林檎の蕾

八木反芻

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いち『時は金に換えろ』

1 待ち合わせ

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 見上げると、針は19時半を過ぎていた。
 駅前の時計台“聖月(セナ)の歌”。ここに集まる人々は必ず誰かと待ち合わせをしている。
 仕事帰りの大人たちがやけに目につく。
 駅が近く、少し歩けば繁華街、裏道に入れば歓楽街があるため、夜になると人通りが多くなる。
 予定の時刻まで、まだ十分余裕があるというのに落ち着かない。
 足取り早く家路に着く人や、足取り重く帰りたくない人、休日に向け浮かれた様子で飲みに行く人たちを目で追ってしまう。
 緊張をほぐすようにため息をついてまた時計を見上げた。
 林檎を輪切りにした形の時計の下に、銀色の大きな鐘のオブジェがある。その側面に彫刻されたデザインは林檎の実のなる木。その中に小さな蜘蛛が一匹隠れているという。
 一時代前、都市伝説が流行していた頃、その小さな蜘蛛を見つけられたら幸せが訪れるという噂話が爆発的に広まった。が、関心が薄れるのも早かった。人間の記憶とはなんとも頼りないもので、いとも簡単に忘れてしまう。その噂話も幸か不幸か時と共に曖昧なものになった。
 世間の注目が他のものへ移った頃、事件は起こった。鐘の音を鳴らすための内側に吊るされている舌が盗まれたのだ。修復してもなぜだかその都度盗まれてしまうため、区は取り付けることを諦めた。今でも犯人の目星はついておらず、ネット上では非リア充の仕業ではないかと笑いのネタになっていたこともあったり、薄れ行くもなんだかんだで人々の興味を引いているこの鐘は、今後も修復されることはなく、ふたたび時の訪れを告げることはない。
 因みにこの鐘の音は『林檎の実が落ちる音』といわれ、鳴らなくなった今この音が聴こえたものは幸せになれるらしい。ただ、真逆に『この時計台の下で告白すると失敗する』とか『デートで通ると別れる』なんて話もあるが、これは恐らく事件のせいだろう。ひどいところだと『もう一度鐘が鳴った時、世界は不幸の闇に包まれ崩壊する』という大層な中二病患者もいた。
 知ってか知らずかそんな噂話も物ともしない浮かれた恋人たちは、自分たちの幸せを願い、この“林檎の木”の下で待ち合わせをする。そしてここにも一人、桜の季節が過ぎた梅雨入り前の過ごしやすい空気の中、噂話と無縁な待ち人が時計台の下に立っている。
 無理のある大人びたシンプルな色合いの服装に濃いめの赤い口紅。これから会う人に疑われないよう、立ち居振舞いに気をつけながら、はしゃぐ恋人たちとは対照的な浮かない顔つきで身構えている。
 ついさっきも確認したのに時間が気になって仕方がない。数分しか経っていないとわかっていても、ついつい顔を向けてしまう。
 またも長針がどれだけ進んだか確認しようと見上げた時、突風が吹いた。
「わっ……!」
 吹き上げる風はワンピースの裾をフワッとめくる。突然のいたずらに戸惑いながら慌てて押さえた。
 セットしたセミロングヘアが風になびく中、不意に不思議な音が聴こえた。

 ──クルォーン……クルォーン……──

 と、優しく鳴り響くその音は、鐘の音に似ていて、耳にというよりむしろ頭の中で鳴っているような気がした。
 
 風はすぐに止んだ。
 音の正体が気になり、辺りを見渡すと、近くにアコースティックギターを抱えたストリートミュージシャンの女性が立っていた。マイクスタンドやら譜面台、アンプなどの機材のセッティングが既に終わっていて、ペグを回しチューニングをしている。彼女はとても人気があるのか、ストリートライブが始まる前から人だかりができている。
 彼女の姿に憧れを抱きながらふと髪に手を伸ばして気づいた。
「あ……」
 鏡とにらめっこしながら何度もやり直してセットアレンジしたのに、さっきの風のせいで崩れてしまっていた。今から手鏡を取り出して直す、なんて暇も余裕もなく、やむを得ずヘアゴムをほどいて乱れた髪を手ぐしで整えることにした。
 できればこんなタイミングで来てほしくない……と、思っていた時だった。
「……サキさん?」
 行き交う人の間をくぐり抜け現れた背広姿の男性は、一人の少女に声をかけた。
 呼ばれた少女は驚いてその声の主を見上げる。一目見た途端に顔が赤くなっていくのが自分でもわかり、隠すように顔を伏せた。
 何も言えずモジモジしていると、男性は確かめるように言葉を続けた。
「白い服に緑の上着、それと赤い靴……」
 そう言われ、少女は自分の着ている服装を今一度確認するように視線を落とした。
 ホワイトカラーの花柄フリルワンピースに、ダークグリーンの無地のカーディガン、何度も躊躇したレッドカラーのフレンチヒール。少女は男性に言われた通りの服装をしている。 
「はい……そうです……」
 人混みから自分を見つけてもらうために少女自身が選んで決めた服装だった。家を出る前にちゃんと確認したにもかかわらず、今では自分が何を着ているのかも頭から抜けてしまうほど少女の心にはゆとりがなかった。
 小っ恥ずかしくてオロオロと泳ぐ視線を、チラリと男性の姿に向けた。
 体のラインが綺麗に映えるよう、体格に合わせきっちり採寸された紺色の背広をぴしりと着こなすその男性は、少女より一回り、いやいや、二回りも年上に見えた。
「こんばんは、ハルです」
 男性は“ハル”と名乗った。
「あ……! はい、あの……」
 いろんな会話を想定して言葉を考えてきたのに、声を掛けられた瞬間頭から全てふっ飛んでしまった。頭真っ白で何を話したらいいのかわからず、サキはとにかく素早く頭を下げた。
「あっ、あの、今日は、よろしくお願いします……!」
 ぎこちない挨拶に反応はない。
 焦りと若干の気まずさに、 今のはなかったことにしようとごまかすようにゆっくり頭を上げた。
 ハルはサキの挨拶に会釈も愛想笑いも返さず、ぶっきらぼうに言う。
「ホテルを用意しています。行きましょう」
 その単語に心臓がバクンととび跳ねた。
 手に汗がにじむサキをよそに、ハルは片手をポケットに突っ込んだまま歩き始めた。
「あっ……」
 サキは遅れないよう、おぼつかない足取りでハルの後を追った。振り向いて待つ素振りを見せることもなく、ハルはひとりでさっさと行ってしまう。
 歩幅の違う二人は、端から見れば赤の他人。その視線も行き先も、少女が男の背中を追っているとは誰も思わないだろう。そんな微妙な距離感のまま、二人はタクシーの停留所に向かって歩いた。
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