56 / 70
第二章 マリーハイツ公約編
第三十五話 丘陵の港町マリーハイツ(2)
しおりを挟む
丘を登ると、町の印象は少し変わった。
フィンは一歩下がった位置から、交差する路地と抜け道の数を指折り数えるように視線でなぞりながら付いてくる。
港の近くは魚の匂いと屋台の喧騒で満ちていたが、坂を上がるごとに、魚の匂いは薄れ、代わりに紙とインクと、石に染み込んだ湿気の匂いが強くなる。
細い路地が、白い壁の間を蛇のようにくねっている。
石段を登るたび、頭上には洗濯物が渡されている。潮風で揺れるシーツやシャツが、空の青を少し隠す。どこかの家の窓からは、子どもの歌声が漏れ、別の家からは、朝からワインをあけたのか、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
坂の途中、石畳の開けた一角に、学生らしき若者たちが集まっていた。
紺色の上着に、白い襟。胸には小さな波の刺繍。
手には厚い本や、巻物の束。中には、携帯用の小さな魔石板を持っている者もいる。板の上には、微かに動く潮流の線が描かれていた。
「おい、そこの兄ちゃんたち。ヴァルムから来たって本当か?」
ひとりの学生が、興味津々といった様子で声をかけてきた。
「本当だ」
カイが短く答える。
「第七騎士団のカイだ。こっちは帳簿担当のシュアラ。それと、あっちで路地を数えてるのが、港町の匂いを嗅ぎ分けるのが得意な男だ」
「何だそれは」
学生が笑い、フィンは肩をすくめて軽く会釈した。
「学院の方々に、ご迷惑をおかけしないように見張る役目です」
「自分で言うか、それ」
カイが呆れたように突っ込み、学生たちから笑いが漏れた。
「先生が昔言ってたぞ」
別の学生が口を挟む。
「『この町から、帝都に引き抜かれた子がいた』って。深海契約の研究で、すごく頭がよかったんだってさ」
「名前は?」
シュアラは、自然な調子を装いながら問いかけた。
「えっと……なんだっけ」
学生は額に皺を寄せて記憶を手繰る。
「リリー……リリーシア、だったかな。姓は忘れたけど」
リリーシア。
その名前は、シュアラの頭の中に、別の帳簿の文字として既に刻まれていた。
帝都の深海契約関係者リスト。その中にあった、一度だけ目にした名前。
「今は帝都に?」
「さあ。先生も、そこから先の話はあまりしなかったな」
学生は肩をすくめる。
「ただ、『海が連れていった』みたいな言い方をしてた」
「……そうですか」
シュアラは、それ以上は何も言わなかった。
胸の内側で、別のページが静かに開かれる。
ヴァルムの砦で見たリストと、今目の前で聞いた「港の娘」の名前が、一本の線で繋がる感覚。
(戸籍台帳を確認する必要がありますね)
心の中でだけ、淡々と次の行動を決める。
*
マリーハイツの役所は、丘のほぼ中段にあった。
石造りの二階建て。正面には小さなバルコニーがあり、そこから町長が港を見渡せるようになっている。壁には、帝国の紋章と、マリーハイツ町の紋章が並んで掲げられていた。
中に入ると、ひんやりとした空気が肌にまとわりつく。
石の床と壁が、外の湿気を吸って冷たさを保っている。廊下の片側には、帳簿と書類で膨れた棚。反対側には、町の地図や、海図が何枚も貼られていた。
「こちらへ」
クラウスが、奥の方の部屋へと案内する。
木製の机が二つ。片方には、既に何冊もの帳簿が積まれている。古びた革表紙と、新しい布張りの表紙が混在している。
「ここを、お二人の臨時の執務室としてお使いください」
「助かります」
シュアラは、素直に頭を下げた。
「それと……」
クラウスは、少し言いにくそうに言葉を継いだ。
「もう一つ、見ていただきたいものがあります」
「見てほしいもの?」
「戸籍台帳です」
その言葉に、シュアラの背筋が、すっと伸びた。
「港町の戸籍台帳は、帝都からも時折検査が入ります。年に一度は、海務院と内務省の役人がやって来て、名前と年齢と税の額を確認する」
