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第8章-1 縮まる距離
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数日後、二人は食堂のテーブルに向かい合って座っていた。
祐樹がごく一般的な家庭料理を食べてみたいと言うので、孝弘イチオシの安くてうまい大衆食堂に案内した。
「手纸は?」
言いながら、孝弘がメモ用紙に字も書いていく。
料理を待つあいだ、中国語クイズで勉強タイムだ。
「トイレットペーパー」
「じゃあ、中国語で手紙は?」
「信」
「汤は?」
「スープ」
「じゃあ、お湯は?」
「开水」
「んー、じゃあ开心は?」
「なんだろ、開く心だから、頼る?」
「はずれ、楽しいって意味。我很开心って使う」
「楽しいなのか、覚えとこ」
「工作は?」
「職業。働くって意味もあった?」
「そう、合ってる。总经理は?」
音だけでは理解できなかったのか、祐樹はメモをのぞいて孝弘の書いた文字を確認する。
「えーと、総経理だよね、社長?」
「正解。じゃあ、日本語の経理にあたるのは?」
「えー、知らないな」
「会计だよ」
「そうなんだ」
「飞机は?」
「飛行機」
「出差は?」
「出張する」
「仕事っぽい言葉は覚えてるんだな」
「わりと使う、というか聞くからね」
「そっか。じゃあ、娘は?」
「娘? …女の子?じゃないよね、知らない」
「娘はお母さん、だよ」
「ほんと?」
あ、かわいい。祐樹の目が丸くなった。そんな顔をするといつもより幼く見える。
この顔が見たくて、孝弘は祐樹が知らなさそうな中国の話をいろいろ教えてしまう。
「ほんと。テレビ見てたらよく出てくる。時代劇とか家族物のドラマとか」
「あ、そっか、上野くんがお勧めのドラマで聞いたよ。名前かと思ってた」
孝弘の書いた文字を指先でなぞって、ふふ、と笑う。
「娘なのにお母さんなんて、へんな感じ」
「中国人の友達もおんなじこと言ってたよ」
「そっか、中国人にとっても逆の意味になるのか」
「じゃあ、日本語の娘は中国語で?」
「え、と。なんだっけ? ……老婆?」
「はずれ、女儿。老婆は奥さんだね」
「そうだった。おばあさんの意味はないんだよね。知ってたのに。はー、混乱する」
祐樹が頭を振りながらまた笑う。楽しそうな笑顔。
「ああ、今だよね。我很开心(とても楽しい)」
にっこり笑う祐樹に、孝弘も気持ちが弾む気がする。
「我也一样(俺もだよ)」
孝弘がいたずらっぽい笑みを浮かべて、じゃあこれは?と文字を書く。
「爱人」
「これは知ってるよ、妻あるいは夫」
「そう、配偶者ね。じゃあ、日本語の愛人、不倫相手は中国語では?」
笑ったままの孝弘に祐樹が眉を寄せて首をかしげる。
「えー? それは知らない、何だろう?」
「第三者」
孝弘はゆっくり発音しながら、紙に文字をつづった。
「ホントに?」
書かれた文字を見て、祐樹は思わず孝弘の顔をあおぐ。
「真的(マジで)」
孝弘の笑みが深くなる。
「ね、なんだか奥が深いと思わない? 愛人が正妻で第三者が不倫相手ってさ」
漢字が書き散らされたメモ用紙を指でとんとんと叩く。
「うーん。意味深というか、びっくりした。第三者かぁ。すごい響き」
「でも、本来そうあるべきって感じするよな。愛する人が正妻で、第三者が不倫相手」
「そうだね、文字の意味からすると、ほんとはそういうことなんだよね」
祐樹はしみじみとメモを見てため息をついた。
「じゃ、恋人は?」
「ん? そのまま、恋人?」
「通じるけどすごく文学的。对象っていう。婚約者も同じ」
「対象?」
メモの文字を見て、ふしぎそうにつぶやく。
「そう。会話のなかで軽く言うなら、男朋友か女朋友が一般的。日本語の彼氏彼女くらいの感じ」
「そういえば、中国の恋人って密着度が高くない? あ、ふつうの友達もべったりだけど」
「やっぱ、高橋さんもそう思う?」
中国に来て驚いたことの一つに人との距離感がある。精神的な話ではなく、物理的な距離のことだ。子どもだけでなく大人でも人と人との距離が近いのだ。
男同士、女同士の友達でもふつうに手を繋いだり肩組んだりしているし、恋人つなぎで歩いている女子学生や、夏には上半身裸で肩を組んでいる男性同士をよく見かける。孝弘も中国に来たばかりの頃は、この距離感にずいぶんと戸惑った。
