妄想女医・藍原香織の診察室

Piggy

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妄想編

30話【daily work】岡林 幸太郎:医局(藍原編)

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 午後の外来の最後のほうで、気管支喘息の女の子が緊急入院になって、発作が快方に向かうまで張り付いていたら、夜の8時になってしまった。

「ふう、今日もお疲れさま。佐田さん、挿管にならなくてよかったわね」
「そうですね。この分なら、夜のお呼び出しもなさそうですしね」

 岡林くんとふたりで医局に戻る。途中の自販機で、二人分のコーヒーを買う。医局はもうみんな帰ったあとで、真っ暗だ。とりあえず電気をつけて、3人掛けのソファに座る。

「はあ、やっと座れた! 岡林くん、よくがんばったわね。はい、コーヒー」
「ありがとうございます」

 岡林くんは爽やかな笑顔で受け取ると、あたしの隣に腰を下ろした。ふたりで一息つく。

「今日は、水曜日よね……。あたし、金曜日の夕方から学会で福岡に行っちゃうけど、大丈夫かしら」
「佐田さんですか? 大丈夫ですよ。明日一日落ち着いていれば、週末に先生を困らせるようなことにはならないと思います」
「そうよね。土日のお留守番、よろしくね。困ったことがあったら、電話はいつでもくれていいから」

 うん、やっぱり岡林くんは頼りになる。土曜午前の口頭発表に向けて、金曜の夜には福岡に着きたい。それで、岡林くんには申し訳ないけど、土曜日の一泊分は、観光。ちょっと羽を伸ばして帰る予定。

「病棟は任せてください。……でも……」
「でも?」

 岡林くんが、ふと言葉を区切ると、あたしのほうを向いてはにかんだ笑顔を見せた。

「週末先生に会えないのは、俺が、ちょっと寂しいかな」
「え。週末会わなくったって、平日毎日会ってるじゃない」
「そういう意味じゃなくて」

 岡林くんが、じーっとあたしを見つめてくる。……そういえば、あたしがうっかり電話で寝落ちして以来、こんなふうにふたりきりになるのは、初めてかも……。
 途端に、ドキドキしてくる。あのときあたし、なんかだるさと眠たさで、気持ちよくなりながら、いろいろ妄想しちゃって……気がついたら、寝てたのよね……。起きたときには朝で……もちろん電話は切れてて……。翌日岡林くんに、変なこと口走ってなかったか聞いたんだけど、岡林くんはニコニコして「いえ、何も~」っていうだけで。……う、うっかり、妄想の声が外に出てたりしてなかったかしら!? っていうか、岡林くんの声自体、どこまでが現実でどこからが妄想だったのか、定かじゃないのよ……! ままままさか、この爽やかイケメンの岡林くんが、あんなテレホンセックスまがいのことを仕掛けてくるとは思えないんだけど! あれはすべて、あたしの妄想の産物だと思いたい! ……いや、それはそれでどうかとは思うけど……でも! あたし、岡林くんと、リアルにエロい関係には、まだなってないわよね……!?

「……あ、あの」

 岡林くんと目があったままの沈黙に耐えられなくなって、何かしゃべろうとしてみる。

「……あたし、本当に、電話のとき、変なこと、いってなかったわよね……?」

 岡林くんはニコニコしている。

「はい。そりゃもう、かわいい寝息をたてて、気持ちよさそうに寝てました」
「お、岡林くんも、何が変わったこととか、いってなかったわよね……?」

 岡林くんの目が宙へ向けられる。

「変わったこと……? いったかなあ。例えば、どんなことですか?」
「そっ、それは……」

 そっ、そんなの、いえるわけないじゃない! ち、乳首つまめだとか、下のほう触りたいだとか、俺イキそうだとか、そんなこといってましたか、なんて、聞けるわけないでしょーが!!
 ああっ、あのときの妄想を思い出して、恥ずかしくなってくる。もうまともに岡林くんの顔を見ていられなくなって、顔を背けたら、岡林くんがクスッと笑った。

