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第一章 ヴァルム試験国家編
第三話 空欄の死亡届と死人文官
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山肌をなぞるように続く細い道が、崖の上の煙を視界の端から追い出すまで、ひたすら下へ伸びていた。
足もとには、茶色く変色した蹄鉄の痕と、荷馬車の浅い轍がとぎれとぎれに残っている。雪と泥に半分埋もれたそれは、「もう使われていない」ではなく、「ぎりぎりまで使い倒されている」道だと告げていた。
苔に縁取られた里程標が、片側へ首を折るように傾いている。刻まれた文字はところどころ欠け、指でなぞれば粉になりそうだったが、帝都からここまでの距離だけは、かろうじて読み取れた。
道脇の石積みは一部崩れ、崩れ目から顔を出した草が、道と崖の輪郭をゆっくり飲み込もうとしている。
エリアーナは、抱えている帳簿がずり落ちないよう、胸の位置を少し上へ持ち上げた。
片手は常に斜面側の幹や露出した岩を探っている。柔らかくなった土を踏むたび、靴底から冷たい水がじわりと染み上がってきた。
(通行頻度は、かつての三分の一……いえ、四分の一程度でしょうか)
足の裏の感触と、轍の薄さを頭の中で掛け合わせる。
税区を区切る地図の墨線から、この道が外されても、不思議ではない。
息にほんのり白さが混じり始めた頃、谷を巻いていた道は傾斜を緩め、なだらかな丘の縁へと抜け出た。
丘を一つ越えた先に、瓦屋根が肩を寄せ合うように連なっている。
煙突から上がる煙が、夕方の空に細い帯を何本も引き、その匂いが風に薄く乗ってきた。焼いた麦と、煮込みに使う安い油の匂い。
小さな宿場町だ。
土を踏み固めただけの低い土塁と、形ばかりの木柵が輪郭を示している。
出入りする人影は多くない。荷車を押す男と、背負い籠を担いだ女たちが、日暮れを急かすように足早に家々へ吸い込まれていく。戸口の隙間から漏れる灯りが、雪混じりの泥に短い筋を落としていた。
エリアーナは、泥が跳ねたドレスの裾を一度だけ手で払うと、何事もなかった顔で町の入口をくぐった。
肩に掛けた灰色のマントは、父の外套の裏地をばらして縫い合わせたものだ。
焼け焦げたドレスの裂け目は、その下に隠れている。布の焦げた匂いは、もうほとんど残っていない。
遠目には、山道でしくじった旅人の一人――それくらいの記号にしか見えないはずだ。
町の中央近く、木造二階建ての建物が、他よりわずかに大きく口を開けていた。
頭上に掲げられた看板には、掠れた黒い字で「宿」とある。板の端が欠け、打ち直した釘の跡がいくつも並んでいた。
前には小さな荷馬車が一台。車輪にはまだぬかるみの泥がこびりつき、御者台は空のまま冷えている。
扉の取っ手に触れると、乾いた木がきしんだ。
押し開けた瞬間、外気とは違う重さの空気が、胸のあたりをぬるく撫でて通り抜ける。
煮込んだ豆と根菜の匂い。水で薄めた安酒の酸っぱい匂い。長いあいだ煤を吸った木材の、焦げとも埃とも言い切れない匂い。
王都の香水と蜂蝋の甘さが混ざった空気より、よほど素直な匂いだった。
室内は、炉の火と壁際に吊るされた数本のランプだけで照らされている。光は黄色く、薄い油膜越しに見るような揺らぎ方をしていた。
節の目立つ木のテーブルがいくつか置かれ、その半分ほどに旅装束の男たちが陣取っている。
革のこすれる音、ジョッキ同士の鈍い衝突音、笑いが喉で潰れたような声。
扉の音に、いくつかの視線がこちらをなぞった。
ドレスの色と髪の長さを一度だけ測るように見て、それから、誰もが自分の酒へと目を戻す。
「見知らぬ黒髪の女」という記号として処理されるまでに、そう時間はかからなかったらしい。
エリアーナは、足音がなるべく目立たないよう歩幅を調整しながら、まっすぐカウンターへ向かった。
カウンターの手前で足を止め、息を一度だけ深く吸う。
「一晩、泊まれ――」
言い出した声が、喉の奥でひっかかり、裏返りそうになる。
咳払いを小さく一つ挟み、視線をカウンターの木目へ落とした。
「一晩、泊まれますか」
今度は、普段より半音ほど低く抑えた声が、木のカウンターに当たって跳ね返った。
カウンターの向こうで帳簿をめくっていた男が顔を上げる。
灰色の髭の隙間から、濁りのない視線だけがすばやく飛んできた。値段と面倒事の臭いを一緒に計算する目だ。
「銀貨一枚。飯付きだ。部屋は二階の……そうだな、一番奥」
言いながら、男は背後の鍵束を探る。
