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21. 手炉
しおりを挟む雪梅は、晧月に席を外すように言われて出ていってしまった。
入れ替わるように入ってきた晧月は、先ほどまで雪梅が座っていたすぐ傍にある椅子に腰をかけるのだろうと、重華は思っていた。
しかし、晧月は重華が座らされている寝台に腰をかけていて、距離の近さに落ち着かない気持ちを抱えていた。
「後宮から、出たかったわけではないのか?」
晧月に問われ、重華はふるふると首を振った。
「出たく、ないです。陛下の妃でなくてもかまいません、なんでもします。だから、追い出さないでくださいっ」
重華は、今にも泣きそうな悲痛な声で訴えた。
晧月はそんな重華の言葉を聞きながら、志明に聞いた重華の過去を思い起こす。
(確かに、あんな境遇なら戻りたいわけがないか……)
晧月だって戻したいとは、決して思えない。
「それなら安心しろ。そなたが泣こうが喚こうが、そなたはこの後宮を出ることができないのだから」
そう言うと、晧月は重華の身体を寝台に横たえる。
「寝不足で倒れたんだろう?薬も効いてきただろうし、そろそろ眠れ」
「倒れたわけでは……少し眩暈がしただけで」
「似たようなもんだ。次はぶっ倒れるかもしれない。今のうちにしっかり寝ておけ」
晧月から見れば、瞼は今にも閉じようとしているし、眠気に襲われているのは明らかであった。
しかし、重華はそれでもやっぱり眠りたくなくて、襲い来る眠気に抗おうとしていた。
「画材は使ってみたか?」
「え……?」
突然がらりと変わる話題に、重華は少し驚いた。
だが、眠れと言われ続けないことに、安堵感を覚える。
「まだ、です……申し訳……」
「だったら、起きたら何か描いてみるといい」
「それなら、今から……」
「目が覚めた時、何か楽しみがある方がいいだろう?」
その方が、もっと眠れないんじゃないだろうか。
そんな風に思わないでもなかったが、そう言われると重華は眠れそうな気がした。
「もし、もしも……鈴麗が……」
重華の言葉は、そこで途切れた。
襲い来る眠気に抗いきれず、ようやく眠りに世界へと旅立った。
(鈴麗……?)
晧月は重華の最後の言葉が気になったものの、眠ったことを確認し、追及することはなかった。
(認めよう、少なくとも俺は、そなたをこの後宮から出したくないのだということを)
重華が後宮を出たいのだと勘違いし怒りに震え、そうではないとわかり心底安堵した。
本当に重華が後宮を出たいと願えば、皇帝である晧月には手段が無いわけではない。
けれど、泣いて喚いて懇願されたとしても、晧月はその手段を講じることはしたくはなかった。
晧月は重華にかけてある布団を掛けなおしてから、起こさないようにそっとその場を離れた。
晧月に言われたから、というだけではないけれど、重華は晧月に貰った画材を持って外へと飛び出した。
絵を描くなら、晧月と見た庭園の風景がいいと、重華はずっと思っていた。
花を眺めるのも、絵を描くのも、重華にとっては楽しくて仕方がなかった。
梅が咲き、もうじき春を迎えると言われる季節であっても、外はまだまだ肌寒い。
しっかりと暖かな外套を着せてもらっているが、それでも絵筆を持つ手はどんどんと冷えて感覚がなくなっていく。
しかしながら、そんなことさえ気にならないほど、重華は時間を忘れて没頭していた。
「こら、いつまでそこに座り込んでいる」
ふと頭上からそんな言葉が振ってきて、重華はようやく目の前の風景から視線を外した。
「え?陛下?」
挨拶のため慌てて立ち上がろうとするけれど、寒い中ずっと座ったままだった身体はまるで凍り付いたかのようにすぐには動いてくれない。
「そのままでよい」
慌てふためく重華を制し、晧月はその隣に腰をおろした。
「なかなか戻らない、と春燕と雪梅が心配していたぞ」
晧月が再度様子を見に琥珀宮を立ち寄ると、ちょうどいつまでも戻らない重華について春燕と雪梅が相談をしているところだった。
長い時間、外に居るのは心配だが、あまりに楽しそうな様子に邪魔するのも申し訳ない、と。
それを聞いて晧月も様子を見に来てみたが、確かに声をかけるのが躊躇われるほど重華は真剣で、楽しそうだった。
