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6.竜王の命令
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ここに来てから、どれくらい経ったのだろう。このちいさな体は少しのことですぐに体力を消費して眠たくなってしまうし、窓のないこの部屋に昼夜なんてあってないようなものだからすぐに分からなくなってしまった。
不吉な黒猫にはとても考えられないほどに、ここでの暮らしは何不自由ないものだった。出される食事は私じゃなくてアダン様のためのものではないのかと思うほどに豪華で美味しくて、ここからすぐに離れないといけないという思いは変わらないのに、初めて食べたときは空腹もあって我を忘れてがっついてしまった。うにゃうにゃと食べながら喉さえ鳴る始末。それをアダン様が酷く嬉しそうに眺めていたときの居心地の悪さといったらない。
首輪を覆い隠すように、酷く肌触りの良い所々花の装飾が付いたゆったりとしたレースの羽織のようなものを着させられて。不吉な黒猫に触れるなんてとんでもないと、極力番には近付かないようにしているけれど、これを着させられた時のアダン様の威圧感には勝てなかった。
『俺が、君のために用意したんだ。その無骨な金属の首輪なんかよりも、美しい君に余程相応しいよ。……どうか大人しくしていて。その首輪を目にするたびに、嫉妬で気が狂いそうになるんだ』
押し殺したように低く震える声に、そのエメラルドのような瞳に淀んだ色を見つけてしまっては、その時ばかりは大人しくしているしかなかった。それに猫の姿とはいえ元は一応年頃の娘なのであって、高級なレースの服に憧れがないわけもない。着させられた後、繊細で可憐な服を身を包んでいることに僅かに心が高揚して、それからすぐに自嘲に変わった。どんなに綺麗なもので覆い隠したって、厄災を運ぶ呪われた存在であることに変わりはないのに。
けれど、少なくとも着飾った私を心の底から嬉しそうに、瞳を蕩かせて見つめてくるアダン様が、喜んでいることは間違いなくて。それがとても嬉しくて、それ以上に胸が痛んだ。
高級な猫のおもちゃに、とても大きなキャットタワー。獣人の時ですら食べたことのない美味しい食事に、暖かくてふかふかの寝床。閉じ込められているはずなのに、不便に思ったことが一度もない。この部屋がどれだけ私のために誂えられているのか、少し見ればすぐに分かってしまう。けれど私は、その殆どを無為にしていた。
食事は初日は空腹に敵わなかったけれど、翌日からは餓死しないぎりぎりの量を食べて後は残してしまった。食べ物を粗末にしてはいけないと両親に教え込まれていたから酷く胸が痛んだけれど、これはアダン様の、ひいてはこの国のためなのだ。殆ど残された食事を見てアダン様は顔を曇らせて、それからは毎日食事の内容が変わるようになった。素材だけでなく、量だったり盛り方だったり器だったり、私が食べやすいように工夫がこらされているのが一目で分かった。申し訳なさで死んでしまいそうで、それでも、私は最低限以外の食事を拒み続けている。
キャットタワーもおもちゃも暖かな寝床も、とても本能を擽られるけれど、私は一度も使っていない。いつも部屋の隅っこの床で隠れるように丸くなって寝ているし、日がな一日やることは遊ぶことや寝ることではなく、部屋の扉に向かって出してほしいと爪を立てて大きな声で鳴き続けることだけだ。アダン様が近付いてこようものなら何が何でも逃げるし唸るし、なんなら心を鬼にして威嚇だってする。その度にまるで心臓を切り付けられたような顔をする番に、こちらの胸もずたずただった。それでも、これは全てこの人を厄災から守るためだから。
いつまでも懐かない番が煩わしくなった、でもいい。日に日に弱っていく番を見ていられない、でもいい。何でもいいから、私をここから遠ざけてほしかった。不吉な存在を、厄災を運ぶ私を、高貴なこの人から離してほしい。アダン様のことを傷付けて、私の心もボロボロで、それでも私は決して、自分からアダン様に近付くことはなかった。顔から火が出るほど恥ずかしいけれど、アダン様曰くどうも寝ていると私は本能的に甘えてしまうようだから、アダン様が部屋にいるときは意地でも眠らないようにしていた。決して私が心を許すことはないと示すように。
アダン様はかなりの頻度で部屋に来ていたけれど、私がアダン様が傍に居ると意地でも眠らないことに気が付いたようで、それからはその頻度が少しだけ下がった。威嚇するばかりの私に一通り宥める言葉をかけて、それから耐えるように胸元を握り締めて、酷く痛そうな表情で名残惜しそうに部屋を出て行く。傷付けている分際で何をと思うけれど、それでも、きっと私だって同じくらいに胸が痛い。どうして、大好きな人をわざわざ傷付け続けないといけないのだろう。
どうか、早く。私のことなど見捨てて、こんな不毛な日々を終わらせてほしい。最初は自力で脱出できないかとかなり頑張ってみたけれど、アダン様が出入りするときに僅かに見えた扉の先にはまた鍵が掛かっているであろう扉があったし、その先から僅かに人の気配を感じたから、どうも見張りが立っているようだった。アダン様はこの国の王なわけだから、その配下の人達なのだろうか。ここに閉じ込められてから身の回りのことは全てアダン様が整えてくれていて、私はその人達の顔すら見たことがないけれど、私のことは一体どう説明しているのだろう。何にしても確かなのは、ただでさえ非力だったのにただの猫にされてしまった私が、自力で脱出できる可能性はゼロだということだ。