エリアーナは、その手の動きを横目で追いながら、懐から布袋を取り出した。
指先で硬貨の縁を一枚ずつなぞる。冷えた金属が、皮膚の内側の熱を奪っていく。
銀貨を一枚摘まみ出し、余計な音を立てないよう、袋ごと袖の内側へ滑り込ませた。
男は銀貨を爪で弾き、金属音の質を確かめると、カウンター脇の帳簿の上にぽんと置いた。
「名前は」
問いだけが来て、視線は帳簿から動かない。
ペン先が、次の文字を待つように紙の上で止まっていた。
エリアーナは、扇を持っているふりで指先を一度折り曲げる。舞踏会で身についた癖が、こんな場所で役に立つとは思わなかった。
「……旅の者です。もし必要でしたら、見た目の方で」
半拍遅れて返す。
男は顔を上げもせず、肩を小さくすくめただけだった。
「じゃあ――黒髪の女でいいな」
紙の上に、素朴な字が刻まれていく。
確認のための視線は、一度もこちらへ戻ってこない。
(姓と名を問われない、という手続き。今だけは、その雑さに感謝すべきでしょうね)
木でできた鍵が一つ、無造作に投げ渡された。
掌の上で転がるそれは軽いが、冷たい金属の芯が確かに指に触れた。
エリアーナは小さく会釈し、奥の階段へ向かう。
踏み板を一枚上がるたび、乾いた軋みが足首から脳裏へ上ってくる。王宮の大理石では、決して聞こえなかった音だ。
*
二階の一番奥の部屋は、細長い板張りの箱のような空間だった。
壁際に小さな寝台が一つ。その向かいには、片脚だけわずかに短く見える机が置かれている。脚の下に板切れが挟まれているのに、それでも傾きが完全には直っていなかった。
窓枠と石壁の隙間から、冷たい外気が細い糸のように流れ込んでいる。
曇ったガラスには、昼間付いた指の跡がいくつか残っており、その向こうで、宿場の灯りが滲んで揺れていた。
扉を閉め、鍵を回す。金属が噛み合う手応えを、手首から肘まできちんと確認する。
そのうえで、腕の中の帳簿と、懐の封筒を机にそっと下ろした。
床板の隙間から、階下の音がわずかに上がってくる。
椅子の軋む音、皿の触れ合う音、酒を注ぐ音。
その奥で、いくつもの声が混じり合い、時々誰かの笑いが表面に浮かんではすぐ沈んだ。
「……おい、聞いたか。北の街道で、でかい火事があったって話」
「侯爵様ご一行が丸焼けだとか何とか。クライフェルト侯爵っていう、帝都の偉いのがよ」
「娘も一緒だったってな。馬車ごと燃えたらしいぞ。昼間ここの駐屯隊の奴らが、得意げに吹いてた」
エリアーナの指先が、無意識に机の角を掴んでいた。
木の角に爪の先が食い込む。
掴んでいることに気づき、ゆっくりと力を抜いた。
薄く残った爪の跡を、親指の腹でならす。
「殿下の護衛までぞろぞろ付けてもらって、“静養”に出たんだろ? それが山道で事故。世の中、分かんねえもんだ」
「まあ、事故ってことにしねえと、いろいろ面倒なんだろさ。殿下の面子とかよ」
乾いた笑いが混ざる。
酒で温まった喉から出た笑いは、上まで届く前に、床下でしぼんだ。
エリアーナは、机の上の封筒へ視線を落とした。
紅い封蝋には、崖下で付いた泥と小石の傷が、細かく刻まれている。
宛名欄は、父から渡されたときと同じく、きれいな空白のままだ。
そこに名前を書き込む権利は、もう誰にもない――少なくとも、帝都の帳簿上では。
(“事故”で統一、というところでしょうか)
封筒に触れていた指先を離す。皮膚にわずかに蝋の感触が残った。
帝都の役所では、すでに別の紙に「エリアーナ・クライフェルト 死亡」と書き込まれているはずだ。この封筒の出番は、そちらでは存在しない。
彼女の手元にあるのは、提出されないまま残った、個人用の死亡届。
(書類上の処理は完了。帳簿上の私は、きちんと死者ですね。……では、この封筒は)
エリアーナは封筒を帝国破産帳簿の下へ滑り込ませ、表紙ごと掌で押さえた。
竹の芯が入った厚紙の感触が、骨の上からじわりと返ってくる。
(帝国の帳簿ではなく、自分の帳簿の側で使う、という選択肢)
帝国破産帳簿を開いた。
紙は、何度もめくられた部分だけ指の油を吸って柔らかくなっている。
父の筆跡で、数字と短い注記がびっしりと並んでいた。
年ごとの税収、支出、負債残高。街道ごとの通行税の推移。鉱山の産出量。徴兵数と傷病兵の比率。
インクの色が年度によってわずかに違う。黒から茶へ、茶から薄墨へ。帝国の疲労の度合いが、色で見えるようだった。
数字は淡々と並んでいるが、その偏りは明瞭だ。
帝都に近い税区ほど、支出欄には飾り立てられた式典費用や、新しい宮殿の修繕費が増えている。
外縁へ向かうにつれ、道路維持費と治水費の削減値が大きくなり、徴税の遅延や未収の欄に赤い印が増えていた。
