皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる

えくれあ

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5. 病

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 まだ、朝というには少し早い、薄暗い時間のことだった。
 晧月は耳に違和感を覚えたような気がして、目を覚ました。

「原因はこれか……」

 起き上がり、小さな声でそう呟いた晧月が見下ろす先には、眠る前とは違い荒い息を吐く重華の姿があった。
 顔は赤く、起こさぬよう気をつけながらそっと額に触れれば、明らかな体温の高さを伝えてくる。

「春燕、雪梅、いるか?」

 さすがというか、あまり大きな声を出せないこの状況でも、2人はしっかりと晧月の声を聞き駆けつけた。

「何かご用でしょうか?」
「すぐに太医を呼べ」

 問いかけた春燕にそう言えば、春燕はすぐに駆け出そうとした。
 しかし、それを隣にいた雪梅が止める。

「陛下、恐れながら申し上げます。そのお姿の蔡嬪様を太医にお見せするのは……」

 言われて、晧月はハッとする。
 熱が高い様子を見て、すぐにでも医師に診せてやらねばと思ったが、確かに雪梅の言う通りだった。
 重華が身に纏うのは、妃嬪はおろか、侍女でも着ていないような衣である。
 輿入れしたばかりの皇帝の妃が、こんな状態で人の目に触れるのは避けた方がいいに決まっている。

りゅう太医を呼べ。あのものであれば、むやみに他言はせぬであろう」

 柳太医は晧月が幼い頃から、最も信頼する医師であった。
 だが、最近は高齢となってきており、深夜や早朝に呼び出しを受けることはめったにない医師でもあった。

(叩き起こすことになるのは心苦しいが、致し方ない。だが、あの者なら、ついでに身体の傷を診てもらうのもいいだろう)

 春燕は晧月の言葉を聞き、今度こそ駆け出した。
 雪梅は、すぐに冷たい水と手ぬぐいを用意しに向かう。
 晧月はそんな2人の背を見送り、ただ待つことしかできずにいた。





「熱が高いようだ。それから、身体の……特に見えないところに多数傷があるそうだ。遅い時間にすまないが、診てやってくれ」

 柳太医が着くや否や、晧月がそう告げる。
 すると重華の姿を見て、一瞬手が止まる様子はあったものの、柳太医は特に何かを言うことはなく晧月に一礼しすぐに診察をはじめた。
 晧月はその様子を見て、これ以上自身がここに居てもできることはないだろうと、別室で待つことにする。
 椅子に腰かけ、自身を落ち着かせるようにふぅと息を吐いた晧月の前に、雪梅がことりと小さな音を立ててお茶を出した。

「ああ、悪いな。あちらの様子はどうだ?」
「春燕が手伝いとして残っておりますが、まだ何も……」

 晧月は聞いておいてなんだが、それはそうだろうなと思った。
 医師による診察は、たった今始まったばかりだ。まだ何もわかるわけがないのだ。

(俺は、思った以上に動揺しているのかもしれない……)

 自身がどうも気が急いてしまっているようで、しかもそれを雪梅にさらけ出してしまったような気がして、晧月はどこか居たたまれない気持ちを抱えながら、出されたお茶に口をつけた。



「蔡嬪様、気がつかれましたか?」

 太医の診察中にゆっくりと目を開けた重華に、春燕はできるだけ優しく声をかける。
 重華は知らない人がすぐ傍にいることに、不安そうに瞳を揺らした。

「こちらは、柳太医です。蔡嬪様が熱がおありのようでしたので、陛下がお呼びになりました」
「熱、ですか……?」

 そういえば、どこかぼんやりとするような気もしなくない、と重華は思う。
 だが、重華にとって体調を崩すことは、珍しいことではなかった。
 食事を満足にとれていないことはしょっちゅうだったし、寒さに震える日にまともに暖を取れず震えて過ごす日も頻繁にあった。
 それでも、厳しい仕事を日々こなさなければならず、熱があったり眩暈がしたり咳が出たり、そんな状態で日々の仕事をこなすことも珍しくはなかったのである。

「大丈夫です、よくあることですので、お医者様に診ていただくほどのことでは……」

 診察を続ける柳太医を、重華はやんわりと静止しようとする。
 しかし、その手を取った柳太医は、重華を安心させるように歳相応にくしゃりと顔を崩した柔らかな笑みを浮かべた。

「陛下のご命令ですので、ご迷惑でなければこのまま続けさせていただけませんか?」

 重華は決して迷惑だと感じて断ったわけではなかったため、その言葉にただこくりと頷いた。
 すると、その反動で額から何かがするりと落ちるのを感じた。

「あ……」
「手ぬぐいが落ちてしまいましたね」

 寝台の上に落ちたそれを、春燕が拾い上げたことで、重華ははじめて自身の額に手ぬぐいがのせられていたことを知った。
 春燕は拾い上げた手ぬぐいを、すぐに冷水に浸し、固く絞ってから重華の額へとのせる。

(冷たくて、きもちいい……)

 かつて重華が体調を崩したとき、こんなことをしてもらったことがあっただろうか。
 もしかしたら、母親が生きていた幼い頃であれば、そんなこともあったのかもしれない。
 けれど、重華の覚えている記憶の中では、残念ながらそんなことは1度もなかった。

「蔡嬪様どうされました?どこか苦しいですか?」

 突然、春燕が驚いたように声をあげた。
 その声を聞いて、振り返った柳太医までもが驚いているようだった。
 しかし、どうして突然2人が驚いたように自分を見てくるのか、重華にはわからない。

