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四十一話「さよなら三角」
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藤原真は奇妙な生徒だった。
一見すると大人しい、地味な女生徒である。余計な事をしていない黒髪に、醜いニキビ面という十代らしい見た目で、いつも休み時間は本を読むか、どこかへ消えていた。成績は総じて中の下。ただし、国語だけは常に優秀だった。
友達らしい友達はおらず、時折必要最低限の会話をクラスメイトと交わしてはいたものの、そこに和気あいあいとした雰囲気はない。少し盛り上がったかと思えば、終いには相手の生徒が微妙な顔になって離れていってしまう。藤原真は会話が苦手なのだろう。いかにもそんなタイプに見える。
彼女がいじめられていたかどうかは、正直なところ微妙である。確かに、黒板に酷い似顔絵を描かれたり、クラスのカースト上位の女子にからかわれたりもしていた。だが、暴力を受けたり、何かを隠されたりといった事はなかったので、所謂”いじめ”とまで呼ぶべきか定かではない。だが、そんな茶々もある日を境にぱったりとなくなった。彼女に近づく者は一人も居なくなったのだ。
何かが、あったのかもしれない。
当事者しか分からぬ、何かが。
とは言え、大人しいからといって問題を起こさないとは限らない。
藤原真は体の弱い少女であった。青白い顔で辛そうにしていたり、倒れて保健室に運ばれたり、遅刻や早退も多く卒業出来るかギリギリのラインだったのは言うまでもない。
それなのに、隠れて煙草を吸っているという目撃がいくつかあったのだから人は見かけによらないものだ。
もし生徒が校舎裏でコソコソ煙草なんぞ吸っていたのが見つかったら、すぐに指導室に引っ立てられ、親を呼ばれ、複数名の教師による恐ろしい裁判が始まるだろう。
その時も、本来ならそうなるはずだった。
しかし、何かの因果が働いた。
「おい、後ろ!」
紫煙の先に潜む者共を、その教師は見る事が出来たのだ。
教師は藤原真を慌てて抱き寄せ、一緒に逃げ出してくれた。
この出会いが、良いものだったのか、悪いものだったのか――今でも鬼村は分からないでいる。
病室の前までやってくると、中を覗く前に鬼村は一度足を止めて気を落ち付かせた。いつもの事だ。彼が一体どんな有様になってしまったか、確認するのにいつも少しばかり勇気が要る。どんな姿を望んでいるのか、あるいはどんな姿を恐れているのか、実のところ自分でもよく分かっていないが、それでも病室に入る瞬間はいつも緊張によって心臓が鼓動を速めた。
暫くして僅かに湧いた勇気を目ざとく掴み取ると、その勢いに任せて室内に入る。
「おはよう」
返事はなかった。
神保はベッドの上で身を起こし、ぼうっと窓の外を眺めていた。薬を飲んだのか、目の焦点が合っていない。だらしなく開いた唇はカサカサで、顔もやつれて見える。最後に面会に来た時より、少し痩せただろうか。食事はちゃんと食べているらしいのだが。
「調子は? 何か面白いものでも見える?」
ベッド横の丸椅子に腰かける。
剃り上がった彼の頭を横から見ると、なんだか大豆に似ていた。元々薄毛の男であったが、この精神病院に入院した際に結局全部剃られてしまった。実を言うと、鬼村はこっちの方が気に入っている。少ない髪の毛を必死に多く見せようと躍起になっているより、坊主のように清々しく剃ってしまった方が随分似合っていると思う。
鬼村は所在なさげに室内を見渡した。
空虚な部屋だ。
神保の頭の中と同じ。
ふと視線を戻すと、神保はじっと鬼村を見つめていた。ドキリとする。
微かに唇が動いた。
「真」
カサカサの唇からカサカサの声で紡がれたその名前は、暫く誰にも呼ばれなかったせいでやっぱりカサカサに干からびていた。それでも、久しぶりに日の目を見たその名前は、世界に飛び出した瞬間に息を吸い、血を巡らせて温かくなり、鬼村の中に染みわたる。戸籍のためだけに与えられた無意味な呼び名は空気のように軽いのに、神保が呼ぶその時だけは、子犬のような重さを持った。