いくつかの行の脇には、父の固い字で小さな矢印と短い言葉が添えられている。
『王太子側近家への特別支出:理由記載なし』
『聖堂改築費:予定額の二倍 差額の行方不明』
『軍備増強名目の予算:実際の兵数と不一致』
書かれた字の強さと、インクのにじみ方まで、よく知っている筆跡だった。
幼い頃、父の膝の上で帳簿を覗き込んでいた記憶が、一瞬だけ指先にまとわりつく。
(数字だけを整えても、盤面そのものが歪んでいれば、流れは変わりません)
ページをめくる指は止めずに、視線だけを地図のページへ滑らせる。
帝都を中心に描かれた同心円状の税区。その外側の余白に、小さな丸印がいくつも打たれていた。
『低コスト実験候補』
父の、少し癖のある字だ。
一つ一つの丸印の隣に、ごく短い注釈が並んでいる。
『街道から外れた砦 兵数少 補給薄い』
『鉱山枯渇 住民流出 税収僅少』
『失敗しても全体への影響限定』
財務長官としては、妥当な評価だ。
紙の上だけを見れば。
エリアーナは、北西に伸びる山脈の縁に打たれた、小さな丸印の一つで視線を止めた。
『ヴァルム砦』
地味な名前。
予算申請書や戦力報告書の数字だけは、これまでにも何度か目にしている。
増えも減りもしない、目立った特徴のない項目――少なくとも帳簿の上では。
その丸印の横に、父の注記が二行続いていた。
『数年以内に支援切り捨て候補』
『外側からの上積みを試すには好適』
さらに、その下に小さな字が、一行だけ紛れ込んでいる。
『現在砦司令:カイ・フォン・ヴォルフ(北境敗戦の責任を負わされ左遷)』
軍議の席で一度だけ聞いたことのある名前。
地図の上では、敗戦記録と、名前が一つ並んでいるだけだ。
(敗戦の指揮官と、切り捨て候補の砦。数字の面だけ見れば、「不要な枠」で揃えられた場所)
エリアーナは、机の隅に転がっていた短い鉛筆を取った。
丸印の下に、細い字で一行書き足す。
『試験国家プロトタイプ候補地』
帝都から遠い。
もともとの投資額が少ない。
支援の切り捨て候補に挙がっている。失敗しても、帝国全体の帳簿に残る傷は浅い。
そこへ、帳簿の外側で生きる一人の文官と、一冊の破産帳簿を送り込む。
配分を組み替え、それが機能すれば、新しい一枚の帳簿――ひとつの「試作品」として記録できる。
機能しなければ、そのまま帳簿の余白に吸い込まれて終わるだけだ。
(試験地としての条件は、過剰なくらい揃っていますね)
ヴァルム砦の丸印の外側に、エリアーナは小さく二重丸を重ねた。
今いる宿場町の位置を頭の中の地図に置き、そこからヴァルム砦までの経路を引き直す。
帝都発の本街道ではなく、この町から山沿いに伸びる荷馬車道を何度か乗り継ぐ。
税区を区切る墨線の外側を踏みながら進めば、「帝国の帳簿」が見ていない線を通って砦に辿り着ける。
帳簿の隅には、父のさらに古いメモも残っていた。
『辺境砦は、帝都にとって捨て駒。
ゆえに、外側で盤面を組み替えるには扱いやすい。』
その一文を視界の端に置いたまま、エリアーナは帳簿を閉じる。
その上に先ほどの封筒を重ね、封蝋の位置と宛名の空白を一度だけ見直してから、二つをまとめて机の隅へ寄せた。
階下のざわめきは、さきほどより幾分か柔らかい。
炉の火が落ち着き、酒の勢いも少し抜けたのだろう。床板越しに伝わる声の高さが、さっきより低くなっていた。
やがて、扉が軽くノックされる音がした。
宿の女中が、薄い煮込みと硬いパン、薄めの酒を盆に載せて入ってくる。盆の金属が震え、スープの表面に小さな波が広がった。
エリアーナは短く礼を述べ、差し出された皿を受け取る。
豆と根菜の煮込みから立ち上る湯気は淡く、鼻先をかすめる塩気も控えめだ。
パンは、歯を立てると外側の固い皮がぱきりと割れ、中の粉が舌にざらりと貼りつく。
侯爵家の食卓に並んだ料理とは似ても似つかないが、胃袋を動かすという一点においては、むしろこちらの方が分かりやすい。
皿が空になり、女中が盆を下げていくと、部屋の中は再び静寂を取り戻した。
スープの熱が、喉から胸へ、そこから腹へと下りていく感覚だけが、内側に残っている。
エリアーナは机の引き出しを引いた。
中には、果物を切るためのものだろう、小さなナイフが一本、刃先を下にして転がっていた。
刃にはいくつか欠けがあるが、光にかざすと、まだ反射する部分が細く残っている。
椅子を窓際へ引き寄せ、背もたれの向きを整える。
曇りガラス越しに、街路の灯りがぼやけて見えた。
窓ガラスには、部屋の内側も薄く映っている。
