殿下、今日こそ帰ります!

黒猫子猫

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第31羽・虹の道

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 トリシュナは信貴と有海を元の魂へと変えた。新たに生まれ変わろうとしている二人の魂は、無垢さを表すかのような純白だった。小さな手のひらほどの球体は、エミリアが触れると、すっと体内へと入っていった。

 気をつけて。

 何度となくトリシュナはそう繰り返し、ランスに護られながらエミリアが飛び去るのを見送った。二人の姿が見えなくなると、心配のあまり零れた涙を拭い、王宮へと足を向けた。ランスの母へ、旅立っていったことを告げるためだ。


 空を一気に駆け上がったエミリアは、ランスのすぐ後方を飛んだ。先導してくれる彼は、自ら風の盾にもなり、エミリアが疲れないよう心を配ってくれる。かつてエミリアが去っていった場所を覚えていた彼は、そこまで迷いなく飛んだ。

 やがて、エミリアの目が朝焼けの空に現れた黒い靄を捉えた。空間が捻じれたように動き、一定の色合いを保っていない。異世界へと通じる道は、渡世鳥にしか捉えられないため、エミリアは彼に声をかけた。

「あったわ! この先、真っすぐよ」
「そうか。……っそのまま進め!」

 ランスはそう短く告げると、空で突然身を翻し、エミリアの横を通った。怒り狂ったような鋭い鳴き声が背後から聞こえ、エミリアは全身が総毛だった。

 死喰鳥がいる。

 背後から近づいてきている。鈍い音も聞こえた。ランスが止めたのだ。飛び去るのを止め、自らも戻って、彼を助けたいという思いに駆られる。
 だが、戦う術がない。自分の役割は、魂を運ぶこと。そのために、トリシュナはずっと魂を癒し、ランスは命を賭して戦っている。

「行ってこい、エミリア! 帰ってくるという約束を忘れるな!」

 ランスの力強い声が、エミリアの背を押した。

 涙を零しながら、エミリアは闇の中へと飛び込み、一心不乱に進んだ。そして、闇を抜け、やがて薄っすらと光が身体を照らした。真っ青から一転して、黒く淀んだ空がそこにあった。道を抜けた瞬間、エミリアの身体に冷たい雨が打ちつける。

 眼下に見えたのは、かつて自分が暮らしていた都会の街だった。するすると降りていき、道行く人々に接近しても、鴨に近いその外見は物珍しいものではない。誰も気にすることなく、忙しなく歩いていく。

 高層ビルの合間を抜け、エミリアは再び上空をゆっくりと飛んだ。

 やがて胸の中で二つの命が呼応するように温もりを放ち、エミリアの胸元から零れた。小さな命はゆらゆらと舞うように落ちていき、ほんの僅かだけ離れた家の中へと消えていった。

 近い将来、二人は新たに産まれ、人生を歩みだす。
 再び恋に落ちるのかどうかは、二人次第だ。それでも、今度こそ傍で生きられるだろう。

 エミリアは役目を無事に果たした事を確かめて安堵し、再び空へと舞った。

 ――――早く帰らなければ。

 死喰鳥をたった一人で食い止めているランスの事が気がかりで仕方がない。必死で通ってきた場所を探したが、空を覆った厚い雲は、道を覆い隠してしまっていた。



「……ちくしょうめ……!」

 荒い息を繰り返しながら、ランスは死喰鳥をののしった。

 ランスの魅惑の目は死喰鳥の動きを抑え、その隙を見逃さなかった彼は、一切の躊躇もなく攻撃した。奇声を上げながら四散していく時、死喰鳥は最後にあがき、よりにもよってエミリアが通った周囲で四散して消えた。

 無数の死をまき散らし、空間と混じりあってしまったせいで、道が薄れた。

 これではエミリアが迷う。

 ランスは目の前が真っ暗になった。

 死喰鳥との戦いで身体を酷使したせいで、右の羽に激痛が走り意識が遠のく。まずいと気づいた時には、空から落ちていた。
 朦朧とする意識の中で、動けと身体を叱咤したが、ぴくりとも羽が動かない。もう飛べない。
 エミリアを空で待っていられない。

 ――――帰ってこい……。

 たった一人で異世界へ飛んで行った彼女を、ランスは強く想った。



 エミリアはあてもなく彷徨った。見慣れた街並みなのに、かつては帰ろうと思っていた地なのに、ちっとも嬉しくなかった。ランスの事が気がかりで、涙が溢れた。

 やがて飛ぶのに疲れ、エミリアは電線の上に止まった。身体を軽く振って、水滴を落とす。
 羽は水を弾いてくれる質らしく、身体が冷えないのだけはありがたかった。雨はすでにあがっていたが、雲はやはり空を覆ったままだ。

