アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳

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われてもすゑに

参 仕置きのこと

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 騒動の取り調べは夜中まで続いた。
 報告を受けると吉井はそれを部下にまとめさせた。
 翌朝までかかって作成した報告書を確認した吉井は部下らに休むように指示し、家老の控え部屋へ向かった。家老は分家の家老や年寄との話し合いで昨夜は自身の屋敷に帰っていなかったのである。
 書類を読んだ家老の顔はみるみるうちに青くなっていった。

「なんということか。養子決定の頃から、計画を立てていたとは」
「光信院様とお志麻の仲を裂くことができなかったので、こちらが出世の早道と川村が考えたようです」

 取り調べはさほど難航しなかった。特に事件の核心を握ると思われる川村千勢の調べは思いのほかに進んだ。
 千勢は斉理も身柄を拘束されたことを知ると、取り調べに素直に応じ今回の騒動についてすべてを語ったのである。取り調べには尋問担当と書記担当が二人で当たるのだが、書記担当はあまりにすらすらと語るので筆記が追いつかなくなりそうになって尋問担当を幾度か止めたほどだった。
 それによれば、分家の斉理と千勢は正室の瑠璃姫がお褥すべりの三十になる前からねんごろになっていたとのことだった。斉理は比較的容易に外出できるが、奥の千勢は簡単にはできないので、中奥の奥に近い場所に逢引きのための小部屋を作り、千勢がそこへ通っていたとのことだった。それを知るのは側用人一人で、如草会に行く際にも彼が必ず随行していた。
 六年前、千勢の姪の佳穂が本家の上屋敷に奉公するようになり、千勢は佳穂を本家の斉倫に近づけることを考えた。分家の奥での権力を得るためである。千勢は側室になっても男子がいなければ権力を持てぬこと、ましてや斉理に男子が二人いることを考え、側室になることなく奥の権力を握りたいと願っていた。
 だが本家では佳穂の意志を尊重し、斉倫の側仕えにはしなかった。
 そのうち、お志麻という町人出の娘が斉倫の側に仕えるようになった。このままでは佳穂が側室になることはできない。
 千勢はお志麻が斉倫から嫌われるようにするにはどうすればいいか考えた。だが、本家の中屋敷にいては工作が難しい。
 そんな時に、斉理がある旗本からよく当たる占いをする尼のことを聞いた。それを知った千勢は尼を利用することを考えた。だが、尼のいる広尾に行こうにも簡単に外出できない。
 そこで斉理が奥女中の扮装をして伶観の庵に行き、仕事を依頼したのであった。伶観は謝礼に目がくらみ引き受けると、昨年の夏の大川の花火見物の際に近づいた。
 お志麻は伶観が己の境遇を言い当てたことから、彼女をそばに近づけるようになった。伶観はお志麻が斉倫から嫌われるようにあれこれ入れ知恵をしたが、かえってそれが斉倫を引き付ける結果になってしまった。
 このままではまずいと思った矢先に、斉倫が死んだ。
 振り出しにもどると思っていたが、なんと今度は又四郎が本家の養子に選ばれた。
 ここで斉理は考えた。もし、瑠璃姫を離縁した場合、本人だけでなく嫁入り道具も持参金の化粧料もそのまま実家の星川家に戻さねばならない。そうなると、分家の経済状況は最悪になる。だが、又四郎が本家の養子になれば、援助が得られる。実の父のいる分家をつぶすなど親不孝の極みだからである。
 斉理は本家の淑姫の離縁の話を参考にし、瑠璃姫を離縁しても不自然ではないような策を千勢とともに考えた。とにかく瑠璃姫に落ち度があればいいのだと千勢は言い、瑠璃姫が又四郎の暗殺を企んだということにすればよいとも言った。
 千勢は本家にいる佳穂に以前から瑠璃姫が部屋住みの継子につらく当たっているように話をしていた。実際、又四郎は変わり物で、瑠璃姫も扱いかねているところがあった。
 ただ瑠璃姫が命じたという形にするのはいいが、問題は誰に又四郎を襲わせるかということだった。
 ここでも千勢が知恵を出した。伶観とお志麻を利用すればよいと。お志麻は伶観をすっかり信用しきっている。伶観が又四郎を殺す様に仕向ければお志麻は簡単に動くのではないか、お志麻は町方の出で刀を使って人など殺せないと見てのことである。未遂に終わり、伶観の名が出てきて調べた際に奥女中らしい者の出入りがわかれば、当然分家の奥の何者かが暗殺を謀ったと目付らは考えるに違いないと、千勢は考えたのだった。(どうも千勢はその頃から自分の出世の邪魔になる呉竹に濡れ衣を着せようとしていた節があった。呉竹の部屋子を手なづけて、呉竹の動向を調べていたと後に梅枝が調べている)。
 そこで斉理が女装し、伶観に斉倫の仇は又四郎であると吹き込むように依頼した。伶観はいくばくかの金で承知した。お志麻は伶観の言う通り又四郎が斉倫の仇であると信じ込み、復讐の機会を狙って実家に戻らず中屋敷で待った。
 だが、又四郎が中屋敷に入らず上屋敷に入ることになった。しかも、佳穂を寝所に侍らせることになった。そこでお志麻を中屋敷から上屋敷に移動させる策を考えた。
 一方で千勢は佳穂に瑠璃姫からと称して子流しの薬を贈り、またも瑠璃姫に疑惑が向くように工作した。