だから、出してほしいと訴え続けて、不吉な黒猫のくせに懐きもしない姿を見せ続けて、好意も全て無駄にして。どんなに胸が痛くても、そうしてアダン様の方から追い出してもらうしかない。このまま傍に居ても、お互いにとって何もいいことなどないと、疑いようもなくそう思ってくれたら。
そう思い、行動を続けて幾日も経ったけれど。アダン様が私を手放すよりも─────私の限界の方が早かった。
「ノエル、頼む、お願いだ……どうか食べてくれ」
大声で鳴いたり暴れたりできるほどの体力は、連日まともに食事を取っていなければ当たり前に早々に尽きてしまった。アダン様が近付いてきても逃げることすらせず、身を守るように丸くなることしかできない私に、アダン様は焦燥に顔を歪めて鼻先に食べ物を差し出してくる。
新鮮な生魚、食べやすく小さく裂かれた柔らかそうな鶏肉、少しだけ温められたミルク。次々と眼前に差し出されるそれに、とてもとても食欲をそそられるし、ついお腹も鳴ってしまうけれど、私がそれに口をつけることはなかった。番が手ずから差し出してくれたものなのだから、内容の豪華さを差し引いても死ぬほど魅力的に感じるけれど、それなら尚更私は受け取れない。心を許していると少しでも思わせたら、きっとこの優しい人は私を手放してはくれないから。大丈夫、確かに体力も落ちたし弱っているけれど、まだ死ぬほどじゃない。それが分かっていながら私は、ことさら弱った、今にも死にそうな声で鳴いてみせた。
「みぃ……」
「───────……ッ!」
心が痛むけれど、優しいアダン様なら、自分の傍で弱っていく番など見ていられないと思ってくれないだろうか。お願い、どうか不吉な存在である私をここから放りだして。そう願いを込めて、やっとの思いで顔を上げ、そっとアダン様と目を合わせて────……私は心底後悔した。
「……ノエル」
アダン様は、何もかもが抜け落ちたような表情をしていた。瞳がどこまでも昏く、果てがないほどに淀んでいて、エメラルドのようだったそれがまるで深淵のようだ。目を見開いたまま固まる私に、アダン様は酷く美しい、感情の乗らない笑顔を浮かべた。
「……最初は美味しそうに食べてくれたよね。本当に本当に、夢のように可愛くて、君が望むものは何でも、全て与えてあげたいと思ったよ。……でも、あの時と同じものを出してももうまともに食べてくれないのは」
酷く優しい手つきで、そっと背を撫でられる。いつもならアダン様に触れられると心地よくて、心底安心してしまうのに、今は触れられた所から畏怖で毛が逆立っていくのが分かった。きゅう、と視線の先で、逆光の中輝く竜の瞳が細められる。
「……俺が、嫌だから?前の飼い主のほうが良いから?」
静かに、唸るように。殺しきれない感情が滲んだ声でそう吐き捨てられて、竜の怒りに触れた私は視線を逸らすことすらできないまま、目を見開いて小さく震えていることしかできなかった。尾を膨らませて絶対的強者の威圧に本能的に怯える私に、アダン様は諦めたようにひとつ、自嘲めいた笑みを零して。
「……できれば、君に自分から、心を許して貰いたかったけれど。でも、自分を損なってまで俺を拒むというのなら……他の誰かを求めるというなら────話は別だ」
する、と指が下りて、優しく喉を撫でられる。決して力を込められてる訳ではないのに、まるで刃物を突きつけられているかのような心地がした。私がどんなに酷い態度を取っても、アダン様が私を傷付けたことなんてないのに。震えることしかできない私に、ゆるりと、その淀んだエメラルドが細められて───それから、酷く静かな声で、下されたのは。
「ノエル───……『俺の言うことを聞け』」
────その声を聞いた瞬間、ぞわりと本能に怖気が走った。まるで喉元を押さえ付けられたような、抵抗など考えることすらできない威圧感に支配されていく。毛を逆立てて固まった私を、それでも優しく撫でながら、アダン様は今にも泣き出しそうな淡い笑みを浮かべた。
「……ちゃんと食べて、ちゃんと眠って。ほんの少しでも、自分を傷付けてはいけないよ」
その声を聞いた途端、口元に突きつけられたミルクに、意思とは反して舌を伸ばしてしまう。そうしてしまえば空腹を思い出すのはあっという間で、気が付けばアダン様が次々と与える食事を我を忘れて貪っていた。これではいけないと思うのに、しかもアダン様の手から食べるなんて気を許していると言うのも同じなのに。必死に食事にありつく私を、アダン様は安堵を滲ませて見詰めていた。
「……可哀想なノエル。君が誰を選んだのだとしても───もう君を、手放すなんてありえない。奪おうとするものは、決して許しはしない。絶対に、何をしてでも───それが、君自身だとしても……俺は……」
微かに掠れたその声が、今にも泣き出しそうに聞こえて。この優しい人を傷つけているのは自分なのに、それでも胸が刻まれたように痛む。どうかそんな悲しそうな声を出さないでほしい、泣かないでほしいと、身勝手にもそんな思いで顔を上げようとして─────しかし次に襲ってきたのは、耐え難い睡魔だった。この人の前で眠ってはいけないと、理由も思い出せないまま必死に自分に言い聞かせるのに、久しぶりにお腹が満たされたとあっては、ただの猫の体でとても我慢できるものではなくて。
「…む…にゃ……」
最後まで感じていたのは、優しく体を撫でてくれる温かい手。……それから、愛しくて甘い番の香り。だめだだめだと言い聞かせていたのもどこへやら、勝手にのどがごろごろと鳴ってしまって、視界が歪み揺らいでいく。場違いな幸福感に酔いながら、私の意識はゆっくりと沈んでいった。─────酷く掠れた「ごめんね」という声を、耳の奥に残したまま。