クラウスは、歩きながら説明した。
「ここ数年、その検査が少し厳しくなっていましてね。特に『港から消えた者』の扱いについて」
「港から消えた者」
シュアラが繰り返す。
「漁に出たまま帰らなかった者もいれば、帝都に連れて行かれた者もいる。中には、借金を抱えて夜逃げした者もいる」
クラウスは、廊下の突き当たりにある重そうな扉の前で足を止めた。
「帝都の役人は、帳簿の上でそれぞれを区別したがる。『死亡』『移送』『行方不明』。そのどれにも当てはまらない者は、数字ごと消してしまいたがる」
扉の鍵を開けながら、クラウスは苦い笑みを浮かべた。
「だが、この町で暮らしてきた身からすると、数字から消してしまうには、あまりにも顔がはっきりしすぎている者たちがいる」
扉の向こうには、ひんやりとした空気があった。
窓の少ない石造りの部屋。壁一面に木製の棚が並び、その一つひとつに、革表紙の帳簿が収められている。棚の上には、古い年号が墨で書かれた札。
「ここが、戸籍室です」
クラウスは、中に先に入るよう手で示した。
シュアラは、一歩足を踏み入れた。
紙とインクと、人の生活の匂いが混じった空気。ヴァルムの砦で見慣れた匂いと、どこか似ている。
「ヴァルムでも、似たような部屋で仕事をしていました」
「そうかもしれませんね」
クラウスは、棚の一角から、分厚い帳簿を一冊引き出した。
「港戸籍台帳。十五年前から十年前までの分です」
「年号は、このあたりですか」
シュアラは、リリーシアの年齢を頭の中で逆算した。
「はい。過去十五年分ほど。『アルスリス』という家の記録を確認したいのですが」
「アルスリス……」
役人の男が、顎に手を当てる。
「ああ、丘の上の古い家だな。漁師と商人の間くらいの家柄だ」
男は棚から何冊かの帳簿を引き抜き、机の上に積み上げた。
古い家族台帳は、ページの端が塩気で少し波打っている。
何度も手に取られ、湿った指でめくられた跡が、紙に残っている。
シュアラは、手際よくページを繰っていった。
各ページには、家族の名前と生年月日、婚姻、死亡、移住の記録が、整った字で書き込まれている。ところどころに、赤インクで短いメモが挟まれていた。
やがて、目的の名前を見つけた。
『リリーシア・アルスリス』
その行の隣には、小さな文字で三つの言葉が書き添えられている。
『失踪』
『死体なし』
『帝都に報告済み』
シュアラは、その三つの語だけを、頭の中の別の帳簿にそっとコピーした。
「丘の上のアルスリス家は、今も?」
「母親が一人で暮らしている」
役人が答える。
「娘を帝都に取られてから、あまり港には下りてこないな。海の匂いを嗅ぐのがつらいんだと」
「……後ほど、伺います」
シュアラは帳簿を丁寧に閉じ、表紙を撫でた。
紙の上では、すべてが静かに見える。
だが、その一行の背後には、海の匂いと、失われかけた生活と、帝都の判子の重さが、重なり合っている。
*
夕方、港は朝とは違う色に染まっていた。
陽はまだ完全には沈んでいないが、光は柔らかくなり、白い壁は桃色を帯び、青い屋根は濃い群青に沈み始めている。丘の段々畑には、家々の窓から漏れる灯りが点々と散り始めていた。
海は、昼間よりも静かだった。
漁船はほとんど戻ってきていて、桟橋には網を繕う人々の姿。この町で生まれ育ったらしい、よく肥えた港の猫たちが、その足元をうろつき、魚の尻尾を狙っている。
港の端、少し高くなった見張り台の上で、シュアラは海を見ていた。
潮の匂いは、昼よりも濃い。
防波堤の先には、帝都の方向に向かう航路が伸びている。その先のどこかに、深海契約の本拠地と、リリーシアを飲み込んだ帝都の塔がある。
「……静かだな」
隣で、カイが呟いた。
「静かすぎるくらいだ」
波は穏やかだ。
だが、耳を澄ますと、どこかで別の音がする気がする。水面の下から、かすかに「ざわ、ざわ」と、何かが擦れ合うような音。
「気のせいか?」
カイが、海を睨むように見つめる。
