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雨がアルイマの葉を打つ音がする。
数日続いた季節の雨雲は、時折、激しい大雨を降らせた。幸い、アルイマの大樹の家に留まっていたユーダレウスたちは、雨に打たれることはなかったが、思わぬ長期間の足止めを食らっていた。
湿っぽい窓の外の空を見ながら、ユーダレウスは窓を開ける。雨に濡れた草木と土の匂いをはらんだ風が、湯上りの肌に心地良い。
気分の良さとは裏腹に、夜風に当たって水を纏った髪が急速に冷えていく。ユーダレウスは水が滴るそれを布で雑に拭いた。
ふと、視界の端に曇天色のつむじが映り、ユーダレウスは手を止めた。顔をそちらにを向けると、嬉しそうにガラス玉のような青い瞳が輝いた。
「師匠! 師匠! 見てください!」
ティニが弾むように立ち上がり、ユーダレウス目掛けて駆けてくる。どうやら風呂から上がるのを待ちかねていたらしく、風呂のすぐそばに踏み台を置いてそこに腰かけて待っていたようだ。
身に着けているのは青いシャツに黄色いズボン。どちらも今はない大昔の技術で鮮やかに染め上げられた服だ。
大樹の家の本棚にはその技術を持っていた時代の本が残っていた。そのせいで、鞄の奥底に仕舞いこんだ服の存在を思い出し、どうせ人に会うわけでもないので引っ張り出して着せてみたのだ。
上から下まで弟子を見て、我ながら目が痛くなる組み合わせだとユーダレウスは顔を顰める。よくもまあ文句もなく着ているものだと感心していると、ティニがぐいと紙を差し出してきた。
「あ、おい、水が――」
言い終わる前に差し出された紙の上にぽたりと滴が落ち、丸い染みを作った。
「ああ、もう、濡れちまっただろうが。落ち着け馬鹿弟子」
「はい!」
聴いているのかいないのか、微妙なラインの元気すぎる返事に、自然と眉間に皺が寄る。疑わしいと言わんばかりの顔で紙を受け取ったユーダレウスは、それ以上滴を落とさないように、手を伸ばして身体から離して眺めた。
何が書いてあるのかは、もうとっくにわかっている。
紙の上で一番目立つのは『ティニエト』そして『ユーダレウス』という二つの名前だ。それだけではなく、簡単な単語もいくつか練習したらしい。空、星、花。それと食べ物の名前がいくつか。精霊の名も書こうとしたらしい。
『サソレア』は良く書けていたが、自分の名前以上に何度も書き損じている。『アラキノ』の方は、どれも綴りが『アラミノ』になっていることに気が付いていないようだ。『ヴォルニ』はどこにもない。読み書き初心者には少々難しい綴りなので、書けなかったのだろう。
無意識にユーダレウスの頬が緩む。上手いとは言えないが、かつての誰かが書いた、ミミズがのたくったよりも酷い字よりははるかにましだった。
ユーダレウスはティニに紙を返すと、悪だくみをする人のように、ニヤッと笑った。
笑った本人はいたずらっ子の微笑みのつもりだったのだが、弟子の目には大悪党の親玉のように映っていたのは秘密だ。
「こんだけ書けりゃあ上出来だな。よし、祝杯だ!」
「師匠! しゅくはいってなんですか?」
反応してほしいのはそこじゃない。ユーダレウスは半眼し、肩を落とす。だが、このお人よしには、弟子の小さな疑問を無視することなどできはしないのだ。
諦めの嘆息を一つ零すと、ユーダレウスは幼い弟子の為に言葉を選ぶ。
「祝杯は、祝い酒を飲む器。お前が自分の名前を書けるようになった祝いをしようってことだ」
「……お酒のむんですか? ぼくも?」
途端に不安げな顔をする弟子に、師は苦笑を漏らす。手を伸ばして、弟子の曇天色の髪をかき混ぜた。細く柔らかい子供の髪は、本人の手入れの甲斐もあって指に絡むことはなく、間をするりと通り抜けていった。
「んなわけねえだろうが。ジュースだ、ジュース。こないだ漬けたアルイマベリーのシロップ出すぞ」
「やったあ!」
ユーダレウスとしてはもうかなり興が削がれていたのだが、手のひらの下のティニは嬉しそうにぴょんと跳びあがったので、まあいいかと肩をすくめた。
「わあっ!?」
ちょっとした意趣返しに曇天色の髪を思い切りぐしゃぐしゃにしてから、ユーダレウスはそこから手をはなした。
ティニが真剣な顔つきで乱れた髪を撫でつける。その様子は、さながら小動物の毛づくろいのようだ。それを横目に、ユーダレウスは悪びれることなく、手早く残りの服を身に着けた。