全ての獣人において、竜王の命令とは本能的に抗えない絶対的なもの。元々非力だった上に今はただの猫にされてしまった私に、それに逆らう余地なんてあるはずない。─────愛しい番を傷つけたくないがために、どうにかここから放り出してもらおうという私の考えは、跡形も無く砕かれてしまった。
コト、と目の前に置かれた食事。食べやすい大きさの軽く炙られた魚と、ほんのり温かいミルク。いつもと遜色なく豪華なそれに、けれどいつもと違うのは私が躊躇いなく口をつけたことだった。とても美味しくて喉からご機嫌な音が出てしまうけれど、当然私の意思じゃない。体の節々が糸で引かれているような感覚があって、それがどう頑張っても断ち切れないのだ。絶対的な命令を下した張本人は、どこか昏い色をしたエメラルドのような瞳を蕩かせて、瞬きもせずにこちらを見つめていた。
「……よかった、大分元気になったね。そんなに喉を鳴らすくらい、本当は気に入ってくれていたんだ……はは、可愛い……嬉しいな。ねえノエル、ここにいたら、ずっと、ずっと、この世界中のどんな猫よりもいいものを食べさせてあげる。勿論食事だけじゃないよ、君が望むのならどんなものだって……俺は君のために、どんなことだってできるんだ。ねぇ、ノエル……」
ぺろり、と意思に反して少しも残りがないように皿を舐め上げてから、私は体を操っていた力が一旦緩まるのを感じて、そっと背を起こしてアダン様を見上げた。黒い尻尾が、迷うように小さく揺れてしまう。本当は、彼の言葉が、差し出される愛情が、どれほどに嬉しいか。豪華な食事も豪奢な服も、何もなくたっていいからアダン様と共に在りたいと、あなたのためにどんなことだってできるのは私の方だと、素直に伝えられたらどんなに良かっただろう。けれど私は、そんな分不相応な願いから目を背けるようにしてアダン様から顔を逸らした。もう意味がないと分かってしまえば必要以上に威嚇することなんてできなくて、けれど不吉な黒猫が無闇に彼に近づくことなんて許されるわけがない。今は魔女の「この状態であればある程度黒猫の能力を抑えておける」という言葉に縋っている状態だけれど、いつ彼に厄災が降りかかったっておかしくないのだ。追い出してもらおうという作戦は失敗してしまったけれど、とにかく彼とは可能な限り距離を取らなくては。
食べ終わるなり距離を取って部屋の隅に蹲り、視線すらも合わせることをしない私に、アダン様は苦しそうに顔を歪めて、けれどそれ以上に何かを強要しようとはしなかった。彼はいくらでも私に命令することができるのに、私に課されたのは「よく食べてよく眠ること、自分を傷つけないこと」だけだ。私が本当に不吉を運ぶ存在だと知らないアダン様は、ただの黒猫であっても今は番だと認めて傍に置こうとしてくれている。それなのに懐きもせず威嚇ばかりするような恩知らずな猫なのだから、例えば愛想よく振る舞えだとか、そういう命令をしたって誰にも責められることはないはずなのに。彼は、この上なく優しいから─────多分、必要以上に私の意志を縛らないようにしてくれているのだ。
ずきずきと胸が痛む。目を合わせないのは心を許していないふりをするためでもあるけれど、自分でやったことの癖に、アダン様の傷ついた顔を見ていられないなんて卑怯な想いがあるからだった。大好きなのに、愛しているのに、この世の誰より笑っていてほしいのに。もしも私が笑わせてあげられたなら、きっと死んでもいいと思うくらい嬉しいんだろうなんて馬鹿なことを思った。私でも誰かを幸せにできるなんて夢を見ていられたのは遠い過去の話で、今の私が彼にあげられるものなんて、心の傷と厄災だけなのに。だから、早く離れないと─────……自分に必死にそう言い聞かせるのに、結局なにも具体的な打開策は浮かばないまま、私は瞼が重くなっていくのを感じた。意志に関わらず彼の命令通りに動く体は、食事を取れば次は睡眠だと私を急かしてくる。それでもせめて寝ている間にみっともなく彼に甘えてしまわないようにと、必死で壁に体を寄せて縮こまった。アダン様は私が寝ている間に近くにいて欲しくないことが分かっているみたいで、こうしていれば悲しそうな表情を浮かべつつも、その内に部屋を出て行ってくれる。今日も例外ではなく、まどろみの端でも彼が立ち上がる気配を感じた。
「……おやすみ、ノエル」
躊躇いがちな震える声と、優しくて温かな掌の感触が、夢のものなのか現実のものなのか。判断がつかないくらいには私は夢の淵に足を踏み入れていたのに、どちらでもいいと思えるくらいにそれが愛おしくて、私はご機嫌に喉を鳴らした。起きている時は焦燥感ばかりが募っているのに、ここ最近見る夢は私に相応しくない、幸福を煮詰めたようなものばかりだ。両親が、私のせいで死んでしまったことなどなかったかのように優しく私を抱きしめてくれて、それからアダン様が、私が本当に不吉を運ぶ黒猫でも構わないなんて夢のような、私にあんまり都合のいいことを囁いて微笑んでくれる。起きてから言いようのない虚しさと悲しみに包まれることは分かっているのに、どうしようもなく毎夜縋ってしまうくらいには、その夢は私にとって救いだった。今日も、それは変わらず私の意識の戸を叩いて引き摺り込んでいく。私はこんな幸福な夢を見ることさえ許されない存在だと、身の程知らずにも程があると振り払おうと抗っていられるのも、眠りが浅いうちだけの話。今日も結局は、朝になるまで幸福な夢に浸ってしまう─────……はずだったのに。
─────とぷん、とどこかで音がした気がした。
「……ちょっと、起きて。起きなさいったら」
「……に……?」
