鬼村という作家

篠崎マーティ

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十話「側溝の蓋」

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 編集部からの帰りのことである。
 取材と言う名目でただ旅行に行きたいから費用を経費で落とせと編集長に直談判したものの、(至極当たり前だが)「一昨日来やがれ」と一蹴されたせいで鬼村は苛立っていた。
 慰めようにも自分勝手な理由で自分勝手にイライラしているだけなので慰められず、私はなるべく気配を殺して彼女の斜め後ろを歩くしか出来ない。
 時刻は家々の明かりが消えだす時分だった。住宅地の街灯がまばらなこの道に人気はない。静かな住宅地にコツコツと二人分の足音だけが響いている。
 鬼村はむすっとしたまま怒りに任せてずんずん進み、次の曲がり角をさっさと曲がって行ってしまった。
 良い大人がそろそろ機嫌を直して欲しいものだと思いながら私がその後を追って角を曲がると、そこには誰も居なかった。
 おかしい。鬼村は今、確かに目の前でこの角を曲がった。見た所隠れる場所などどこにもない、ただの住宅街の道である。曲がった瞬間ダッシュをして次の曲がり角まで走り着いたのなら、彼女は車よりも早く走れることになるし、左右に伸びる塀を上って民家に侵入出来たのなら、足にバネでも仕込んでいる事になる。
 あり得ない事が、起きている。
「……先生……?」
 呆然と彼女を呼ぶ。返事はない。
 しかし突然、ゴトッと重い音がした。側溝の蓋が震えるように揺れたのだ。驚いて見つめる先で、蓋はまたもその身を震わせた。
「おおい」
 そしてなんと、側溝の中から鬼村の声がしたではないか。
「ええっ。鬼村先生!?」
 仰天し、ガタガタと揺れる蓋に走り寄る。いや待て、普通に考えてこの側溝に人が入れるはずがない。痩せ型でも厳しいのに、ぽっちゃりな鬼村は両足さえ収まらないだろう。
「出して、蓋開けて」
 しかし事実、側溝の蓋の奥からは確かに鬼村の声がする。助けを求めるように蓋を揺らし、側溝の中から出ようとしている。
「どうやって……物理法則……なんでこんな……」
「早く蓋開けて。暗いんだよ、ここ」
「わ、分かりました……」
 とにかく、狭い場所にはさまっているならすぐに助け出さねば。まずは状況を把握し、必要なら警察でも救急でもレスキュー隊でも電話をしよう。側溝の蓋はそう簡単に持ち上げられる重さじゃなかったと思うのだが、私一人で持ち上がるだろうか……とにもかくにも試してみるしかない。
 ああ、開けたら鬼村はどんな状態なのだろう。みっちり詰まっていたりするのだろうか。
 私は恐る恐る蓋に手をかけた。
「なんか落としたの?」
 その時、先ほど私が曲がってきた角から鬼村が現れた。鬼村だ。どこからどう見ても鬼村だ。ラフ服も、ぞんざいに一纏めにした髪も、ふざけたイラストが入ったトートバッグも、目の下のクマも、今日一日一緒に居た鬼村そのものだ。
 鬼村が、二人?
 私が固まっていると、蓋が先ほどよりも激しく揺れ始めた。
「偽物! 偽物! 偽物! 気をつけろ、騙されるな!」側溝の鬼村が切羽詰まった声で叫び、ガタンゴトンと今にも蓋が割れそうな程暴れまわる。
「あぁ?」目の前の鬼村が唸る。
「早く、危ない、蓋を外して! 早く出せ! ここから出せ!」
 側溝から聞こえる喚き声に心底怒りの表情を浮かべた鬼村は、つかつかとこちらへやってくるなり荒れ狂う側溝の蓋を汚いスニーカーで思い切り踏みつけた。奥の方からぎゃぅとくぐもった獣のような鳴き声が聞こえた。
「図々しいんだよ」
 蓋がことりとも音をたてなくなるまで、鬼村は蓋を踏みつけ続けた。今日の苛立ちをぶつけるように何度も、何度も、何度も。
 やがてその場に静寂が戻ると、鬼村はヤクザ顔負けのいかつい表情で私を睨み下ろした。
「信じたの? 今の? なんで? 馬鹿なの?」
「いや、なんか……先生ならあり得るかもって……」
「側溝に吸い込まれるって?」
「すみません……」
 鬼村は盛大にため息をつき、頭をがしがしとかき乱しながら歩きだしてしまった。
「イラついてる奴に喧嘩ふっかけんじゃねえよ、クソ雑魚のくせして、身の程弁えろっつーの……」
 いつもと変わらない鬼村の背中。何もおかしなところはないように見える、鬼村の背中。
 耳の奥から、先ほどの切羽詰まった側溝の鬼村の叫びが、隙間風となって鼓膜の辺りを抜きぬけていく。
「なにしてんの」
 動かない私に気づいた鬼村が、足を止めて振り返った。私は引きつった笑みを浮かべる。
「……偽物じゃ、ないですよ、ね?」
 耳が痛いほどの静寂。隙間風の唸りが大きくなる。びょうびょう。ぼうぼう。偽物、偽物。
 鬼村は暫く私の中身を見透かすようにじいっと見つめた後、きゅっと眉根を寄せて大きく口を開いた。
「偽物だとしても締め切り守るなら別によくない?」
 ……ああ、良かった。彼女は間違いなく本物だ。
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