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19. 丞相の過去
しおりを挟むこれは、父からその座を受け継ぎ、この国の丞相となったばかりのある青年の物語である。
青年には、荘 玉慧という、幼少より親が決めた許婚がいたが、青年はその娘があまり好きではなかった。
もうすぐ本当に結婚させられる、何か逃げる方法はないものかと、青年が必死に考えていた折、娘の父である荘氏の商売が失敗し、娘の家は多額の借金を抱えることになった。
これでは、婚姻したところで青年の家にはなんの得もないため、青年の父は自分と許婚の娘を結婚させるのを諦めるのではないか、と青年は期待した。
しかしながら、両家は長い付き合いで非常に仲がよかったため、青年の父は全てを失った荘家を見捨てなかった。
青年の父が青年に命じたのは、すぐに玉慧を娶り、その見返りとして荘家が抱える借金を全て肩代わりしてやること、であった。
(好きでもない女を娶ってやるだけではなく、借金まで返済してやれだと!?父上はいったい何を考えているのだ!)
青年は怒りに震えたが、青年にはまだ父親に逆らえるだけの力はなかった。
家の富も、現在の地位も、全て父から受け継いだだけにすぎないものであり、全ての決定件はまだ父にあったのだ。
それだけでは終わらず、現在の娘の境遇を不憫に思った青年の父は、嫁入り前の娘をいずれ娶ることになるのだからと青年の家で過ごさせてやった。
本来なら全てを失い裕福な生活から遠ざかるはずだった娘は、これまでよりもはるかに豊かな生活を手に入れることになった。
それでも娘がそれに感謝し、青年を立てて慎ましやかな生活を送るのであれば、まだ青年は耐えられたかもしれなかった。
しかしながら、婚姻前だというのに、すでに自分が女主人であるかのような振る舞いを見せる娘に、青年は心底嫌気がさした。
納得はいかないものの、どうすることもできない、ふてくされた感情を抱いたまま青年は気晴らしに出かけた。
そんな折に、青年は1人の女性と出会う。
「こちら、落とされましたよ」
いらいらとしていた青年は、誰にぶつかろうとも立ち止まることなく歩いていた。
声をかけてきたその女性とも、勢いよくぶつかったのだが、青年は特に謝ることもなく立ち去ろうとしていた。
しかし、ぶつかってしまったその女性は、ぶつかった際に青年が落としてしまった財布を拾い上げ、青年を呼び止めて渡してくれたのである。
その時の女性の笑顔が美しく、青年は一瞬で恋に落ちた。一目惚れであった。
しかし、その日はそれ以上女性と言葉を交わすことは叶わず、名前すら知ることができずに終わってしまった。
青年はその女性が忘れられず、もう1度会いたい一心で毎日女性とぶつかった場所へと向かった。
そしてそんな日が7日ほど過ぎた頃、ようやく再会を果たした。
「お嬢様、どうか名前を教えていただけませんか?」
「楊 青蘭と申します」
青年はその女性の名前までも美しいと感じた。
それほどまでに、青年は女性に惹かれていたのだ。
「ひょっとして、楊家のお嬢様ですか?」
問えば控え目な頷きが返って来る。
そんな些細な仕草までも、青年には魅力的に映った。
楊家は国の要職につく青年の家と比べれば小さな家であったが、代々地方の官職を務める由緒ある家であった。
目の前の娘が、その家のお嬢様であるというのは、青年にとって朗報なのではないかと思った。
(父上だって、没落した商人の娘より、楊家の娘の方がいいに違いない)
きっと父は認めてくれる、そう信じ、青年は楊家のお嬢様と徐々に距離を縮めていった。
青年は楊家の娘と幾度となく逢瀬を繰り返し、やがて娘もまた自身に好意を向けてくれていると感じられるようになったところで、楊家の娘との婚姻を父に打診した。
しかしながら二つ返事で応じてくれるだろうと思った青年の予想とは裏腹に、青年の父は楊家の娘との婚姻の承諾を渋った。
青年の父には、荘家を簡単には裏切れない理由があったのだ。
国の要職に就くというのは、決して実力だけで成し得ないものであった。多額のお金も必要になってくるのである。
青年の父がその昔、丞相という職に就けるよう、金銭的な支援をしてくれたのが、当時は商売で大成功を収めており巨万の富を築いていた荘家であった。
それが当然見返りを期待してのことだったとはいえ、それがなければ丞相の地位を得られなかったかもしれないと考えると、やはり無碍にはできないものであった。
結局、青年と青年の父は、話し合いに次ぐ話し合いを重ね、楊家の娘を正妻に、荘家の娘を第二夫人にすることで折り合いをつけることとなった。
「青蘭、どうか私と結婚してください。父の手前、荘家のお嬢様も第二夫人として娶らねばなりませんが、私の愛は生涯あなた1人だけのものだとお約束します」
青年はそう言って、楊家の娘に婚姻を申し込んだ。
この国では、男性に複数の妻がいることは決して珍しいことではなかったし、青年が真っ直ぐに自分だけを想ってくれていると日頃より強く感じていたため、楊家の娘は二つ返事で申し入れを承諾した。
そうして、青年と楊家の娘の婚儀が盛大に行われ、楊家の娘は青年の元へと嫁いだ。
