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第一章 厄介者
15 田鶴姫一人語り 漆
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小姓の声で目覚めると、若殿はすでに中奥へ戻った後だった。
寝乱れた床に、小姓らは驚いていた。無理もない。互いの身体から流れた汗やもろもろで布団が濡れていたし、湯文字や寝間着が床の外に散らばっていた。湯呑もひっくりかえっている。しかも布団を蹴飛ばして正室は裸で寝ているのだから。
恥かしくも見苦しいありさまだが、後悔はなかった。
あのとらえがたかったものをとらえて存分に感じることができたのだから。
離縁されても悔いはないと思っていた。
殿様の参勤が近づくと、中屋敷の奉公人たちは離縁の話でもちきりになった。
当事者らの耳には直接入らないが、それでも不穏な空気は感じられた。
ある朝のことだった。
珍しく朝餉が白米だった。
膳が運ばれ、飯の匂いが漂ってきた。途端に、吐き気がこみあげてきた。
奥女中らの新たな薬かと思ったが、夕食に仕掛けたものが今頃きくのはおかしかった。
それでも食事をしたものの、どうにも匂いが耐えきれなかった。
そんなことが二、三日続いた。おかしいと思った。奥の者は皆離縁の件でお悩みになり体調を崩したと思っているようだが、それは違うと思った。
実家の奥で側室が飯の匂いで吐いたのを見たことがあった。しばらくして懐妊が判明していた。恐らくこれは悪阻と見当をつけた。
だが、誰にも知らせるつもりはなかった。懐妊となれば離縁の話は一時棚上げになるだろう。そうなれば、あの三人の奥女中が大人しくしているはずがなかった。子どもをなかったことにするために薬を盛ることが考えられた。
離縁は仕方ないと思うが、子どもは生みたかった。思う存分若殿を貪った記憶は年をとれば忘れてしまうかもしれない。けれど、その時に授かった子どもはこの世に残る。あの夜の記憶をこの世に留めたかった。子どもにとっては迷惑極まりない話であろう。だが、闇に葬られるのは迷惑どころの話ではあるまい。
豊前守の部屋住みの弟の子を孕んだ母が産みたいがために屋敷を出た気持ちが今ならわかる。実家の厄介者である部屋住みの者は結婚できない。ましてや子どもなど残せない。それなのに産んでくれた母。屋敷を出て実家まで逃れる道はいかに不安であったことか。
子を無事に産む。それだけを考えて身体の変化を隠した。月のものは元々不安定だったので、なくとも誰も不審に思っていなかった。悪阻を隠すのは難しいので、腹が痛いと言って朝餉を残した。医者が来るとよくなったと言って部屋に入れなかった。
また三人の奥女中の薬が子どもの毒になるかもしれぬので、腹が痛いからと濃い味のものも口にしなかった。
とにかく懐妊を知られないよう、腹の子を守ることを一番に考えた。
そんな時でも、上屋敷から奥方様が来る。悪阻とは言えずに頭痛がするからと部屋に引き上げた。
貞眞院もまた殿方を悩ませぬようにと遠回しに言ったりもする。
そんなことはわかっているけれど、今は腹の子が大事だった。
この子のためなら、なんでもできると思った。
愛されないことには慣れていた。
けれど、腹の子どもには慣れて欲しくなかった。せめて母親の愛だけでも伝えたかった。
それが愛することに慣れていない母親にできる唯一のことだった。
三月の末、下屋敷に若殿が参勤の殿様を出迎えに行く朝も気分が悪かった。
また若殿を引き留めようとしていると、皆思っているようだった。
そう思われても構わなかった。
子どもがいることに気付かれてはならなかった。
それでも吐き気は抑えられず、たびたび吐いた。腹が痛いと言っておれば怪しまれまいと思った。
が、おうらがなんとなく疑いのまなざしを向けているのに気付いた。
「姫様、月のものが近頃ないのではありませんか」
「大方、上がってしまったのであろう」
そう言ってごまかしたものの、これはまずいと思った。
疑いの目で見られるようになっては、ごまかしきれるものではない。
『これからは父と娘、何の遠慮もいらぬ』
舅である殿様の言葉を思い出した。
子がいなければ、ただの儀礼的な言葉だった。けれど、子がいる今、これほどありがたい言葉はなかった。
腹の子を守るため、手段を選んではいられなかった。これ以上中屋敷にいるわけにはいかない。
