皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる

えくれあ

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79. 苦

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 晧月はなんとか再び人知れず冷宮を訪れようとしたが、日々の政務もあり、なかなか実現に至らなかった。
 だが、それでも、なんとか忙しい日々の合間に、少しずつ準備を行っていった。
 そうして、一度目の訪問からかなり日にちがあいてしまったものの、晧月はようやく再び柳太医とともに冷宮を訪れることができた。



(咳の音……?)

 重華のいる部屋へと晧月が近づくと、誰かが咳き込むような音が晧月の耳に届いた。
 それは途切れ途切れではなく、止むことなくひっきりなしに聞こえてきて、聞いているだけでこちらが苦しくなりそうだと思うほどだった。

(まさか……っ)

 晧月は突如走り出すと、一目散に重華のいる小部屋へ向かいその扉を勢いよく開けた。
 すると、そこには、先日訪れた時とは違い、背中を丸め苦し気に咳き込みながら床に座り込む重華の姿があった。
 晧月の予想通り、聞こえてきた咳の音の主は、重華だったのである。

「重華、大丈夫か!?」
「へい……っ、うっ、げほっ、げほっ」

 陛下、と言い切る前に、息苦しさが襲い、重華はただ咳き込むことしかできなかった。

「無理に喋らずともよい」

 晧月がそう声をかける間も、重華の咳が止むことはない。
 苦し気に咳き込み続ける重華を支え、少しでも楽になればとその背中をさすってみるが、それでも重華の咳は止むことはなかった。

(いったい、いつから……)

 最後に会った時とはまるで違う重華の様子に戸惑いながら、晧月は重華の額に触れてみた。

「少し、熱い、か……?」

 確実に熱い、と感じられるほどではなかった。
 晧月の気のせいかもしれない、その程度であるため、高熱が出ているというわけではなさそうだった。

「だい、じょ……っごほごほっ、げほっ」

 大丈夫、そう伝えようとして、やはり言い切らないうちに重華は咳き込んでしまう。

「わかった、わかったから、もう喋るな」

 何か喋ろうとするたび、重華の背中はより苦し気に丸まってしまう。
 その背中を何度も何度もさすりながら、晧月は重華に声をかけていた。

「柳太医、早く中へっ!珠妃を診てくれっ!!」

 もしかしたら、柳太医はまだ近くまでたどり着いていないかもしれない。
 そんな思いもあって、晧月が声を張り上げると、柳太医はすぐに中へと駆け込んできた。

「どうだ?」

 柳太医が脈を診ている間も、やはり重華の咳は止まらない。
 そんな中で、ただ待ち続けるだけというのは非常に落ち着かず、晧月はどうしても柳太医を急かしてしまうのを止められなかった。

「お身体が少し弱っているようですし、風邪を召されたのかと。咳が酷いようですので、咳止めを煎じましょう。あと、あまり眠れていないようですので、よく眠れるお薬も一緒にお出ししますね」

 柳太医の言葉を聞いて、晧月がよくよく重華の顔を見ると目元にうっすらと隈が見えた。
 もしかすると、咳が酷く寝付けなかったのかもしれない、そう考えるだけで、晧月は胸が締め付けられそうだった。
 いつから咳が続いているのか、薬が煎じ終わるのを待つ間、晧月はそれを問いかけようとしたがやめた。
 答えようとすれば、きっとまた重華はより苦しそうになるだろうから。
 もっとも、重華自身、時間の感覚がよくわからなくなっているため、いつからと明確に答えられるわけではなかったため、あえて聞く必要もなかったのかもしれない。

「珠妃様、こちらをお飲みください」

 ようやく煎じ終えた薬が入った器を、柳太医は重華に手渡す。
 重華がしっかりとそれを受け取ったのを確認し、柳太医はその手を放した、はずだった。
 しかしながら、器はからんと音を立てて、重華の手から滑り落ちてしまった。

「あ、ごめ……っ」

 それだけ言うと、重華はまた謝罪の言葉さえままならいままに、激しく咳き込みはじめる。

「大丈夫か!?」

 すぐさま晧月が声をかければ、頷きが返ったものの、晧月の目にも柳太医の目にもとても大丈夫そうには見えなかった。

「申し訳ありません、私が手を放すのが早すぎたようです。すぐに、新しい薬を煎じなおします」

 そう言うと、柳太医はすぐにもう一度同じ薬を用意しはじめた。

(太医はああ言ったが……)

 重華を気にさせないための言葉だというのは、明らかだった。
 柳太医はしっかりと重華に手渡した上で、手を放した。
 そこに不手際があったとは、晧月は思っていない。

「重華、俺の手を握れるか?」

 そう言って晧月が自身の手を差し出せば、重華は咳き込みながらも自身の手を伸ばした。
 しかし、晧月が感じたのはかすかにその手が触れるような感覚だけ。
 とても握られていると言えるような感覚は、そこにはなかった。

「もう少し、強く」

 そう言えば、重華の様子から先ほどより力を入れているのだろうというのは伺えた。
 しかし、その力が晧月に伝わってくる気配はまるでない。

(力が、入らないのか……)

 器を持ち上げるだけの力も、晧月の手を握るだけの力も、今の重華にはないのだと晧月は悟った。
 それでも、必死に力を込めたからなのか、重華は一際激しく咳き込むとそのまま床に倒れこみそうになってしまう。
 晧月は慌てて抱え込むようにして重華を支えると、握られなかった自身の手で代わりに重華の手をを強く握りしめた。