「水の音だけではない気もしますが、今はまだ」
シュアラは、はっきりとは言わなかった。
港の反対側、丘の中段あたりで、ふわりと青い光が瞬いた。
ロッタ魔導水庭の方角だ。海水を引いてきた水庭の水が、魔導で光を帯び始めたのだろう。子どもたちの歓声が、遠くからかすかに届く。
「水が光ってるのか?」
「ええ。光って、浮かんで、たぶん子どもたちがはしゃいでいるんでしょう」
シュアラは、目を細めた。
「数字では測れない実験ですね」
「お前、数字で水庭の価値を測ろうとしてたのか?」
「入場料と維持費と、町の評判と、帝都からの補助金を考えれば、まったくの無駄ではないと思います」
「やめろ。夢のある話をしてる水庭に、帳簿を持ち込むな」
カイが苦笑する。
「でも――」
シュアラは、海に視線を戻した。
「夢のある話だと思いますよ」
「どこが?」
「水が光る庭園に子どもを連れていく親たちがいる。そのために、漁に出て、魚を揚げて、港で働く人たちがいる。そういう一つひとつの動きが、全部、帳簿の線で繋がっている」
港の灯りが、少しずつ増えていく。
白い壁と青い屋根の間に、小さな窓の光が点々と灯っていく。その一つひとつに、名前がある。帝都に報告された名前と、報告されないまま消えかけている名前が。
「リリーシアも、こういう町のどこかに住んでいたのかもしれません」
シュアラは、ぽつりと言った。
「帝都に連れていかれる前は」
「そうだな」
カイは、手すりに肘をついて、海を眺めた。
「村の子どもだった頃の話は、あまりしたがらなかったけど」
「だからこそ、帳簿に書く必要があります」
シュアラは、静かに言った。
「帝都に飲み込まれた人たちを、数字から消そうとするなら、その前にいた場所に、ちゃんと名前を残しておくべきです」
「港の娘と、帝都の塔の兵士。両方に名前を書けってことか」
「はい」
シュアラは頷いた。
「この町が何を持っていて、何を奪われたのか。その両方を間違えないように」
「……欲張りだな」
カイは、苦笑ともため息ともつかない息を漏らした。
「ゼロ損耗に、航路公約に、今度は人まで取り返す気か」
「はい」
シュアラは、迷いなく言った。
「全部、帳簿に書けますから」
港の向こう、丘の家々に灯りが増えていく。
海と、白い壁と、青い屋根と、その下で暮らす人々。帝都に連れていかれた娘。深海の魔女の噂。
マリーハイツという町の輪郭が、ようやく一つの帳簿として、彼女の中で立ち上がり始めていた。
フィンは一歩下がった位置から、交差する路地と抜け道の数を指折り数えるように視線でなぞりながら付いてくる。
港の近くは魚の匂いと屋台の喧騒で満ちていたが、坂を上がるごとに、魚の匂いは薄れ、代わりに紙とインクと、石に染み込んだ湿気の匂いが強くなる。
細い路地が、白い壁の間を蛇のようにくねっている。
石段を登るたび、頭上には洗濯物が渡されている。潮風で揺れるシーツやシャツが、空の青を少し隠す。どこかの家の窓からは、子どもの歌声が漏れ、別の家からは、朝からワインをあけたのか、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
坂の途中、石畳の開けた一角に、学生らしき若者たちが集まっていた。
紺色の上着に、白い襟。胸には小さな波の刺繍。
手には厚い本や、巻物の束。中には、携帯用の小さな魔石板を持っている者もいる。板の上には、微かに動く潮流の線が描かれていた。
「おい、そこの兄ちゃんたち。ヴァルムから来たって本当か?」
ひとりの学生が、興味津々といった様子で声をかけてきた。
「本当だ」
カイが短く答える。
「第七騎士団のカイだ。こっちは帳簿担当のシュアラ。それと、あっちで路地を数えてるのが、港町の匂いを嗅ぎ分けるのが得意な男だ」
「何だそれは」
学生が笑い、フィンは肩をすくめて軽く会釈した。
「学院の方々に、ご迷惑をおかけしないように見張る役目です」