真、と自分を呼ぶのは、もう神保くらいなものだ。
鬼村は動揺を抑え込みながら、何、と返事をした。
「美命は?」
こんなにしっかり話すとは、どうやら今日は調子が良いようだ。
「家に居るよ」
「元気?」
「うん、ぼちぼち」
灯りかけていた火が神保の瞳から不意に消え、少ししてまたぽっとついた。彼の正気はきれかけた電球のように明滅している。その電球は交換する事が出来ない。とうとう寿命が尽きる日まで、眺めるより他はない。
「もう行く?」
あり得ない程優しい微笑みが鬼村に向けられる。それがあまりにも昔そのままで、鬼村は眩暈を覚えた。
「ううん、まだだよ」
「ゆっくりで良いよ」目尻に深い皺を刻んで神保は笑う。そう言えばこの男はもう五十を過ぎていたっけ。「真は今日、どこ行きたい?」
一体彼には鬼村がどう見えているのか不思議だった。お互い年相応に老けた。体形も変わった。それでも神保は調子が良ければ鬼村をきちんと認識する。それは果たして、最近の鬼村なのか、正常な状態で見た最後の鬼村なのか、蜜月の鬼村なのか、学生時代の鬼村なのか分からない。だからこそ、薄汚い希望を抱いてしまうのがたまらなく嫌だった。鬼村は少なくとも自分の人生においては解雇主義ではないのだ。
「先生」
神保の手を取り、握りしめる。冷たい手だ。皺があり、ざらざらして、指の骨が浮き出ている。死体のような手だ。
初めて出会ったあの日、人ならざる連中から鬼村を救い出してくれたあの日の手はこんな手ではなかった。未成年の体に伸びた手もこんな手ではなかった。長い事繋いだ手も、隣で車のハンドルを握った手も、テスト用紙に〇をつけていた手も、頬を撫でてくれた手も。
愛し、憎んだ、男の手。
――ああ、老いさらばえている。
「先生、アタシもう行くよ」
神保の電球がきれた。笑顔の失せた顔がのろのろとベッドに落ち、それから部屋の中を不思議そうに見回す。ゆっくり時間をかけて隅々を巡り、そうして鬼村の顔に帰って来た。その途端、彼は叫び声をあげてベッドからひっくり返り、わあわあ喚き散らして床の上を転げまわり始めた。
それはかつて神保の精神が壊れた瞬間と瓜二つだった。
医者や看護師が病室に駆けこんできて彼を押さえつけ、大変な騒ぎになった。
鬼村はそそくさと職員達に謝って病院から逃げ出した。
狂ってしまった神保の姿が脳裏で繰り返される。否、自分でわざわざ繰り返している。心臓は激しく呼吸し、全身に倦怠感という毒を運んだ。吐き気がする。
タイミングの悪い時に来てしまった。調子が良いと思ったのは間違いだったようだ――。
――嗚呼。或いは。
或いは、鬼村が面会に行く事こそが間違いなのかもしれない。
家の扉を開けた瞬間、何かが聞こえて動きを止めた。
この家で妙な物音や声がするのは日常茶飯事だが、今聞こえるのはそういった類のものとは違う。
会話だ。
和やかで明るい会話。死者の恨み言ではなく、二人の人物による生き生きとしたやりとりの応酬。
二人だ。
二人居る。
そして鬼村は、その声の主のどちらも知っている。
全身から血の気が引いて、そのまま卒倒しそうになった。息は凍りつき、心臓は石になり、全身の筋肉は鋼に変わった。扉の鍵を閉めるのも忘れ、小さな瞳を見開いたまま機械的に声のする方へ歩いて行く。
踏み出す足が、泥の中を這うように重たい。
「それでね、ここ折ったら広げるの」
愛しい、可愛い、娘の声。
と、
「やあ、上手でございやすねェ」
――あの男。
美命と死神は向かい合い、居間で仲睦まじく折り紙に興じていた。
一体いつからそうしていたのか、机の上には無数の動物が出来上がって動物園になっている。見たところ、娘に別段変わった様子はない。怪我もない。怯えてもいない。本当にただ折り紙を楽しんでいるらしい。
「ママ!」
鬼村の帰宅に気づいた美命は、折っていた折り紙を途中で投げ出すと嬉しそうに母親に抱き着いた。
