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第18章-1 通訳 上野孝弘
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東京本社での顔合わせから五日後、祐樹は北京事務所で孝弘と再会した。
孝弘は事前に中国入りして諸々の手配を済ませていた。安藤と鈴木はすでに国内の別の事務所に異動になっていたが、今も原田と趙英明は残っており、孝弘とはずっと親交が続いていたようで親し気に話をしている。
祐樹は目の前の孝弘を見て、夢の続きを見ている気分になる。
東京で会ったスーツ姿ではなく、きょうの孝弘はシャツに綿パンツというカジュアルな格好だ。そのせいで五年の時間なんてなかったような錯覚を起こした。
ここで同じような服装でアルバイトしていたのが昨日のことのようだ。仕事帰りに一緒に夕食を食べに行っていたことを鮮やかに思い出した。
「お疲れ様です。定刻通りに着いてよかったですね」
孝弘に会ったら何を話せばいいのかと内心、祐樹はあれこれ心配していたのだが、事務所で顔を合わせた孝弘は穏やかな態度で話しかけてきた。
「ええ。明日だったら、遅れたかもしれないな」
本州に台風が接近していたのだ。
「揺れませんでした?」
「それほどは」
ビジネスモードの孝弘に慣れなくて、丁寧語で話しながら違和感を感じてしまう。孝弘は平然としていて、ほかのスタッフもいるのだから当たり前なのだが、ほっとするようなもやもやするような複雑な心境を祐樹は自分でも扱いかねた。
一体どんな態度をとって欲しかったというのか。
お互いに社会人の顔で何ごともなかったかのようなふりをして会っているのがふしぎだった。
「初めて会ったの、王府井でしたね」
「そうだね。忘れられない出会いだったな」
祐樹が笑うと孝弘もやわらかく微笑んだ。
笑ってもらったというのに、ふと寂しくなる。あのころ孝弘は営業用の笑顔なんて使わなかった。
基本的に無愛想な表情でいることが多かった。目つきが鋭くて背も高くて、なんとなく怖そうに見えることもあった。
実際に話してみるとけっこう親切で意外と世話好きで、祐樹は中国生活のコツやちょっとした知恵を孝弘に教えてもらったものだった。
「うん。上野くんが留学生だってわかったから、絶対に逃がしちゃだめだと思って必死だったな。ここで通訳を引き受けてもらえなかったら、クライアントになんて詫びたらいいんだろうって、もう心臓バクバクしてた」
あれが運命の輪が回った瞬間だった。
あの日、北京の街角で、「いってーな」と不機嫌そうなあの声を聞いたことが、現在につながっている。
「そんなふうには見えませんでしたけどね。北京は久しぶりでしょう? 行きたい店でもありますか? 同行者の方は日本料理がいいですか?」
中国に着いて最初の食事で腹をこわした祐樹の同行者は、いまはトイレにこもっている。青木は初めての北京で、どうやらあまり胃腸が強くないようだ。
それを気遣った孝弘の問いかけだったのだが、祐樹はくすぐったい顔になる。
「なんですか?」
「いや、上野くんからそんな言葉遣いされたことなかったから、なんか新鮮というか照れるというか」
孝弘はきまり悪げにこめかみを掻いた。
「それはだって……、高橋さんは今はクライアントですし。学生のころと同じってわけにはいかないでしょ」
あのころ孝弘は祐樹に対して敬語は使わなかった。中国初心者の祐樹に頼もしい友人のように接していたのだ。
「上野くんはずっと北京に?」
あれから、といいそうになったのをかろうじて回避する。
あれからだなんて、自分のなかのこだわりを改めて確認したようで祐樹は動揺する。孝弘は何も思っていないに決まっているのに。
「結局、合計四年ほど留学しました。四年目は半分くらい仕事して、残りは国内旅行したり香港に短期留学したり、起業したり。正式にこの仕事を始めて二年半ほど経ちます」
四年間の留学生活でそれなりに人脈もでき、安藤が紹介した駐在員からも来中する家族の旅行手配、駐在員の研修通訳など何かと仕事が回ってきた。
それをこなすうちに通訳のコーディネートをする会社から声がかかったのだと言う。
北京語の需要はここ数年の中国経済の発展とともにうなぎのぼりに伸びていて、現地事情に通じたフットワークの軽い通訳が必要とされる時代になっていた。
孝弘は頼まれれば気軽に仕事を受けた。
仕事熱心というよりは新しい経験が単純に楽しかったのだ。自分でいいならと時間の許す限り片っ端から引き受けていたら、若いが現地事情に詳しく腕がいい通訳だといつのまにか評判になっていたらしい。
腕がいいというのはこの場合、たんに語学レベルのことではない。
中国特有の社会主義と改革開放政策のあいだにある矛盾を飲み込んだ役人対応ができて、本音と建前の交錯するなかを中国人の面子をつぶさず、クライアントの利益も取れるような臨機応変な対応ができるということを指す。
正式に仕事を始めると、中国の政治と経済の矛盾の海のなかを泳ぐように、孝弘は中国と日本を何度も往復することになった。
その落ち着かない生活は孝弘の性格に合ったようで、仕事が楽しいと笑う。
したたかな中国人ビジネスマンの二枚舌三枚舌に翻弄されても、何事もチャレンジだと面白がれる精神力と、どこか他人事のような冷静さで乗り切る姿が目に見えるようだ。
空白の五年間のことをさらりと話した孝弘に、祐樹は意識して穏やかな声を出した。
「上野くんは行動力があるからね。期待してます」
「ご期待に沿えるよう頑張ります」
