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63. 舟
しおりを挟む夏も終わりが近づき、避暑地で過ごす日々にもまた、終わりが近づいていた。
そんな中で、それは晧月の一言がきっかけだった。
「何か、やり残したことはないか?やりたいことがあるなら、今のうちに言っておけよ」
そう言われて、重華は必至に考えを巡らせてみた。
すると、あることが浮かんだのだが、それはやっぱり無しかなとすぐに頭の片隅に追いやった。
はず、だったのだけれど……
「今、何か思いついたな?」
「えっ?い、いえ、たいしたことでは……」
「なら、言えるだろ」
なぜ、わかってしまうのか、重華は不思議で仕方がない。
ここでいくら重華がたいしたことはない、大丈夫だと言ってみたところで、重華が言わない限り晧月は引かない。
重華はそれを、身に染みて実感している。
「湖には、結局行けなかったな、と思っただけなんです……」
ここに来て、最初に誘ってもらった場所だ。
舟に乗るのも、鯉に餌をやるのも、重華には経験のないことだった。
そのため、興味はあったのだけれど、だからといって行きたいとは言えなった。
行けない理由は、他でもない重華にあるのだから。
「ああ……湖は、無理だろう」
真っ青な顔で震えていた重華を、晧月はまだよく覚えている。
もう一度行けば、また同じような表情をさせてしまうかと思うと、とてもではないが連れていきたいとも思えない。
しかし、今、自身の目の前の重華を見ていると、そう思う気持ちに少しだけ変化があった。
「ひょっとして、行きたい、のか……?」
晧月は、信じがたく思いながらも、重華の様子がそう見えてしまい、問いかけてみる。
あれほど、怯えていたのに?
言外にそんな一言があるのは、重華だって感じた。
だからこそ、重華は黙って俯くことしかできない。
行きたいと言ったところで、晧月を困らせるだけだろうと思うから。
「水は、怖くないのか?」
「わ、わかりません……」
今この瞬間も、あの時も、決して重華は怖いと思っていたわけではない。
けれど、広がる湖が視界に入った瞬間、震える身体を止められなくなった。
今だって、思い出せば、身体が震えてしまいそうな気がする。
「だ、大丈夫です、忘れてくださいっ」
深い晧月の溜息が聞こえてきて、重華は慌ててそう言った。
(やっぱり、言わなければよかった……)
どうして、思いついてしまったのだろう。
重華は少し前の自分を恨んだ。
だが、俯いて落ち込んだ様子の重華を、晧月は力いっぱい引き上げるようにして立ち上がらせる。
「えっ?」
「せっかくだから、行ってみよう」
重華は驚きのあまり、呆然と晧月を見つめることしかできずにいた。
「やり残したことがないか、聞いたのは俺だしな。駄目だったら、すぐに戻ればいいだけだ」
また怖い思いをしてからって、俺を恨むなよ、と念を押され、重華は必死に何度も首を縦に振った。
あまりの勢いに、晧月に笑われてしまうほどに。
「やっぱり怖いか?戻るか?」
やはり、湖が見え始めたところで、重華の足は止まり、震えはじめる。
そこまでは、晧月の予想通りであったが、重華がそれでも戻ろうとしないことは、晧月にとって予想外だった。
(苦手を克服したいのか……?)
そうは思っても、晧月としてはやはり重華をこれ以上この場に居させたくはない。
しかし、手を引いて促したりしてみても、重華はなかなか戻ろうとはしない。
(もっと近づくと、さらに怯えさせるだけだろうか)
晧月に一か八かの、ある考えが浮かぶ。
しかし、一歩間違えば、重華にさらに恐怖を植えつけることになりそうで、戸惑っていた。
「戻りたく、ないのか……?」
重華は晧月の問いかけに、静かにこくんと頷いた。
今、この瞬間、きっと晧月に迷惑をかけている、そんな思いが重華の中にはあった。
でも、この機会を逃すと、もう二度と来られないような気がしたのだ。
なんとか自身の震えを落ち着かせようと、重華は必至に自身の身体を抱きしめる。
すると、晧月が重華を強く引き寄せ、重華はぽすんと晧月の腕の中におさまった。
「やっぱり、すごく震えているな」
触れたところから、重華の震えが晧月にも伝わる。
「戻りたくないなら、俺を信じてしばらく目を閉じろ」
どうして目を閉じる必要があるのか、この後何が起きるのか、重華にはわからない。
それでも、言われるがままに、重華は目を閉じた。
すると、ふわりと自身の身体が浮きあがるのを感じる。
「ひゃあっ」
目を閉じているから、その感覚が怖くて不安で、重華は身を固くする。
「大丈夫だから、落としたりしないから、そのまま目を閉じていろ」
そう言われて、自分は晧月に抱き上げられたのだと重華は悟る。
やがて、定期的にわずかな振動が、晧月を通じて重華に伝わってくる。
(移動してるの……?)