そう思っていた矢先に、若殿と貞眞院の元に朝の挨拶に行った後、奥で告げられたのは離縁の言葉だった。
「豊前守様と当家の留守居役の間で離縁の話し合いが進んでおる」
とうとうそこまできたかと思った。この家を出て豊前守家に戻れば、ますます子どもの身が危うい。己の身だけでも厄介者なのだから。
昼餉を少しだけ食べた後、気分が悪いからと部屋に下がった。三人の奥女中が控えの間で菓子を食っている間に部屋をこっそり出て、一人で奥の玄関に向かった。
「いかがされましたか」
広敷役人が姿を見て慌てて出て来た。
「上屋敷に伺う」
「あちらにもご予定がございます」
あらかじめ訪問を知らせるのは常識だった。が、非常識なことが起きている今、常識通りに行動していては己の身を守ることはできない。
「殿様からお呼びがあったと御年寄から聞いた。主君の命に逆らうのか」
「お一人では」
「一人で参るようにとのこと。上屋敷に呼ばれた後、直接実家に戻される。女達は片付けがあるゆえ、同道できぬ。皆に知られてはならぬので秘密にするようにと」
嘘八百も堂々と言えば、本物に聞こえるらしい。
ちょうどこの朝、上屋敷から奥に使いが来ていたので、役人は簡単に信じてしまった。
役人は畏まりましたと言い、女乗り物を用意させた。六尺は慌てて控えの小屋から出て来た。若殿は中屋敷にいるので、六尺もいたのである。
「殿様がお待ちゆえ、できるだけ早く上屋敷に頼む。表の大玄関までな」
「かしこまりました」
警護の者だけをつけて、女乗り物は上屋敷に向かった。思ったよりも早く上屋敷に到着した。門で中屋敷からついてきた警護の者が秘密のことゆえと言うと、門番は中屋敷の御新造様の離縁の件だと思ったのか、簡単に乗り物を通した。
乗り物は表の玄関に向かった。警護の者はよほど殿様が御立腹になって呼びつけられたに違いない、きっと殿様が直接お叱りになるのだろうと思ったようだった。
乗り物は表の玄関前に止まった。
内側から己で戸を開けて外に出た。
「御新造様」
戸を開けようとしていた警護の者が驚いていた。
いや、もっと驚いていたのは玄関に控えている者達であった。
「いかがされた」
まるで乱心した者を見るかのような目で叫ぶ男にゆっくりと言った。
「殿様に田鶴が参ったとお取次ぎ願う」
怖くはなかった。腹の子を守るためには何でもすると決めたのだから。
寝乱れた床に、小姓らは驚いていた。無理もない。互いの身体から流れた汗やもろもろで布団が濡れていたし、湯文字や寝間着が床の外に散らばっていた。湯呑もひっくりかえっている。しかも布団を蹴飛ばして正室は裸で寝ているのだから。
恥かしくも見苦しいありさまだが、後悔はなかった。
あのとらえがたかったものをとらえて存分に感じることができたのだから。
離縁されても悔いはないと思っていた。
殿様の参勤が近づくと、中屋敷の奉公人たちは離縁の話でもちきりになった。
当事者らの耳には直接入らないが、それでも不穏な空気は感じられた。
ある朝のことだった。
珍しく朝餉が白米だった。
膳が運ばれ、飯の匂いが漂ってきた。途端に、吐き気がこみあげてきた。
奥女中らの新たな薬かと思ったが、夕食に仕掛けたものが今頃きくのはおかしかった。
それでも食事をしたものの、どうにも匂いが耐えきれなかった。
そんなことが二、三日続いた。おかしいと思った。奥の者は皆離縁の件でお悩みになり体調を崩したと思っているようだが、それは違うと思った。
実家の奥で側室が飯の匂いで吐いたのを見たことがあった。しばらくして懐妊が判明していた。恐らくこれは悪阻と見当をつけた。
だが、誰にも知らせるつもりはなかった。懐妊となれば離縁の話は一時棚上げになるだろう。そうなれば、あの三人の奥女中が大人しくしているはずがなかった。子どもをなかったことにするために薬を盛ることが考えられた。
離縁は仕方ないと思うが、子どもは生みたかった。思う存分若殿を貪った記憶は年をとれば忘れてしまうかもしれない。けれど、その時に授かった子どもはこの世に残る。あの夜の記憶をこの世に留めたかった。子どもにとっては迷惑極まりない話であろう。だが、闇に葬られるのは迷惑どころの話ではあるまい。
豊前守の部屋住みの弟の子を孕んだ母が産みたいがために屋敷を出た気持ちが今ならわかる。実家の厄介者である部屋住みの者は結婚できない。ましてや子どもなど残せない。それなのに産んでくれた母。屋敷を出て実家まで逃れる道はいかに不安であったことか。