からっぽの笑みを張り付ける。子供の為に。
「おかえりなさーい」
「はーい、ただいま。何してたの?」
「ママのお友達が来たから、一緒に折り紙してた。見て、いっぱい作ったの!」
鬼村の腕にじゃれつき、自分が折った動物の名前を指折り数えて口にする。
微笑んだままで鬼村は男に目をやった。男もまた、例のおぞましい笑みを浮かべて鬼村を見た。
久しぶりに、心からの恐怖が這い上がって来た。
「ねえ」声が震えないよう、細心の注意を払う。「ちょっとお話があるから、あんたお外で遊んできな」
「えー」
「ほら、行った行った」
子供らしい不貞腐れ方で美命は暫く体をぐにゃぐにゃ揺らしていたが、やがてわざとらしい大きな溜息をついて母親から離れていった。聞き分けの良い子なのだ。優しい子なのだ。
男は顔を鬼村に向けたまま目だけで娘を見やり、にんまり持ち上げた口を開いた。
「バイバイ、美命ちゃん」
その口から娘の名前が飛び出た瞬間、全身の毛が逆立った。怒り、恐怖、自分の持ちうる負の感情全てが震えあがる。不可能なのは分かっているのに、咄嗟に「殺さなければ」という強い思いに駆られた。
本能が耳を聾さんばかりに警鐘を鳴らしている。
「ガイコツのおじちゃん、また折り紙しようね」
美命はどこまでも無邪気に笑う。痛々しい程に。
「楽しみにしておりやす」
「バイバーイ」
小さな足音が遠ざかる。
玄関のドアが開き、閉まる。
――そして、絶望がその場の息の根を止めた。
「可愛い娘さんでやすね」
口火を切ったのは男だった。笠に隠れて顔は見えないが、声はいつも通り優しさを繕っている。
「水臭いじゃあございやせんか。ねえ先生。あんな可愛い娘さんが居たなんて」
鬼村は音もなくその場にへたり込み、汗ばむ手で太ももを握りしめ、やっとの思いで言った。
「あの子に、近づかないでください」
男は喉で笑った。
「別に怒っちゃあおりやせんよ、そんなに怖がるあんたを見るのは心が痛ぇや。なんで黙ってたんですかい。やつがれが、あの子を八つ裂きにして地獄に連れて行っちまうとでも? 心外だなァ……。そりゃあ、確かに妬きましたぜ。あの男、あんなにしてやったのにまだ先生に執着してやがるかと思うとはらわたが煮えくり返る。だが、それはあんたも同じ事」
笠の下から男の顔が徐々に露になる。三日月みたいに裂けた口。低い鼻、細められた目――その瞬間鬼村は確信した。怒っている。心底怒っている。目を見れば一目瞭然だ。
「見舞いに、行きやしたね」
男の声が鋭さを増した。
「多少なら見逃すつもりではおりやす、やつがれも鬼じゃあないんでね。でも今日は日が悪い。あんたが見舞いに行ったのと、娘を見つけたのとが重なっちゃあ、いくらやつがれでも堪忍袋の緒が切れそうですぜ。意地悪の一つもしたくなるってもんだ。分かりやすよね、先生」
ここまで言うと、今度こそ男は本物の悦びで笑みを作り、大きな頭をカクンと右に傾いだ。
「父親と娘、どっちにしやすか」
なんと。
なんと悍ましい男だ。
なんと浅ましい男だ。
鬼村は何も言えない。ただ、冷や汗をかいている。
「決められないなら、やつがれが決めやすぜ」
男は嗤った。
「じゃ、娘にしやしょう」
その言葉を聞いた途端、鬼村は男の笑顔目掛けて飛び掛かった。その爆発は自然現象のように何人にも止められぬ凄まじいエネルギーを持っていた。捨て鉢だ。もうどうなったって構わない。
「美命に近づくなっ!」鬼村は吠えた。唾を飛ばし、顔を赤くし、般若の形相で、声の限りに。「死神風情が調子に乗りやがって!」
押し倒され、殴りかかられそうになっても男は顔色一つ変えず、亡霊のようにするりと鬼村の手を振り払った。勢い余って鬼村は床に突っ伏す。顔をしたたか打ち付けた。鼻と頬が折れたかと思う衝撃に瞼の裏で火花が散ったが、気にしている暇はない。急いで身を捩って振り返る。
見上げた先では、入れ替わりで馬乗りになった男がその小さな体に見合わぬ大きな鎌を鬼村の首に定めていた。
冷たい刃の感触が首から全身へ駆け抜ける。