「もういい。重華、もう、やめよう。今すぐ、ここから出してやるから」

 弱っていく重華をこれ以上見たくなくて、晧月はそう言った。
 だが、重華は必死に首を横に振る。
 晧月の言葉から、本当はまだ出るための準備が整っていないのだということは、重華にもよくわかった。
 今やめてしまえば、きっと全てが元に戻ってしまう。
 それは、再び晧月が倒れてしまうかもしれないということで、それでは、重華が冷宮へ来た意味がなくなってしまう。
 絶対にそれだけは受け入れられない、と重華は必死だった。

「わた、し、ごほっごほっ、なら……っげほっ、ごほっ」

 喋ろうとしても、咳に邪魔され、どうしても上手くいかない。
 苦しくて、身体を丸めることしかできず、重華はただただもどかしかった。

(大丈夫だって、伝えなきゃ、いけないのに……)

 なんとかして晧月に伝えよう、重華がそう試行錯誤していると、自身を支える晧月の腕の力がより一層強くなったような気がした。

「無理して喋ろうとしなくていい。言いたいことは、だいたいわかる。自分大丈夫だから、続けろ、そう言いたいんだろ?」

 まさに重華が言わんとすることを言い当てた晧月に、重華は驚きながらも必死にそれを肯定すべくこくこくと頷いた。

(どこが、大丈夫なんだ……)

 今、この瞬間も咳き込み続けている重華を見て、とてもではないが晧月は大丈夫だなんて思えない。
 だが、今やめてしまえば、これまでの重華の頑張りまでも、意味をなさなくなってしまうことは、晧月だって理解している。
 晧月にも、どうするべきか、正解はわからなかった。

「陛下、その、薬を……」

 再度、薬を煎じ終えた柳太医が、晧月に声をかけた。
 もう一度重華に手渡してしまえば、同じことが起きるだけだというのは柳太医もわかっている。
 それゆえに、どうすべきか、伺うような視線を晧月に向けていた。

「貸せっ」

 晧月はひったくるかのように、柳太医から薬を受け取ると、それをすぐに重華の口元へと運んだ。

「重華、薬だ。飲めるか?」

 そう声をかけると、重華は頷いて薬を飲みはじめる。
 しかし、少し飲んだところで、すぐに激しく咳き込んでしまう。

「ゆっくりでいいから、ちゃんと全部飲め」

 その後も重華は少し飲むたび、何度も激しく咳き込んだ。
 その度に手を止めながらも、晧月は根気強く薬を重華へと飲ませ続けた。
 おかげで、薬を全て飲み終えるまで、かなりの時間を要したものの、重華はなんとか薬を飲み終えることができた。

「横になって休んだ方がいい」

 そう告げると、晧月は冷たい床に座り込んだままの重華を抱き上げた。
 さして広くはない小部屋なので、寝台もすぐ傍にある。
 晧月はそこに重華を横たえようとして、顔を顰めた。

(こんな場所で、本当に良くなるのか……?)

 本来妃嬪が使う寝台とは比べ物にならないほど、簡素で硬く冷たい寝台。
 そこに横になったところで、ゆっくり休めるとは思えなかった。
 それでも他に重華を寝かせられるような場所など、この小さな部屋にはない。
 床に寝かせるよりはずっといい、結局そう割り切ってそこに寝かせることしかできなかった。

「珠妃の咳は、治まるのか?」

 寝台に寝かせるや否や、重華は今度は寝台の上で丸まって咳き込み続けている。
 晧月はすぐさまその背中をさすってやったが、苦し気な様子は先ほどまでとまるで変わらないようだった。

「薬が効いてくれば、治まるはずです」
「そう、か……」

 柳太医の言葉を聞き、早く薬の効果が出て欲しいと願いながら、重華が少しでも楽になるようにと晧月はまた重華の背中をさすり続けた。
 しかし、すぐに時間切れだとでもいうように、外から声がかかってしまう。

(このまま、置いていくしかないのか……?)

 せめて、咳が治まるまでくらいは、傍にいてやりたいと思うのに、それすら叶わない。

「重華、一緒に行くか?」

 問えば、晧月の予想通り、重華は必死に首を横に振る。
 それでも、晧月は無理矢理にでもここから連れ出したい気持ちでいっぱいで、なかなか重華の傍を離れることができなかった。
 そんな晧月を急かすかのように、再度外から声がかかる。
 時間がないことは晧月にも、よくわかっていた。

「次に来るときは、必ず正当な手順でおまえをここから出してやる。だから、もう少しだけ、耐えてくれ」

 すでにこれほど苦しんでいる妃に、随分と酷なことを告げている。
 そんな罪悪感に苛まれながらも、晧月はそれだけ告げて、ようやく冷宮を後にした。



「陛下、恐れながら申し上げます」

 重華が居た部屋を後にし、晧月の後ろをついて歩く柳太医が控えめに晧月に声をかけた。

「珠妃様はかなり弱っていらっしゃいます。このままずっと、こちらにいらっしゃるのは……」
「わかっているっ!!」

 柳太医の言葉を全て聞かないうちに声を荒げると、晧月は足早にその場を立ち去った。
 夜も遅く、本来ならば月長宮へ戻り就寝する時間である。
 しかし、晧月が向かったのは、天藍殿だった。
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