普段壊れ物を扱うように私に触れるアダン様のものとは違い、痛くはないけれど丁寧とは言い難い手つきで揺り起こす声に、私は夢の淵から引き上げられた。ここに来てから寝ているところを起こされたことなんてないから、状況が理解できずに目を瞬かせてしまう。未だ眠気が振り払えない頭でゆっくりと身を起こすと、まず視界に入ったのはここ最近見慣れたこの世の何より美しい黄金色ではなく、部屋のほんの微かな照明に照らされた艶やかなストロベリーブロンド─────アダン様以外の、誰か。それをようやく理解して、まどろみなんて一瞬でどこかに吹き飛んでしまった。反射的に尻尾を膨らませながら跳ねるように飛び起きて、目の前の人物を慌てて見上げる。そうして視界に映り込んだ、私の様子なんてまるで気にしていないようにそこに仁王立ちしている人が信じられなくて、私は大きく目を見開いた。
「まったく……随分探したのよ。一時期は衰弱する感覚が伝わってきてどうしたものかと思ったのに……まさか王宮に居るなんて思わないじゃない。まあとりあえず、生きてて何よりよ。貴重な赤目の黒猫獣人だもの」
「─────……に、にーーーー!?」
艶やかな髪を手で払いながら傍若無人に言い放つ魔女の姿に、私は思わず意味をなさない悲鳴を上げてしまった。その姦しい声に柳眉を顰めてから、魔女は唇に指を当てて静かにしなさい、と言い含めた。反射的に頼りない肉球で口元を押さえながら、それでも私は混乱を抑えきれずにまじまじと魔女を見つめてしまう。
「もう、私が許可を取って王宮にいると思う?見つかったら色々と面倒くさいのよ、静かにしていて」
「み……!?」
今この魔女は、無許可で王宮に忍び込んだと堂々と言わなかったか。いくら私が外のことに疎い田舎者だったからといって、それがどれほどの大罪かは理解できる。思わず青ざめて何か咎める言葉が口をつこうとしたけれど、よく考えると猫の姿のうえ知らず知らずとはいえ私も最初に不法侵入していたわけで、もしかして人のことは言えないんじゃないかと回り回って考えついたところで、そんなことを考えている場合じゃないとようやく思い至った。それは魔女も同じだったようで、ため息をつくとその艶やかな髪を払う。
「……とりあえず詳しい話は後よ。どこの物好きか知らないけど、とにかく運良く王宮に保護されていたんでしょう?でも黒猫の厄災は、そうそう魔女以外に抑えられるものじゃないわ。その姿だからなんとかなっていたんでしょうけど、早くここを離れたほうがいいわよ」
魔女の言葉に、私ははっと顔を上げた。そうだ、あまりに急なことで混乱してしまったけれど、理由は置いておくとしても、要は魔女は私を探して、迎えに来てくれたのだろう。この窓すらない厳重な警備の部屋にどうやってバレずに忍び込んだのか分からないけれど、入れたのなら私を連れて出ることだってできるはず。そう思ったら、今まで張り詰めていたものが切れるように胸にまず安堵が広がった。もう自分でここから出ることは不可能に近いとどこかで思っていて、ずっとずっと、アダン様にいつ厄災が降りかかるんじゃないかと恐ろしかった。また私のせいで、大切な人が傷つくことになるんじゃないかと思って、生きた心地がしなかったから。でも─────……次に胸に広がったのは、分不相応な悲しみと寂しさだった。
元々、出会うべきではなかった人。厄災を呼び込む不吉な黒猫なんかを、番と呼んで、愛して、大切にしてくれた人。もうきっと、会うことはない。会わない方がいいに決まってる。そう思うのに、理解しているのに。それでもアダン様のあの優しい声が、優しい手が、もう二度と私に向けられることはないのだと思ったら、胸が張り裂けてしまいそうだった。意志とは関係のないところで瞳が潤むのを感じて、瞬きでなんとかそれを散らした。猫になっても泣くことはできるんだななんて、現実逃避のように場にそぐわない思考が浮かぶ。出会わない方がよかったといくら思ったとしても、もう出会わなかった頃に戻ることはできない。……戻ることができたとしても、弱い私はきっと、それを選べない。
だって、もう知ってしまった。アダン様の温かい手を、優しい声を、私に差し出された深い愛情を。その全てをこんなにも急に失ってしまうことに、じわじわと絶望が心を侵食していく。アダン様のために、離れないといけないことは分かっている。けれど、アダン様と離れて、私はこれから生きていけるのだろうか。─────……いや、違う。私は、死ぬことすらも、許されていないんだ。生きていても死を選んでも、厄災を運ぶ赤目の黒猫。愛する両親すらも殺した私に、死に場所を選ぶ権利なんてない。例えいっそ今死んでしまいたいと願っても、番と離れた心がいずれ死に絶えたとしても。
─────……でも。でも、せめて最後に一目会いたかった。こんなにも急な別れになるなんて。それこそ言い表せないほど、アダン様には沢山のものを貰ったのに。分かっている、きっと会ってしまったら、あの優しい人は私を手放そうとはしない。だから叶わない願いだと理性は分かっているのに、心が追いつかない。それこそ後ろから尾でも引かれているかのようだった。固まってしまった私に怪訝な顔をした魔女は、急かすように私に手を伸ばした。
「もう、何ぼーっとしてるの、ほら早く……」
「─────……ノエル?」
きぃ、と扉が軋む音に、息を呑んだのは誰だっただろうか。咄嗟に振り返った先に居たのは、もうずっと私の心を占めている美しい黄金の色と、宝石のような瞳。その視線が私を辿り、私に伸ばされた白い腕、それから魔女へと向けられるのを、私はスローモーションのように感じながら眺めていた。思考は全く追いついていなくて、今の状況が理解しきれていないのに、本能は一足先に現実に追いついていたのか、ぶわりと全身の毛が逆立つのを感じた。─────同時に近くで響いたのは、場違いな重いため息。
「はあ……だから言ったじゃない、見つかったら色々面倒くさいって」