死神の大鎌。
命を刈り取る為だけに存在するもの。
男の顔が人の皮を捨てしゃれこうべに戻っている。
これがこの男の本性だ。
「殺せよ、出来るもんなら」
吐き捨てた鬼村の首に刃が食い込む。生きた鬼村の首は柔らかく、簡単に血が流れた。あとほんの少し刃を引いたなら、取り返しのつかない量の血が噴き出すだろう。今、鬼村の命は死神の手の中にある。
髑髏の真っ暗な眼窩の中に、怪しく赤い光が輝いている。骨の指に力がこもり、更に鎌の刃が鬼村の中に潜り込んだ。
燃えるような沈黙。
お互い睨み合い、息さえしない。
「……俺も嫌な女に惚れちまったもんだ」
やがて、低い声で独り言ちた。今回も口火を切ったのは男の方だった。
「あんたはアタシに惚れたんじゃない、アタシの小説を気に入ってるだけだ、勘違いすんな」すかさず鬼村が言った。反論しないではいられなかった。「アタシなんかに惚れてる馬鹿は、この世に一人しか居ないんだよ」
ゆっくりと鎌が離れた。押さえつけられていた傷口からどっと血が溢れだす。
男は鬼村の上で暫く彼女を見下ろしていた。何を考えているか分からない。骨の顔では表情なんて読み取れるはずもない。ただ、先ほどまでの殺気はもう感じられなかった。
ややあって男は鬼村の上から退くと、笠の縁をつまみぐっと押し込んで顔を隠した。顔は見えなかったが、手は骨から人のそれへと戻っている。
「なら」
驚くほど弱々しい声で男は言った。
「この世に一人、あの世に一人って事だ」
ふらふらと鬼村が起き上がった時、そこにはもう誰も居なかった。
今更痛みを感じ、首を押さえる。このシャツはもう着られないだろう。病院に行った方が良いだろうが、さて、この傷をなんと言い訳したものか。
ああ、つかれた。
鬼村は再びその場に倒れ込み、せり上がって来るに任せ、声を殺して暫く泣いた。
惨めな女に手を差し伸べる者は、誰も居なかった。
一見すると大人しい、地味な女生徒である。余計な事をしていない黒髪に、醜いニキビ面という十代らしい見た目で、いつも休み時間は本を読むか、どこかへ消えていた。成績は総じて中の下。ただし、国語だけは常に優秀だった。
友達らしい友達はおらず、時折必要最低限の会話をクラスメイトと交わしてはいたものの、そこに和気あいあいとした雰囲気はない。少し盛り上がったかと思えば、終いには相手の生徒が微妙な顔になって離れていってしまう。藤原真は会話が苦手なのだろう。いかにもそんなタイプに見える。
彼女がいじめられていたかどうかは、正直なところ微妙である。確かに、黒板に酷い似顔絵を描かれたり、クラスのカースト上位の女子にからかわれたりもしていた。だが、暴力を受けたり、何かを隠されたりといった事はなかったので、所謂”いじめ”とまで呼ぶべきか定かではない。だが、そんな茶々もある日を境にぱったりとなくなった。彼女に近づく者は一人も居なくなったのだ。
何かが、あったのかもしれない。
当事者しか分からぬ、何かが。
とは言え、大人しいからといって問題を起こさないとは限らない。
藤原真は体の弱い少女であった。青白い顔で辛そうにしていたり、倒れて保健室に運ばれたり、遅刻や早退も多く卒業出来るかギリギリのラインだったのは言うまでもない。
それなのに、隠れて煙草を吸っているという目撃がいくつかあったのだから人は見かけによらないものだ。
もし生徒が校舎裏でコソコソ煙草なんぞ吸っていたのが見つかったら、すぐに指導室に引っ立てられ、親を呼ばれ、複数名の教師による恐ろしい裁判が始まるだろう。
その時も、本来ならそうなるはずだった。
しかし、何かの因果が働いた。
「おい、後ろ!」
紫煙の先に潜む者共を、その教師は見る事が出来たのだ。
教師は藤原真を慌てて抱き寄せ、一緒に逃げ出してくれた。
この出会いが、良いものだったのか、悪いものだったのか――今でも鬼村は分からないでいる。