重華は何が起きているのか、まったくわからない。
それでも、固く目を閉じたまま、晧月に身を任せていた。
重華はどこかに座らされるような感覚を覚え、思わず目を開けそうになった。
しかし、晧月から許可されたわけではなかった、とあわててぎゅっと目に力をいれて目を閉じなおす。
しばらくすると、今度は、何かが重華の手をぎゅっと握る感覚があった。
きっと、晧月の手なのだろう、と重華は思った。
「ゆっくり、目をあけてみろ」
ようやく晧月からそんな声がかかって、重華は恐る恐る目を開けた。
最初に見えたのは、晧月の顔だった。
そのことに、重華はただほっとするのを感じる。
「ここ、は……?」
重華は辺りをきょろきょろと見渡す。
すぐ傍に、水面が広がっているが、遠くから見るそれとはまた違って見える気がした。
「舟の上だ」
そう言うと、晧月は重華から手を離した。
「怖いか?」
「す、少しだけ……」
言われてあらためて、重華は自身の周囲を見渡す。
周囲は水面に囲まれていて、重華はその中に浮かぶ舟の上に座っている。
水面の動きにあわせて、わずかながら舟が揺れたりするのが、重華は少しだけ怖かった。
けれど、やっぱり、こうして見る水面は、遠くから見た湖とは随分違って見える。
その所為なのか、身体は震えたりしないようである。
「し、沈んだり、しませんか……?」
重華と晧月、2人で乗って尚、余裕のありそうな大きさで、さらに豪華な装飾までなされた舟。
そんなものが水の上に浮いている、というのが、重華には信じられない。
「心配なのは、そっちか。大丈夫だ、皇帝が乗るための舟が、簡単に沈むようにできてるわけがない」
そう言われれば、そうかもしれない、と重華は思う。
「これ、陛下の舟、なんですか?」
「俺のというよりは、ここに訪れた歴代の皇帝のための舟、だな」
いつからあるかは、晧月とて知らない。
ただ、先代の皇帝もこの舟に乗っていたことは、晧月の記憶にしっかりと残っている。
皇帝が乗る舟に何かあれば、舟を管理する立場のものはどんな罰を与えられるかわからない。
それもあって、皇帝の舟は、特に念入りに手入れされ、管理されているのだ。
そういった話を聞いているうちに、重華の恐怖心は少しずつ薄れていった。
「落ちるなよ」
重華は吸い寄せられるように、水面に手を伸ばした。
けれど、晧月からかかった声にびっくりして、手が水面に届く前に手を引っ込めてしまう。
「ああ、悪い。落ちたら、また助けてやるから、好きにしていろ」
下手したら、舟の上で身動き一つしなくなりそうで。
晧月は苦笑しながら、そう声を掛けなおす。
すると、重華の手がまたしても水面に伸びて、今度こそ水面に手が届いた。
(冷たくて、気持ちいい)
前のように落ちてしまっても、また晧月に助けてもらえる。
そう思うと、晧月が傍にいる限りは、重華は水に怯えなくて済みそうだと思った。
(大丈夫そうだな)
水に触れるのが気に入ったらしい重華は、何度も水に手を伸ばしたり、水を掬ったりして遊んでいる。
そうして楽しそうに笑う様子を見て、晧月はようやく安堵した。
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