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49. 懸念
しおりを挟む「陛下、もう湯浴みは終わられたのですね」
「何の話をしていた?」
「いえ、たいしたことでは……」
「春燕」
こういうところは、いつも通りらしい。
重華からは回答が得られなさそうだと判断するや否や、晧月はすぐに春燕に回答を求めた。
その様子に重華は誤魔化しきれないと悟り、春燕は苦笑を浮かべた。
「珠妃様が、陛下にお願いしたいことがあるそうです」
「ほう。珍しいな、なんだ?」
「あ、あの、今日でなくても大丈夫なお話なので……」
「つまり、今日でもいいのだろう?」
まったくもって、その通りである。
重華は反論できず、困ったように春燕に視線で助けを求めた。
しかし、春燕は大丈夫だとでもいうように、ただ微笑んでみせるだけだった。
「あ、あの、方容華様が……」
方容華の名前が出た途端、晧月はびくりと肩を震わせた。
晧月にしては非常に珍しい光景に、重華はやはり今日の晧月は少しおかしいと感じる。
「陛下……?」
「すまない、なんでもな……くはないな、容華に様は不要だと前にも……」
「あ……も、申し訳、ありません……」
重華としては、相手は同じ皇帝の妃嬪という立場。
さらには自身より年上に思え、かつ堂々として高貴な様子から、春燕や雪梅以上に様という敬称を使わないことが憚られてならない。
けれど、このまま様を付けて呼び続ければ、話が前に進まないだろうことは容易に想像ができた。
(ごめんなさい、方容華様)
なんだか悪い事をしているような妙な気分で、重華はここに居ない方容華を思い浮かべ心の中で謝罪した。
「で、方容華がどうした?」
重華からその名が出たことへの不安を覚えつつも、晧月は努めて冷静に重華へと問いかける。
「あ、その、出家が決まったら、お見送りをさせていただけないかな、と……」
「駄目だっ!!」
思いのほか強い拒否の言葉に、今度は重華がびくりと肩を震わせる。
この晧月の反応には、おそらくは簡単に受け入れられる願いだろうと考えていた春燕も、驚きを隠せなかった。
二対の驚きをあらわにした視線を向けられ、晧月はばつが悪そうに視線を逸らす。
「わ、悪い、その……方容華は、もう、出家させたんだ……」
「えっ!?」
昨日の今日で、まさかもう後宮を出てしまっているなど、重華は夢にも思わなかった。
(もう少し時間があるだろうって、雪梅さんも仰ってたのに……)
この話を重華は、先に春燕と雪梅に相談していた。
その時の2人の反応としては、出家先もすぐには決まらないだろうし、数日は先のこと。
それに、晧月ならがきっと許してくれるだろう、と判断していた。
(お二人でも、予想できないことってあるのね……)
重華の中で、2人は晧月に仕えていただけあって、晧月のことはなんでもわかっていると思っていた。
そうではないこともあるのだ、と重華はこの日はじめて知ったのだ。
「で、では、今度、お会いできるでしょうか?」
「さぁ、な……」
重華は気を取り直して、再度晧月にお伺いをたてる。
昨日の反応からして、こちらは問題ない、そう自信のある内容だった。
しかしながら、晧月は重華に視線を向けることなく、曖昧な返事を返すだけ。
(ああ、方容華様はもう……)
春燕は、晧月の反応から気づいてしまった。
何があったかまではわからないけれど、方容華がもう、この世にはいないのだという事を。
そして、晧月が今、それを重華に悟られまいと必死なのだということを。
(どうして……?昨日は、会わせてくれそうだったのに……)
一方で重華は、春燕のように察することはできない。
そのため、現状を上手く理解できず、晧月の様子に首を傾げるしかなかった。
難しいのかもしれない。
けれど昨日の晧月は善処する、と前向きな言葉をくれたはずだった。
一夜にして、態度ががらりと変わってしまった晧月に、重華は戸惑いを隠せなかった。
「珠妃様、出家された方にお会いするのは、難しいこともあるのです。ですが、いつか、お会いできるとよいですね」
