妄想女医・藍原香織の診察室

Piggy

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迷走編

42-1話【off duty】岡林 幸太郎 25歳:「結構悔しいから」(藍原編)①

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 はあ、新人の梨沙ちゃんに入院患者さんの経過をひととおり説明して、それから梨沙ちゃんの学会症例を何にしようか探してたら、もうこんな時間に! 月曜からがんばったら1週間もたないわ、そろそろ帰らないと。

 病院を出る頃には夜の9時を過ぎていて、まだ肌寒いビル街を足早に歩いていると。ひと際背の高い、見覚えのある後ろ姿が。

「……岡林くん!」

 後ろからポンと背中を叩くと、岡林くんが振り返った。

「あれ、藍原先生。お久しぶりです」

 いつもの調子の、飄々とした岡林くんだ。何だか懐かしくなっちゃう。内科研修以来だもんね。

「先生、今まで仕事?」
「そうよ。そういう岡林くんも? ……そうだ、岡林くん、何科に入ったの?」

 そう、それがずっと気になっていたの。

「消化器外科です。やっぱり外科が向いてるなと思って」

 やっぱり! 岡林くん、消化器外科っぽいと思ってたのよ! 外科は週始めに大手術が多いから、きついわよね。

「……先生、晩飯まだだったら、食べていきませんか?」

 岡林くんが提案する。久しぶりにゆっくり話したくて、あたしは二つ返事で乗っかった。
 まだ月曜だし、もう夜遅いしで、入ったのは定食屋みたいなとこだけど。しばらくしてから、岡林くんが口を開いた。

「……先生。ずっといわなきゃって思ってたんすけど……。いろいろと、ありがとうございました」
「え、なに、急に? あたし、何かした?」

 妙にまじめな顔つきの岡林くん。いったいどうしたのかしら。岡林くんが、じっとあたしを見る。

「……かばって、くれたんですよね? あのときのこと。西先生に……」

 あのとき? 西先生……? ……ああ! あのとき! いけない、すっかり忘れてた。あたし、岡林くんの内科研修最終日に、何故かシャワー室で軽く襲われて、そこに西先生が運悪く出くわしたんだったわ! そうそう、西先生はかんかんに怒ってて、研修センターに報告してラウンド停止だ、なんていってた。

「……循環器外科では、ちゃんと研修できたの?」
「はい。西先生に、しっかり指導してもらいました。すごく真面目な先生で、勉強になりました。……尊敬できる、先生です」

 そうか。よかった。あの直後から循環器外科の研修だったから、西先生も岡林くんも、お互いやりにくいんじゃないかと思って心配だったの。岡林くん、あんなふうに西先生に怒られて、絶対嫌いになってるんじゃないかなって思ってたけど……尊敬できる先生、か。本当によかった。

「それを聞いて安心したわ。指導医が西先生でよかったわね」

 笑ってそういうと、岡林くんもふふっと笑みを浮かべた。

「……藍原先生も、相変わらずっすね」
「何が?」
「……人の、心配ばかりしてるというか。人のいいところばかり見るというか。あんなことがあったのに、誘ったら簡単に晩飯についてくるし」
「それはもちろん、岡林くんだからよ。知らない人にほいほいついていったりなんかしないわよ?」
「ははは。だから、何で俺なんかについてくるのって聞いてるんですよ」
「だって岡林くん、いい子だから。久しぶりに会えて、うれしくなっちゃって」
「先生、忘れてるの? 俺、先生のこと襲ったんだよ。今日もまた、襲われちゃうかもしれないじゃん」
「え……そ、それは困るわねえ、あたし西先生に、岡林くんはもう絶対こんなことしません、って約束しちゃったんだから」

 まったく岡林くんたら、たちの悪い冗談を。でも大丈夫、ここは誰もいないシャワー室じゃないし、いっぱい人がいる定食屋。ムードもへったくれもない。どうにかなりようがないわ!

「……先生、相変わらず、いい人だね」

 岡林くんはそういってビールを煽った。

「そういう岡林くんは? 相変わらず遊んでるの?」
「ぶっ」

 あらやだ、ビールを吐き出すほどのことはいってないわよ?