肩から背中にかけて落ちる長い黒髪が、ぼんやりと影となってそこにあった。
(この輪郭では、帝都での私と変わりませんね)
エリアーナは髪をひとつかみし、指先で顎の少し下の位置を測る。
そこで切れば、侯爵令嬢として整えられたラインから外れる。
ナイフの刃先で、自分の爪を軽く撫でた。
爪の表面に、かすかな引っかかりが走る。鈍ってはいるが、布と髪を切るには十分な鋭さだ。
左手で髪の束をまとめ、右手で刃を当てる。
「……失礼いたします」
誰に向けたものとも分からない、儀礼だけが言葉になった。
声は窓と壁の狭い空間で跳ね返り、自分の耳へ小さく戻ってくる。
刃が髪を滑り、束が音もなく切り離される。
膝の上に、重みのある黒い塊が落ちた。
肩にかかっていた重さが、半歩ぶんだけ軽くなる。
首を軽く振る。
いつもなら髪が肩を撫でるはずの場所に、何も触れない。
その「何もなさ」が、逆に皮膚をひやりと刺した。
頭をもう一度振ると、短くなった髪の先が頬に触れて、くすぐったい。
誰か別の女の髪が、不意に顔に触れたような、落ち着かない違和感だった。
窓ガラスに映る輪郭を見直す。
髪は肩の少し上で不揃いに切りそろえられ、前髪を下ろせば頬の線を隠すこともできた。
(顔の一部を布で覆えば、識別精度はさらに下がります)
ヴァルム砦は帝国の外縁とはいえ、一応は帝国の砦だ。
帝都からの使者や書類が、いつか通る可能性は消えない。
顔のすべてを隠す仮面は、かえって目立つ。
だが、火傷や傷跡を隠しているように見える布や半面の仮面なら、理由づけは容易だ。
明日の朝、この町を発つ前に、露店か仕立屋で顔半分を覆える布切れを一枚買う。
エリアーナは、その予定を、頭の中のやるべきことの欄に静かに書き足した。
膝の上の髪の束を集め、小さな布で包む。
それを窓際、風の当たらない場所にそっと置いた。
指先に残った髪の感触が、ようやく消える。
再び机の前に戻り、帝国破産帳簿とは別に、小さな紙片を取り出す。
帳簿の余白を切り取って作った、即席の用紙だ。
ペン先にインクを含ませ、一行だけ書く。
『エリアーナ・クライフェルト』
書いたばかりの文字列が、インクの光沢をわずかに帯びている。
その綴りを見た瞬間、手が止まった。
――七歳の誕生日、父が用意した特別な紙。
金粉の混じったインクで、この名前を書いて見せてくれた。
『お前の名前は、美しい』
そう言って、インクの乾きかけた紙を、少し誇らしげに掲げていた横顔。
あの紙は、今どこにあるのだろう。
侯爵家の書斎の机の引き出しで灰になったのか。
それとも、誰かが面倒がって束ごと箱に放り込み、埃をかぶらせているのか。
(……だからどうだという話でも、ありませんが)
考えている自分に気づき、息を一つ吐く。
静かに、文字列の上から一本の線を引いた。
インクが途切れず、端から端まで届いていることを確かめる。
ほんの一瞬、ペン先が震えたのは、疲労のせいにしておく。
紙片の下半分は、まだ余白だった。
(壊れた名を、そのまま引きずる必要はありません)
いくつかの音を頭の中で並べる。
どの家名とも地名とも重ならず、呼ぶときに舌の上でひっかからないもの。
意味は薄く、線を引けばいつでも消せる名。
ペン先が紙の上を滑った。
『シュアラ』
短い名が、一行の内側に収まる。
この帝国の言葉としては特別な意味を持たない音の並び。
あとで気が変われば、その上にも線を引けるだけの余地がある。
エリアーナは、その名もまた上から線を引ける構造になっていることを一度だけ確認してから、紙片を半分に折った。
旧い名と新しい名は、折り目の内側で重なり合い、視界から消える。
机の隅から、別の小さな余白紙を引き寄せる。
そこに、簡潔な文字列を三つ並べた。
『氏名:シュアラ』
『身分:死亡扱い』
『職務:文官』
最後に、細い文字を一つ添える。
『備考:死人文官』
紙片を帝国破産帳簿の間に差し込む。
表紙を閉じれば、その文字列はいったん世界から隔離される。
灯りを落とし、寝台に身を横たえた。
藁を詰めただけの薄い寝台は、体重のかかった場所だけを素直に沈め、背中と腰に細かな凹凸を残す。
窓の外では、風が板壁を撫でていた。
時折、釘の浮いた部分が小さく鳴る。
エリアーナは、天井の暗がりを一度だけ見上げ、目を閉じる。
(帝国の帳簿では死者。こちらの帳簿では、一つの駒)
頭の中の地図の上で、ヴァルム砦と、その周囲に点在する三つの村の位置をもう一度なぞる。
盤面の端に、新しく書き込んだ名の女の位置を置き、そこから一本だけ矢印を伸ばした。矢は、辺境の砦へ向かう。
――死んだことにされた令嬢と、一冊の破産帳簿。