 また、斉理がかつて養子であった佐野家の先代の庶子で新たに養子となって佐野家を継いだ佐野覚兵衛を使った。佐野の昔なじみの赤岩が星川家の出で金に困っていることを知った斉理は、佐野を通じ赤岩に本家の者を惑わす尼を脅すように依頼、礼金は後で品川の喜久乃屋で渡すことを伝えさせた。また、事がうまく運んだら、月野家分家への仕官ができることも匂わせた。
 さらに佐野は千勢が盗んでおいた瑠璃姫の袱紗と一分銀を伶観に渡し、明日浪人が襲ってきたら投げるようにと依頼した。
 赤岩が尼を口止めしようとしたのは瑠璃姫からの依頼であると思わせるためである。
 佐野になぜかようなことを承知したのか、取り調べの際に訊くと、庶子の自分が佐野家の家督を相続できたのは分家の殿様が佐野家を出て御世継になられたからこそ、その御恩ゆえに分家の殿様にはどうしても逆らうことができなかったと答えた。だが、それゆえに親友を失うことになり、仕える又四郎を裏切ることにもなり、後悔している、どうか厳罰に処して欲しいとも言ったのだった。
 決行当日、お志麻の母が倒れたと金三という迎えの男が来た。これは口入屋を通じて雇った男だった。この口入屋は喜久屋利兵衛の弟が主をしていた。途中立ち寄ったのは喜久屋の寮とはまた別の神谷町にある喜久屋の妾宅だった。そこにいた女は妾ではなくやはり口入屋から雇った女だった。喜久屋の妾は当日は叔母の家に泊まりで出かけていたのである。無論、喜久屋の差し金だった。
 そこからお志麻は上屋敷へ向かい、そこで斉理の息のかかった者の手を借りて中奥で待ち伏せした。一方、一緒にいたおみちは分家に連れて行かれた。事が終わるまで監禁されていたのは、中奥にある逢引き部屋だった。
 おみちに隣の部屋から千勢の声を聞かせたところ、おみちは閉じ込めらた時に聞いた「声を出すな」と言った女の声だと証言した。またおみちを背負って百数えるまでじっとしていろと言った男の声は、斉理の用人の声であることも同じように確認し判明した。
 彼らの移動の経路もおみちの聞いた鐘の音で大方判明した。おみちの証言はお志麻の移動に喜久屋や分家が関わっていたことを証明したのだった。この点で、吉井はお志麻より年少のおみちのほうがよほど賢いと感心した。それは家老も同様だった。
 さて、お志麻は失敗し、身柄を拘束された。伶観の名が出たのは斉理と千勢の計算通りだった。
 翌朝、伶観が赤岩に襲われ、袱紗と一分銀を落としたのも、かねてから昵懇の与力が瑠璃姫の袱紗を持って来たのも計画通りだった。
 だが、ここで計画に大きな狂いが生じた。佳穂が袱紗に染みついた香りが叔母の使う香と同じであることに気付いたのである。まさか、佳穂が目付の仕事部屋にまで行くとは彼らは思ってもいなかった。それを本家の表御殿にいる気脈を通じた者から知った斉理は、千勢に探索が及ぶことを恐れた。誰か身代わりになる者はいないかと探していたところ、たまたま赤岩が喜久乃屋に来る日の午後に呉竹が外出することを知った。
 赤岩殺しの罪を呉竹になすりつければよいと考え、千勢に遺書を用意させた。千勢としても、中年寄の呉竹は将来年寄になると言われており、出世の邪魔であった。
 呉竹の帰りの予定の時刻から逆算し、斉理は喜久屋の寮で奥女中姿になり御高祖頭巾をかぶり喜久乃屋に現われ、痺れ薬の入った酒を先に飲ませて身体が思うように動かぬ赤岩を刺した。後は彼の話しの通り隠し部屋で息を潜め目付たちが死骸を運んだことを確認すると、喜久乃屋が駕籠を呼び裏口から出て喜久屋の寮に戻ったのだった。
 喜久屋利兵衛はこの件で如草会が公になることを恐れ、翌朝までに喜久乃屋を畳んだ。無論、その費用の一切は斉理が出している。
 赤岩の以前の奉公先は星川家であることから瑠璃姫が関与していると思わせることはこれでできた。だが、呉竹を殺害する機会はすぐには訪れなかった。
 ようやく寛善院の法事の日になって分家の奥は人が減った。呉竹も千勢も留守居である。
 千勢はその朝、逢引き部屋で計画の実行を斉理に告げた。
 斉理は計画を助けるために、本家で混乱を生じさせることにした。伶観の始末である。彼女がいろいろ話してくれたおかげで、奥女中が一件に絡んでいることは目付にも知れたが、これ以上しゃべらせるのは得策ではなかった。佳穂が袱紗の香りに気付いたような計画にないことが起きる恐れがあった。
 そこで本家に気脈を通じた者から佐野に殺害を依頼した。また、謹慎している部屋から出られるように、ちょっとした騒ぎを起こすことにした。
 中奥にいるシロの縄を切り、奥へと追い立てれば奥が騒ぎになる。当然表から番士らが奥に行くことになり警備が手薄になると考えたのである。
 目論見通り、警備は手薄になり、佐野は謹慎している部屋から抜け出し座敷牢の番人を棒で打ち、鍵を奪い、伶観を襲った。
 だが、伶観の投げた数珠で転んだ佐野は負傷し、未遂に終わった。
 一方、法事の後、茶室では瑠璃姫が本家の斉尚に糾弾され、瑠璃姫はそれを否定しなかった。斉理が離縁を告げると従った。あまりにうまくいきすぎると思ったものの、表の座敷で瑠璃姫の不始末を詫びながら、そろそろ伶観の殺害の報告があろうと思っていると、そこへ来たのは佳穂とシロを連れた又四郎であった。
 後は知っての通りである。
 千勢の呉竹殺害は阻止され、斉理の赤岩殺害が明らかになった。