病室の前までやってくると、中を覗く前に鬼村は一度足を止めて気を落ち付かせた。いつもの事だ。彼が一体どんな有様になってしまったか、確認するのにいつも少しばかり勇気が要る。どんな姿を望んでいるのか、あるいはどんな姿を恐れているのか、実のところ自分でもよく分かっていないが、それでも病室に入る瞬間はいつも緊張によって心臓が鼓動を速めた。
暫くして僅かに湧いた勇気を目ざとく掴み取ると、その勢いに任せて室内に入る。
「おはよう」
返事はなかった。
神保はベッドの上で身を起こし、ぼうっと窓の外を眺めていた。薬を飲んだのか、目の焦点が合っていない。だらしなく開いた唇はカサカサで、顔もやつれて見える。最後に面会に来た時より、少し痩せただろうか。食事はちゃんと食べているらしいのだが。
「調子は? 何か面白いものでも見える?」
ベッド横の丸椅子に腰かける。
剃り上がった彼の頭を横から見ると、なんだか大豆に似ていた。元々薄毛の男であったが、この精神病院に入院した際に結局全部剃られてしまった。実を言うと、鬼村はこっちの方が気に入っている。少ない髪の毛を必死に多く見せようと躍起になっているより、坊主のように清々しく剃ってしまった方が随分似合っていると思う。
鬼村は所在なさげに室内を見渡した。
空虚な部屋だ。
神保の頭の中と同じ。
ふと視線を戻すと、神保はじっと鬼村を見つめていた。ドキリとする。
微かに唇が動いた。
「真」
カサカサの唇からカサカサの声で紡がれたその名前は、暫く誰にも呼ばれなかったせいでやっぱりカサカサに干からびていた。それでも、久しぶりに日の目を見たその名前は、世界に飛び出した瞬間に息を吸い、血を巡らせて温かくなり、鬼村の中に染みわたる。戸籍のためだけに与えられた無意味な呼び名は空気のように軽いのに、神保が呼ぶその時だけは、子犬のような重さを持った。
真、と自分を呼ぶのは、もう神保くらいなものだ。
鬼村は動揺を抑え込みながら、何、と返事をした。
「美命は?」
こんなにしっかり話すとは、どうやら今日は調子が良いようだ。
「家に居るよ」
「元気?」
「うん、ぼちぼち」
灯りかけていた火が神保の瞳から不意に消え、少ししてまたぽっとついた。彼の正気はきれかけた電球のように明滅している。その電球は交換する事が出来ない。とうとう寿命が尽きる日まで、眺めるより他はない。
「もう行く?」
あり得ない程優しい微笑みが鬼村に向けられる。それがあまりにも昔そのままで、鬼村は眩暈を覚えた。
「ううん、まだだよ」
「ゆっくりで良いよ」目尻に深い皺を刻んで神保は笑う。そう言えばこの男はもう五十を過ぎていたっけ。「真は今日、どこ行きたい?」
一体彼には鬼村がどう見えているのか不思議だった。お互い年相応に老けた。体形も変わった。それでも神保は調子が良ければ鬼村をきちんと認識する。それは果たして、最近の鬼村なのか、正常な状態で見た最後の鬼村なのか、蜜月の鬼村なのか、学生時代の鬼村なのか分からない。だからこそ、薄汚い希望を抱いてしまうのがたまらなく嫌だった。鬼村は少なくとも自分の人生においては解雇主義ではないのだ。
「先生」
神保の手を取り、握りしめる。冷たい手だ。皺があり、ざらざらして、指の骨が浮き出ている。死体のような手だ。
初めて出会ったあの日、人ならざる連中から鬼村を救い出してくれたあの日の手はこんな手ではなかった。未成年の体に伸びた手もこんな手ではなかった。長い事繋いだ手も、隣で車のハンドルを握った手も、テスト用紙に〇をつけていた手も、頬を撫でてくれた手も。
愛し、憎んだ、男の手。
――ああ、老いさらばえている。
「先生、アタシもう行くよ」
神保の電球がきれた。笑顔の失せた顔がのろのろとベッドに落ち、それから部屋の中を不思議そうに見回す。ゆっくり時間をかけて隅々を巡り、そうして鬼村の顔に帰って来た。その途端、彼は叫び声をあげてベッドからひっくり返り、わあわあ喚き散らして床の上を転げまわり始めた。
それはかつて神保の精神が壊れた瞬間と瓜二つだった。
医者や看護師が病室に駆けこんできて彼を押さえつけ、大変な騒ぎになった。