「自分で言うか、それ」
カイが呆れたように突っ込み、学生たちから笑いが漏れた。
「先生が昔言ってたぞ」
別の学生が口を挟む。
「『この町から、帝都に引き抜かれた子がいた』って。深海契約の研究で、すごく頭がよかったんだってさ」
「名前は?」
シュアラは、自然な調子を装いながら問いかけた。
「えっと……なんだっけ」
学生は額に皺を寄せて記憶を手繰る。
「リリー……リリーシア、だったかな。姓は忘れたけど」
リリーシア。
その名前は、シュアラの頭の中に、別の帳簿の文字として既に刻まれていた。
帝都の深海契約関係者リスト。その中にあった、一度だけ目にした名前。
「今は帝都に?」
「さあ。先生も、そこから先の話はあまりしなかったな」
学生は肩をすくめる。
「ただ、『海が連れていった』みたいな言い方をしてた」
「……そうですか」
シュアラは、それ以上は何も言わなかった。
胸の内側で、別のページが静かに開かれる。
ヴァルムの砦で見たリストと、今目の前で聞いた「港の娘」の名前が、一本の線で繋がる感覚。
(戸籍台帳を確認する必要がありますね)
心の中でだけ、淡々と次の行動を決める。
*
マリーハイツの役所は、丘のほぼ中段にあった。
石造りの二階建て。正面には小さなバルコニーがあり、そこから町長が港を見渡せるようになっている。壁には、帝国の紋章と、マリーハイツ町の紋章が並んで掲げられていた。
中に入ると、ひんやりとした空気が肌にまとわりつく。
石の床と壁が、外の湿気を吸って冷たさを保っている。廊下の片側には、帳簿と書類で膨れた棚。反対側には、町の地図や、海図が何枚も貼られていた。
「こちらへ」
クラウスが、奥の方の部屋へと案内する。
木製の机が二つ。片方には、既に何冊もの帳簿が積まれている。古びた革表紙と、新しい布張りの表紙が混在している。
「ここを、お二人の臨時の執務室としてお使いください」
「助かります」
シュアラは、素直に頭を下げた。
「それと……」
クラウスは、少し言いにくそうに言葉を継いだ。
「もう一つ、見ていただきたいものがあります」
「見てほしいもの?」
「戸籍台帳です」
その言葉に、シュアラの背筋が、すっと伸びた。
「港町の戸籍台帳は、帝都からも時折検査が入ります。年に一度は、海務院と内務省の役人がやって来て、名前と年齢と税の額を確認する」
クラウスは、歩きながら説明した。
「ここ数年、その検査が少し厳しくなっていましてね。特に『港から消えた者』の扱いについて」
「港から消えた者」
シュアラが繰り返す。
「漁に出たまま帰らなかった者もいれば、帝都に連れて行かれた者もいる。中には、借金を抱えて夜逃げした者もいる」
クラウスは、廊下の突き当たりにある重そうな扉の前で足を止めた。
「帝都の役人は、帳簿の上でそれぞれを区別したがる。『死亡』『移送』『行方不明』。そのどれにも当てはまらない者は、数字ごと消してしまいたがる」
扉の鍵を開けながら、クラウスは苦い笑みを浮かべた。
「だが、この町で暮らしてきた身からすると、数字から消してしまうには、あまりにも顔がはっきりしすぎている者たちがいる」
扉の向こうには、ひんやりとした空気があった。
窓の少ない石造りの部屋。壁一面に木製の棚が並び、その一つひとつに、革表紙の帳簿が収められている。棚の上には、古い年号が墨で書かれた札。
「ここが、戸籍室です」
クラウスは、中に先に入るよう手で示した。
シュアラは、一歩足を踏み入れた。
紙とインクと、人の生活の匂いが混じった空気。ヴァルムの砦で見慣れた匂いと、どこか似ている。
「ヴァルムでも、似たような部屋で仕事をしていました」
「そうかもしれませんね」
クラウスは、棚の一角から、分厚い帳簿を一冊引き出した。
「港戸籍台帳。十五年前から十年前までの分です」
「年号は、このあたりですか」
シュアラは、リリーシアの年齢を頭の中で逆算した。
「はい。過去十五年分ほど。『アルスリス』という家の記録を確認したいのですが」
