あの日、北京の街角で

ゆまは なお

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第30章-3

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 満ち足りた気分でセックスのあとの気だるい余韻に浸っていると、孝弘が祐樹の左腕を取った。指先でたどって傷跡を確かめているようだ。
 キッチンの灯りが点いたままなので、この部屋もわりと明るい。
 孝弘の眉が痛そうにひそめられる。

「もう痛くないよ」
「わかってる。でも痕は残りそうだな」
「女の子じゃないんだから平気だよ」
「好きな相手に傷なんかつけたくないだろ、男でも女でも」
 胸に抱き込まれると安心する。
 けれども、いたずらな手が背中をなでるので、祐樹は軽く身をよじった。

「話をするんじゃなかった?」
「するよ」
 でもいちゃいちゃしたいだけ、と髪をなでられた。
 孝弘は祐樹に触れるのが好きなようだ。出張中もちょっと隙を見せると、頬や肩やもっときわどいところにも触れられたことを思い出す。
 しばらくそうして体をくっつけていた。

 そのあいだに祐樹は心を落ち着けて、小さく息を吸って口を開いた。
「ほんとにごめんね、孝弘」
 祐樹の言葉に孝弘の手が止まる。
 肩を掴んだ手にぐっと力がこもった。
「この期におよんで、つき合わないとか言う?」
 
 不穏に低くなった声に、祐樹があわてた。
 一大決心をして口にした謝罪と名前だったのだが、誤解させたらしい。
「ちがうって。そうじゃなくて、5年前のこととか、この前のこととか、いろいろ…ええと、断ってごめんって意味で」
 しどろもどろになる祐樹を見て、孝弘はほっと力を抜いた。
「おどかすなよ、俺のもんだよな?」
「う、うん」
 治まったはずの熱がぶり返し、一気に顔が熱くなる。

 俺のもの、なんて言ってもらうのはずいぶんと久しぶりだった。うれしいような恥ずかしいような、身の置き所がなくてこのまま布団のうえを転げまわりたい気分だ。
「誰かほかの奴、いるの?」
 続いた問いに、祐樹は返答に窮して黙り込んだ。

 恋人というわけではないが、会ってたまに気が向けばセックスもするくらいの友人なら何人かいるからだ。
 セフレというほどドライな関係ではなく、友情の中にたまにセックスが入るというくらいの間柄だ。
 しかしそれをこの場で正直に告げてもいいものか。いや、それはまずいよな。ここはしらを切ったほうがいいか? …でもそれもまずいかな。

 声にならない祐樹の返答の意味を、孝弘は敏感に察した。
「俺は誰かと祐樹を共有する気はないよ。全部切って」
 強い目線で静かに諭すように告げられる。真剣な表情に圧倒された。
 独占欲を見せられてうれしいだなんて。
 治まっていた鼓動がじわじわ速くなってとくとく音をたてる。

「わかった」
 素直に頷くと、ぎゅっと抱きしめられた。
「まじで嫉妬する。誰のものでもない祐樹だったんだから、過去をどうこう言いたくないのに。それでもムカつく」
 正直な気持ちをぶつけられて、祐樹も素直になることにした。

「わかるよ。おれも嫉妬した。孝弘が佐々木くんと会ってるの見たとき。彼氏じゃないだろうなって思っても、仲良さそうな後ろ姿だけでもイライラしたよ」
「そっか。……もっかい好きって言って。それで忘れてやる」
「好きだよ、孝弘。大好き」
 狭い布団で抱き合っている状態で孝弘がはあ、と息をつくのが聞こえた。祐樹の頬をなでて、そっと触れるだけのキスをされる。

「もう知ってるみたいだけど、今回の仕事、偶然じゃないんだ」
「そうだってね。でもどうして?」
「去年の春、祐樹を見かけた」
 意外な言葉を聞いて、祐樹は目を瞬いた。孝弘と会った記憶なんかない。
「どこで?」
広州グワンジョウの交易会の会場で」
 その交易会に孝弘は通訳として呼ばれていたのだが、呼んだ企業が突然の撤退を決めてしまったせいで予定がぽっかり空いてしまったのだ。
 せっかくだから勉強がてら見ていこうと会場内を回っていたら、企業ブースの前にいる祐樹を偶然見つけた。

 祐樹はブースにひっきりなしに訪れる客の対応に追われていて、孝弘には気が付かなかった。孝弘はそれを幸い、じっくり祐樹を眺めることができた。
いつも優しいのにどこか遠い人だった。甘え上手で意外としたたかで、孝弘に鮮烈な印象を残して姿を消した思い人。
 4年ぶりに見た祐樹は堂々としていた。スーツ姿が恰好よくて、客と話をして笑う顔に目を奪われた。北京で色んなことに驚いたり戸惑ったりしていた祐樹はもういなかった。声が聞きたくて、裏側のブースに行って耳をすませた。
 ビジネス用の滑らかなトーク、やわらかく張りのある声。懐かしくて、胸が震えた。
 一度だけ聞いたぞんざいな声。あの声で話しかけられたかった。

 だが、横についていた日本人通訳の男に孝弘は腹を立てていた。
 そんなテキトーな訳してんじゃねーよ。全然、客の要望が伝わってねーよ。もっと適切な言葉があるだろ。こいつ、北京語もダメだけど日本語もぜんぜんなってねーな。北京語より先に、日本語勉強し直して来いよ。
 祐樹の足を引っ張るような通訳が、当然といった顔で傍にいるのが耐えられなかった。
 なんで俺があそこにいないんだろう。俺ならあんな適当な仕事はしないのに。もっときちんと祐樹をサポートしてやれるのに。

 悔しくて 、気が付いたらかみしめた唇が切れていた。
 こんなことをしてる場合じゃない。強烈な後悔と焦燥に突き動かされて、その日の夜に安藤に電話していた。 


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