きゅ、と音を立てて、アダン様の瞳孔がゆっくりと開いていく。それを私は、硝子を一枚隔てたような気持ちで─────震えながら見つめていた。
不吉な黒猫にはとても考えられないほどに、ここでの暮らしは何不自由ないものだった。出される食事は私じゃなくてアダン様のためのものではないのかと思うほどに豪華で美味しくて、ここからすぐに離れないといけないという思いは変わらないのに、初めて食べたときは空腹もあって我を忘れてがっついてしまった。うにゃうにゃと食べながら喉さえ鳴る始末。それをアダン様が酷く嬉しそうに眺めていたときの居心地の悪さといったらない。
首輪を覆い隠すように、酷く肌触りの良い所々花の装飾が付いたゆったりとしたレースの羽織のようなものを着させられて。不吉な黒猫に触れるなんてとんでもないと、極力番には近付かないようにしているけれど、これを着させられた時のアダン様の威圧感には勝てなかった。
『俺が、君のために用意したんだ。その無骨な金属の首輪なんかよりも、美しい君に余程相応しいよ。……どうか大人しくしていて。その首輪を目にするたびに、嫉妬で気が狂いそうになるんだ』
押し殺したように低く震える声に、そのエメラルドのような瞳に淀んだ色を見つけてしまっては、その時ばかりは大人しくしているしかなかった。それに猫の姿とはいえ元は一応年頃の娘なのであって、高級なレースの服に憧れがないわけもない。着させられた後、繊細で可憐な服を身を包んでいることに僅かに心が高揚して、それからすぐに自嘲に変わった。どんなに綺麗なもので覆い隠したって、厄災を運ぶ呪われた存在であることに変わりはないのに。
けれど、少なくとも着飾った私を心の底から嬉しそうに、瞳を蕩かせて見つめてくるアダン様が、喜んでいることは間違いなくて。それがとても嬉しくて、それ以上に胸が痛んだ。
高級な猫のおもちゃに、とても大きなキャットタワー。獣人の時ですら食べたことのない美味しい食事に、暖かくてふかふかの寝床。閉じ込められているはずなのに、不便に思ったことが一度もない。この部屋がどれだけ私のために誂えられているのか、少し見ればすぐに分かってしまう。けれど私は、その殆どを無為にしていた。
食事は初日は空腹に敵わなかったけれど、翌日からは餓死しないぎりぎりの量を食べて後は残してしまった。食べ物を粗末にしてはいけないと両親に教え込まれていたから酷く胸が痛んだけれど、これはアダン様の、ひいてはこの国のためなのだ。殆ど残された食事を見てアダン様は顔を曇らせて、それからは毎日食事の内容が変わるようになった。素材だけでなく、量だったり盛り方だったり器だったり、私が食べやすいように工夫がこらされているのが一目で分かった。申し訳なさで死んでしまいそうで、それでも、私は最低限以外の食事を拒み続けている。
キャットタワーもおもちゃも暖かな寝床も、とても本能を擽られるけれど、私は一度も使っていない。いつも部屋の隅っこの床で隠れるように丸くなって寝ているし、日がな一日やることは遊ぶことや寝ることではなく、部屋の扉に向かって出してほしいと爪を立てて大きな声で鳴き続けることだけだ。アダン様が近付いてこようものなら何が何でも逃げるし唸るし、なんなら心を鬼にして威嚇だってする。その度にまるで心臓を切り付けられたような顔をする番に、こちらの胸もずたずただった。それでも、これは全てこの人を厄災から守るためだから。
いつまでも懐かない番が煩わしくなった、でもいい。日に日に弱っていく番を見ていられない、でもいい。何でもいいから、私をここから遠ざけてほしかった。不吉な存在を、厄災を運ぶ私を、高貴なこの人から離してほしい。アダン様のことを傷付けて、私の心もボロボロで、それでも私は決して、自分からアダン様に近付くことはなかった。顔から火が出るほど恥ずかしいけれど、アダン様曰くどうも寝ていると私は本能的に甘えてしまうようだから、アダン様が部屋にいるときは意地でも眠らないようにしていた。決して私が心を許すことはないと示すように。
アダン様はかなりの頻度で部屋に来ていたけれど、私がアダン様が傍に居ると意地でも眠らないことに気が付いたようで、それからはその頻度が少しだけ下がった。威嚇するばかりの私に一通り宥める言葉をかけて、それから耐えるように胸元を握り締めて、酷く痛そうな表情で名残惜しそうに部屋を出て行く。傷付けている分際で何をと思うけれど、それでも、きっと私だって同じくらいに胸が痛い。どうして、大好きな人をわざわざ傷付け続けないといけないのだろう。
どうか、早く。私のことなど見捨てて、こんな不毛な日々を終わらせてほしい。最初は自力で脱出できないかとかなり頑張ってみたけれど、アダン様が出入りするときに僅かに見えた扉の先にはまた鍵が掛かっているであろう扉があったし、その先から僅かに人の気配を感じたから、どうも見張りが立っているようだった。アダン様はこの国の王なわけだから、その配下の人達なのだろうか。ここに閉じ込められてから身の回りのことは全てアダン様が整えてくれていて、私はその人達の顔すら見たことがないけれど、私のことは一体どう説明しているのだろう。何にしても確かなのは、ただでさえ非力だったのにただの猫にされてしまった私が、自力で脱出できる可能性はゼロだということだ。
だから、出してほしいと訴え続けて、不吉な黒猫のくせに懐きもしない姿を見せ続けて、好意も全て無駄にして。どんなに胸が痛くても、そうしてアダン様の方から追い出してもらうしかない。このまま傍に居ても、お互いにとって何もいいことなどないと、疑いようもなくそう思ってくれたら。
そう思い、行動を続けて幾日も経ったけれど。アダン様が私を手放すよりも─────私の限界の方が早かった。