鬼村はそそくさと職員達に謝って病院から逃げ出した。
狂ってしまった神保の姿が脳裏で繰り返される。否、自分でわざわざ繰り返している。心臓は激しく呼吸し、全身に倦怠感という毒を運んだ。吐き気がする。
タイミングの悪い時に来てしまった。調子が良いと思ったのは間違いだったようだ――。
――嗚呼。或いは。
或いは、鬼村が面会に行く事こそが間違いなのかもしれない。
家の扉を開けた瞬間、何かが聞こえて動きを止めた。
この家で妙な物音や声がするのは日常茶飯事だが、今聞こえるのはそういった類のものとは違う。
会話だ。
和やかで明るい会話。死者の恨み言ではなく、二人の人物による生き生きとしたやりとりの応酬。
二人だ。
二人居る。
そして鬼村は、その声の主のどちらも知っている。
全身から血の気が引いて、そのまま卒倒しそうになった。息は凍りつき、心臓は石になり、全身の筋肉は鋼に変わった。扉の鍵を閉めるのも忘れ、小さな瞳を見開いたまま機械的に声のする方へ歩いて行く。
踏み出す足が、泥の中を這うように重たい。
「それでね、ここ折ったら広げるの」
愛しい、可愛い、娘の声。
と、
「やあ、上手でございやすねェ」
――あの男。
美命と死神は向かい合い、居間で仲睦まじく折り紙に興じていた。
一体いつからそうしていたのか、机の上には無数の動物が出来上がって動物園になっている。見たところ、娘に別段変わった様子はない。怪我もない。怯えてもいない。本当にただ折り紙を楽しんでいるらしい。
「ママ!」
鬼村の帰宅に気づいた美命は、折っていた折り紙を途中で投げ出すと嬉しそうに母親に抱き着いた。
からっぽの笑みを張り付ける。子供の為に。
「おかえりなさーい」
「はーい、ただいま。何してたの?」
「ママのお友達が来たから、一緒に折り紙してた。見て、いっぱい作ったの!」
鬼村の腕にじゃれつき、自分が折った動物の名前を指折り数えて口にする。
微笑んだままで鬼村は男に目をやった。男もまた、例のおぞましい笑みを浮かべて鬼村を見た。
久しぶりに、心からの恐怖が這い上がって来た。
「ねえ」声が震えないよう、細心の注意を払う。「ちょっとお話があるから、あんたお外で遊んできな」
「えー」
「ほら、行った行った」
子供らしい不貞腐れ方で美命は暫く体をぐにゃぐにゃ揺らしていたが、やがてわざとらしい大きな溜息をついて母親から離れていった。聞き分けの良い子なのだ。優しい子なのだ。
男は顔を鬼村に向けたまま目だけで娘を見やり、にんまり持ち上げた口を開いた。
「バイバイ、美命ちゃん」
その口から娘の名前が飛び出た瞬間、全身の毛が逆立った。怒り、恐怖、自分の持ちうる負の感情全てが震えあがる。不可能なのは分かっているのに、咄嗟に「殺さなければ」という強い思いに駆られた。
本能が耳を聾さんばかりに警鐘を鳴らしている。
「ガイコツのおじちゃん、また折り紙しようね」
美命はどこまでも無邪気に笑う。痛々しい程に。
「楽しみにしておりやす」
「バイバーイ」
小さな足音が遠ざかる。
玄関のドアが開き、閉まる。
――そして、絶望がその場の息の根を止めた。
「可愛い娘さんでやすね」
口火を切ったのは男だった。笠に隠れて顔は見えないが、声はいつも通り優しさを繕っている。
「水臭いじゃあございやせんか。ねえ先生。あんな可愛い娘さんが居たなんて」
鬼村は音もなくその場にへたり込み、汗ばむ手で太ももを握りしめ、やっとの思いで言った。
「あの子に、近づかないでください」
男は喉で笑った。
「別に怒っちゃあおりやせんよ、そんなに怖がるあんたを見るのは心が痛ぇや。なんで黙ってたんですかい。やつがれが、あの子を八つ裂きにして地獄に連れて行っちまうとでも? 心外だなァ……。そりゃあ、確かに妬きましたぜ。あの男、あんなにしてやったのにまだ先生に執着してやがるかと思うとはらわたが煮えくり返る。だが、それはあんたも同じ事」
笠の下から男の顔が徐々に露になる。三日月みたいに裂けた口。低い鼻、細められた目――その瞬間鬼村は確信した。怒っている。心底怒っている。目を見れば一目瞭然だ。