「アルスリス……」
役人の男が、顎に手を当てる。
「ああ、丘の上の古い家だな。漁師と商人の間くらいの家柄だ」
男は棚から何冊かの帳簿を引き抜き、机の上に積み上げた。
古い家族台帳は、ページの端が塩気で少し波打っている。
何度も手に取られ、湿った指でめくられた跡が、紙に残っている。
シュアラは、手際よくページを繰っていった。
各ページには、家族の名前と生年月日、婚姻、死亡、移住の記録が、整った字で書き込まれている。ところどころに、赤インクで短いメモが挟まれていた。
やがて、目的の名前を見つけた。
『リリーシア・アルスリス』
その行の隣には、小さな文字で三つの言葉が書き添えられている。
『失踪』
『死体なし』
『帝都に報告済み』
シュアラは、その三つの語だけを、頭の中の別の帳簿にそっとコピーした。
「丘の上のアルスリス家は、今も?」
「母親が一人で暮らしている」
役人が答える。
「娘を帝都に取られてから、あまり港には下りてこないな。海の匂いを嗅ぐのがつらいんだと」
「……後ほど、伺います」
シュアラは帳簿を丁寧に閉じ、表紙を撫でた。
紙の上では、すべてが静かに見える。
だが、その一行の背後には、海の匂いと、失われかけた生活と、帝都の判子の重さが、重なり合っている。
*
夕方、港は朝とは違う色に染まっていた。
陽はまだ完全には沈んでいないが、光は柔らかくなり、白い壁は桃色を帯び、青い屋根は濃い群青に沈み始めている。丘の段々畑には、家々の窓から漏れる灯りが点々と散り始めていた。
海は、昼間よりも静かだった。
漁船はほとんど戻ってきていて、桟橋には網を繕う人々の姿。この町で生まれ育ったらしい、よく肥えた港の猫たちが、その足元をうろつき、魚の尻尾を狙っている。
港の端、少し高くなった見張り台の上で、シュアラは海を見ていた。
潮の匂いは、昼よりも濃い。
防波堤の先には、帝都の方向に向かう航路が伸びている。その先のどこかに、深海契約の本拠地と、リリーシアを飲み込んだ帝都の塔がある。
「……静かだな」
隣で、カイが呟いた。
「静かすぎるくらいだ」
波は穏やかだ。
だが、耳を澄ますと、どこかで別の音がする気がする。水面の下から、かすかに「ざわ、ざわ」と、何かが擦れ合うような音。
「気のせいか?」
カイが、海を睨むように見つめる。
「水の音だけではない気もしますが、今はまだ」
シュアラは、はっきりとは言わなかった。
港の反対側、丘の中段あたりで、ふわりと青い光が瞬いた。
ロッタ魔導水庭の方角だ。海水を引いてきた水庭の水が、魔導で光を帯び始めたのだろう。子どもたちの歓声が、遠くからかすかに届く。
「水が光ってるのか?」
「ええ。光って、浮かんで、たぶん子どもたちがはしゃいでいるんでしょう」
シュアラは、目を細めた。
「数字では測れない実験ですね」
「お前、数字で水庭の価値を測ろうとしてたのか?」
「入場料と維持費と、町の評判と、帝都からの補助金を考えれば、まったくの無駄ではないと思います」
「やめろ。夢のある話をしてる水庭に、帳簿を持ち込むな」
カイが苦笑する。
「でも――」
シュアラは、海に視線を戻した。
「夢のある話だと思いますよ」
「どこが?」
「水が光る庭園に子どもを連れていく親たちがいる。そのために、漁に出て、魚を揚げて、港で働く人たちがいる。そういう一つひとつの動きが、全部、帳簿の線で繋がっている」
港の灯りが、少しずつ増えていく。
白い壁と青い屋根の間に、小さな窓の光が点々と灯っていく。その一つひとつに、名前がある。帝都に報告された名前と、報告されないまま消えかけている名前が。
「リリーシアも、こういう町のどこかに住んでいたのかもしれません」
シュアラは、ぽつりと言った。
「帝都に連れていかれる前は」
「そうだな」
カイは、手すりに肘をついて、海を眺めた。
「村の子どもだった頃の話は、あまりしたがらなかったけど」