しかしながら、やはり身体は冷えていたのだろう、無意識に両手に息を吹きかけたり、手をさすったりしている行為も目についた。
それ故に、晧月は声をかけることにしたのだ。
「随分長く外に居たようだな。さすがに身体も冷えているだろう、今日はここまでにしろ」
晧月に言われると、今まで忘れていた寒さが急に襲って来たような気がして重華は身を震わせる。
だが、それでも、もう少しだけここに居たい、そんな気持ちも重華の中で燻っていた。
「ほら、これをやろう」
「え……?」
晧月はそう言って、重華にあるものを差し出す。
ちょうど重華の両手に収まるくらいの、丸い、円形のもの。
重華にとっては、はじめて見るものであった。
「これは……?」
「手炉を知らないのか?」
「手炉……?」
「こうして、手を温めるんだ」
首を傾げる重華に、晧月は両手でしっかりと手炉を握らせる。
(あたたかい……)
触れたところから、じんわりと手が温まっていく。
重華は、それだけでこの震えるような寒さに耐えられるような気がした。
「これはそなたにやるから。次からこうして寒い日に外で絵を描く時には、必ず持って出るようにしろ」
「こんな貴重なもの、いただいてもいいんですか?」
重華にとっては、暖を取ることができるものは非常に貴重だった。
今着せてもらっている外套のようなものだって、かつての自分には手にできなかったものである。
だから、今だけ借りるだけでも、十分にありがたいと思っていたのだ。
「貴重でもなんでもない。これは、皇宮にいくらでもあるものだ」
「本当、ですか……?」
「ああ」
「ありがとう、ございます」
自分のものになった手炉を、重華は宝物のように大事に抱えなおした。
「ただし、今日は絵を描くのはこれで終わりだ」
「え?ええ!?」
いうや否や晧月は立ち上がり、重華も立ち上がらせようと手を差し出した。
しかし、大事に手炉を握りしめる両手はそこから離れることはない。
さらに重華は困ったように、晧月と画材の間で視線を彷徨わせる。
(こいつ、手炉があれば、まだまだ絵が描けると思っていやがったな)
その場から動く気がまるで見られない重華を晧月はその場に散らばっている画材を1つ1つ拾い上げていく。
「へ、陛下!?」
「そなたはそれから手を離すな」
「へ……?」
それ、というのは重華が今握りしめている手炉のことだろう。
しかし、そこから手を離さないとなると、重華には晧月を止めることも手伝うこともできない。
ただ、おろおろとしながら晧月によって1つ1つ画材が片づけられるのを、見ていることしかできなかった。
そんな重華の様子を見て、晧月は今にも笑い出しそうなのを必死に耐えているのだが、もちろん重華がそれに気づくこともなかった。
「ほら」
散らばった画材を拾い集めると、晧月は一度それを足元へ置き、未だに言われた通りしっかりと手炉を握りしめる重華の両手を掴んで、器用に重華を立ち上がらせた。
それでも重華の手は手炉から離れることはなく、あっけなく立ち上がれたことに少々驚きながらも呆然と晧月を見ていた。
「戻るぞ」
それだけ言うと、晧月は先ほど置いた画材を拾い上げると先に歩き出してしまう。
晧月が数歩進んだところで、ようやく我に返った重華は慌てて追いかけた。
「陛下、私が自分で……」
「いいから、そなたはそれを持っていろ」
晧月に画材を全て持たせてしまっている事が申し訳なくて、受け取ろうと片手を伸ばしたものの、ひょいっと晧月に避けられてしまう。
「まったく、そんなに冷たくなるまで居座るとは」
重華の腕は着物の上から触れても、はっきりと冷たいとわかるほど冷え切っていた。
他の妃嬪であれば、そうなる前に寒さに耐えきれず寝殿に戻ったことだろう。
「もう少し暖かくなるまでは、長居は禁止だ」
「は、はい」
「それと、次からは手炉を絶対に忘れるなよ」
ここに、晧月と親しい仲である春燕や雪梅、もしくは志明でもいれば、まるで父親のようだと言って笑ったことだろう。
しかしながら、重華にはそんなことを言うなんて思いつきもしないことで、ただ必死にこくこくと頷くことしかできなかった。
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