「えっと、先生……俺、内科研修のときから、遊んでないっていってなかったっけ?」
「そういえば、そんな気も」
「……まあ、前よりは、落ち着いてるよ」
「あらっ、じゃあ多少は遊んでるのね? そうよね、外科ってモテるものね。岡林くんみたいにかっこよくて腕もよかったら、そりゃもうナースが黙ってないんじゃない?」
「……俺、めんどくさいのは嫌いだから」

 あら、そうなの? でも、遊び人って、めんどくさがってちゃできないわよね。同時にいろんな子と遊ぶんだもの、いろいろとセッティングがあるわよね。それとも……むしろ、特定の女の子と付き合うほうが、めんどくさいものなのかしら。身軽に遊んでるほうが、楽? ……岡林くん、どっちのつもりでいってるのかしら。

「先生は? 相変わらずひとり?」
「え……?」

 突然聞かれて、頭に浮かんだのは、新條くん。ひとりじゃなくて、あたしは今、新條くんと……あんなことや、こんなことをして、それで今朝も、電車の中や公衆トイレで、あんなイケナイことをして……。あああっ、まずい、いきなり妄想……どころじゃなくて、過去の生々しい記憶がよみがえって、脳内がえらいことに……!

「……先生。ホント、わかりやすいね」

 岡林くんの呆れたような声で何とか我に返る。

「えっ、そ、そうかしら!? べ、別に変なこと、考えてないわよ!?」

 岡林くんが声を出して笑った。

「先生、それだけ顔真っ赤にしといて、よくいうよな。……そうか。彼氏、できたんだ?」
「ええっ、彼氏!? ああ、そう、そうね、確かに彼氏だわね……」
「何だそれ、自覚なしかよ? ……ああ、そっか、あのパターンか? 先生、感じやすいから、心より先に体が突っ走っちゃってる?」
「ええええっ!?」

 やだ、そんな直球で恥ずかしいこといわないでよ! そ、そんなことないわよっ、確かに体は暴走気味だけど、ちゃんと、心が追いつくのを、待ってるんだから! ……うん、たぶん、待ててる、はず。……ていうか、待ててるうちに、入るのかしら……? そうね、少なくとも新條くんは、必死に、待ってくれてる……。
 岡林くんが、ため息をついた。

「……ったく、先生、わかりやすすぎ」
「え?」
「……そいつがどうやって先生を手に入れたのか、知りたいもんだよ」
「そ、それはあたしも、知りたいもんだわね」

 ホントに、新條くんは、いつの間にかあたしの心の中に入り込んで。ただの患者さんで、ただのお隣さんで、あたしの妄想の中に登場するたくさんの男の人たちの中のひとりだったのに。どうして新條くんだけ、特別になったんだろう?

 結局、あたしの脳内を見透かされて何とも気恥ずかしいまま、あたしたちはお店を出た。帰宅する人たちの流れに乗って、駅に繋がる地下道に入る。大丈夫、あたしも岡林くんも大して酔ってないし、まばらだけど人も通ってるし、おかしいことには絶対ならない。そうは思うけど。隣を歩く岡林くんは、久しぶりに見てもやっぱりかっこよくて、遊んでるなんていうけど物腰はいつも柔らかくて、これなら大抵の女の子はほいほいついていっちゃうよな~、なんて思う。そう、あたしだって今日ほいほいついてきちゃったし。岡林くんは、とっても魅力的な男性だ。

「……先生。誘ってる?」

 急に岡林くんにいわれてびっくりする。

「ええ!? そ、そんなことっ」
「ははは、冗談だよ。先生がずっと俺のこと見てるから」
「え、そうだった?」
「先生のそういう無自覚なところ、危なすぎる」

 何が無自覚で何が危ないのかよくわからないけど。長い地下道を歩いているうちに人も減ってきて、静かな夜に靴音だけが響くと、何だか岡林くんのことが、すごく気になってくる。

 階段を上ったところで、S線の標識が出てきた。

「あ、じゃああたしはこっちだから。岡林くん、頑張って、優秀な外科医になってね」

 よかった、何事もなくちゃんと別れられそう。ほっとしたのがバレたのか、また岡林くんがふっと笑う。

「久しぶりに先生と会えてよかった。楽しかったよ」
「うん、あたしも楽しかったわ。変わらず元気そうで、うれしかった」

 本心でそういったのに。岡林くんは、ちょっとだけため息をついて。

「……先生って、小悪魔だよね」
「え?」

 どういう意味かしら。あたし、何か意地悪なこといった? ぽかんとしているあたしの顔の横に、すーっと岡林くんの右手が伸びてきて――指が、さわりとあたしの耳たぶを撫でた。
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