数をおかけします」
佳穂は吉井に礼を言った。だが、又四郎は不思議そうに佳穂を見た。
「薬とは何だ」
佳穂は又四郎には話していなかった。食事の際に話すことではなかった。
だが、吉井は躊躇しなかった。このことは又四郎も知っておくべきことだと思ったからである。恐らくお佳穂の方は遠慮して話していないはずと彼は推量していた。
「御方様が分家の奥方様から昨日子宝の薬として頂いた物です。姫様が子流しの薬ではないかと疑って半分以上は捨てられましたが、中身が少しだけ残っておりました」
「なんだと」
又四郎の声の大きさと荒々しさに佳穂は思わず、後ずさった。
「なぜ、そのことを言わなかった」
佳穂は又四郎がこれほど怒りを見せるとは思わなかった。
「なにぶん、奥でのことですので。表に語るべきではないと。それに確かな証もございません」
「お佳穂の命にも関わることではないか。吉井、もしまことに子宝の薬ならよいが、もしそうでなければ、私は許さぬ……」
吉井采女は落ち着いていた。
「明日にならねば、わかりません。それに、姫様は医師ではありません。ただの勘違いかもしれません。それに御方様は一口も口にしておりません。御安心を」
「安心など、できぬ」
又四郎はそう言うと、佳穂も吉井も信じらぬことを口にした。
「お佳穂、そなた、今宵からここに侍れ。私のそばから離れるな」
あり得なかった。いくら寵愛の深い側室であっても、中奥でずっと殿様に侍るなどありえない。
「若殿様、それはなりません」
吉井は叫んだ。
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歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
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