「ノエル、頼む、お願いだ……どうか食べてくれ」
大声で鳴いたり暴れたりできるほどの体力は、連日まともに食事を取っていなければ当たり前に早々に尽きてしまった。アダン様が近付いてきても逃げることすらせず、身を守るように丸くなることしかできない私に、アダン様は焦燥に顔を歪めて鼻先に食べ物を差し出してくる。
新鮮な生魚、食べやすく小さく裂かれた柔らかそうな鶏肉、少しだけ温められたミルク。次々と眼前に差し出されるそれに、とてもとても食欲をそそられるし、ついお腹も鳴ってしまうけれど、私がそれに口をつけることはなかった。番が手ずから差し出してくれたものなのだから、内容の豪華さを差し引いても死ぬほど魅力的に感じるけれど、それなら尚更私は受け取れない。心を許していると少しでも思わせたら、きっとこの優しい人は私を手放してはくれないから。大丈夫、確かに体力も落ちたし弱っているけれど、まだ死ぬほどじゃない。それが分かっていながら私は、ことさら弱った、今にも死にそうな声で鳴いてみせた。
「みぃ……」
「───────……ッ!」
心が痛むけれど、優しいアダン様なら、自分の傍で弱っていく番など見ていられないと思ってくれないだろうか。お願い、どうか不吉な存在である私をここから放りだして。そう願いを込めて、やっとの思いで顔を上げ、そっとアダン様と目を合わせて────……私は心底後悔した。
「……ノエル」
アダン様は、何もかもが抜け落ちたような表情をしていた。瞳がどこまでも昏く、果てがないほどに淀んでいて、エメラルドのようだったそれがまるで深淵のようだ。目を見開いたまま固まる私に、アダン様は酷く美しい、感情の乗らない笑顔を浮かべた。
「……最初は美味しそうに食べてくれたよね。本当に本当に、夢のように可愛くて、君が望むものは何でも、全て与えてあげたいと思ったよ。……でも、あの時と同じものを出してももうまともに食べてくれないのは」
酷く優しい手つきで、そっと背を撫でられる。いつもならアダン様に触れられると心地よくて、心底安心してしまうのに、今は触れられた所から畏怖で毛が逆立っていくのが分かった。きゅう、と視線の先で、逆光の中輝く竜の瞳が細められる。
「……俺が、嫌だから?前の飼い主のほうが良いから?」
静かに、唸るように。殺しきれない感情が滲んだ声でそう吐き捨てられて、竜の怒りに触れた私は視線を逸らすことすらできないまま、目を見開いて小さく震えていることしかできなかった。尾を膨らませて絶対的強者の威圧に本能的に怯える私に、アダン様は諦めたようにひとつ、自嘲めいた笑みを零して。
「……できれば、君に自分から、心を許して貰いたかったけれど。でも、自分を損なってまで俺を拒むというのなら……他の誰かを求めるというなら────話は別だ」
する、と指が下りて、優しく喉を撫でられる。決して力を込められてる訳ではないのに、まるで刃物を突きつけられているかのような心地がした。私がどんなに酷い態度を取っても、アダン様が私を傷付けたことなんてないのに。震えることしかできない私に、ゆるりと、その淀んだエメラルドが細められて───それから、酷く静かな声で、下されたのは。
「ノエル───……『俺の言うことを聞け』」
────その声を聞いた瞬間、ぞわりと本能に怖気が走った。まるで喉元を押さえ付けられたような、抵抗など考えることすらできない威圧感に支配されていく。毛を逆立てて固まった私を、それでも優しく撫でながら、アダン様は今にも泣き出しそうな淡い笑みを浮かべた。
「……ちゃんと食べて、ちゃんと眠って。ほんの少しでも、自分を傷付けてはいけないよ」
その声を聞いた途端、口元に突きつけられたミルクに、意思とは反して舌を伸ばしてしまう。そうしてしまえば空腹を思い出すのはあっという間で、気が付けばアダン様が次々と与える食事を我を忘れて貪っていた。これではいけないと思うのに、しかもアダン様の手から食べるなんて気を許していると言うのも同じなのに。必死に食事にありつく私を、アダン様は安堵を滲ませて見詰めていた。
「……可哀想なノエル。君が誰を選んだのだとしても───もう君を、手放すなんてありえない。奪おうとするものは、決して許しはしない。絶対に、何をしてでも───それが、君自身だとしても……俺は……」
微かに掠れたその声が、今にも泣き出しそうに聞こえて。この優しい人を傷つけているのは自分なのに、それでも胸が刻まれたように痛む。どうかそんな悲しそうな声を出さないでほしい、泣かないでほしいと、身勝手にもそんな思いで顔を上げようとして─────しかし次に襲ってきたのは、耐え難い睡魔だった。この人の前で眠ってはいけないと、理由も思い出せないまま必死に自分に言い聞かせるのに、久しぶりにお腹が満たされたとあっては、ただの猫の体でとても我慢できるものではなくて。
「…む…にゃ……」
最後まで感じていたのは、優しく体を撫でてくれる温かい手。……それから、愛しくて甘い番の香り。だめだだめだと言い聞かせていたのもどこへやら、勝手にのどがごろごろと鳴ってしまって、視界が歪み揺らいでいく。場違いな幸福感に酔いながら、私の意識はゆっくりと沈んでいった。─────酷く掠れた「ごめんね」という声を、耳の奥に残したまま。
全ての獣人において、竜王の命令とは本能的に抗えない絶対的なもの。元々非力だった上に今はただの猫にされてしまった私に、それに逆らう余地なんてあるはずない。─────愛しい番を傷つけたくないがために、どうにかここから放り出してもらおうという私の考えは、跡形も無く砕かれてしまった。