次に足を運ぶ先は、敗戦の騎士団長が左遷されている辺境の砦。
その条件だけを静かに確定させる。
あとは、眠りへ沈むだけだった。
足もとには、茶色く変色した蹄鉄の痕と、荷馬車の浅い轍がとぎれとぎれに残っている。雪と泥に半分埋もれたそれは、「もう使われていない」ではなく、「ぎりぎりまで使い倒されている」道だと告げていた。
苔に縁取られた里程標が、片側へ首を折るように傾いている。刻まれた文字はところどころ欠け、指でなぞれば粉になりそうだったが、帝都からここまでの距離だけは、かろうじて読み取れた。
道脇の石積みは一部崩れ、崩れ目から顔を出した草が、道と崖の輪郭をゆっくり飲み込もうとしている。
エリアーナは、抱えている帳簿がずり落ちないよう、胸の位置を少し上へ持ち上げた。
片手は常に斜面側の幹や露出した岩を探っている。柔らかくなった土を踏むたび、靴底から冷たい水がじわりと染み上がってきた。
(通行頻度は、かつての三分の一……いえ、四分の一程度でしょうか)
足の裏の感触と、轍の薄さを頭の中で掛け合わせる。
税区を区切る地図の墨線から、この道が外されても、不思議ではない。
息にほんのり白さが混じり始めた頃、谷を巻いていた道は傾斜を緩め、なだらかな丘の縁へと抜け出た。
丘を一つ越えた先に、瓦屋根が肩を寄せ合うように連なっている。
煙突から上がる煙が、夕方の空に細い帯を何本も引き、その匂いが風に薄く乗ってきた。焼いた麦と、煮込みに使う安い油の匂い。
小さな宿場町だ。
土を踏み固めただけの低い土塁と、形ばかりの木柵が輪郭を示している。
出入りする人影は多くない。荷車を押す男と、背負い籠を担いだ女たちが、日暮れを急かすように足早に家々へ吸い込まれていく。戸口の隙間から漏れる灯りが、雪混じりの泥に短い筋を落としていた。
エリアーナは、泥が跳ねたドレスの裾を一度だけ手で払うと、何事もなかった顔で町の入口をくぐった。
肩に掛けた灰色のマントは、父の外套の裏地をばらして縫い合わせたものだ。
焼け焦げたドレスの裂け目は、その下に隠れている。布の焦げた匂いは、もうほとんど残っていない。
遠目には、山道でしくじった旅人の一人――それくらいの記号にしか見えないはずだ。
町の中央近く、木造二階建ての建物が、他よりわずかに大きく口を開けていた。
頭上に掲げられた看板には、掠れた黒い字で「宿」とある。板の端が欠け、打ち直した釘の跡がいくつも並んでいた。
前には小さな荷馬車が一台。車輪にはまだぬかるみの泥がこびりつき、御者台は空のまま冷えている。
扉の取っ手に触れると、乾いた木がきしんだ。
押し開けた瞬間、外気とは違う重さの空気が、胸のあたりをぬるく撫でて通り抜ける。
煮込んだ豆と根菜の匂い。水で薄めた安酒の酸っぱい匂い。長いあいだ煤を吸った木材の、焦げとも埃とも言い切れない匂い。
王都の香水と蜂蝋の甘さが混ざった空気より、よほど素直な匂いだった。
室内は、炉の火と壁際に吊るされた数本のランプだけで照らされている。光は黄色く、薄い油膜越しに見るような揺らぎ方をしていた。
節の目立つ木のテーブルがいくつか置かれ、その半分ほどに旅装束の男たちが陣取っている。
革のこすれる音、ジョッキ同士の鈍い衝突音、笑いが喉で潰れたような声。
扉の音に、いくつかの視線がこちらをなぞった。
ドレスの色と髪の長さを一度だけ測るように見て、それから、誰もが自分の酒へと目を戻す。
「見知らぬ黒髪の女」という記号として処理されるまでに、そう時間はかからなかったらしい。
エリアーナは、足音がなるべく目立たないよう歩幅を調整しながら、まっすぐカウンターへ向かった。
カウンターの手前で足を止め、息を一度だけ深く吸う。
「一晩、泊まれ――」
言い出した声が、喉の奥でひっかかり、裏返りそうになる。
咳払いを小さく一つ挟み、視線をカウンターの木目へ落とした。
「一晩、泊まれますか」
今度は、普段より半音ほど低く抑えた声が、木のカウンターに当たって跳ね返った。
カウンターの向こうで帳簿をめくっていた男が顔を上げる。
灰色の髭の隙間から、濁りのない視線だけがすばやく飛んできた。値段と面倒事の臭いを一緒に計算する目だ。
「銀貨一枚。飯付きだ。部屋は二階の……そうだな、一番奥」
言いながら、男は背後の鍵束を探る。
エリアーナは、その手の動きを横目で追いながら、懐から布袋を取り出した。
指先で硬貨の縁を一枚ずつなぞる。冷えた金属が、皮膚の内側の熱を奪っていく。
銀貨を一枚摘まみ出し、余計な音を立てないよう、袋ごと袖の内側へ滑り込ませた。