「……先生、どうしたの? 耳まで真っ赤。……なんか、赤くなるようなこと、考えてたんですか……?」
「い、いえいえいえ、そんなことはけっして……」

 ああダメ、絶対あたし今、挙動不審だわ。こ、こんなところであたしの妄想癖を見破られるわけにはいかない……! これはあたしが、墓場まで持っていく秘密なんだからっ。
 コトリ、と、岡林くんが缶コーヒーをテーブルに置く音がした。おそるおそる振り向くと……岡林くんの顔が、目の前にあった。びっくりして固まるあたしの耳元に岡林くんが顔を寄せる。

「……電話でいえなかったこと、今、いってもいいですか……?」

 うわ……っ。岡林くんの声が耳にかかっただけで、背中のほうがゾクゾクする……。なにこれ、あたし、おかしくない?
 肩をすぼめて動けないあたしに、岡林くんが笑いながら囁いた。

「先生、耳、弱いよね……あのレストランのときも、そうだった」
「よ、弱いってなに、別にそんなことはないわよ……っ」
「ふふ、弱いよ。藍原先生……耳、感じやすいんでしょ?」

 ちょっと、これはまずい展開だわ! こんなところでスイッチ入っちゃったら、もうどうなっちゃうか……! なんとか、阻止しないと……!

「こらこら、先輩をからかうのはやめなさい」

 なんとか体を押し戻そうとしたけど、岡林くん、びくともしない。それどころか……突然! あたしの耳に――

「ひゃあっ!?」

 へ、変な声が出ちゃったじゃない! なに今の、なんか耳が、急に熱くなって――う、うそ、岡林くん、

「な、何やって……」
「……先生の耳、食べちゃった」

 うそでしょ。岡林くんが、あ、あたしの左耳を、口にくわえて、熱い舌で、耳の裏を――!!

「あっ、やっ、な、なにして……っ」

 ちょっと待って、完全に頭が混乱してる。左耳から、得体の知れない熱が広がって、全身の力を奪い取っていく。あたしは岡林くんに押し倒されるように、ソファに仰向けになった。

「……先生。先生の声、聞かせて」
「え、ちょっと……あっ、は……あっ」

 やだ、岡林くんがあたしの耳の裏を舐めるたびに、変な声が出る。ちょっと待って、これ、現実? 妄想じゃなくて? そんなはずはない、でも、妄想いつもみたいに、コントロールが効かない……――

「ダメだってば、岡林くんっ、……んあっ、あん……ッ」

 岡林くんの舌が、耳から首筋に下りてきて……ああ、どうしよう、体が勝手にビクビクと反応する。やだ、あたし、これじゃあただの淫乱みたいじゃない。違うのよ、こんなのは違う。そうじゃなくて――

「……っ、お、岡林くん、待って――ちょっと、待って……ッ」

 岡林くんの唇が首筋から離れ、あたしの唇を奪おうと顔が近づいてきた。あたしがあわてて手のひらで唇を隠そうとしたら――

 バタン!!

 急に、医局のドアが開いた!! 反射的に、岡林くんがあたしの体の上から跳ね起きる。
 うっひゃあ、だ、誰!? た、助かったような、まずいような……っ。
 あたしも跳ね起きて、白衣の裾を整え、震える手で飲みかけの缶コーヒーに手を伸ばす。幸い、医局の入口からソファのあたしたちのところは死角になる。その人が姿を現すころには、岡林くんは自分の荷物を持って立ち上がるところで、あたしはソファに座って缶コーヒーに口をつけたところだった。

「あら、遅くまでごくろうさま」

 現れたのは、西園寺先生だった。

「せっ、先生こそ、お疲れ様です! 遅いですね!」

 そう返事をする。やばい、声が上ずった。絶対おかしい、あたし。

「緊急入院が入ったからね。ああ、あなたたちの患者だっけ。佐田明奈ちゃん。落ち着いたみたいでよかったわね」
「あ、はい、それであたしたちも今まで残っていて……」

 それを合図のようにして、岡林くんがそそくさと医局を出ていく。

「あっ、じゃあ先生、お先に失礼します」
「あっ、はいはい、お疲れ様でした」

 自然を装って声をかけたけど……うう、心臓がバクバク、汗じっとりよ。ば、バレたかしら……?
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