今は自身のことで精一杯で、とても重華に気の利いた言葉などかけられる様子のない晧月に代わり、春燕はその部分を補うかのように重華に声をかけた。
重華は残念な気持ちが強かったけれど、我儘を言って困らせたかったわけではなかったため、ただ力なくこくりと頷いた。
「陛下は、こちらの寝台をお使いください」
重華は気を取り直してそう言うと、早々に寝室を立ち去ろうとした。
しかしながら、すぐにそれを阻むかのように晧月に腕を掴まれてしまう。
「どこへ行く」
「あ、私は向こうの部屋で、寝ようかと……」
晧月は何も言わない。
しかしその表情が、視線が不満を訴えているような気がして、重華は苦笑した。
「床で寝たりしませんから、ご安心ください」
「では、どこで寝るつもりだ」
「向こうに空いている寝台があるので、そこで……」
「それは、侍女のためのものだろう」
「でも、誰も使っていませんし」
「駄目だ。朕の妃が使うものではない」
2人のやり取りを聞きながら、春燕はくすりと笑みを漏らした。
(ああ、やっぱり……)
全て春燕の予想通りの展開だった。
けれど、そうして笑う春燕に、晧月も重華も気づく様子などない。
「あの、でも、陛下にこの寝台以外を使わせるわけには、いかないですし……」
「だから、共に使えばいいだけの話だ。ほら、来い」
晧月は重華の腕を強く引き、寝台の傍へと向かう。
(そうならないために、他の寝台を使うんです……っ)
重華は心の中で力いっぱい叫びながらも、結局晧月に従うしかなかった。
晧月はまるで放り投げるかのように、勢いよく重華を寝台の方へと連れていき、重華は気づけば寝台の上にいた。
当然のように隣に横たわる晧月を見て、重華は輿入れした日のことを思い起こしながら身を固くする。
せめてもの救いは、以前と同様に晧月が背を向けてくれていること。
重華もまた晧月に背を向ければ、見えるのはただの壁。
あとは寝てしまえば大丈夫、そう思って重華は必死に目を閉じて睡魔の訪れを待った。
「へ、陛下!?」
寝台に横たわってからかなり時間が経ったはずだが、なかなか睡魔は訪れてはくれず、重華は身を固くしたまま眠れずにいた。
晧月はもう眠ったのだろうか、ぼんやりとそんなことを考えはじめた時だった。
背後からぎゅっと抱きしめられる感覚に、重華はますます身体を強張らせる。
何事かと振り返ろうにも、強く抱き込まれてしまって身動きもとれない。
「陛下、あの、起きておられるのですか……?」
寝てしまっていた場合は起こしてしまわないように、極力小さな声で呼びかけてみる。
起きていればそれでも聞き取ってもらえるはず、重華はそう思っているが晧月からの反応はない。
(眠って、いらっしゃるの……?)
もし眠っているのだとしたら、疲れているようだったし、重華は無理には起こしたくなかった。
とはいえ現状が続くのもなかなか辛いし、どうしよう、と悩んでいると晧月の腕の力がますます強くなっていく。
申し訳ないけれど、大きな声を出して一度起きてもらおう、重華がそう思った時だった。
「俺は、おまえまで失ってしまいそうで怖い……」
起きているのかどうかさえわからない晧月から聞こえた、驚くほど弱々しい声。
いつもと違う一人称が、威厳ある皇帝の姿を隠し、より心許ない空気にさせるような気がした。
「大丈夫ですよ、陛下。大丈夫です」
晧月が何を心配しているのか、何を不安に思っているのか重華にはわからない。
けれど、重華が不安な時、いつも晧月がしてくれたように、自身の身体にまわる晧月の手に自身の手を重ね、重華は何度も大丈夫だと呟いた。
やがて、穏やかな寝息が聞こえはじめ、重華はほっと息を吐く。
しかしながら体制は変わることなく、重華は未だ動けないままだった。
結局重華は多少うとうととする時間はあったものの、ほとんど眠ることなく一夜を明かすこととなってしまった。
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