「鳴滝や分家の梅枝が申すには、千勢には余罪があるかもしれぬということだ」

 家老は疲れ切った顔で言った。それは吉井も予想していたことだった。助けられた呉竹は身動きできなかった。恐らく何か薬を飲ませたのだろう。また佳穂への子流しの薬の件もある。薬を平然と使用しているということは、以前も使っていたからだろう。当然、似たようなことはあったと考えられる。
 
「ではそちらも調べましょう。それから、村中のことですが」

 昨日腹を切った村中についての報告は簡単だが昨夜のうちにしていた。すでに死骸は菩提寺に昨夜のうちに運んでいる。

「村中なのであろう。分家と気脈を通じておったのは」

 家老の言葉に吉井は首を振った。

「いいえ。違います。あれは殺しです。医師もそのように見立てています」
「まことか」

 家老はあまりにもいろいろあり過ぎたせいか、抑揚のない声で言った。
 吉井は家老に近づき耳打ちした。家老の顔色が変わった。

「なんと」

 報告を終えて部屋を出た吉井は、大きくため息をついた。
 昨日、お佳穂の方は星川家に瑠璃姫とともに参ったと聞く。それがいいと思った。ここしばらくは本家上屋敷はこの一件のお沙汰で慌ただしくなろう。死罪となる者も出よう。あの方にはつらいことも当然あるはず。
 あの方には血なまぐさい話は似合わない。
 若殿に守られ幸せに暮らすのが一番よいのだ。
 その足で小姓の控える部屋に行った。