「だからこそ、帳簿に書く必要があります」
シュアラは、静かに言った。
「帝都に飲み込まれた人たちを、数字から消そうとするなら、その前にいた場所に、ちゃんと名前を残しておくべきです」
「港の娘と、帝都の塔の兵士。両方に名前を書けってことか」
「はい」
シュアラは頷いた。
「この町が何を持っていて、何を奪われたのか。その両方を間違えないように」
「……欲張りだな」
カイは、苦笑ともため息ともつかない息を漏らした。
「ゼロ損耗に、航路公約に、今度は人まで取り返す気か」
「はい」
シュアラは、迷いなく言った。
「全部、帳簿に書けますから」
港の向こう、丘の家々に灯りが増えていく。
海と、白い壁と、青い屋根と、その下で暮らす人々。帝都に連れていかれた娘。深海の魔女の噂。
マリーハイツという町の輪郭が、ようやく一つの帳簿として、彼女の中で立ち上がり始めていた。
11
あなたにおすすめの小説
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
婚約破棄で悪役令嬢を辞めたので、今日から素で生きます。
黒猫かの
恋愛
「エリー・オルブライト! 貴様との婚約を破棄する!」
豪華絢爛な夜会で、ウィルフレッド王子から突きつけられた非情な宣告。
しかし、公爵令嬢エリーの心境は……「よっしゃあ! やっと喋れるわ!!」だった。
身代わりで呪いの公爵に嫁ぎましたが、聖女の力で浄化したら離縁どころか国一番の溺愛妻になりました〜実家が泣きついてももう遅い〜
しょくぱん
恋愛
「お前のような無能は、死神の生贄にでもなっていろ」
魔力なしの無能と蔑まれ、家族に虐げられてきた伯爵令嬢レティシア。 彼女に命じられたのは、近づく者すべてを病ませるという『呪いの公爵』アレクシスへの身代わり結婚だった。
鉄格子の馬車で運ばれ、たどり着いたのは瘴気に満ちた死の城。 恐ろしい怪物のような男に殺される――。 そう覚悟していたレティシアだったが、目の前の光景に絶望よりも先に別の感情が湧き上がる。
(な、何これ……汚すぎるわ! 雑巾とブラシはどこ!?)
実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。
レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。
「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」
冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。
一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。
「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」
これは、掃除を愛する薄幸令嬢が、その愛と魔力で死神公爵を救い、最高に幸せな居場所を手に入れるまでのお話。
なぜ、私に関係あるのかしら?
シエル
ファンタジー
「初めまして、アシュフォード公爵家一女、セシリア・アシュフォードと申します」
彼女は、つい先日までこの国の王太子殿下の婚約者だった。
そして今日、このトレヴァント辺境伯家へと嫁いできた。
「…レオンハルト・トレヴァントだ」
非道にも自らの実妹を長年にわたり虐げ、婚約者以外の男との不適切な関係を理由に、王太子妃に不適格とされ、貴族学院の卒業式で婚約破棄を宣告された。
そして、新たな婚約者として、その妹が王太子本人から指名されたのだった。
「私は君と夫婦になるつもりはないし、辺境伯夫人として扱うこともない」
この判断によって、どうなるかなども考えずに…
※ 中世ヨーロッパ風の世界観です。
※ ご都合主義ですので、ご了承下さい、
※ 画像はAIにて作成しております
王子、おひとり様で残りの人生をお楽しみください!