男は銀貨を爪で弾き、金属音の質を確かめると、カウンター脇の帳簿の上にぽんと置いた。
「名前は」
問いだけが来て、視線は帳簿から動かない。
ペン先が、次の文字を待つように紙の上で止まっていた。
エリアーナは、扇を持っているふりで指先を一度折り曲げる。舞踏会で身についた癖が、こんな場所で役に立つとは思わなかった。
「……旅の者です。もし必要でしたら、見た目の方で」
半拍遅れて返す。
男は顔を上げもせず、肩を小さくすくめただけだった。
「じゃあ――黒髪の女でいいな」
紙の上に、素朴な字が刻まれていく。
確認のための視線は、一度もこちらへ戻ってこない。
(姓と名を問われない、という手続き。今だけは、その雑さに感謝すべきでしょうね)
木でできた鍵が一つ、無造作に投げ渡された。
掌の上で転がるそれは軽いが、冷たい金属の芯が確かに指に触れた。
エリアーナは小さく会釈し、奥の階段へ向かう。
踏み板を一枚上がるたび、乾いた軋みが足首から脳裏へ上ってくる。王宮の大理石では、決して聞こえなかった音だ。
*
二階の一番奥の部屋は、細長い板張りの箱のような空間だった。
壁際に小さな寝台が一つ。その向かいには、片脚だけわずかに短く見える机が置かれている。脚の下に板切れが挟まれているのに、それでも傾きが完全には直っていなかった。
窓枠と石壁の隙間から、冷たい外気が細い糸のように流れ込んでいる。
曇ったガラスには、昼間付いた指の跡がいくつか残っており、その向こうで、宿場の灯りが滲んで揺れていた。
扉を閉め、鍵を回す。金属が噛み合う手応えを、手首から肘まできちんと確認する。
そのうえで、腕の中の帳簿と、懐の封筒を机にそっと下ろした。
床板の隙間から、階下の音がわずかに上がってくる。
椅子の軋む音、皿の触れ合う音、酒を注ぐ音。
その奥で、いくつもの声が混じり合い、時々誰かの笑いが表面に浮かんではすぐ沈んだ。
「……おい、聞いたか。北の街道で、でかい火事があったって話」
「侯爵様ご一行が丸焼けだとか何とか。クライフェルト侯爵っていう、帝都の偉いのがよ」
「娘も一緒だったってな。馬車ごと燃えたらしいぞ。昼間ここの駐屯隊の奴らが、得意げに吹いてた」
エリアーナの指先が、無意識に机の角を掴んでいた。
木の角に爪の先が食い込む。
掴んでいることに気づき、ゆっくりと力を抜いた。
薄く残った爪の跡を、親指の腹でならす。
「殿下の護衛までぞろぞろ付けてもらって、“静養”に出たんだろ? それが山道で事故。世の中、分かんねえもんだ」
「まあ、事故ってことにしねえと、いろいろ面倒なんだろさ。殿下の面子とかよ」
乾いた笑いが混ざる。
酒で温まった喉から出た笑いは、上まで届く前に、床下でしぼんだ。
エリアーナは、机の上の封筒へ視線を落とした。
紅い封蝋には、崖下で付いた泥と小石の傷が、細かく刻まれている。
宛名欄は、父から渡されたときと同じく、きれいな空白のままだ。
そこに名前を書き込む権利は、もう誰にもない――少なくとも、帝都の帳簿上では。
(“事故”で統一、というところでしょうか)
封筒に触れていた指先を離す。皮膚にわずかに蝋の感触が残った。
帝都の役所では、すでに別の紙に「エリアーナ・クライフェルト 死亡」と書き込まれているはずだ。この封筒の出番は、そちらでは存在しない。
彼女の手元にあるのは、提出されないまま残った、個人用の死亡届。
(書類上の処理は完了。帳簿上の私は、きちんと死者ですね。……では、この封筒は)
エリアーナは封筒を帝国破産帳簿の下へ滑り込ませ、表紙ごと掌で押さえた。
竹の芯が入った厚紙の感触が、骨の上からじわりと返ってくる。
(帝国の帳簿ではなく、自分の帳簿の側で使う、という選択肢)
帝国破産帳簿を開いた。
紙は、何度もめくられた部分だけ指の油を吸って柔らかくなっている。
父の筆跡で、数字と短い注記がびっしりと並んでいた。
年ごとの税収、支出、負債残高。街道ごとの通行税の推移。鉱山の産出量。徴兵数と傷病兵の比率。
インクの色が年度によってわずかに違う。黒から茶へ、茶から薄墨へ。帝国の疲労の度合いが、色で見えるようだった。
数字は淡々と並んでいるが、その偏りは明瞭だ。
帝都に近い税区ほど、支出欄には飾り立てられた式典費用や、新しい宮殿の修繕費が増えている。
外縁へ向かうにつれ、道路維持費と治水費の削減値が大きくなり、徴税の遅延や未収の欄に赤い印が増えていた。
いくつかの行の脇には、父の固い字で小さな矢印と短い言葉が添えられている。
『王太子側近家への特別支出:理由記載なし』
『聖堂改築費:予定額の二倍 差額の行方不明』
『軍備増強名目の予算:実際の兵数と不一致』
