エレンディア王国記

火燈スズ

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第3章

142.反乱

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 風の鳴りが変わった。白樺の葉裏が、同じ角度でひと筋にめくれる。ヒナが袖を引く力はわずかだったが、リアには十分だった。

「行きます」

 囁きに、カイラが半歩前へ出る。アレスはすでに弦を撓め、矢の羽根が影に溶けている。ティグノーは肩の上で小さく身を沈め、『風の道、三つ。裂けば四つになる』と低く告げた。

 最初の一打は、音にしない。門の支柱に獣脂を塗り広げていたラウラ族の背に、アレスの矢が無言で触れ、男は膝から崩れた。続けざまに二本、火壺を覆う布の縁だけを射ち、布がぐにゃりと潰れて火口が塞がれる。男たちが振り向いた瞬間、カイラが躍り込んだ。両手剣は抜かない。柄頭で喉を削ぎ、肘で鳩尾を潰し、踝を踏み砕く。一撃ごとに骨の角度が変わる音がしたが、それでも叫びは上がらない。叫ぶ前に空気を奪われる打ち方だ。

 リアは祠の方へ走った。誓いの枝の布を剥がそうとしていた影が二つ。ひとりの手首を掴んで捻り、反対の手で口を塞ぐ。もうひとりが刃を振り上げるのをヒナが遮った。短く踏み込み、両手の小太刀のように見えたのは――木の棒だった。彼女は棒の先で相手の手の甲を叩き、力を抜かせ、次の瞬間には身体を反して膝裏に棒を差し込んで倒す。無音の連携。誓いの枝にかけられた布は、リアがそっと戻して縁を整えた。

 門外の導火筋に撒かれた黒粉を、ティグノーが鼻先で嗅ぐ。

『草灰に見せた硝の粉。風が強ければ燃え移る』

「アレス。粉の筋を切って」

「了解しました」

 アレスの矢が土の筋を連続で穿ち、火の道は千切れ千切れになった。

 そこまで、すべてが滑らかすぎた。抵抗はあるが、噛み合わない。腕の太い男も、若い獣皮の少年も、動きが粗く、目は熱に浮かされたように潤んでいる。匂い――獣脂と一緒に、甘くどこか薬の匂い。怒りの色は濃いのに、躊躇う瞬間が不自然に多い。打てるのに打たない、避けられるのに避けない。まるで、捕まるために来たみたいに。

(……違う。これは、時間稼ぎだ)

 リアは歯の裏で短く息を鳴らし、門の外縁――風の道が重なる場所へ視線を走らせた。そこに、いた。

 灰色のフード、灰色のマント。灰は夜の色を帯び、輪郭を食う。顔は見えない。手には、短い柄の鎌が二本。そして腰には、しゃらりと鳴る細い鎖。足の置き方が軽すぎる。砂の上に影の形だけを残して滑るように動く。ラウラ族ではない。動きが戦いの音でできている。

「――銀翼か」

 リアの声に、男はわずかに顎を上げた。フードの奥で、笑ったような気配がする。返事はない。代わりに、鎖がやさしい鈴のように鳴った瞬間、男はもうそこにいなかった。

 来る。

 風が切れた。鎌の一つがリアの喉を薙ぎ、もう一つが膝を払う。リアは刃の手前で身体を半分落とし、剣をわずかに寝かせて鎌の腹を滑らせる。鎖が遅れて襲いかかり、足首を絡め取ろうとするのを、ヒナが横から棒で弾いた。火花は出ない。鎖の輪の“耳”を正確に叩いて角度を変えているからだ。

 男の鎌は引いて押す。刃は肉を裂く角度に入ってくるが、引かれる瞬間には空気しかない。リアは剣を短く持ち替え、刃先で鎌の首を突いて軌道を変える。柔らかい木を押しているような手応え。相手の力は弾まず、絡む。危うい。

「リア様、右!」

 ヒナの声が落ちると同時に、鎖が地面を走り、足首を狙って弾けた。リアは片足で地を蹴り、体を斜めに倒して鎖の輪を肩で受ける。身体の外側で鎖が回り、肩に食い込む痛みと引きの力が来る。引く前に、リアは自分から一歩分前に出た。引く力を、前へ崩す力に変える。鎖の持ち手が一瞬だけ遅れ、その隙に剣が閃いて輪をひとつ切った。甲高い金属音。男が初めて、指の力を入れ直した気配を見せた。

 カイラが援護へ踏み込もうとする。

「カイラ、周囲の制圧を。彼はわたしとヒナで」

「了解!」

 カイラは即座に向きを変え、残ったラウラの男たちを床に吸い込むように倒していく。アレスは矢の角度で逃走の道を狭め、腿と肩を打ち抜いて動きを奪う。捕縛紐をケニーが投げ、倒れた男たちの手首を背中で縛っていった。シャリスが低く唱え、暴れる者の足元に滑るような薄膜を引いて転ばせる。制圧は、滑らかに進む――それがなおさら、違和感を濃くした。

