あの日、北京の街角で

ゆまは なお

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第17章-1 満月の夜

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 安藤から電話があったとき、この誘いをどうやって断ろうかと孝弘は頭を悩ませた。
「先週は仕事がバタバタでさ、病み上がりの高橋にもいろいろ手伝ってもらって、何とかのりきったんだけど。んで遅くなって悪かったけど、こないだのお礼ってことで29日の水曜はどう? 事務所のみんなで食事会でも」
「や、お礼なんていいですよ。高橋さんが元気になったんだったら、もうそれで」
 会いたくないんですって、いや会いたいけど、でもやっぱり会いたくない。頼むから誘わないでくださいよ、ようやく落ち着きかけたところなのに。
 孝弘の心の声は安藤には通じない。

「そうそう、高橋がすごく感謝してたよ。毎日ご飯作りに来てくれたって。上野くん、料理上手なんだってね。いい嫁さんになれるって言ってたよ」
 よく言うよ。つき合ってもくれないくせに何言ってんだよ。俺が結婚したいって言ったら嫁にもらってくれんのかよ。
「中国方式なもんで」
 共働きが当然の社会主義国家中国では、男女平等の教育のもと、男性でも料理や家事はできて当たり前だ。会社帰りに市場で買い物をして夕食を作る男性などそこら中にいて、めずらしくもなんともない。

「そっかそっか。上野くんは中国人の嫁をもらうわけか」
「もらいませんよ。で、29日って」
 断ろうと口を開いたが、安藤はたたみかけてくる。
「うん。30日が中秋節で休みでしょ、心置きなく飲んで、うちに泊まってくれてもいいから」
「や、でも課題がいろいろ出てて」
 なんとか断ろうとするが、苦しい言い訳を安藤は笑い飛ばした。

「1日から国慶節休暇じゃない。課題はその時にやればいいから、ともかくおいで。俺にお礼もさせないつもりなの。ってなんかおやじギャグみたいか、いやダジャレかな」
 電話の向こうで能天気に笑っている。
 そうだった。
 今年は中秋節の翌日が国慶節(建国記念日)になっていて、ちょうど週末も絡んで四連休になっている。毎年この時期は帰省のための民族大移動で交通機関は大混雑する。
 安藤の言うとおり大学も連休になっていて、それ以上うまい断り文句も思いつかない孝弘は、食事会へ行くことになってしまった。


 意外なことに、食事会は屋外でバーベキューだった。
 事務所は明日から連休ということで、それぞれ家族旅行や一時帰国の予定があるようだ。中国には連休が少ないので、駐在員家族にとっても国慶節休暇は貴重な休みだ。
「月見しながらバーベキューもいいでしょ」
 安藤がにこにこしながら、肉やトウモロコシやソーセージを焼いている。安藤と鈴木の家族も来ていて、子供たちが夕闇のなかを走り回ってはしゃいでいた。
 高橋はビール片手に趙と彼の妻となにか話している。

 満月が明るく夜空を照らして、なんだかふしぎな気分になる。芝生にシートを敷いて、ごろりと横になっているとそのまま眠ってしまいそうだ。
「ほら、上野(シャンイエ)、しっかり食べろ」
 趙が焼けた肉を皿に入れてきた。
「もうお腹いっぱいですって」
 ほどよくビールが回って、いい気分だった。
 祐樹とは最初に挨拶して、体調を訊ねたあとは会話していない。

 ただ祐樹が飲んだり食べたり、誰かと会話する姿を離れて見ていた。スクリーンで映画を見るように。その中にじぶんは入っていけない気がした。
 ほら、こうやって見ているだけなら許される。
 これ以上は踏み込んではだめ、そんな気がして声をかけられなかった。
 祐樹はまんべんなく一人一人に声をかけ、控えめに笑いながら会話を交わし、ビールを注いだり注がれたり、いかにも社交慣れしている感じに見えた。

 ぼんやりとまるい月を眺める。
 明るく光った月はぽっかり浮いて、作り物みたいだ。
 中国では月にはヒキガエルが住んでいるという。
 去年の教科書に載っていた中国の伝説だ。
 ヒキガエルってなんだよ。そんなマイナーな生物が月にいるって設定はどうなんだ。西王母から不老不死の薬を盗んだ嫦娥という女の変化した姿だったっけ? 
 今夜の満月はただきれいで、ヒキガエルなど住んでいそうにない。

 月餅の丸。そういや中国人の友人たちからもらって、月餅は10個近く集まった。そんなに食えるかよ。三ヵ月以上もつらしいが、どんな保存料が入ってんだか。
 あーでもイギリスの留学生が何年ももつケーキ焼くとか言ってたっけ。  
 とりとめのないことを考えているうちにすこし眠ったらしい。
「大丈夫です、うちに泊めますから」
 遠くから祐樹のやさしい声が聞こえる。夢かな。
「でも明日出発でしょ、いいのかしら?」
「午後だから平気ですよ」
「本当に?」
「ええ、午前中には目を覚ますでしょう」

「そうか。きょうはうちに泊めようと思ってたんだけど」
「お子さん二人、寝ちゃってて大変じゃないですか。上野くん、もって上がれないでしょ」
「確かに。最後に悪いな、じゃあ頼むわ」
「いいですって。じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
「お世話になりました」
「気を付けて帰ってね」
「ええ、おやすみなさい」
 ぼんやりとどこからか声が聞こえていた。

 ああ、みんな帰るのか。
 俺も帰らなきゃ。
 どこへ? 月に? いや違うな。
 ふわふわといい気分で酔ったまま、肩をかつがれた。
「ほら、起きて。立てる? 帰るよ、酔っぱらい」
「んー、平気。酔ってないよー」
 目を開けると至近距離に祐樹の顔があった。
「あー、高橋さんだ。こんばんは、元気になった?」
 うれしくてにこにこ笑いかけると、祐樹が目をみはった。

「なに言ってるの。ずっと一緒だったでしょ。ほら、乗って」
 目の前にはタクシーがあった。月に向かうのは嫌だった。
「やだ。まだ飲む。帰らない。月にはヒキガエルがいるんだから」
「ヒキガエル? なに言ってるの。いいから乗って」
 タクシーに押し込まれ、孝弘はぼんやりと窓の外を見る。
 どこに向かっているんだっけ? 

 
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