未だにもそもそと髪を整えている弟子を置いてキッチンへと向かい、身を屈めて隅にある大ぶりの広口瓶の様子を見た。
発酵することもなく、上手い具合に果実の水分が抜け、瓶の中は透き通った赤の液体に満たされていた。液面にはしおれたアルイマベリーが浮かんでいる。
こればかりは、鞄の向こうに入れるわけにはいかない。鞄の向こうの時間は止まっていて食物は腐らないが、その代わりに熟成させたり、漬けるといった時間に任せる調理法も進まないからだ。
ユーダレウスは広口瓶をテーブルにドンと上げた。魅惑的な赤い液体がゆらゆらと揺れている。
とことことティニが寄ってくるのを視界の隅に捉えながら、月の色によく似た銀髪の魔術師は、外していた大ぶりの指輪を右手に嵌め直し、いつも腰につけている小型の鞄にその手を入れた。
「ヴォルトゥニカ」
誰でもない、自分自身とだけ契約していた精霊の名を囁く。
別にわざわざ名を呼ばなくとも構わないのだが、たまにこうして呼んでやると最高の速度を出してくれるのだ。それがこの精霊の可愛いところだ。
「コード ヴァル セ ロ」
呟き終わるや否や、ユーダレウスは鞄から手を引き抜く。
取り出したのはグラスが二つだ。脚のない透明なグラスで、表面に切り込みを入れたような細やかな幾何学模様が美しい。ランプの光に照らされたそれは、まるで磨かれた宝石のように目映く輝いた。
珍しい物を前にして、ティニの瞳がグラスに負けじと輝く。まだ幼い弟子がこの手の物に殊更興味を惹かれることを、師はしっかりと把握していた。
しかし、今宵はこれだけで終わりではない。ユーダレウスは片眉を上げて笑んだ。
「いいか、ティニ。目ぇ閉じると損すんぞ」
「はいっ!」
師の忠告に、人形のように動きのない表情を心持ち明るくした弟子は、大きな期待を込めて青い瞳をしっかりと見開いた。その青は驚くほど鮮やかな色で目の前の世界を見つめている。
ふっと笑ったユーダレウスは、テーブルの上にふたつのグラスを並べ、カンテラが揺れる杖を構える。
そして、芝居がかった身振りで大きく両腕を開いた。
『ユーダレウス』 了
数日続いた季節の雨雲は、時折、激しい大雨を降らせた。幸い、アルイマの大樹の家に留まっていたユーダレウスたちは、雨に打たれることはなかったが、思わぬ長期間の足止めを食らっていた。
湿っぽい窓の外の空を見ながら、ユーダレウスは窓を開ける。雨に濡れた草木と土の匂いをはらんだ風が、湯上りの肌に心地良い。
気分の良さとは裏腹に、夜風に当たって水を纏った髪が急速に冷えていく。ユーダレウスは水が滴るそれを布で雑に拭いた。
ふと、視界の端に曇天色のつむじが映り、ユーダレウスは手を止めた。顔をそちらにを向けると、嬉しそうにガラス玉のような青い瞳が輝いた。
「師匠! 師匠! 見てください!」
ティニが弾むように立ち上がり、ユーダレウス目掛けて駆けてくる。どうやら風呂から上がるのを待ちかねていたらしく、風呂のすぐそばに踏み台を置いてそこに腰かけて待っていたようだ。
身に着けているのは青いシャツに黄色いズボン。どちらも今はない大昔の技術で鮮やかに染め上げられた服だ。
大樹の家の本棚にはその技術を持っていた時代の本が残っていた。そのせいで、鞄の奥底に仕舞いこんだ服の存在を思い出し、どうせ人に会うわけでもないので引っ張り出して着せてみたのだ。
上から下まで弟子を見て、我ながら目が痛くなる組み合わせだとユーダレウスは顔を顰める。よくもまあ文句もなく着ているものだと感心していると、ティニがぐいと紙を差し出してきた。
「あ、おい、水が――」
言い終わる前に差し出された紙の上にぽたりと滴が落ち、丸い染みを作った。
「ああ、もう、濡れちまっただろうが。落ち着け馬鹿弟子」
「はい!」
聴いているのかいないのか、微妙なラインの元気すぎる返事に、自然と眉間に皺が寄る。疑わしいと言わんばかりの顔で紙を受け取ったユーダレウスは、それ以上滴を落とさないように、手を伸ばして身体から離して眺めた。
何が書いてあるのかは、もうとっくにわかっている。
紙の上で一番目立つのは『ティニエト』そして『ユーダレウス』という二つの名前だ。それだけではなく、簡単な単語もいくつか練習したらしい。空、星、花。それと食べ物の名前がいくつか。精霊の名も書こうとしたらしい。