「蔡嬪様、どうして泣いておられるのです?どこか痛みを感じるところがおありですか?辛いことがありましたら、我慢せず全ておっしゃってください」

 優しい声色で、柳太医にそう声をかけられ、重華ははじめて自身が泣いていることに気づいた。
 そして、気づいてしまったことで、なぜかより涙が止まらなくなってしまった。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 重華にとってははじめてのことばかりだった。
 こんなに優しくされたのも、こんなにあたたかな寝具で眠ったのも。
 これまでのことを思えば、何もかもが夢のようだった。

『朕の妃は、蔡嬪は、蔡 重華、そなただ』

 きっと、晧月がそう言ったから。
 けれども重華には、父がそれを認めるとは思えない。
 父ならばきっと、どんな手を使ってでも、この地位を本来手にするはずだった鈴麗の元に戻そうとするはずである。
 鈴麗が逃げたことによって手にできた束の間の穏やかな優しい時間、それがあまりにも重華には心地よく、それゆえにその全てを手放し以前の待遇に戻らなければならない日がくることがより不安で怖かった。

「謝らなくて大丈夫ですよ、蔡嬪様。それよりどこがお辛いですか、太医に伝えてしっかり診ていただきましょう?」

 暖かな春燕の手が、重華の手に重なる。
 それから、重華を落ち着かせるように、何度も腕をを撫でてくれた。
 しかしながら、そうして優しい言葉をかけられるたび、重華はより一層涙を止められなくなった。





「蔡嬪の容態は?」
「慢性的な栄養失調で、元々お身体が弱っておいでのようです。その上、輿入れされたばかりとのことで、環境がかわったことで疲れが出て体調を崩されたのではないかと。薬を処方いたしますので、しっかりお休みになられれば回復されます」
「そうか」

 休めば回復すると言われ、そこまで深刻ではなさそうな様子に晧月は少しだけ安堵した。

(しかし、丞相の娘が、慢性的な栄養失調とはな……)

 痩せているとは思っていたし、顔も青白く確かにお世辞にも健康的といえるような様子ではなかった。
 食べるのに困るほど、貧しい家の娘ではないはずなのに。

「何か気をつけることはあるか?」
「胃腸も非常に弱っておいでのようでしたので、食事はしばらく胃に優しい消化によいものを召し上がられた方がよろしいかと」
「わかった。春燕、雪梅、気をつけてやってくれ」
「かしこまりました」

 春燕と雪梅はすぐに揃って一礼した。

「では身体の傷の方は?」

 こちらの方が、晧月は気になっていた。
 袖の裾からわずかに覗いた傷でさえ、痛々しく晧月は目を背けたくなった。
 しかし、春燕の話だと、見えない部分はもっと酷いという。
 まるで、それが真実なのだと肯定するかのように、柳太医は重華の身体にあった傷や痣を思い出して顔を顰め、言葉を少し詰まらせた。

「……そう、ですね。背中やお腹とあたりに特に傷や痣が多いようでした。最近できたものも多かったですが、かなり古く治りきらないまま放置されているようなものも多数ございました」
「治せるのか?」
「最近のものは塗り薬を処方いたしましたので、それで治るかと。しかし古いものは……」
「そうか……できる限り、治してやってくれ」
「はい、全力を尽くします」

 こればかりは仕方がない。
 治るものだけでも、できるだけ早く治ることを祈るしか晧月にはできない。

「それと、少々気になることが……」
「なんだ?」
「蔡嬪様は、おそらく、痛みを感じられなくなってしまっておられます」
「なるほど、そういうことか」

 驚くかと思った晧月が、意外にも冷静に受け止めていて、むしろその様子に驚かされてしまったのは柳太医の方だった。
 そばにいる春燕や雪梅もまた、どこか腑に落ちたとでもいうような表情だった。

「痛いと訴えてもおかしくない場面でも、あの娘は表情1つ変えなかったからな」
「お身体にあれだけの傷を抱えておられますから、痛みを感じないようにならなければ耐えられなかったのでしょう」

 そう言った柳太医は、まるで重華の変わりに全ての痛みを引き受けてしまったかのような表情だった。

「それも、治せるか?」
「お心の病ゆえ、こればかりはなんとも……」
「そうか……」

 残念ながら、薬を飲めば治るというようなものではないというのは、晧月だって言われずともわかる。
 しかしながら、どうすれば治せるかということは、検討もつかなかった。

「陛下、明日も診察に参りたいと思いますが、お許しいただけますか?」
「助かる、そうしてくれ」

 柳太医の言葉は、晧月としてもありがたい言葉だった。
 また体調が悪化した時に別の太医に診せるよりも、体調が安定するまで1人の太医に診させる方がよいだろう。

「蔡嬪が回復するまで、全てそなたに一任してよいか?」
「光栄でございます。誠心誠意務めます」
「それから、今日ここで見聞きしたことは、決して他言せぬように」
「もちろんでございます」

 深く一礼する柳太医の姿に、やはり最も信頼できる太医だと晧月は思う。

「陛下、蔡嬪様にお会いにならないのですか?」

 柳太医との話が済むや否や、晧月は立ち上がった。
 そのまま晧月が重華の元へと向かうと思った雪梅は、晧月の足は反対の方へと向かっているのに気づき声をかけた。

「一度戻る。蔡嬪はもうしばらく寝かせておけ」

 朝というにはまだ少し早い時間ではあるし、眠っていたようではあったものの皇帝という存在が傍にいることに萎縮し、熟睡とは程遠い眠りでしかなかった可能性もある。
 晧月は、しばらく自身が離れた状態でゆっくり眠らせてやる方がよいだろうと考えた。

(約束も、果たさねばならぬしな)

 なぜかそう考えるだけで、晧月に自然と笑みが浮かぶ。

「後ほどまた来る、蔡嬪にもそう伝えて置いてくれ」

 そう言って蔡嬪に与えられた宮を立ち去る晧月を、春燕と雪梅は一礼して見送った。
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