孝弘の優等生のほほ笑みと返答にすこし落胆する自分に気づかないふりをしながら、祐樹は冷めたコーヒーを飲む。
渋い苦みが口に残った。
孝弘は事前に中国入りして諸々の手配を済ませていた。安藤と鈴木はすでに国内の別の事務所に異動になっていたが、今も原田と趙英明は残っており、孝弘とはずっと親交が続いていたようで親し気に話をしている。
祐樹は目の前の孝弘を見て、夢の続きを見ている気分になる。
東京で会ったスーツ姿ではなく、きょうの孝弘はシャツに綿パンツというカジュアルな格好だ。そのせいで五年の時間なんてなかったような錯覚を起こした。
ここで同じような服装でアルバイトしていたのが昨日のことのようだ。仕事帰りに一緒に夕食を食べに行っていたことを鮮やかに思い出した。
「お疲れ様です。定刻通りに着いてよかったですね」
孝弘に会ったら何を話せばいいのかと内心、祐樹はあれこれ心配していたのだが、事務所で顔を合わせた孝弘は穏やかな態度で話しかけてきた。
「ええ。明日だったら、遅れたかもしれないな」
本州に台風が接近していたのだ。
「揺れませんでした?」
「それほどは」
ビジネスモードの孝弘に慣れなくて、丁寧語で話しながら違和感を感じてしまう。孝弘は平然としていて、ほかのスタッフもいるのだから当たり前なのだが、ほっとするようなもやもやするような複雑な心境を祐樹は自分でも扱いかねた。
一体どんな態度をとって欲しかったというのか。
お互いに社会人の顔で何ごともなかったかのようなふりをして会っているのがふしぎだった。
「初めて会ったの、王府井でしたね」
「そうだね。忘れられない出会いだったな」
祐樹が笑うと孝弘もやわらかく微笑んだ。
笑ってもらったというのに、ふと寂しくなる。あのころ孝弘は営業用の笑顔なんて使わなかった。
基本的に無愛想な表情でいることが多かった。目つきが鋭くて背も高くて、なんとなく怖そうに見えることもあった。
実際に話してみるとけっこう親切で意外と世話好きで、祐樹は中国生活のコツやちょっとした知恵を孝弘に教えてもらったものだった。
「うん。上野くんが留学生だってわかったから、絶対に逃がしちゃだめだと思って必死だったな。ここで通訳を引き受けてもらえなかったら、クライアントになんて詫びたらいいんだろうって、もう心臓バクバクしてた」
あれが運命の輪が回った瞬間だった。
あの日、北京の街角で、「いってーな」と不機嫌そうなあの声を聞いたことが、現在につながっている。
「そんなふうには見えませんでしたけどね。北京は久しぶりでしょう? 行きたい店でもありますか? 同行者の方は日本料理がいいですか?」
中国に着いて最初の食事で腹をこわした祐樹の同行者は、いまはトイレにこもっている。青木は初めての北京で、どうやらあまり胃腸が強くないようだ。
それを気遣った孝弘の問いかけだったのだが、祐樹はくすぐったい顔になる。
「なんですか?」
「いや、上野くんからそんな言葉遣いされたことなかったから、なんか新鮮というか照れるというか」
孝弘はきまり悪げにこめかみを掻いた。
「それはだって……、高橋さんは今はクライアントですし。学生のころと同じってわけにはいかないでしょ」
あのころ孝弘は祐樹に対して敬語は使わなかった。中国初心者の祐樹に頼もしい友人のように接していたのだ。
「上野くんはずっと北京に?」
あれから、といいそうになったのをかろうじて回避する。
あれからだなんて、自分のなかのこだわりを改めて確認したようで祐樹は動揺する。孝弘は何も思っていないに決まっているのに。
「結局、合計四年ほど留学しました。四年目は半分くらい仕事して、残りは国内旅行したり香港に短期留学したり、起業したり。正式にこの仕事を始めて二年半ほど経ちます」
四年間の留学生活でそれなりに人脈もでき、安藤が紹介した駐在員からも来中する家族の旅行手配、駐在員の研修通訳など何かと仕事が回ってきた。
それをこなすうちに通訳のコーディネートをする会社から声がかかったのだと言う。
北京語の需要はここ数年の中国経済の発展とともにうなぎのぼりに伸びていて、現地事情に通じたフットワークの軽い通訳が必要とされる時代になっていた。
孝弘は頼まれれば気軽に仕事を受けた。
仕事熱心というよりは新しい経験が単純に楽しかったのだ。自分でいいならと時間の許す限り片っ端から引き受けていたら、若いが現地事情に詳しく腕がいい通訳だといつのまにか評判になっていたらしい。
腕がいいというのはこの場合、たんに語学レベルのことではない。
中国特有の社会主義と改革開放政策のあいだにある矛盾を飲み込んだ役人対応ができて、本音と建前の交錯するなかを中国人の面子をつぶさず、クライアントの利益も取れるような臨機応変な対応ができるということを指す。
正式に仕事を始めると、中国の政治と経済の矛盾の海のなかを泳ぐように、孝弘は中国と日本を何度も往復することになった。
その落ち着かない生活は孝弘の性格に合ったようで、仕事が楽しいと笑う。
したたかな中国人ビジネスマンの二枚舌三枚舌に翻弄されても、何事もチャレンジだと面白がれる精神力と、どこか他人事のような冷静さで乗り切る姿が目に見えるようだ。
空白の五年間のことをさらりと話した孝弘に、祐樹は意識して穏やかな声を出した。
「上野くんは行動力があるからね。期待してます」
「ご期待に沿えるよう頑張ります」
孝弘の優等生のほほ笑みと返答にすこし落胆する自分に気づかないふりをしながら、祐樹は冷めたコーヒーを飲む。
渋い苦みが口に残った。
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