コト、と目の前に置かれた食事。食べやすい大きさの軽く炙られた魚と、ほんのり温かいミルク。いつもと遜色なく豪華なそれに、けれどいつもと違うのは私が躊躇いなく口をつけたことだった。とても美味しくて喉からご機嫌な音が出てしまうけれど、当然私の意思じゃない。体の節々が糸で引かれているような感覚があって、それがどう頑張っても断ち切れないのだ。絶対的な命令を下した張本人は、どこか昏い色をしたエメラルドのような瞳を蕩かせて、瞬きもせずにこちらを見つめていた。
「……よかった、大分元気になったね。そんなに喉を鳴らすくらい、本当は気に入ってくれていたんだ……はは、可愛い……嬉しいな。ねえノエル、ここにいたら、ずっと、ずっと、この世界中のどんな猫よりもいいものを食べさせてあげる。勿論食事だけじゃないよ、君が望むのならどんなものだって……俺は君のために、どんなことだってできるんだ。ねぇ、ノエル……」
ぺろり、と意思に反して少しも残りがないように皿を舐め上げてから、私は体を操っていた力が一旦緩まるのを感じて、そっと背を起こしてアダン様を見上げた。黒い尻尾が、迷うように小さく揺れてしまう。本当は、彼の言葉が、差し出される愛情が、どれほどに嬉しいか。豪華な食事も豪奢な服も、何もなくたっていいからアダン様と共に在りたいと、あなたのためにどんなことだってできるのは私の方だと、素直に伝えられたらどんなに良かっただろう。けれど私は、そんな分不相応な願いから目を背けるようにしてアダン様から顔を逸らした。もう意味がないと分かってしまえば必要以上に威嚇することなんてできなくて、けれど不吉な黒猫が無闇に彼に近づくことなんて許されるわけがない。今は魔女の「この状態であればある程度黒猫の能力を抑えておける」という言葉に縋っている状態だけれど、いつ彼に厄災が降りかかったっておかしくないのだ。追い出してもらおうという作戦は失敗してしまったけれど、とにかく彼とは可能な限り距離を取らなくては。
食べ終わるなり距離を取って部屋の隅に蹲り、視線すらも合わせることをしない私に、アダン様は苦しそうに顔を歪めて、けれどそれ以上に何かを強要しようとはしなかった。彼はいくらでも私に命令することができるのに、私に課されたのは「よく食べてよく眠ること、自分を傷つけないこと」だけだ。私が本当に不吉を運ぶ存在だと知らないアダン様は、ただの黒猫であっても今は番だと認めて傍に置こうとしてくれている。それなのに懐きもせず威嚇ばかりするような恩知らずな猫なのだから、例えば愛想よく振る舞えだとか、そういう命令をしたって誰にも責められることはないはずなのに。彼は、この上なく優しいから─────多分、必要以上に私の意志を縛らないようにしてくれているのだ。
ずきずきと胸が痛む。目を合わせないのは心を許していないふりをするためでもあるけれど、自分でやったことの癖に、アダン様の傷ついた顔を見ていられないなんて卑怯な想いがあるからだった。大好きなのに、愛しているのに、この世の誰より笑っていてほしいのに。もしも私が笑わせてあげられたなら、きっと死んでもいいと思うくらい嬉しいんだろうなんて馬鹿なことを思った。私でも誰かを幸せにできるなんて夢を見ていられたのは遠い過去の話で、今の私が彼にあげられるものなんて、心の傷と厄災だけなのに。だから、早く離れないと─────……自分に必死にそう言い聞かせるのに、結局なにも具体的な打開策は浮かばないまま、私は瞼が重くなっていくのを感じた。意志に関わらず彼の命令通りに動く体は、食事を取れば次は睡眠だと私を急かしてくる。それでもせめて寝ている間にみっともなく彼に甘えてしまわないようにと、必死で壁に体を寄せて縮こまった。アダン様は私が寝ている間に近くにいて欲しくないことが分かっているみたいで、こうしていれば悲しそうな表情を浮かべつつも、その内に部屋を出て行ってくれる。今日も例外ではなく、まどろみの端でも彼が立ち上がる気配を感じた。
「……おやすみ、ノエル」
躊躇いがちな震える声と、優しくて温かな掌の感触が、夢のものなのか現実のものなのか。判断がつかないくらいには私は夢の淵に足を踏み入れていたのに、どちらでもいいと思えるくらいにそれが愛おしくて、私はご機嫌に喉を鳴らした。起きている時は焦燥感ばかりが募っているのに、ここ最近見る夢は私に相応しくない、幸福を煮詰めたようなものばかりだ。両親が、私のせいで死んでしまったことなどなかったかのように優しく私を抱きしめてくれて、それからアダン様が、私が本当に不吉を運ぶ黒猫でも構わないなんて夢のような、私にあんまり都合のいいことを囁いて微笑んでくれる。起きてから言いようのない虚しさと悲しみに包まれることは分かっているのに、どうしようもなく毎夜縋ってしまうくらいには、その夢は私にとって救いだった。今日も、それは変わらず私の意識の戸を叩いて引き摺り込んでいく。私はこんな幸福な夢を見ることさえ許されない存在だと、身の程知らずにも程があると振り払おうと抗っていられるのも、眠りが浅いうちだけの話。今日も結局は、朝になるまで幸福な夢に浸ってしまう─────……はずだったのに。
─────とぷん、とどこかで音がした気がした。
「……ちょっと、起きて。起きなさいったら」
「……に……?」
普段壊れ物を扱うように私に触れるアダン様のものとは違い、痛くはないけれど丁寧とは言い難い手つきで揺り起こす声に、私は夢の淵から引き上げられた。ここに来てから寝ているところを起こされたことなんてないから、状況が理解できずに目を瞬かせてしまう。未だ眠気が振り払えない頭でゆっくりと身を起こすと、まず視界に入ったのはここ最近見慣れたこの世の何より美しい黄金色ではなく、部屋のほんの微かな照明に照らされた艶やかなストロベリーブロンド─────アダン様以外の、誰か。それをようやく理解して、まどろみなんて一瞬でどこかに吹き飛んでしまった。反射的に尻尾を膨らませながら跳ねるように飛び起きて、目の前の人物を慌てて見上げる。そうして視界に映り込んだ、私の様子なんてまるで気にしていないようにそこに仁王立ちしている人が信じられなくて、私は大きく目を見開いた。