『サソレア』は良く書けていたが、自分の名前以上に何度も書き損じている。『アラキノ』の方は、どれも綴りが『アラミノ』になっていることに気が付いていないようだ。『ヴォルニ』はどこにもない。読み書き初心者には少々難しい綴りなので、書けなかったのだろう。
無意識にユーダレウスの頬が緩む。上手いとは言えないが、かつての誰かが書いた、ミミズがのたくったよりも酷い字よりははるかにましだった。
ユーダレウスはティニに紙を返すと、悪だくみをする人のように、ニヤッと笑った。
笑った本人はいたずらっ子の微笑みのつもりだったのだが、弟子の目には大悪党の親玉のように映っていたのは秘密だ。
「こんだけ書けりゃあ上出来だな。よし、祝杯だ!」
「師匠! しゅくはいってなんですか?」
反応してほしいのはそこじゃない。ユーダレウスは半眼し、肩を落とす。だが、このお人よしには、弟子の小さな疑問を無視することなどできはしないのだ。
諦めの嘆息を一つ零すと、ユーダレウスは幼い弟子の為に言葉を選ぶ。
「祝杯は、祝い酒を飲む器。お前が自分の名前を書けるようになった祝いをしようってことだ」
「……お酒のむんですか? ぼくも?」
途端に不安げな顔をする弟子に、師は苦笑を漏らす。手を伸ばして、弟子の曇天色の髪をかき混ぜた。細く柔らかい子供の髪は、本人の手入れの甲斐もあって指に絡むことはなく、間をするりと通り抜けていった。
「んなわけねえだろうが。ジュースだ、ジュース。こないだ漬けたアルイマベリーのシロップ出すぞ」
「やったあ!」
ユーダレウスとしてはもうかなり興が削がれていたのだが、手のひらの下のティニは嬉しそうにぴょんと跳びあがったので、まあいいかと肩をすくめた。
「わあっ!?」
ちょっとした意趣返しに曇天色の髪を思い切りぐしゃぐしゃにしてから、ユーダレウスはそこから手をはなした。
ティニが真剣な顔つきで乱れた髪を撫でつける。その様子は、さながら小動物の毛づくろいのようだ。それを横目に、ユーダレウスは悪びれることなく、手早く残りの服を身に着けた。
未だにもそもそと髪を整えている弟子を置いてキッチンへと向かい、身を屈めて隅にある大ぶりの広口瓶の様子を見た。
発酵することもなく、上手い具合に果実の水分が抜け、瓶の中は透き通った赤の液体に満たされていた。液面にはしおれたアルイマベリーが浮かんでいる。
こればかりは、鞄の向こうに入れるわけにはいかない。鞄の向こうの時間は止まっていて食物は腐らないが、その代わりに熟成させたり、漬けるといった時間に任せる調理法も進まないからだ。
ユーダレウスは広口瓶をテーブルにドンと上げた。魅惑的な赤い液体がゆらゆらと揺れている。
とことことティニが寄ってくるのを視界の隅に捉えながら、月の色によく似た銀髪の魔術師は、外していた大ぶりの指輪を右手に嵌め直し、いつも腰につけている小型の鞄にその手を入れた。
「ヴォルトゥニカ」
誰でもない、自分自身とだけ契約していた精霊の名を囁く。
別にわざわざ名を呼ばなくとも構わないのだが、たまにこうして呼んでやると最高の速度を出してくれるのだ。それがこの精霊の可愛いところだ。
「コード ヴァル セ ロ」
呟き終わるや否や、ユーダレウスは鞄から手を引き抜く。
取り出したのはグラスが二つだ。脚のない透明なグラスで、表面に切り込みを入れたような細やかな幾何学模様が美しい。ランプの光に照らされたそれは、まるで磨かれた宝石のように目映く輝いた。
珍しい物を前にして、ティニの瞳がグラスに負けじと輝く。まだ幼い弟子がこの手の物に殊更興味を惹かれることを、師はしっかりと把握していた。
しかし、今宵はこれだけで終わりではない。ユーダレウスは片眉を上げて笑んだ。
「いいか、ティニ。目ぇ閉じると損すんぞ」
「はいっ!」
師の忠告に、人形のように動きのない表情を心持ち明るくした弟子は、大きな期待を込めて青い瞳をしっかりと見開いた。その青は驚くほど鮮やかな色で目の前の世界を見つめている。
ふっと笑ったユーダレウスは、テーブルの上にふたつのグラスを並べ、カンテラが揺れる杖を構える。
そして、芝居がかった身振りで大きく両腕を開いた。
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