 銀翼の男は、ひと息も乱れない。ヒナの棒を見切り、二撃目三撃目を“遅らせて”出す。早いのではない。遅いのだ。相手が来ると思ったインターバルの外側に、刃を置いてくる。予兆が潰される。リアは剣の柄を握る手の力を抜き、刃先だけを浮かせた。重さで勝とうとしない。浮きと落ちで、相手の遅延に自分の先を合わせる。火は使えない――目の前には油、後ろには家。炎は呼べない。呼べるのは熱だけだ。

 剣の刃が空気を割り、その薄い熱が鎌の腹に触れた。金属がわずかに膨張し、噛み合わせが一瞬だけ甘くなる。ヒナが棒で“首”を叩く。鎌の軌道が乱れ、男の足が芝を滑った。リアは迷わず踏み込み、剣の柄で相手の肩を打ち、刃を喉元へ――そこで、白い砂のようなものが視界に散った。

 目に沁みない。だが、肺が受け付けない。息が浅くなる。白燧粉だ。光は出さないが、空気の湿りを奪う。肺の滑りが悪くなる。リアは舌の根で上顎を叩き、呼吸のリズムを変えた。ヒナが二歩下がり、袖で口元を覆う。ティグノーが肩の上で低く唸り、『火は使うな。火は呼吸を喰う』と釘を刺した。

 男は距離を取らず、逆に詰めた。鎌が揃い、鎖が背中で鳴る。動きが一段、速くなる。リアは先を読むのをやめ、今この瞬間の“触れ”だけで動く。刃が擦れ、衣が裂け、袖が飛ぶ。ヒナの棒が男の手首を打ち、リアの剣が鎌の柄尻を払う。肉薄。刃筋が頬を掠め、熱が線で残る。男のフードの奥で、笑いがわずかに深くなった気がした。

 決め切れない。殺せる機会は、ある。だが、ここで炎を呼べば、油に火が移り、村は燃える。リアはその線を越えない。男は、越えさせようとしている。

(……逃げる気だ)

 次の瞬間、男は鎖を地面へ打ち、鎌を背に回して、身体を斜めにした。影がずれたと思った時には、もう塀の上だった。足音はない。地面に残ったのは、灰色の布の端と、乾いた白粉の匂い。

「追撃を!」

「射角、木立が邪魔です!」アレスの矢が二本、塀の縁を削るだけで消えた。ヒナが塀へ駆け上がるが、夜の木々は影と影の奥へ男を飲み込んでいく。ティグノーが鼻を鳴らす。

『速い。風の影に紛れおる』

 門の内側から、人々の声が溢れた。火は小さいまま、だが灯りが増える。ハランが駆け寄り、状況を一瞥して即座に声を張った。

「集まるな、輪になれ! 女と子は中央、男は外輪。足元に気をつけて、獣脂には触れるな!」

 人々は従った。昨夜の蠍王の後、彼の声に逆らう者は少ない。捕縛されたラウラ族が地に並べられ、シャリスとルテラが手早く怪我の手当てをする。ケニーは縛り目を点検しながら、獣脂の壺から離すように倒れた男たちの向きを変える。

 やがて、ざわめきの中に、ひそひそとした別の波が混じった。

「ティーダは?」

「見ない」

「一緒じゃなかったのか」――いない。ここにいるラウラ族の中に、あの顔はない。

「リア様。」ハランが近づき、低く告げる。

「……私から民には説明します。夜の見回りは倍に。誓いの枝は私どもで守りましょう」

「お願いします。」リアは頷き、ヒナへ顔を向けた。

「行きます。銀翼の男は森へ。ティーダも同じ匂いを追っているはずです」

「はい」ヒナは短く答え、足首の布をきゅっと締め直す。

「カイラ、アレス――ここを頼みます」

「承知しました」

「任せてください」

 リアは肩の小さな神獣へ目で問う。ティグノーは空を嗅ぎ、『白い粉の匂い、北東へ薄く。鳴草の帯を渡って風門の方じゃ』と答えた。

 闇は深いが、星は濃い。風は冷たいが、筋はある。リアとヒナは影から影へ、音を残さず走った。草は膝に触れて鳴き、白樺は夜露に光る。足元に、小さな灰色の羽飾りが落ちていた。銀翼のものだ。拾い上げると、指先に白粉が移る。鼻の奥に、乾いた匂い。

「逃がしません」ヒナの声は静かだが、刃の背に似た硬さがあった。

 リアは頷き、闇の向こう――鳴草の帯の、さらに向こうへ視線を投げた。風が、一瞬だけ、背を押した。
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