鬼村という作家

篠崎マーティ

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四十三話「2000」

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 高校一年の夏だった。
 気が滅入る程の暑さと蝉の声に取り囲まれた終業式のその日、式が終わるや一目散に帰る者、友との別れを惜しんでダラダラ居残る者、様々な後始末に追われる教師等によって夏休み直前の浮ついた空気が攪拌され、校内には独特な混沌が漂っていた。
 だから友達も居ない藤原真がひっそり教室から消えても、誰一人気づく者など居はしなかった。
 真は昇降口には向かわず、喧噪から離れ一人黙々と階段を昇った。
 これは賭けだった。
 屋上の扉は勿論施錠してある。真をはじめ、この学校の生徒で屋上に出た事がある者は居ない。教師でさえ屋上に足を踏み入れた事があるのは数える程のはずである。
 だから、駄目で元々のつもりだった。
 鍵が閉まっていれば大人しく帰る。だがもし、何かの因果が働いて鍵が開いていたなら――それは、真の為に開いているに他ならない。
 ならば予定通り、誂えられたその舞台にのぼろう。そして、やるべきことをしよう。
 扉の前で立ち止まり、ゆっくりとノブに手を伸ばした。
 ――開いた。

 嗚呼、呼ばれている。

 屋上は風一つ吹いていない、全てが停滞した世界だった。空気も、時間も、音も、一切の流れが止まっている。不思議と暑さは感じず、耳が痛くなる程の静寂に包まれていた。
 何もかもが死んでいるみたいだと思ったが、すぐに「みたいではなく死んでいるのだ」と考え直した。自分はもう片足を突っ込んでいる。ここは生者の世界から線を一本超えた場所だ。肉体を抱えて来られる最後の場所――間にあたる場所。この更に一本先に行けばいよいよ帰ってこられない。
 吸い寄せられるようにフェンスに近づき、両手で網目を握りしめる。フェンスは古ぼけた緑色で、日差しを浴びているせいで生ぬるくなっていた。
 よじ登れるだろうか。 
 よじ登らねばなるまい。
 よじ登って、向こう側のへりまで降りなければ……否、それよりフェンスのてっぺんまで登ってそこから勢いをつけて飛んだ方が簡単だろうか。
 あまり頭が働かない。とにかく、フェンスをよじ登ろう。

 向こう側へ――向こう側へ行かねば――。

 足をかけながらフェンスの先を見上げた真は、そこに奇妙なものを見つけて動きを止めた。
 最初は鴉かと思った。しかしすぐに、鴉にしては大きすぎると気づきぎょっとする。
 人だ。
 男がフェンスの上に居る。
 男は遊行僧の恰好をして、笠をかぶり錫杖を片手に持っていた。どうやっているのかフェンスの上にしゃがみ込んで真を見下ろし、生乾きのミイラのような醜い顔で小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
 人間でないのは明らかだった。
 固まる真から雲一つない空へ視線を移した男は、その異様さとは裏腹に拍子抜けするほど穏やかに言った。
「こんな気の触れそうな青空じゃ、死にたくもなる」
 男を見上げたまま、真は後ずさった。
 動きの悪い脳みそに一滴の恐怖が滴り、じわと広がる。男の正体に気づいてしまったのだ。
「……死神、様、ですか」
 男は大きな口をにんまりと持ち上げて、猫のようにしなやかに真の前に降り立った。しゃんと錫杖の涼やかな音が鳴る。その音が嘘みたいに美しくて、一瞬意識の全てが持っていかれた。
 死神を見たのは初めてだった。
 目の前に来てみれば、死神は真より頭一つ小さい小男で、想像していた死神の姿とはかけ離れていた。しゃれこうべでもなければ大鎌も持っていない。家族の誰も死神の見た目など教えてくれたことは無かったが、よもやこのような男であるとは思いもしなかった。
 だが、その小さな体が纏う雰囲気の鋭さは今までに感じた事が無いもので、暑くもないのに汗がどっと噴き出して目を逸らさずにはいられなかった。腹の奥の第六感が悲鳴をあげている。ほんの少しでも気を抜いたら錯乱してしまう確信がある。
 死が、目の前で嗤っている。
「藤原ンとこの穢れか」男はわざわざ真の顔を覗き込んできた。「前に穢れが生まれたのは七十年前だったか。生まれてすぐ殺さないたあ、時代は変わったもんだ。会うのは初めてで御座いやすね。お嬢ちゃん、お名前は?」
「……藤原、真です」
 ほとんど声は出ず、吐息のような返答だった。
「まァ、戸籍用の名前なんぞ聞いても意味ねぇやな」突然ずいと顔を近づけられ、真の喉で悲鳴の出来損ないじみた奇妙な音が鳴った。死神は笑っている。「――真名は、なんて言うんで?」
 訳もなく涙腺を涙がせり上がって来る。歯の根が合わない。知らず知らずに右手で掴んでいた左腕を爪が深々抉って血が出ていたが、痛みはない。
 意識と共に視界が白み始めた。
 気が触れてしまう。
 脳の芯を駆けのぼる狂気がほんの僅かでも産声を上げたなら、自分はもう二度と正気には戻れない。
 死ぬより恐ろしい事になる――。
 おごりのように震え割れんばかりに歯を食いしばりながら、それでも質問に答えない真を見た死神は意外そうに薄い眉を持ち上げた。
「……へェ、耐えるか」
 感心した声で死神が独り言ちた瞬間、ふっと真の体が軽くなった。何倍にもなった重力が突然元に戻ったような衝撃で一気に酸素が肺の中に押し寄せ、たまらず咳き込みながらよろける。心臓が物凄い速さで鼓動を再開した。頭がクラクラして、こめかみの血管が気持ち悪いほど脈打っている。
 見逃された命が、真の体の中で暴れまわっていた。
「穢れにしちゃあ見どころがある」這う這うの体の真を見ながら死神は面白そうに言った。「ここで死んじまうのは、ちいとばかし勿体ないンじゃあないですかい」
「……今日が、私の命日じゃないんですか」
 掠れた声で真が言うと、死神は首を横に振った。
「あんたの命日はまだ先、いつが命日か教えるのもまだ先。まァ、あくまでそこまで生きられるってだけの話で、死にたきゃ予定より早く死ぬことも出来やすがね。本気で死ぬつもりなら、やつがれは止めやせんぜ」
「でも……」
 真は肩で息をしながら囁いた。
「みんな……待ってますよね……?」
 死神は真の背後に視線をやった。
 黒い影が屋上の端から端までぎっしりとひしめき、轟き、蠢き、真のことを見守っている。その数は十や二十ではきかず、鮫のように真が発する死の匂いに群がり、死神の目の前で今まさにその数はいや増していく。
 普通の人間ならこの十分の一の数に集られただけで後戻りできなくなるだろう。まったく、いくら特別な血筋とは言え、ここまで亡者共を惹きつけるとは恐れ入った。こんなに膨れ上がっては、まだ子供の真ではどうする事も出来まい。つまり、この屋上に上がった時点で、真は引き返すことが出来なかったのである。
 それが死神には、些か不憫に思えたのだ。
「……成程」
 死神は一歩前に踏み出した。
「もしあんたが死にたくないってンなら、今日は助けても良い」
 怖くて後ろを見ることは出来ないが、真は精一杯顔を横に向けて死神を見た。
「本当に……?」
「なに、ほんの挨拶代わりでさあ」
 低く風を切る音をさせながら錫杖が振られた――鈴の音がしない。錫杖は一振りする間に大鎌に……死神の大鎌に変わっていた。
 影共はその様を見てざわりと揺れたが、逃げ出さないところを見るによほど真に死んで欲しいらしい。死神を前にしても口惜しそうにその場でふんばり真に干渉しようとするのを見ていると、死神の胸に天邪鬼じみた苛立ちが募った。
 なんにせよ、真が死んだら連れて行くのは死神の役目だ。藤原家の者は皆、代々自分の担当である。こんな下衆共にくれてやるつもりはない。
「どうしやす、自分で決めなさい。死にたいのか、生きたいのか」
 真は震えながら助けを求めるように空を見上げた。抜けるような澄み切った青がどこまでも続いている。見ているだけで平衡感覚を失い、魂が吸い込まれてしまいそうな、禍々しい――

 ――気の触れそうな青空だ。

 視界が青で満たされた瞬間、すっと震えが引いて呼吸が落ち着いた。
「――生きたいです」
 死神は鎌を振り上げ、アスファルトを蹴った。
「相分かった」


 いきなり鼓膜を蝉の大合唱に齧りつかれ、真は飛び上がって驚いた。
 蝉の鳴き声に四方を取り囲まれている。遠くで子供達の賑やかな声が聞こえる。すぐ脇の道路を車が走る音が屋上まで届いた。日差しは痛いほど暑く、屋上を吹き抜けるのもげんなりするような熱風だ。
 真は恐る恐る振り返った。
 何も居ない。
 暫く呆然とした後、フェンスに背を向けてゆっくりと真は歩き出した。
 フェンスの上にあの小男が居る気がしたが、わざわざ確認する事もない。

 この日から世界は、少しだけ違う輝き方を始めた。
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