「見舞いに、行きやしたね」
男の声が鋭さを増した。
「多少なら見逃すつもりではおりやす、やつがれも鬼じゃあないんでね。でも今日は日が悪い。あんたが見舞いに行ったのと、娘を見つけたのとが重なっちゃあ、いくらやつがれでも堪忍袋の緒が切れそうですぜ。意地悪の一つもしたくなるってもんだ。分かりやすよね、先生」
ここまで言うと、今度こそ男は本物の悦びで笑みを作り、大きな頭をカクンと右に傾いだ。
「父親と娘、どっちにしやすか」
なんと。
なんと悍ましい男だ。
なんと浅ましい男だ。
鬼村は何も言えない。ただ、冷や汗をかいている。
「決められないなら、やつがれが決めやすぜ」
男は嗤った。
「じゃ、娘にしやしょう」
その言葉を聞いた途端、鬼村は男の笑顔目掛けて飛び掛かった。その爆発は自然現象のように何人にも止められぬ凄まじいエネルギーを持っていた。捨て鉢だ。もうどうなったって構わない。
「美命に近づくなっ!」鬼村は吠えた。唾を飛ばし、顔を赤くし、般若の形相で、声の限りに。「死神風情が調子に乗りやがって!」
押し倒され、殴りかかられそうになっても男は顔色一つ変えず、亡霊のようにするりと鬼村の手を振り払った。勢い余って鬼村は床に突っ伏す。顔をしたたか打ち付けた。鼻と頬が折れたかと思う衝撃に瞼の裏で火花が散ったが、気にしている暇はない。急いで身を捩って振り返る。
見上げた先では、入れ替わりで馬乗りになった男がその小さな体に見合わぬ大きな鎌を鬼村の首に定めていた。
冷たい刃の感触が首から全身へ駆け抜ける。
死神の大鎌。
命を刈り取る為だけに存在するもの。
男の顔が人の皮を捨てしゃれこうべに戻っている。
これがこの男の本性だ。
「殺せよ、出来るもんなら」
吐き捨てた鬼村の首に刃が食い込む。生きた鬼村の首は柔らかく、簡単に血が流れた。あとほんの少し刃を引いたなら、取り返しのつかない量の血が噴き出すだろう。今、鬼村の命は死神の手の中にある。
髑髏の真っ暗な眼窩の中に、怪しく赤い光が輝いている。骨の指に力がこもり、更に鎌の刃が鬼村の中に潜り込んだ。
燃えるような沈黙。
お互い睨み合い、息さえしない。
「……俺も嫌な女に惚れちまったもんだ」
やがて、低い声で独り言ちた。今回も口火を切ったのは男の方だった。
「あんたはアタシに惚れたんじゃない、アタシの小説を気に入ってるだけだ、勘違いすんな」すかさず鬼村が言った。反論しないではいられなかった。「アタシなんかに惚れてる馬鹿は、この世に一人しか居ないんだよ」
ゆっくりと鎌が離れた。押さえつけられていた傷口からどっと血が溢れだす。
男は鬼村の上で暫く彼女を見下ろしていた。何を考えているか分からない。骨の顔では表情なんて読み取れるはずもない。ただ、先ほどまでの殺気はもう感じられなかった。
ややあって男は鬼村の上から退くと、笠の縁をつまみぐっと押し込んで顔を隠した。顔は見えなかったが、手は骨から人のそれへと戻っている。
「なら」
驚くほど弱々しい声で男は言った。
「この世に一人、あの世に一人って事だ」
ふらふらと鬼村が起き上がった時、そこにはもう誰も居なかった。
今更痛みを感じ、首を押さえる。このシャツはもう着られないだろう。病院に行った方が良いだろうが、さて、この傷をなんと言い訳したものか。
ああ、つかれた。
鬼村は再びその場に倒れ込み、せり上がって来るに任せ、声を殺して暫く泣いた。
惨めな女に手を差し伸べる者は、誰も居なかった。
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※場所や個人が特定されないよう、名前はすべてアルファベット表記にし、事実から逸脱しない程度に登場人物の言動を一部再構成しております。
※小説家になろう様、Nolaノベル様にも同じものを投稿しています。
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