書かれた字の強さと、インクのにじみ方まで、よく知っている筆跡だった。
幼い頃、父の膝の上で帳簿を覗き込んでいた記憶が、一瞬だけ指先にまとわりつく。
(数字だけを整えても、盤面そのものが歪んでいれば、流れは変わりません)
ページをめくる指は止めずに、視線だけを地図のページへ滑らせる。
帝都を中心に描かれた同心円状の税区。その外側の余白に、小さな丸印がいくつも打たれていた。
『低コスト実験候補』
父の、少し癖のある字だ。
一つ一つの丸印の隣に、ごく短い注釈が並んでいる。
『街道から外れた砦 兵数少 補給薄い』
『鉱山枯渇 住民流出 税収僅少』
『失敗しても全体への影響限定』
財務長官としては、妥当な評価だ。
紙の上だけを見れば。
エリアーナは、北西に伸びる山脈の縁に打たれた、小さな丸印の一つで視線を止めた。
『ヴァルム砦』
地味な名前。
予算申請書や戦力報告書の数字だけは、これまでにも何度か目にしている。
増えも減りもしない、目立った特徴のない項目――少なくとも帳簿の上では。
その丸印の横に、父の注記が二行続いていた。
『数年以内に支援切り捨て候補』
『外側からの上積みを試すには好適』
さらに、その下に小さな字が、一行だけ紛れ込んでいる。
『現在砦司令:カイ・フォン・ヴォルフ(北境敗戦の責任を負わされ左遷)』
軍議の席で一度だけ聞いたことのある名前。
地図の上では、敗戦記録と、名前が一つ並んでいるだけだ。
(敗戦の指揮官と、切り捨て候補の砦。数字の面だけ見れば、「不要な枠」で揃えられた場所)
エリアーナは、机の隅に転がっていた短い鉛筆を取った。
丸印の下に、細い字で一行書き足す。
『試験国家プロトタイプ候補地』
帝都から遠い。
もともとの投資額が少ない。
支援の切り捨て候補に挙がっている。失敗しても、帝国全体の帳簿に残る傷は浅い。
そこへ、帳簿の外側で生きる一人の文官と、一冊の破産帳簿を送り込む。
配分を組み替え、それが機能すれば、新しい一枚の帳簿――ひとつの「試作品」として記録できる。
機能しなければ、そのまま帳簿の余白に吸い込まれて終わるだけだ。
(試験地としての条件は、過剰なくらい揃っていますね)
ヴァルム砦の丸印の外側に、エリアーナは小さく二重丸を重ねた。
今いる宿場町の位置を頭の中の地図に置き、そこからヴァルム砦までの経路を引き直す。
帝都発の本街道ではなく、この町から山沿いに伸びる荷馬車道を何度か乗り継ぐ。
税区を区切る墨線の外側を踏みながら進めば、「帝国の帳簿」が見ていない線を通って砦に辿り着ける。
帳簿の隅には、父のさらに古いメモも残っていた。
『辺境砦は、帝都にとって捨て駒。
ゆえに、外側で盤面を組み替えるには扱いやすい。』
その一文を視界の端に置いたまま、エリアーナは帳簿を閉じる。
その上に先ほどの封筒を重ね、封蝋の位置と宛名の空白を一度だけ見直してから、二つをまとめて机の隅へ寄せた。
階下のざわめきは、さきほどより幾分か柔らかい。
炉の火が落ち着き、酒の勢いも少し抜けたのだろう。床板越しに伝わる声の高さが、さっきより低くなっていた。
やがて、扉が軽くノックされる音がした。
宿の女中が、薄い煮込みと硬いパン、薄めの酒を盆に載せて入ってくる。盆の金属が震え、スープの表面に小さな波が広がった。
エリアーナは短く礼を述べ、差し出された皿を受け取る。
豆と根菜の煮込みから立ち上る湯気は淡く、鼻先をかすめる塩気も控えめだ。
パンは、歯を立てると外側の固い皮がぱきりと割れ、中の粉が舌にざらりと貼りつく。
侯爵家の食卓に並んだ料理とは似ても似つかないが、胃袋を動かすという一点においては、むしろこちらの方が分かりやすい。
皿が空になり、女中が盆を下げていくと、部屋の中は再び静寂を取り戻した。
スープの熱が、喉から胸へ、そこから腹へと下りていく感覚だけが、内側に残っている。
エリアーナは机の引き出しを引いた。
中には、果物を切るためのものだろう、小さなナイフが一本、刃先を下にして転がっていた。
刃にはいくつか欠けがあるが、光にかざすと、まだ反射する部分が細く残っている。
椅子を窓際へ引き寄せ、背もたれの向きを整える。
曇りガラス越しに、街路の灯りがぼやけて見えた。
窓ガラスには、部屋の内側も薄く映っている。
肩から背中にかけて落ちる長い黒髪が、ぼんやりと影となってそこにあった。
(この輪郭では、帝都での私と変わりませんね)
エリアーナは髪をひとつかみし、指先で顎の少し下の位置を測る。
そこで切れば、侯爵令嬢として整えられたラインから外れる。
ナイフの刃先で、自分の爪を軽く撫でた。