そのなかで恋人同士のべたべたぶりはさらに驚くほどの密着度だ。それは祐樹の中国人のイメージにはまったくなかったことで、かなり驚かされた。
「人口が多すぎるからなのかな、あんまりというか全然、人目を気にしないよね。堂々といちゃいちゃしてるからびっくりした」
「んー、これは中国人の友達が言ってたんだけど、家も狭くて個室とかないのがふつうだし、学生だと基本、寮生活だろ。すっごい狭い部屋に大学生は8人部屋だし、ずっと誰かしらと一緒だから一人になると怖いし寂しいんだって」
「そうなんだ。そういう環境で二人きりになんてなれないから、交際もおおっぴらになるのかもね」
「ちょっと前まで、大学生の恋人同士でデートっていったら、ゴザ持って人気のない場所に行ったりしたって聞いたよ」
「え? どういう意味?」
「大学、すごく広かっただろ、公園みたいに。学生寮は男女別だし異性は立入禁止だし、こっちって日本でいうラブホテルってないだろ」
「……つまり、外でってこと?」
「そう。ゴザ持って歩いてたら、その二人の邪魔をしないでって意味だったらしい」
へえ、暗黙の了解ってやつなんだね、と祐樹は感心している。
「さすがに今はもう、大学でゴザ持って歩いてるのは見ないよ。シート敷いて座っておしゃべりしてるのは見るけど。夜はあそこに行くなとか言われてるエリアならあるけどね」
「はー、そうなんだ。学生さんはいろいろ大変なんだね」
人ごとの顔をしている祐樹に、孝弘は心配になる。
この人、自分がどれだけ無防備かわかってないな。
「高橋さん、部屋に上げるのはもちろんだめだけど、外だからって安心すんなよ。押し倒されないようにな。中国人の女の子、けっこう押しが強いから」
「いくらなんでも、それはないよ。女の子に力で負けるとかありえないでしょ」
やわらかな笑顔に、ますます油断できないと孝弘は内心、ため息をつく。
腕力の問題じゃないんだけど。
「それに、おれがどっか遊びに行くときは、上野くんが一緒だから大丈夫だよ」
信頼されてうれしいのか、いさめるべきなのか孝弘は一瞬、判断にまよう。まあいいか。信頼されているのも悪くない。
「はい、おまちどう」
テーブルにどんと大皿が置かれて、勉強はそこまでになった。
祐樹がごく一般的な家庭料理を食べてみたいと言うので、孝弘イチオシの安くてうまい大衆食堂に案内した。
「手纸は?」
言いながら、孝弘がメモ用紙に字も書いていく。
料理を待つあいだ、中国語クイズで勉強タイムだ。
「トイレットペーパー」
「じゃあ、中国語で手紙は?」
「信」
「汤は?」
「スープ」
「じゃあ、お湯は?」
「开水」
「んー、じゃあ开心は?」
「なんだろ、開く心だから、頼る?」
「はずれ、楽しいって意味。我很开心って使う」
「楽しいなのか、覚えとこ」
「工作は?」
「職業。働くって意味もあった?」
「そう、合ってる。总经理は?」
音だけでは理解できなかったのか、祐樹はメモをのぞいて孝弘の書いた文字を確認する。
「えーと、総経理だよね、社長?」
「正解。じゃあ、日本語の経理にあたるのは?」
「えー、知らないな」
「会计だよ」
「そうなんだ」
「飞机は?」
「飛行機」
「出差は?」
「出張する」
「仕事っぽい言葉は覚えてるんだな」
「わりと使う、というか聞くからね」
「そっか。じゃあ、娘は?」
「娘? …女の子?じゃないよね、知らない」
「娘はお母さん、だよ」
「ほんと?」
あ、かわいい。祐樹の目が丸くなった。そんな顔をするといつもより幼く見える。
この顔が見たくて、孝弘は祐樹が知らなさそうな中国の話をいろいろ教えてしまう。
「ほんと。テレビ見てたらよく出てくる。時代劇とか家族物のドラマとか」
「あ、そっか、上野くんがお勧めのドラマで聞いたよ。名前かと思ってた」
孝弘の書いた文字を指先でなぞって、ふふ、と笑う。
「娘なのにお母さんなんて、へんな感じ」
「中国人の友達もおんなじこと言ってたよ」
「そっか、中国人にとっても逆の意味になるのか」
「じゃあ、日本語の娘は中国語で?」
「え、と。なんだっけ? ……老婆?」
「はずれ、女儿。老婆は奥さんだね」
「そうだった。おばあさんの意味はないんだよね。知ってたのに。はー、混乱する」
祐樹が頭を振りながらまた笑う。楽しそうな笑顔。
