妄想女医・藍原香織の診察室

Piggy

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障害編

60話【off duty】林 惣之助:懺悔(藍原編)②

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「違うんですよ、藍原先生。私はね、私は……この期に及んでも、エゴの塊なんです。凛太郎くんを傷つけ、あなたを傷つけ、エゴイスティックに美の道を追求し、その挙句……まだ、思うような絵が描けないことに、苦悩し怒っている。ここまでしても、あなたの中の究極の美を見つけ出せないでいる。私にはもう時間がない! 苛立っているんです。そして、苛立つほど私の目は曇り、真実が見えなくなる。官能の果てに到達するには、自ら人間の美しさも醜さも恐怖も、そのすべてを受け入れるしかない。偉そうにそんなことを語っておきながら、私は差し迫った期限に怯えている。私には、究極の美に到達する資格などない! そしてそのことが一番、悔しいんです。周りの善良な人間を傷つけてなお、私が悔いているのは、傷つけたことではなく、私自身が最果てに到達できないという事実なんです……!」

 林さんが、背中を丸めて声を震わせた。
 あたしはそっと林さんに近づいて、キャンバスを見た。裸体の女性が、美しくも官能的な表情を浮かべて横たわっている。そこに、同じく裸体の少年が、狂おし気に手を伸ばす。その絵は未完成で、そして、そのキャンバスの下半分を覆うように、黒い絵の具がぶちまけられていた。

「林さん……」

 そっと背中に手を添える。ひどく骨ばって、冷たい背中だった。
 絵のことは、全然わからない。それでも、漠然と感じた。

「林さん……。あなたは、凛太郎くんの想いを感じ取っていた。あなたを想う、狂おしいほどの想い……。でも、あたしと凛太郎くんとの間には、そんな繋がりはないんです。心と体は別物かもしれないけれど、そこに繋がりが生まれたとき、新たな官能が生まれると、あたしは思うんです。……林さん。あなたは、究極の美に到達する資格がないんじゃなくて、まだそれが、見えていないだけじゃないんですか? あたしと凛太郎くんからでは、それは、生まれないんです」

 林さんが、目に涙を浮かべてあたしを見上げた。

「私には……私には、見えていないというのですか……。あなたの奥に潜む、官能の果てが……」
「……わかりません。あたし、絵には詳しくないし、官能とか、そういうことを真面目に考えたことはないので……。でも、昨夜……凛太郎くんと肌を合わせて……確かに、体は感じました。でも、心は……心には、何かが欠けていました。それが、林さんにとっても、足りないピースなのかもしれないって……そう、思っただけです」

 林さんの目から、涙が零れ落ちた。

「目の前に……目の前の、手の届きそうなところに、答えがあるというのに……私は、それに到達することなく、力尽きるのか……!」

 林さんの全身が、絶望で震えていた。

「林さん。林さん、気を落とさないで。まだ凛太郎くんがいます、彼があなたを想う心は本物です。凛太郎くんと心を通わせることができれば――」

 声をかけた瞬間、林さんが顔を歪ませた。

「う……っ、うう……!」

 苦しそうに体を抱えこむ。

「林さん!? 林さん、大丈夫ですか!? 痛みますか?」

 林さんの額にみるみる脂汗が浮いた。

「痛み止め、どこですか!? 取ってきます!」

 それでも林さんは、歯を食いしばって首を振った。

「いりません。痛みは、人間の証――そして、エゴのままにあなたがたを傷つけた私への、罰……」

 見るに堪えない姿だった。こんなに苦しんでいるのに、あたしにできることは何もない。

「……行ってください。私のことはもう、忘れてください……。あなたにこれ以上、迷惑をかけることはありません。申し訳ありませんでした……」

 絞り出すような声が、あたしの胸をぎゅっと掴む。苦しかった。どうにかしてあげたい。でも――。
 時計を見ると、もう8時を回っていた。
 仕事に、行かなきゃ。
 突然現実を思い出す。

「……凛太郎くんを、呼びます。きっとすぐ来てくれますから」

 痛みが治まってきたのか、林さんはかすかに笑った。勝手に近くの電話帳を見て、凛太郎くんに電話をかける。呼び出し音のあと、留守電に繋がった。

「凛太郎くん? 藍原です。……林さんに、ついていてあげられるかしら? あたしは仕事に行きます。林さんが心配なので、よろしくお願いします。それから……あたしは、大丈夫だから。凛太郎くんは、何も気にしないで。気を、しっかりね?」

 そう伝言を残す。林さんも心配だけど、凛太郎くんのこともすごく心配だった。きっと、林さんのいうとおり、今ごろは自分を責めて、傷ついて、思い詰めているに違いない。電話に出ないのも不穏だ。林さんの具合が悪いといえば、凛太郎くんなら駆けつけてくれるに違いない。本当はよくないと思ったけど、今は……凛太郎くんが自分を追い込まないように、林さんのお世話に尽くしてもらったほうがまだましだろう。

 後ろ髪を引かれる思いで、林さんを置いて、家を出た。閑静な住宅街からでたらめに歩いて、大通りへ出る。タクシーを拾って、病院に向かった。妙な息苦しさと、胸の疼きと、まだしくしくと痛む両手首の痛み――心が重くて重くて、どうしようもなかった。
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