「まったく……随分探したのよ。一時期は衰弱する感覚が伝わってきてどうしたものかと思ったのに……まさか王宮に居るなんて思わないじゃない。まあとりあえず、生きてて何よりよ。貴重な赤目の黒猫獣人だもの」
「─────……に、にーーーー!?」
艶やかな髪を手で払いながら傍若無人に言い放つ魔女の姿に、私は思わず意味をなさない悲鳴を上げてしまった。その姦しい声に柳眉を顰めてから、魔女は唇に指を当てて静かにしなさい、と言い含めた。反射的に頼りない肉球で口元を押さえながら、それでも私は混乱を抑えきれずにまじまじと魔女を見つめてしまう。
「もう、私が許可を取って王宮にいると思う?見つかったら色々と面倒くさいのよ、静かにしていて」
「み……!?」
今この魔女は、無許可で王宮に忍び込んだと堂々と言わなかったか。いくら私が外のことに疎い田舎者だったからといって、それがどれほどの大罪かは理解できる。思わず青ざめて何か咎める言葉が口をつこうとしたけれど、よく考えると猫の姿のうえ知らず知らずとはいえ私も最初に不法侵入していたわけで、もしかして人のことは言えないんじゃないかと回り回って考えついたところで、そんなことを考えている場合じゃないとようやく思い至った。それは魔女も同じだったようで、ため息をつくとその艶やかな髪を払う。
「……とりあえず詳しい話は後よ。どこの物好きか知らないけど、とにかく運良く王宮に保護されていたんでしょう?でも黒猫の厄災は、そうそう魔女以外に抑えられるものじゃないわ。その姿だからなんとかなっていたんでしょうけど、早くここを離れたほうがいいわよ」
魔女の言葉に、私ははっと顔を上げた。そうだ、あまりに急なことで混乱してしまったけれど、理由は置いておくとしても、要は魔女は私を探して、迎えに来てくれたのだろう。この窓すらない厳重な警備の部屋にどうやってバレずに忍び込んだのか分からないけれど、入れたのなら私を連れて出ることだってできるはず。そう思ったら、今まで張り詰めていたものが切れるように胸にまず安堵が広がった。もう自分でここから出ることは不可能に近いとどこかで思っていて、ずっとずっと、アダン様にいつ厄災が降りかかるんじゃないかと恐ろしかった。また私のせいで、大切な人が傷つくことになるんじゃないかと思って、生きた心地がしなかったから。でも─────……次に胸に広がったのは、分不相応な悲しみと寂しさだった。
元々、出会うべきではなかった人。厄災を呼び込む不吉な黒猫なんかを、番と呼んで、愛して、大切にしてくれた人。もうきっと、会うことはない。会わない方がいいに決まってる。そう思うのに、理解しているのに。それでもアダン様のあの優しい声が、優しい手が、もう二度と私に向けられることはないのだと思ったら、胸が張り裂けてしまいそうだった。意志とは関係のないところで瞳が潤むのを感じて、瞬きでなんとかそれを散らした。猫になっても泣くことはできるんだななんて、現実逃避のように場にそぐわない思考が浮かぶ。出会わない方がよかったといくら思ったとしても、もう出会わなかった頃に戻ることはできない。……戻ることができたとしても、弱い私はきっと、それを選べない。
だって、もう知ってしまった。アダン様の温かい手を、優しい声を、私に差し出された深い愛情を。その全てをこんなにも急に失ってしまうことに、じわじわと絶望が心を侵食していく。アダン様のために、離れないといけないことは分かっている。けれど、アダン様と離れて、私はこれから生きていけるのだろうか。─────……いや、違う。私は、死ぬことすらも、許されていないんだ。生きていても死を選んでも、厄災を運ぶ赤目の黒猫。愛する両親すらも殺した私に、死に場所を選ぶ権利なんてない。例えいっそ今死んでしまいたいと願っても、番と離れた心がいずれ死に絶えたとしても。
─────……でも。でも、せめて最後に一目会いたかった。こんなにも急な別れになるなんて。それこそ言い表せないほど、アダン様には沢山のものを貰ったのに。分かっている、きっと会ってしまったら、あの優しい人は私を手放そうとはしない。だから叶わない願いだと理性は分かっているのに、心が追いつかない。それこそ後ろから尾でも引かれているかのようだった。固まってしまった私に怪訝な顔をした魔女は、急かすように私に手を伸ばした。
「もう、何ぼーっとしてるの、ほら早く……」
「─────……ノエル?」
きぃ、と扉が軋む音に、息を呑んだのは誰だっただろうか。咄嗟に振り返った先に居たのは、もうずっと私の心を占めている美しい黄金の色と、宝石のような瞳。その視線が私を辿り、私に伸ばされた白い腕、それから魔女へと向けられるのを、私はスローモーションのように感じながら眺めていた。思考は全く追いついていなくて、今の状況が理解しきれていないのに、本能は一足先に現実に追いついていたのか、ぶわりと全身の毛が逆立つのを感じた。─────同時に近くで響いたのは、場違いな重いため息。
「はあ……だから言ったじゃない、見つかったら色々面倒くさいって」
きゅ、と音を立てて、アダン様の瞳孔がゆっくりと開いていく。それを私は、硝子を一枚隔てたような気持ちで─────震えながら見つめていた。
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