「ああ、今だよね。我很开心(とても楽しい)」
にっこり笑う祐樹に、孝弘も気持ちが弾む気がする。
「我也一样(俺もだよ)」
孝弘がいたずらっぽい笑みを浮かべて、じゃあこれは?と文字を書く。
「爱人」
「これは知ってるよ、妻あるいは夫」
「そう、配偶者ね。じゃあ、日本語の愛人、不倫相手は中国語では?」
笑ったままの孝弘に祐樹が眉を寄せて首をかしげる。
「えー? それは知らない、何だろう?」
「第三者」
孝弘はゆっくり発音しながら、紙に文字をつづった。
「ホントに?」
書かれた文字を見て、祐樹は思わず孝弘の顔をあおぐ。
「真的(マジで)」
孝弘の笑みが深くなる。
「ね、なんだか奥が深いと思わない? 愛人が正妻で第三者が不倫相手ってさ」
漢字が書き散らされたメモ用紙を指でとんとんと叩く。
「うーん。意味深というか、びっくりした。第三者かぁ。すごい響き」
「でも、本来そうあるべきって感じするよな。愛する人が正妻で、第三者が不倫相手」
「そうだね、文字の意味からすると、ほんとはそういうことなんだよね」
祐樹はしみじみとメモを見てため息をついた。
「じゃ、恋人は?」
「ん? そのまま、恋人?」
「通じるけどすごく文学的。对象っていう。婚約者も同じ」
「対象?」
メモの文字を見て、ふしぎそうにつぶやく。
「そう。会話のなかで軽く言うなら、男朋友か女朋友が一般的。日本語の彼氏彼女くらいの感じ」
「そういえば、中国の恋人って密着度が高くない? あ、ふつうの友達もべったりだけど」
「やっぱ、高橋さんもそう思う?」
中国に来て驚いたことの一つに人との距離感がある。精神的な話ではなく、物理的な距離のことだ。子どもだけでなく大人でも人と人との距離が近いのだ。
男同士、女同士の友達でもふつうに手を繋いだり肩組んだりしているし、恋人つなぎで歩いている女子学生や、夏には上半身裸で肩を組んでいる男性同士をよく見かける。孝弘も中国に来たばかりの頃は、この距離感にずいぶんと戸惑った。
そのなかで恋人同士のべたべたぶりはさらに驚くほどの密着度だ。それは祐樹の中国人のイメージにはまったくなかったことで、かなり驚かされた。
「人口が多すぎるからなのかな、あんまりというか全然、人目を気にしないよね。堂々といちゃいちゃしてるからびっくりした」
「んー、これは中国人の友達が言ってたんだけど、家も狭くて個室とかないのがふつうだし、学生だと基本、寮生活だろ。すっごい狭い部屋に大学生は8人部屋だし、ずっと誰かしらと一緒だから一人になると怖いし寂しいんだって」
「そうなんだ。そういう環境で二人きりになんてなれないから、交際もおおっぴらになるのかもね」
「ちょっと前まで、大学生の恋人同士でデートっていったら、ゴザ持って人気のない場所に行ったりしたって聞いたよ」
「え? どういう意味?」
「大学、すごく広かっただろ、公園みたいに。学生寮は男女別だし異性は立入禁止だし、こっちって日本でいうラブホテルってないだろ」
「……つまり、外でってこと?」
「そう。ゴザ持って歩いてたら、その二人の邪魔をしないでって意味だったらしい」
へえ、暗黙の了解ってやつなんだね、と祐樹は感心している。
「さすがに今はもう、大学でゴザ持って歩いてるのは見ないよ。シート敷いて座っておしゃべりしてるのは見るけど。夜はあそこに行くなとか言われてるエリアならあるけどね」
「はー、そうなんだ。学生さんはいろいろ大変なんだね」
人ごとの顔をしている祐樹に、孝弘は心配になる。
この人、自分がどれだけ無防備かわかってないな。
「高橋さん、部屋に上げるのはもちろんだめだけど、外だからって安心すんなよ。押し倒されないようにな。中国人の女の子、けっこう押しが強いから」
「いくらなんでも、それはないよ。女の子に力で負けるとかありえないでしょ」
やわらかな笑顔に、ますます油断できないと孝弘は内心、ため息をつく。
腕力の問題じゃないんだけど。
「それに、おれがどっか遊びに行くときは、上野くんが一緒だから大丈夫だよ」
信頼されてうれしいのか、いさめるべきなのか孝弘は一瞬、判断にまよう。まあいいか。信頼されているのも悪くない。
「はい、おまちどう」
テーブルにどんと大皿が置かれて、勉強はそこまでになった。
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