荘家の娘はそれを悔しそうに見ていたが、青年とは自分の方が付き合いが長い故、正妻か第二夫人かは現在の家柄で決まったに過ぎない。すぐに自分の番が来て、自分の婚儀も盛大に行われるに違いないと信じて疑わなかった。
しかし、青年は荘家の娘との婚儀は行わず、ただ静かに娶っただけであった。
結局名ばかりの妻となった第二夫人に青年の目が向くことはなく、青年はいつも正妻だけを大切にした。
正妻となった楊家の娘は、荘家の娘に対し申し訳なく思う気持ちもあったが、約束を違えることなく自身だけを大切にしてくれる青年が何よりも大切だったため、青年の気持ちを尊重した。
そんな仲睦まじい夫婦が子を授かるのに、そう時間はかからなかった。
「私、生まれてくるのは女の子だと思うのです。女の子だったら、名前は重華がいいですわ」
まだ悪阻に悩まされている妊娠初期の頃、自身の体調を心配する青年に青蘭はそう言って微笑んだ。
「一緒に考えようと思っていたのに、もう名前を決めてしまったのかい?」
そう言いながらも、青年は非常に嬉しそうで、怒ってもいないし、残念にも思ってはいない。
喜んで受け入れてくれている、というのが青蘭にはすぐに伝わった。
「では、男の子が生まれたら、旦那様が名前を考えてくださいませ」
「君が言うなら、間違いなく女の子が生まれる気がするけれど、一応考えておくよ」
妊娠中は何かと大変なことも多かったけれど、青年も青蘭も毎日が幸せだった。
しかし、その幸せは青蘭の出産とともに崩れ去る。
「旦那様、見てください。やっぱり女の子でしたわ。名前は重華でいいですよね?」
そう問われて、青年は生まれたばかりの赤子を見て驚愕する。
「誰の子だ?」
青年はいつもよりも低い声で青蘭に問い、青蘭ははじめて青年に恐怖を覚えた。
「誰って、旦那様の御子ですよ。ほら、目元のあたりは旦那様にそっくりでしょう?」
「そんなわけないだろう。その子の髪の色を見てみよ!!」
まだ生まれたばかりであるため、毛量はあまり多くはなかったけれど、そこには赤みを帯びた髪が見えた。
青年も、青蘭も、髪の色は真っ黒であった。そんな2人の間から、そのような赤子が生まれるなど、青年はとても信じられなかったのだ。
「父親は他にいるのだろう、その子と同じ赤毛を持った男が!!」
「そんなことありません。この子の父親は、間違いなく旦那様ですっ!」
青蘭は必死に訴えたが、青年は決して信じてはくれなかった。
なぜなら、青年はいつも不安だったから。青年にとって、誰よりも美しい青蘭がいつか自分以外の男に惹かれてしまうのではないかと。
だからこそ、赤子の髪の色を見た時にやはり、と思ってしまったのだ。青蘭は別の男に奪われてしまったのだ、と。
それでも、青年は青蘭を愛していたため、青蘭を追い出すことはできなかった。
かといって、今までのように近くに置くこともできなかった。
そこで、離れにある小さな小屋に青蘭と生まれたばかりの重華を追いやった。
そこからの青蘭は正妻という立場から一転、使用人のような扱いを受けることになる。
さらに、その後すぐに第二夫人が妊娠し、青年と同じ黒い髪の娘を産んだことにより青蘭はさらに追い詰められていった。
それでも、娘の重華からすれば、母である青蘭が生きている頃はまだ、ましな方であった。
青年はどうしても青蘭への想いを断ち切れなかったため、青蘭と重華に対し最低限の衣食住は保証されていたのだ。
しかしながら、それでも自身の扱いの変わりように耐えられなくなった青蘭が、心を病み自死を選んでから、残された重華の待遇は酷いものへと変わっていく。
青年にとって、青蘭とは違い、青蘭を奪った男の娘でしかない重華は憎しみの対象でしかなかった。
青蘭は何度も父は青年であると訴え、重華もまた幾度となく青年を父と呼んだが、その全てが青年を不快にさせるものでしかなかった。
その上、最初に青蘭の死を知り、青年へと告げてきたのも重華だった。
青年にとっては、青蘭を死なせた張本人にも思えて、ますます重華への恨みが募った。
またそんな重華に、時折青蘭と似たところが垣間見えるのも、重華がだんだんと青蘭に似ていくのも、青年は許せなかった。
やがて青年は重華の姿を見るたび、重華に暴力を振るうようになっていく。
そして、青蘭がいなくなってしまったことで、最低限の衣食住すら重華には保証されなくなってしまった。
かろうじて今まで通り離れの小屋には置いて貰えたものの、重華にはそれ以上は何も与えられなかった。
小さな身体で他の使用人とともに働き、なんとか使用人たちのおこぼれを貰うのが、重華の精一杯だった。
それ以来、重華に休みなんて、なかった。何もしなければ、何ももらえなかったから。
重華の悲劇は、それだけではなかった。
当たり前のように重華へ暴力を振るうという行為は、やがて青年から他の人たちへと伝染していく。
最初は第二夫人、次はその娘、その次は青年の他の家族、さらには青年の家で働く使用人たちへ。
一方で重華の味方は、誰一人としていなくなり、誰も重華を守ってはくれなかった。
重華がどれだけ暴力を振るわれることを我慢しようとも、青年の怒りが、そして恨みが収まることはなかったのだ。
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