「目付である」

 その声に中にいた小姓達は驚き姿勢を正した。
 吉井は部屋を見回した。さすがに控え部屋で菓子を食ったりするような不埒者はいないようである。

「異状はないな」
「御見回りご苦労様にございます」

 中で一番年長の小姓が言った。目つきの鋭さは父親譲りだった。

「うむ」

 息子とはいえ、仕事中は父も子も関係ないが、しっかりと職務に励んでいるようである。
 そういえばそろそろ嫁をとらせねばなるまい。ふと、おみちという気丈な少女の顔が浮かんだ。伶観に懐剣を向けるなど無謀なところはあるが、監禁されても平常心を保ち周囲の音に注意を払っていた娘ならばと思った。昨日伶観に懐剣を向けた件で話を聞いた後、お志麻からの文を渡した時も、受け答えがはっきりしていた。
 国に許婚者がいると聞いたが、そんな約束などどうとでもなろう。許婚者の家を調べれば、埃の一つや二つ出るはずである。
 吉井は己の仕事部屋へ向かった。評定の支度をせねばなからなかった。咎人にいかなる罰を下すか、吉井の出す案が叩き台になるのだ。よくよく吟味せねばならなかった。





 その日の夕刻から夜にかけて上屋敷では評定が行なわれた。評定に加わるのは目付、家老、留守居役、勘定奉行、大番頭、書院番頭である。ただし、分家の当主と奥の者が首謀者ということで、分家の家老と奥の年寄も加わった。
 目付から若殿様襲撃事件について関係者の証言をまとめた経緯が報告され、関係者の処罰の案が出された。案についてはおおむね妥当とされた。ただし、余罪があると思われる者については、保留となった。
 翌朝早く、御前様と分家の世継ぎ斉陽、本家の世継ぎ慶温に評定の結果が報告された。
 結果に対して、三人は同意した。
 関係者への処分は以下の通りである。


月野斉理
 本家御殿での乱心による脇差抜刀他により、隠居。本家の預かりとし、下屋敷にて蟄居

吉井久右衛門忠恭ただゆき 分家側用人
 本家中屋敷奥女中誘拐監禁により御役御免の上、切腹。吉井家は家禄・屋敷を没収

川村千勢 分家奥御客応答
 奥女中の殺害未遂・その他の余罪につき、分家奥預かり。詳細判明の後再度評定

川村三右衛門 分家国家老・千勢の兄
 千勢の監督不行届につき、御役御免・隠居・家禄一部召し上げ

梶田仁右衛門 本家中屋敷用人
 中屋敷管理不行届につき、御役御免・家禄一部召し上げ

村井権太夫 本家中屋敷用人頭
 中屋敷管理不行届及び養女志麻の監督不行届につき、御役御免・隠居・家禄一部召し上げ

佐野覚兵衛 若殿側用人
 不心得につき、御役御免・佐野家は家禄・屋敷を没収

村井志麻 中屋敷奥中臈
 不心得につき、御役御免・村井家との離縁を命ず

伶観 広尾村在住尼
 妄言にて家中の者を惑わしし罪により、たたきの刑のところ
 寺社奉行より別件のお調べありとのことで、寺社奉行所に引き渡し

おもん 分家奥御末
 不心得につき、奉公がまえ

相原たま 本家奥御末
 不心得につき、国許にて謹慎百日

相原格右衛門 本家作事奉行
 娘おたまの監督不行届につき、逼塞五十日

梅枝 分家奥年寄
 監督不行届につき、家禄一部召し上げ


 この中の分家側用人吉井久右衛門は本家の目付吉井の父方の遠縁である。
 家禄・屋敷没収は取り潰しを意味する。分家月野家に仕える吉井家と本家に仕える佐野家の人々は浪々の身となる。
 村井志麻とはお志麻のことである。村井権太夫の養女として中臈になった彼女は実家に戻るために離縁となったのである。
 伶観については佳穂と瑠璃姫が星川家へ行ったのと入れ違いに寺社奉行の使いが月野家を訪れ引き渡しを要求した。伶観の悪事は寺社奉行にも訴えられており、吟味し処罰するということだった。相手は格上の大名が務めている寺社奉行である。把握している悪事を使いに伝えた上で、伶観の身柄は使いに引き渡された。伶観は島流しになっちまうと騒いだが、使いは一切構わず、伶観を駕籠に乗せて去ったのだった。
 また、これとは別に、呉服屋喜久屋は以後出入りを禁じられた。
 如草会については、深入りは憚られた。喜久屋が出入りする大名や旗本の中には幕府の若年寄、目付、奥右筆の関係者もおり、深く追及すればかえって月野家に災いが及ぶことは明白だった。従って喜久屋の出入りを禁ずることしかできなかったのである。
 喜久屋は数年後主人が死ぬと番頭と実弟の間で争いがあり、それがきっかけで身代が傾いて暖簾を下ろすこととなった。