ちゃっぴー
恋愛
「ラーニャ、貴様との婚約を破棄する!」
卒業パーティーの真っ最中、ナルシストな第一王子ウィルフレッドに身に覚えのない罪で断罪された公爵令嬢ラーニャ。しかし、彼女はショックを受けるどころか、優雅に微笑んで拍手を送った。
なぜなら、ラーニャはとっくに王子の無能さに愛想を尽かし、この日のために完璧な「撤退準備」を進めていたからだ。
お前のような地味な女は不要だと婚約破棄されたので、持て余していた聖女の力で隣国のクールな皇子様を救ったら、ベタ惚れされました
夏見ナイ
恋愛
伯爵令嬢リリアーナは、強大すぎる聖女の力を隠し「地味で無能」と虐げられてきた。婚約者の第二王子からも疎まれ、ついに夜会で「お前のような地味な女は不要だ!」と衆人の前で婚約破棄を突きつけられる。
全てを失い、あてもなく国を出た彼女が森で出会ったのは、邪悪な呪いに蝕まれ死にかけていた一人の美しい男性。彼こそが隣国エルミート帝国が誇る「氷の皇子」アシュレイだった。
持て余していた聖女の力で彼を救ったリリアーナは、「お前の力がいる」と帝国へ迎えられる。クールで無愛想なはずの皇子様が、なぜか私にだけは不器用な優しさを見せてきて、次第にその愛は甘く重い執着へと変わっていき……?
これは、不要とされた令嬢が、最高の愛を見つけて世界で一番幸せになる物語。
『外見しか見なかったあなたへ。私はもう、選ぶ側です』
鷹 綾
恋愛
「お前のようなガキは嫌いだ」
幼く見える容姿を理由に、婚約者ライオネルから一方的に婚約を破棄された
公爵令嬢シルフィーネ・エルフィンベルク。
その夜、嫉妬に狂った伯爵令嬢に突き落とされ、
彼女は一年もの間、意識不明の重体に陥る――。
目を覚ました彼女は、大人びた美貌を手に入れていた。
だが、中身は何ひとつ変わっていない。
にもかかわらず、
かつて彼女を「幼すぎる」と切り捨てた元婚約者は態度を一変させ、
「やり直したい」とすり寄ってくる。
「見かけが変わっても、中身は同じです。
それでもあなたは、私の外見しか見ていなかったのですね?」
静かにそう告げ、シルフィーネは過去を見限る。
やがて彼女に興味を示したのは、
隣国ノルディアの王太子エドワルド。
彼が見ていたのは、美貌ではなく――
対話し、考え、異論を述べる彼女の“在り方”だった。
これは、
外見で価値を決められた令嬢が、
「選ばれる人生」をやめ、
自分の意思で未来を選び直す物語。
静かなざまぁと、
対等な関係から始まる大人の恋。
そして――
自分の人生を、自分の言葉で生きるための物語。
---
勘当された悪役令嬢は平民になって幸せに暮らしていたのになぜか人生をやり直しさせられる
千環
恋愛
第三王子の婚約者であった侯爵令嬢アドリアーナだが、第三王子が想いを寄せる男爵令嬢を害した罪で婚約破棄を言い渡されたことによりスタングロム侯爵家から勘当され、平民アニーとして生きることとなった。
なんとか日々を過ごす内に12年の歳月が流れ、ある時出会った10歳年上の平民アレクと結ばれて、可愛い娘チェルシーを授かり、とても幸せに暮らしていたのだが……道に飛び出して馬車に轢かれそうになった娘を助けようとしたアニーは気付けば6歳のアドリアーナに戻っていた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる