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四十七話「2010」
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神保が家に入って来た途端、真は抑えきれない喜びに破顔し抱きしめてもらおうと両腕を伸ばした。これまで何百、何千としてきた抱擁は今更意識する程の事でもなく、呼吸でもするみたいに自然に二人は抱き合った。
「せんせえー!」
甘ったるい声で真が叫ぶ。神保は可笑しそうに笑った。
「どうしたの」
「ご報告!」
「はい、ご報告」
真っ赤な顔で真は叫ぶ。
「大賞とりました!」
「大賞? なんの?」
「こないだ送ったやつ!」
「小説?」
「そう! さっき編集部からメール来て、まだ発表前だけど私が大賞で、本出す事になった!」
「おおーっ!」
驚嘆に声をあげた神保は、真をきつく抱きしめ振り回し始めた。この頃、真はまだ痩せていて抱き上げるのは容易だった。
ひとしきり騒いだ後、改めて二人でメールを読み、また喜び、そして急遽お祝いに外食をする事になった。こんなに特別な日を、祝わない訳にはいかない。
ベタではあるが、神保は夜景の綺麗なホテルのレストランを真の為に予約してくれた。コース料理なんて食べたのは久しぶりだったが、受賞の喜びが頭の中でずっと麻薬のような何かしらのホルモンを出しまくっていたせいで、料理の味に集中する事が出来なかった。ディナーをご馳走してもらったのに失礼な話だと思うものの、真の意識はすぐに受賞の二文字に引き戻されてしまうのだ。こればかりはどうしようもない。
「どんな小説なの?」神保がほろ酔いで問うてきた。
「ホラーだよ」
「へえ。”神保悟”は?」
「出てない」
「なんだあ」
神保がワインを飲むのにつられ、真もワインを一口飲んだ。白ワインだ。銘柄は彼が決めたので分からないが美味しかった。真はあまり酒を嗜む方ではないが、祝いの席に酒はつきものである、化粧もしていない顔は、アルコールで火照って林檎のように真っ赤になっていた。藤原家は酒豪の血筋ではないのだ。
「なんかまだ実感湧かないや。二十六歳だよ、悲願の受賞ってなもンなのに」
へらへらしながらそう言った瞬間、やにわ真の頭の中に冷たい水が一筋流れ込んだ。
二十六歳なのだ。
神保と付き合いだして、気づけば十年経っていた。初めの頃は誰にも言えない不埒な関係であったが、今はお互い良い大人だ。神保など、来年は四十になる。何をするにも、堂々としたって構わないのだ。
改めてレストランの中を見渡した。綺麗で、雰囲気があって、いかにもロマンチックな店内である。確かにお祝いのディナーは嬉しいのだが、こんな演出されきった空間でもう十年も付き合っている男女がただ食事をするだけかと思うと、急に鼻白んでしまった。
そう言えば、結婚後はこうしようああしようという話は何度かしているが、結婚をどうしようという話は一度も出ていない。 そもそも、プロポーズなどされていない。
いつの頃からか、結婚するものだとお互いに思っていた。それだけなのである。
十六の頃から、二人の関係は何も変わっていないのだ。
「……私、二十六か」
思わず呟く。
神保は優しく真の肩を抱いた。
「まだまだ若いよ、これからたくさん本出せるって」
「……ハハ」
周りはカップルだらけだ。
皆小綺麗な格好で自分達の世界に没入している。
普段よりかは上等な服を着たものの、すっぴんで髪もそのままの真と随分年の離れた神保は、明らかにこの場にそぐわない存在であった。
美しい外の夜景と煌びやかな店内を隔てる窓ガラスに、不細工な自分が映っている。外が暗いから余計にはっきり見える。自分でも驚くほど醜いその反射を見ていたら、猛烈に死にたくなった。
まるでこの世のものとは思えないな――。
「ギッ」
背後で声がした。ほとんど息のようなその声は、食いしばった歯の隙間から唾液の飛沫を纏わせて、今にも呪いの言葉をこの世に送り出さんとしている。
急に自分が十も老け込んだ気分になり、真は俯いた。
また影が居る。
真の死の香りを嗅ぎつけて、こんなお洒落なホテルのレストランにまで集まってきている。ほんの少し憂鬱になっただけなのに、あっぱれな程鼻のきく連中だ。
だが、真はもうこういった連中の対処を知っている。
神保が静かになった真に話しかけようとした瞬間、肝が冷える程大きな音で真は柏手を打った。その音に貫かれて影が霧散したのが気配で分かる。それに、店の空気も。
「真?」
静まり返った店内で、ぎょっとした神保が覗き込んでくる。
こんな不細工な顔を見られたくなくて、思わず顔を背けた。
「ごめん、”居る”」
「え、ここに?」
「うん」
神保がこういった話を理解してくれるのは小さな救いだ。彼はキョロキョロしながら辺りを見回した。多少なり霊感があるものの、あくまでちょっと見える程度でしかない神保には気配さえ感じられなかったようだ。
「今祓ったの? まだ居るならもうここ出るか?」
料理はまだ残っている。これからデザートもくる。それに、そこそこ良い値段のするコース料理だ、ここで退店するのはもったいないことこの上ない。にも拘わらず、神保は迷うことなくもう出るかと言ってくれた。真は徐々に平和を取り戻す店内の空気を背中で感じながら、僅かに力を抜いて微笑んだ。
初めて出会った時と同じ。また真と一緒に逃げてくれようとした。
それが嬉しかった。
それで十分幸せだった。
「ううん、もう居ないから大丈夫。マジ鬱陶しいわー」
一気にワインを呷って笑う。
今余計なことを考えなくて済むなら、明日の二日酔いくらい望むところだ。
唐突に意識が浮上して、一瞬頭が追い付かなかった。
暗い寝室を暫く眺め、遅れて自分が起きたのだというのを自覚する。枕元のスマホの画面を確認すると、夜中の二時半を回ったところだった。せっかく眠ったのに、一時間もせず起きてしまったのか。
背中に触れる神保の肌の温もりを感じたまま、再び眠りにつこうとした時、ふと違和感に気が付いた。カーテンがおかしい……否、月明りを浴びてベランダの影を映しているカーテンに、見慣れない奇妙な影がある。手すりの上に、何かこんもりとした……。
――小さな、影がある。
一気に目が覚めた真は、そのままの体勢で凍り付いた。
「月が綺麗で御座いやすねえ」
思わず横の神保を見る。勿論、彼は眠っている。ぐっすりと。
掛け布団で体を隠しながら上半身だけ起き上がらせたが、カーテンの前まで行くことは出来なかった。裸なのだ。
「こンだけ明るいと、見たくもねえモンまで見えちまいまさあ」
声は努めて明るいが、剥き出しの真の肌にはチリチリと焼けるような感覚が突き刺さる。
この感覚は初めてではない。良い兆候でないのは分かっている。
無意識に息を潜めた。
「……大賞、とりました」
静かに真がそう言うと、暫しの静寂があった。
「へえ。おめでとうございやす」
淡々とした返事だ。
死神が何故そこにいるかはどうでも良かった。
”いつから”そこに居たかが何より気がかりだった。
「もう少し先になりますけど、今度こそ本になります。出来上がったら、一冊貰ってくれませんか?」
我ながら気色の悪い猫なで声を出していると思ったが、ここは下手に出て機嫌取りをしなければいけない。
死神の機嫌が悪い理由は察しが付く――自分が一番に受賞の知らせを貰えなかったからだ。
真はもう十代の子供ではない。全てに無頓着でいられる時代は既に終わっている。畏怖すべき人間の魂を運ぶ死の神としては常に畏敬の念を抱いていたが、彼が時折見せる気色の悪い程人間じみた仕草に関しては対等どころか自分こそがこの関係性の手綱を握ってやろうというある種の見下しめいた感情を持っていた。
それは女が男を子供扱いするような感覚であり、国のトップが相手国のトップにに対してとことんまで世辞を言うような感覚と同じ類のものである。
いなして、あしらって、丸め込んで、リスクコントロールに尽力する。第一の目的は和平を維持する事だ。今、真の隣にはただの人間でしかない神保が居る。彼と居る時に……真がとことんまでプライベートを晒している時に現れたのは、これが初めてだった。
気を、逸らさなければ。
「いいや、貰うだなんて図々しい」
微動だにせず影は応えた。
「私が献本したいんです。賞に送ろうと思ったのは、貴方のおかげなんですから」
「賞を取ったのはあんたの小説が面白かったからだ」
「書き続けられたのは、貴方が読んでくれてたからです」
いきなり死神の声色が変わった。
「入っても、よございやすか」
一音ずつ明瞭に発音し、激しい気魄を込めて、問うというよりも宣言をしてきた。
死刑宣告じみたその言葉に真は鋭く息を飲んだが、拳を握りしめて死神の影を睨みつける。嫌な汗が生え際の辺りに滲んだ。ここで屈して中に入れてしまったら、取り返しのつかない事が起きる。
神保を守れるのは自分しか居ない。
「……いいえ」
暫く間があった。
カーテンで仕切られているのに、直接睨み合っているような強い視線を感じる。
ようやく影が僅かに動いた。
「隣で寝てるんで?」
胸がはだけるのも構わず、真はいつでもベッドから飛び出せるように身を屈めた。冷えた両手で印を組む。死神相手に、子供だましでしかないけれど、いざという時は逃げる時間くらいなら稼げるはずだ。
戦う覚悟は出来ている。
「……はい」
「一緒に住んじゃいないですね」
「はい」
「十年も付き合ってるのに」
「私がそうしてくれと言ってるんです」
「藤原の家は特別だから」
「ええ」
「あんたは昔、こう言った。大人がガキに手ぇ出しても、結婚するなら良いんだって。そこまで言うなら、さぞ結婚したいんだろうと思ってやしたよ。でもこのザマだ」
ぐうの音もでない。
「いい加減、終いにしたらどうです」死神の声が一段と低くなった。「やつがれは、あんたを思って言ってンだ。こんなくだらない茶番の為に命を助けたんじゃないですぜ」
「くだらない茶番が私には必要なんです」
世界に漲る非現実的なまでの静けさは、窓の向こうで死神が密やかに息を飲んだ音を真の耳に届けた。
しまったと思ったがもう遅い。けれどここまで踏み込んだ物言いをされては真だって黙っていられなかった。
「こうやって生きて来たから、私は小説が書けるんです。褒められた人生じゃないのは承知ですが、私は幸せなんです」
「”幸せ”?」
冷笑で向こうの声が震えている。
「ちゃんと結婚したら納得してくれるんですか? 結婚しようとしまいと今と何も変わらないですよ」
「結婚しろなんて一言も言っちゃいやせん」
「結婚しなくて良いならこのままで良いじゃないですか、子供が居るわけでもなし!」
「だから結婚の話なんかハナっからしちゃいないンですよ」
「じゃあ私にどうしろって言うんですか!」
「あんたじゃない、その野郎の話をしてンだ!」
影が大きく動き、真の上にまで伸びた。手すりの上で立ち上がったのだ。肩を怒らせ、まっすぐ真を睨みつけている。
「あんたは穢れだが馬鹿じゃない、なのになんでそんなクズと!」
「クズじゃない!」
酷い悪態に思わず大声が出る。死神相手に怒鳴り返すなんてとんでもない話だが、真は持ち前の短気を爆発させてしまった。だが、幸か不幸か冷静でないのは死神も同じことだった。
「何も知らないのにクズなんて言わないでください!」
「何も知らないのはその男だ! あんた、真剣に自分の話をしたのか、ええ?」
「それはっ」一瞬言葉に詰まる。「タイミングがあるんです、変に巻き込みたくないから……!」
「十年も付き合ってそんなに他人行儀なら、あんたはそもそもそいつを信用してねェんだ! 家柄の話も出来ねえ、頑張って書いた小説も見せられねえ、それでよく結婚だなんて言えるぜ。俺の方がよっぽどあんたの事を知ってるじゃねえか! あんたはそいつに助けられたなんて言うけどなァ、飛び降りようとしたあの日、そいつは一体どこに居た! 手首を切ろうとした時も、店でロープを見つめてた時も、部屋で一人で泣いてた時も、家の仕事で死にかけた時だって!」
「うるさいっ!」
真は悲鳴をあげた。両手で髪を掻きむしり、沸き上がる狂気を必死に払いのけようとする。
死神の理性が薄れるにつれ、禍々しい気が真の中に潜り込み食らいついてきたのだ。死神はそうしようと思った訳ではないだろう。ただ怒りのあまり抑えがきかなくなっているのである。
「あんたは死神だろ!」
こんなに叫んだのは初めてだった。
真の言葉が空気を震わせると、頭の中で繰り広げられていた狂乱騒ぎがひたりと止まり、ゆっくりと引いていった。張り詰めた空気ゆるみ、世界が急速に元に戻っていく。
死神は、狼狽えていた。
何か言おうとしているようだが、言葉は喉の辺りで情けない息となって死んでいく。
真の言う通りであった。
死神は、何をどうしても死神なのだ。
唸ったのか舌打ちをしたのか分からないが、小さな声が聞こえた途端、小さな影はゆらりと傾きそのまま消えてしまった。ベランダから落ちたような消え方に驚いたが、まさか飛び降りて死ぬわけでもないだろう。
一気に脱力した真は、ベッドに蹲って暫く呼吸を整えた。
死神の気にあてられて体は疲労困憊だったが、それよりも精神の消耗の方が激しい。
死神と喧嘩をしてしまった。
あんな。
あんな。
痴話喧嘩のような。
視線だけ横にやって神保を見やる。
背中を向けた彼は眠っていた。
勿論、ぐっすりと眠っていた。
真の唇の合間から、嗚咽じみたため息が零れた。
「せんせえー!」
甘ったるい声で真が叫ぶ。神保は可笑しそうに笑った。
「どうしたの」
「ご報告!」
「はい、ご報告」
真っ赤な顔で真は叫ぶ。
「大賞とりました!」
「大賞? なんの?」
「こないだ送ったやつ!」
「小説?」
「そう! さっき編集部からメール来て、まだ発表前だけど私が大賞で、本出す事になった!」
「おおーっ!」
驚嘆に声をあげた神保は、真をきつく抱きしめ振り回し始めた。この頃、真はまだ痩せていて抱き上げるのは容易だった。
ひとしきり騒いだ後、改めて二人でメールを読み、また喜び、そして急遽お祝いに外食をする事になった。こんなに特別な日を、祝わない訳にはいかない。
ベタではあるが、神保は夜景の綺麗なホテルのレストランを真の為に予約してくれた。コース料理なんて食べたのは久しぶりだったが、受賞の喜びが頭の中でずっと麻薬のような何かしらのホルモンを出しまくっていたせいで、料理の味に集中する事が出来なかった。ディナーをご馳走してもらったのに失礼な話だと思うものの、真の意識はすぐに受賞の二文字に引き戻されてしまうのだ。こればかりはどうしようもない。
「どんな小説なの?」神保がほろ酔いで問うてきた。
「ホラーだよ」
「へえ。”神保悟”は?」
「出てない」
「なんだあ」
神保がワインを飲むのにつられ、真もワインを一口飲んだ。白ワインだ。銘柄は彼が決めたので分からないが美味しかった。真はあまり酒を嗜む方ではないが、祝いの席に酒はつきものである、化粧もしていない顔は、アルコールで火照って林檎のように真っ赤になっていた。藤原家は酒豪の血筋ではないのだ。
「なんかまだ実感湧かないや。二十六歳だよ、悲願の受賞ってなもンなのに」
へらへらしながらそう言った瞬間、やにわ真の頭の中に冷たい水が一筋流れ込んだ。
二十六歳なのだ。
神保と付き合いだして、気づけば十年経っていた。初めの頃は誰にも言えない不埒な関係であったが、今はお互い良い大人だ。神保など、来年は四十になる。何をするにも、堂々としたって構わないのだ。
改めてレストランの中を見渡した。綺麗で、雰囲気があって、いかにもロマンチックな店内である。確かにお祝いのディナーは嬉しいのだが、こんな演出されきった空間でもう十年も付き合っている男女がただ食事をするだけかと思うと、急に鼻白んでしまった。
そう言えば、結婚後はこうしようああしようという話は何度かしているが、結婚をどうしようという話は一度も出ていない。 そもそも、プロポーズなどされていない。
いつの頃からか、結婚するものだとお互いに思っていた。それだけなのである。
十六の頃から、二人の関係は何も変わっていないのだ。
「……私、二十六か」
思わず呟く。
神保は優しく真の肩を抱いた。
「まだまだ若いよ、これからたくさん本出せるって」
「……ハハ」
周りはカップルだらけだ。
皆小綺麗な格好で自分達の世界に没入している。
普段よりかは上等な服を着たものの、すっぴんで髪もそのままの真と随分年の離れた神保は、明らかにこの場にそぐわない存在であった。
美しい外の夜景と煌びやかな店内を隔てる窓ガラスに、不細工な自分が映っている。外が暗いから余計にはっきり見える。自分でも驚くほど醜いその反射を見ていたら、猛烈に死にたくなった。
まるでこの世のものとは思えないな――。
「ギッ」
背後で声がした。ほとんど息のようなその声は、食いしばった歯の隙間から唾液の飛沫を纏わせて、今にも呪いの言葉をこの世に送り出さんとしている。
急に自分が十も老け込んだ気分になり、真は俯いた。
また影が居る。
真の死の香りを嗅ぎつけて、こんなお洒落なホテルのレストランにまで集まってきている。ほんの少し憂鬱になっただけなのに、あっぱれな程鼻のきく連中だ。
だが、真はもうこういった連中の対処を知っている。
神保が静かになった真に話しかけようとした瞬間、肝が冷える程大きな音で真は柏手を打った。その音に貫かれて影が霧散したのが気配で分かる。それに、店の空気も。
「真?」
静まり返った店内で、ぎょっとした神保が覗き込んでくる。
こんな不細工な顔を見られたくなくて、思わず顔を背けた。
「ごめん、”居る”」
「え、ここに?」
「うん」
神保がこういった話を理解してくれるのは小さな救いだ。彼はキョロキョロしながら辺りを見回した。多少なり霊感があるものの、あくまでちょっと見える程度でしかない神保には気配さえ感じられなかったようだ。
「今祓ったの? まだ居るならもうここ出るか?」
料理はまだ残っている。これからデザートもくる。それに、そこそこ良い値段のするコース料理だ、ここで退店するのはもったいないことこの上ない。にも拘わらず、神保は迷うことなくもう出るかと言ってくれた。真は徐々に平和を取り戻す店内の空気を背中で感じながら、僅かに力を抜いて微笑んだ。
初めて出会った時と同じ。また真と一緒に逃げてくれようとした。
それが嬉しかった。
それで十分幸せだった。
「ううん、もう居ないから大丈夫。マジ鬱陶しいわー」
一気にワインを呷って笑う。
今余計なことを考えなくて済むなら、明日の二日酔いくらい望むところだ。
唐突に意識が浮上して、一瞬頭が追い付かなかった。
暗い寝室を暫く眺め、遅れて自分が起きたのだというのを自覚する。枕元のスマホの画面を確認すると、夜中の二時半を回ったところだった。せっかく眠ったのに、一時間もせず起きてしまったのか。
背中に触れる神保の肌の温もりを感じたまま、再び眠りにつこうとした時、ふと違和感に気が付いた。カーテンがおかしい……否、月明りを浴びてベランダの影を映しているカーテンに、見慣れない奇妙な影がある。手すりの上に、何かこんもりとした……。
――小さな、影がある。
一気に目が覚めた真は、そのままの体勢で凍り付いた。
「月が綺麗で御座いやすねえ」
思わず横の神保を見る。勿論、彼は眠っている。ぐっすりと。
掛け布団で体を隠しながら上半身だけ起き上がらせたが、カーテンの前まで行くことは出来なかった。裸なのだ。
「こンだけ明るいと、見たくもねえモンまで見えちまいまさあ」
声は努めて明るいが、剥き出しの真の肌にはチリチリと焼けるような感覚が突き刺さる。
この感覚は初めてではない。良い兆候でないのは分かっている。
無意識に息を潜めた。
「……大賞、とりました」
静かに真がそう言うと、暫しの静寂があった。
「へえ。おめでとうございやす」
淡々とした返事だ。
死神が何故そこにいるかはどうでも良かった。
”いつから”そこに居たかが何より気がかりだった。
「もう少し先になりますけど、今度こそ本になります。出来上がったら、一冊貰ってくれませんか?」
我ながら気色の悪い猫なで声を出していると思ったが、ここは下手に出て機嫌取りをしなければいけない。
死神の機嫌が悪い理由は察しが付く――自分が一番に受賞の知らせを貰えなかったからだ。
真はもう十代の子供ではない。全てに無頓着でいられる時代は既に終わっている。畏怖すべき人間の魂を運ぶ死の神としては常に畏敬の念を抱いていたが、彼が時折見せる気色の悪い程人間じみた仕草に関しては対等どころか自分こそがこの関係性の手綱を握ってやろうというある種の見下しめいた感情を持っていた。
それは女が男を子供扱いするような感覚であり、国のトップが相手国のトップにに対してとことんまで世辞を言うような感覚と同じ類のものである。
いなして、あしらって、丸め込んで、リスクコントロールに尽力する。第一の目的は和平を維持する事だ。今、真の隣にはただの人間でしかない神保が居る。彼と居る時に……真がとことんまでプライベートを晒している時に現れたのは、これが初めてだった。
気を、逸らさなければ。
「いいや、貰うだなんて図々しい」
微動だにせず影は応えた。
「私が献本したいんです。賞に送ろうと思ったのは、貴方のおかげなんですから」
「賞を取ったのはあんたの小説が面白かったからだ」
「書き続けられたのは、貴方が読んでくれてたからです」
いきなり死神の声色が変わった。
「入っても、よございやすか」
一音ずつ明瞭に発音し、激しい気魄を込めて、問うというよりも宣言をしてきた。
死刑宣告じみたその言葉に真は鋭く息を飲んだが、拳を握りしめて死神の影を睨みつける。嫌な汗が生え際の辺りに滲んだ。ここで屈して中に入れてしまったら、取り返しのつかない事が起きる。
神保を守れるのは自分しか居ない。
「……いいえ」
暫く間があった。
カーテンで仕切られているのに、直接睨み合っているような強い視線を感じる。
ようやく影が僅かに動いた。
「隣で寝てるんで?」
胸がはだけるのも構わず、真はいつでもベッドから飛び出せるように身を屈めた。冷えた両手で印を組む。死神相手に、子供だましでしかないけれど、いざという時は逃げる時間くらいなら稼げるはずだ。
戦う覚悟は出来ている。
「……はい」
「一緒に住んじゃいないですね」
「はい」
「十年も付き合ってるのに」
「私がそうしてくれと言ってるんです」
「藤原の家は特別だから」
「ええ」
「あんたは昔、こう言った。大人がガキに手ぇ出しても、結婚するなら良いんだって。そこまで言うなら、さぞ結婚したいんだろうと思ってやしたよ。でもこのザマだ」
ぐうの音もでない。
「いい加減、終いにしたらどうです」死神の声が一段と低くなった。「やつがれは、あんたを思って言ってンだ。こんなくだらない茶番の為に命を助けたんじゃないですぜ」
「くだらない茶番が私には必要なんです」
世界に漲る非現実的なまでの静けさは、窓の向こうで死神が密やかに息を飲んだ音を真の耳に届けた。
しまったと思ったがもう遅い。けれどここまで踏み込んだ物言いをされては真だって黙っていられなかった。
「こうやって生きて来たから、私は小説が書けるんです。褒められた人生じゃないのは承知ですが、私は幸せなんです」
「”幸せ”?」
冷笑で向こうの声が震えている。
「ちゃんと結婚したら納得してくれるんですか? 結婚しようとしまいと今と何も変わらないですよ」
「結婚しろなんて一言も言っちゃいやせん」
「結婚しなくて良いならこのままで良いじゃないですか、子供が居るわけでもなし!」
「だから結婚の話なんかハナっからしちゃいないンですよ」
「じゃあ私にどうしろって言うんですか!」
「あんたじゃない、その野郎の話をしてンだ!」
影が大きく動き、真の上にまで伸びた。手すりの上で立ち上がったのだ。肩を怒らせ、まっすぐ真を睨みつけている。
「あんたは穢れだが馬鹿じゃない、なのになんでそんなクズと!」
「クズじゃない!」
酷い悪態に思わず大声が出る。死神相手に怒鳴り返すなんてとんでもない話だが、真は持ち前の短気を爆発させてしまった。だが、幸か不幸か冷静でないのは死神も同じことだった。
「何も知らないのにクズなんて言わないでください!」
「何も知らないのはその男だ! あんた、真剣に自分の話をしたのか、ええ?」
「それはっ」一瞬言葉に詰まる。「タイミングがあるんです、変に巻き込みたくないから……!」
「十年も付き合ってそんなに他人行儀なら、あんたはそもそもそいつを信用してねェんだ! 家柄の話も出来ねえ、頑張って書いた小説も見せられねえ、それでよく結婚だなんて言えるぜ。俺の方がよっぽどあんたの事を知ってるじゃねえか! あんたはそいつに助けられたなんて言うけどなァ、飛び降りようとしたあの日、そいつは一体どこに居た! 手首を切ろうとした時も、店でロープを見つめてた時も、部屋で一人で泣いてた時も、家の仕事で死にかけた時だって!」
「うるさいっ!」
真は悲鳴をあげた。両手で髪を掻きむしり、沸き上がる狂気を必死に払いのけようとする。
死神の理性が薄れるにつれ、禍々しい気が真の中に潜り込み食らいついてきたのだ。死神はそうしようと思った訳ではないだろう。ただ怒りのあまり抑えがきかなくなっているのである。
「あんたは死神だろ!」
こんなに叫んだのは初めてだった。
真の言葉が空気を震わせると、頭の中で繰り広げられていた狂乱騒ぎがひたりと止まり、ゆっくりと引いていった。張り詰めた空気ゆるみ、世界が急速に元に戻っていく。
死神は、狼狽えていた。
何か言おうとしているようだが、言葉は喉の辺りで情けない息となって死んでいく。
真の言う通りであった。
死神は、何をどうしても死神なのだ。
唸ったのか舌打ちをしたのか分からないが、小さな声が聞こえた途端、小さな影はゆらりと傾きそのまま消えてしまった。ベランダから落ちたような消え方に驚いたが、まさか飛び降りて死ぬわけでもないだろう。
一気に脱力した真は、ベッドに蹲って暫く呼吸を整えた。
死神の気にあてられて体は疲労困憊だったが、それよりも精神の消耗の方が激しい。
死神と喧嘩をしてしまった。
あんな。
あんな。
痴話喧嘩のような。
視線だけ横にやって神保を見やる。
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