子を無事に産む。それだけを考えて身体の変化を隠した。月のものは元々不安定だったので、なくとも誰も不審に思っていなかった。悪阻を隠すのは難しいので、腹が痛いと言って朝餉を残した。医者が来るとよくなったと言って部屋に入れなかった。
また三人の奥女中の薬が子どもの毒になるかもしれぬので、腹が痛いからと濃い味のものも口にしなかった。
とにかく懐妊を知られないよう、腹の子を守ることを一番に考えた。
そんな時でも、上屋敷から奥方様が来る。悪阻とは言えずに頭痛がするからと部屋に引き上げた。
貞眞院もまた殿方を悩ませぬようにと遠回しに言ったりもする。
そんなことはわかっているけれど、今は腹の子が大事だった。
この子のためなら、なんでもできると思った。
愛されないことには慣れていた。
けれど、腹の子どもには慣れて欲しくなかった。せめて母親の愛だけでも伝えたかった。
それが愛することに慣れていない母親にできる唯一のことだった。
三月の末、下屋敷に若殿が参勤の殿様を出迎えに行く朝も気分が悪かった。
また若殿を引き留めようとしていると、皆思っているようだった。
そう思われても構わなかった。
子どもがいることに気付かれてはならなかった。
それでも吐き気は抑えられず、たびたび吐いた。腹が痛いと言っておれば怪しまれまいと思った。
が、おうらがなんとなく疑いのまなざしを向けているのに気付いた。
「姫様、月のものが近頃ないのではありませんか」
「大方、上がってしまったのであろう」
そう言ってごまかしたものの、これはまずいと思った。
疑いの目で見られるようになっては、ごまかしきれるものではない。
『これからは父と娘、何の遠慮もいらぬ』
舅である殿様の言葉を思い出した。
子がいなければ、ただの儀礼的な言葉だった。けれど、子がいる今、これほどありがたい言葉はなかった。
腹の子を守るため、手段を選んではいられなかった。これ以上中屋敷にいるわけにはいかない。
そう思っていた矢先に、若殿と貞眞院の元に朝の挨拶に行った後、奥で告げられたのは離縁の言葉だった。
「豊前守様と当家の留守居役の間で離縁の話し合いが進んでおる」
とうとうそこまできたかと思った。この家を出て豊前守家に戻れば、ますます子どもの身が危うい。己の身だけでも厄介者なのだから。
昼餉を少しだけ食べた後、気分が悪いからと部屋に下がった。三人の奥女中が控えの間で菓子を食っている間に部屋をこっそり出て、一人で奥の玄関に向かった。
「いかがされましたか」
広敷役人が姿を見て慌てて出て来た。
「上屋敷に伺う」
「あちらにもご予定がございます」
あらかじめ訪問を知らせるのは常識だった。が、非常識なことが起きている今、常識通りに行動していては己の身を守ることはできない。
「殿様からお呼びがあったと御年寄から聞いた。主君の命に逆らうのか」
「お一人では」
「一人で参るようにとのこと。上屋敷に呼ばれた後、直接実家に戻される。女達は片付けがあるゆえ、同道できぬ。皆に知られてはならぬので秘密にするようにと」
嘘八百も堂々と言えば、本物に聞こえるらしい。
ちょうどこの朝、上屋敷から奥に使いが来ていたので、役人は簡単に信じてしまった。
役人は畏まりましたと言い、女乗り物を用意させた。六尺は慌てて控えの小屋から出て来た。若殿は中屋敷にいるので、六尺もいたのである。
「殿様がお待ちゆえ、できるだけ早く上屋敷に頼む。表の大玄関までな」
「かしこまりました」
警護の者だけをつけて、女乗り物は上屋敷に向かった。思ったよりも早く上屋敷に到着した。門で中屋敷からついてきた警護の者が秘密のことゆえと言うと、門番は中屋敷の御新造様の離縁の件だと思ったのか、簡単に乗り物を通した。
乗り物は表の玄関に向かった。警護の者はよほど殿様が御立腹になって呼びつけられたに違いない、きっと殿様が直接お叱りになるのだろうと思ったようだった。
乗り物は表の玄関前に止まった。
内側から己で戸を開けて外に出た。
「御新造様」
戸を開けようとしていた警護の者が驚いていた。
いや、もっと驚いていたのは玄関に控えている者達であった。
「いかがされた」
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