「ところで、村中の件はいかがした」

 慶温は長屋で目付の配下の村中が腹を切ったことを田原から聞いていた。

「畏れながら、そのことでございます」

 吉井はこの件も先ほどの評定で話していた。

「遺体に不審な点があり、医師森山周軒及び岸田東斎に尋ねたところ、これは自裁ではないと」
「なんと」

 皆が驚く中、吉井は懐から死体の状況の書付を出した。

「村中金右衛門は当初、分家の殿へ本家の事情等を報告していると思われました。また、お志麻を中奥に導きいれ、赤岩殺害の折、分家の殿が隠れていることを気付かせぬようにしたり、佐野覚兵衛が伶観を襲った時に犬の縄を切るなどして手助けをしたと考えられていました。それがしも最初は罪が発覚し追及を恐れて自害したものと思っておりました。なれど、遺体を見たところ、傷が切腹らしからぬものだったのです」

 吉井は右手を刀に見立てて、腹の左側に指先を当てた。

「短刀は右手で持つゆえに腹は左から右に引くもの。作法でもさようになっております。村中の傷はよくよく見ると、右から左に走っておりました。しかも妙なことに、着ている物はふだん着ている小袖でしかも右前。死に装束の白無地の小袖と浅葱色の裃の用意がなかったとしても、自裁する者が左前にせぬとは妙な話」

 当時は左利きは右利きに矯正されるのが当然のことだった。剣にしろ筆にしろ、その使用は右利きであることを前提にしている。従って、村中が左手で切腹ということはありえない。

「村中は知らなかったのではないか、作法を。最近の者は作法を知らぬ者が多いと聞く」

 斉陽に吉井は畏れながらと言った。

「それがしの下に初めて着任した者には最初に作法を教えております。村中も心得ております」
「それで、そなたの見立ては」

 御前様の問いに吉井が答えようとした時だった。配下の者が吉井を呼んだ。吉井は廊下に出て言伝を受け戻って来た。

「村中金右衛門の一件、先ほど小田新之丞が自白しました。分家の殿の命を受け、中屋敷から来たお志麻を中奥の若殿様の御寝所まで連れて行っております。また中奥の犬の縄を切り奥へ放ち、村中を長屋の部屋に呼び出し殺害、佐野を謹慎していた部屋から逃がしております。犬が奥に現われる少し前に小姓が中奥で小田を見かけております。村中の自害の偽装もしておりました」
「小田が!」

 慶温はあのどこか抜けたような小田の顔を思い出した。頼りないと思ったが、分家の斉理と気脈を通じていたとは。人は見かけではわからぬもの。

「村中はねんごろに供養してやらねばな。小田は死罪だ」

 御前様の意見は絶対だった。死罪は切腹と違い、武士の名誉は守られない。国許であれば、城下の辻に首をさらされることもある。無論、家も断絶となる。

「御意」

 吉井は刑の執行の手配をすべく御座の間を出た。





 御前様の許しが出ると、刑はすぐに執行される。これは御公儀と同様である。
 この日の午後、下屋敷にて、分家の元側用人吉井久右衛門は切腹、本家の元目付配下小田新之丞は死罪となった。家中のしきたりで身体は菩提寺に埋められるが、首はそれぞれ国許に移送される。
 その夜、吉井采女は下屋敷の隅にある小屋でかめに一人塩を詰めていた。飯櫃めしびつよりもやや大きな甕は陶器でできており、底に小さな水抜き穴が開いている。

「たわけが、たわけが」

 つぶやくたびに、見慣れた顔が白い塩に埋もれてゆく。
 なぜに、皆罪を犯すのか。結末はわかっているはずなのに。 
 やがて声がやむ頃、更け待ちの月が江戸の町を静かに照らし始めた。





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