 途方に暮れそうになった時、真下の道を歩いてくる二人の男に気づいて、驚愕のあまり落っこちそうになった。

 一人はかつての同僚で、もう一人はよりにもよって、大の苦手だった直属の上司だ。慌てて逃げようとしたが、彼らの話が否応なく耳に入ってくる。

「――――……のやっていた仕事なんて、誰でもできるんだよ――――」

 上司は苦々し気に、かつてエミリアに告げた言葉と同じ事を、部下である同僚にも話していた。彼らの短い会話を聞いて、エミリアは新たな涙を零した。

 私のいる場所はここじゃない。自らを奮い立たせ、再び空を見上げて息を呑んだ。
 雲間から太陽の光が空へと差し込み、美しい七色の虹が現われていた。

 ――――ランス。今、行くわ。

 エミリアは再び舞い上がり、虹に向かって飛んだ。帰りたい。どうしても、なんとしても、彼の傍に。

 力の限り羽を動かして、空を飛ぶ。やがてエミリアは、再び道を見つけた。今にも消えてしまいそうな、不安定なものだと感じ取る。真っ暗な闇が広がり、飛ぶ先がどうなっているのか分からない。

 だが、エミリアの目はその闇の奥で輝くものを見つけた。

 小さな無数の――――虹鳥であるランスの尾だ。

 迷っている暇はない。エミリアは勢いよく道に飛び込み、小さな光を頼りに突き進んだ。そして再び空が広がり、眩い光に一瞬目がくらむ。

 だが、そこにはランスがいるはずだ。エミリアはそう思って、懸命に姿を探した。

「……そん、な……」

 死喰鳥はいなかった。逃げ去ったとは思えない。僅かに残る死の気配は散り散りになっている。ランスが倒してくれたのだろう。

 そして、彼の姿もなかった。

 エミリアの瞳に映ったのは、無数に空に散らばる七尾の尾羽だ。風に揺られ、光を浴びて輝きを放つ羽は、エミリアが帰るための目印になった。

 残してくれたのだ――――エミリアは理解して、声が震えた。

「ランス……どこに……いるの?」

 王宮に帰ったのだろうか。どこかに降りて戦いの傷を癒しているのだろうか。

 深い傷を負った右腕のせいで、彼は長く飛ぶことができない。空中戦では有利となる死喰鳥に挑み、相当の力を使ったはずだ。

 まさか――――。

 最悪の光景が頭を過り、エミリアは泣き叫びたくなる。それでも、飛んだ。飛び立つ前、ランスが励ましながら言ってくれた言葉の数々を、信じた。

 ――――したの。

 雲間を抜け、風を切り、眼下に望む広大な草原を見下ろして、エミリアは飛び続けた。そして、海が見えた。かつてランスが連れてきてくれた場所で、離れないと約束した事が頭を過る。

 心と身体の全てが、彼がそこにいると訴えかけていた。
 だから。

「エミリア!」

 地上から大声で呼ぶランスの声に、エミリアは喜びの感情が溢れ出した。彼はたった一人で、その場に座り込み、右腕を押さえていたが、一直線に飛んでくる鳥を見て、何とか立ち上がった。

 懸命に左手を伸ばし、人と化して舞い降りたエミリアを抱き寄せる。彼女の温もりを確かめて、怪我はないかと尋ね、エミリアが何度も頷くと、ようやく安堵の息を漏らす。

 エミリアは彼の上着を握り締め、もう一方の手で涙を拭って何とか気持ちを落ち着かせると、彼を見上げた。

「……傷は……⁉」
「いつものように右腕が痛むくらいで、後は少しかすり傷を負っただけだ。問題ない。死喰鳥を蹴散らして無に還せたんだから、上々の出来だろ」

 ランスはそう言って笑ったが、エミリアは同意できなかった。

「でも、私は貴方の尾羽を見たわ……⁉」
「あぁ。落ちる時に、嘴でむしったんだ――――目印になっただろう?」

 空にはもう留まっていられないと悟ったランスは、彼女が七色の尾羽に魅せられていたことを思い出した。守護鳥は時に自らの羽を引きちぎり、刃に変えて武器とする事もある。いつまで自在に操れるかは分からなかったが、選択肢が限られている以上やるしかなかった。

 また涙を溢れさせたエミリアに、ランスは柔らかく笑う。

「泣くな。お前を護るために俺がいるんだからな。……信貴と有海は送り届けられたか?」
「えぇ……とても近くの場所で生まれ変わりそうよ。本当に仲良しよね」
「俺たちは?」

 期待のこもったランスの眼差しに、エミリアは頬を染めた。恥ずかしそうに目を伏せた彼女に、ランスは待ちきれなくなって、その唇に優しいキスを落とした。
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