爪の表面に、かすかな引っかかりが走る。鈍ってはいるが、布と髪を切るには十分な鋭さだ。
左手で髪の束をまとめ、右手で刃を当てる。
「……失礼いたします」
誰に向けたものとも分からない、儀礼だけが言葉になった。
声は窓と壁の狭い空間で跳ね返り、自分の耳へ小さく戻ってくる。
刃が髪を滑り、束が音もなく切り離される。
膝の上に、重みのある黒い塊が落ちた。
肩にかかっていた重さが、半歩ぶんだけ軽くなる。
首を軽く振る。
いつもなら髪が肩を撫でるはずの場所に、何も触れない。
その「何もなさ」が、逆に皮膚をひやりと刺した。
頭をもう一度振ると、短くなった髪の先が頬に触れて、くすぐったい。
誰か別の女の髪が、不意に顔に触れたような、落ち着かない違和感だった。
窓ガラスに映る輪郭を見直す。
髪は肩の少し上で不揃いに切りそろえられ、前髪を下ろせば頬の線を隠すこともできた。
(顔の一部を布で覆えば、識別精度はさらに下がります)
ヴァルム砦は帝国の外縁とはいえ、一応は帝国の砦だ。
帝都からの使者や書類が、いつか通る可能性は消えない。
顔のすべてを隠す仮面は、かえって目立つ。
だが、火傷や傷跡を隠しているように見える布や半面の仮面なら、理由づけは容易だ。
明日の朝、この町を発つ前に、露店か仕立屋で顔半分を覆える布切れを一枚買う。
エリアーナは、その予定を、頭の中のやるべきことの欄に静かに書き足した。
膝の上の髪の束を集め、小さな布で包む。
それを窓際、風の当たらない場所にそっと置いた。
指先に残った髪の感触が、ようやく消える。
再び机の前に戻り、帝国破産帳簿とは別に、小さな紙片を取り出す。
帳簿の余白を切り取って作った、即席の用紙だ。
ペン先にインクを含ませ、一行だけ書く。
『エリアーナ・クライフェルト』
書いたばかりの文字列が、インクの光沢をわずかに帯びている。
その綴りを見た瞬間、手が止まった。
――七歳の誕生日、父が用意した特別な紙。
金粉の混じったインクで、この名前を書いて見せてくれた。
『お前の名前は、美しい』
そう言って、インクの乾きかけた紙を、少し誇らしげに掲げていた横顔。
あの紙は、今どこにあるのだろう。
侯爵家の書斎の机の引き出しで灰になったのか。
それとも、誰かが面倒がって束ごと箱に放り込み、埃をかぶらせているのか。
(……だからどうだという話でも、ありませんが)
考えている自分に気づき、息を一つ吐く。
静かに、文字列の上から一本の線を引いた。
インクが途切れず、端から端まで届いていることを確かめる。
ほんの一瞬、ペン先が震えたのは、疲労のせいにしておく。
紙片の下半分は、まだ余白だった。
(壊れた名を、そのまま引きずる必要はありません)
いくつかの音を頭の中で並べる。
どの家名とも地名とも重ならず、呼ぶときに舌の上でひっかからないもの。
意味は薄く、線を引けばいつでも消せる名。
ペン先が紙の上を滑った。
『シュアラ』
短い名が、一行の内側に収まる。
この帝国の言葉としては特別な意味を持たない音の並び。
あとで気が変われば、その上にも線を引けるだけの余地がある。
エリアーナは、その名もまた上から線を引ける構造になっていることを一度だけ確認してから、紙片を半分に折った。
旧い名と新しい名は、折り目の内側で重なり合い、視界から消える。
机の隅から、別の小さな余白紙を引き寄せる。
そこに、簡潔な文字列を三つ並べた。
『氏名:シュアラ』
『身分:死亡扱い』
『職務:文官』
最後に、細い文字を一つ添える。
『備考:死人文官』
紙片を帝国破産帳簿の間に差し込む。
表紙を閉じれば、その文字列はいったん世界から隔離される。
灯りを落とし、寝台に身を横たえた。
藁を詰めただけの薄い寝台は、体重のかかった場所だけを素直に沈め、背中と腰に細かな凹凸を残す。
窓の外では、風が板壁を撫でていた。
時折、釘の浮いた部分が小さく鳴る。
エリアーナは、天井の暗がりを一度だけ見上げ、目を閉じる。
(帝国の帳簿では死者。こちらの帳簿では、一つの駒)
頭の中の地図の上で、ヴァルム砦と、その周囲に点在する三つの村の位置をもう一度なぞる。
盤面の端に、新しく書き込んだ名の女の位置を置き、そこから一本だけ矢印を伸ばした。矢は、辺境の砦へ向かう。
――死んだことにされた令嬢と、一冊の破産帳簿。
次に足を運ぶ先は、敗戦の騎士団長が左遷されている辺境の砦。
その条件だけを静かに確定させる。
あとは、眠りへ沈むだけだった。
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