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85. 笑
しおりを挟むさらに数日が過ぎ、重華の熱はようやく下がった。
そして熱が下がったことで無事晧月の許可も得られ、琥珀宮へと戻ることができた。
(なんだか懐かしく感じる)
春燕と雪梅のおかげだろう。
重華が最後に見た時と変わらない状態で、しっかりと管理されていたようだった。
慣れ親しんだ光景に安堵感を覚える一方で、随分と長く離れていたような感覚に陥った。
しかし、晧月の話によれば、重華が冷宮に居たのはほんの十数日。
月長宮に居た日数をあわせたところで、一月にも満たない程度である。
避暑に出掛けていた時の方が長く離れていたはずなのに、その時よりもずっと長く離れていたような感覚が重華にはあった。
「移動で疲れただろう。まだ体調が万全ではないのだから、早く横になれ」
ようやく熱が下がったというだけで、まだ全快したわけではないということもあり、琥珀宮までは、晧月が運んでくれた。
そのため、疲れるも何もない、大丈夫だと訴えようとしたけれど、重華はくらりと眩暈を感じ晧月に支えられることとなってしまう。
「ほらみろ。しばらくはまだ、安静にしてろよ」
自身が思っているよりも、まだまだ体調は良くないらしいと思い知らされた重華は、力なく頷いておとなしく横になった。
(早く、元気になりたいのに……)
心配ばかりかけてしまっているし、そろそろ回復して皆を安心させたい。
そう思ってはいるものの、気持ちばかり焦ってなかなか上手くはいかなかった。
その、翌日のことだった。
「久しぶり、珠妃。体調はどう?」
そんな言葉とともに、久しぶりに舜永が重華の目の前に現れたのは。
「え!?舜永様!?」
「あ、いいよ。そのまま、楽にしてて」
まさか舜永が寝室を訪れるとは夢にも思っていなかった重華は、驚きの表情で舜永を見つめる。
だが、そんな重華をまるで気にすることなく、舜永は重華が横たわる寝台の近くにあった椅子に当然のように腰掛けた。
舜永はそのままでよいと言ったけれど、重華はやはり自分だけ寝ているのは気になって、ちょうど春燕がお茶とお菓子を持ってきてくれたこともあり、それにあわせる形で身体を起こすことにした。
「ありがとうございます、春燕さん」
お茶とお菓子を置き、一礼して部屋を出ようとする春燕にそう声をかけると、舜永が驚いたように目を見開いた。
「侍女にまで敬語なんだ。しかも、呼び方も……」
「あっ、その、えっと……」
重華はしまった、と思った。
やはり皇帝の妃が侍女に敬語を使ったり、侍女をさん付けで呼ぶことはおかしいらしい。
しかし、春燕と雪梅に随分慣れたとは思っても、重華は未だそれを変えることはできなかった。
(せめて、他の人がいるところだけでも、変えられるといいんだろうけれど)
晧月は、親しい人間とそうでない人間の前で言葉遣いを上手く切り替えている。
同じようなことができれば、と思うけれど、重華にはなかなか難しいことだった。
「その、おかしい、ですよね……」
「いいんじゃない?なんか、すごく珠妃っぽい」
「へ?」
変だ、と言われるだろうと思っていた重華は、予想外の言葉に驚いた。
「まぁ、後宮には他に居ないだろうけど。でも、珠妃らしいなって思うし、そういう妃が居ても、いいんじゃない?」
「そうなん、でしょうか……?」
晧月でさえ、そんなことは言わなかった。
あくまで慣れるまで、という条件で今の状態を許してもらっている。
その後何か言われたわけではないけれど、重華は今でもそれは変わっていないと思っている。
「兄上がどう思ってるか、さすがに知らないけど、俺はそう思うよ。そういうのも嫌いじゃないし」
「はじめて、言われました」
「へぇ、そうなんだ」
重華にはとっては非常に驚いて、今も戸惑いを隠せないのようなことなのに、舜永はたいしたことではないかのような軽い返事だった。
その上、さもどうでもよいことかのように、あっさりと話題も変わってしまう。
「それよりさ、体調は?ずっと気になってたんだけど、兄上が熱が下がるまで、会わせてくれなくてさ。でも、今日会わせてもらえたってことは、熱は下がったんだよね?」
「は、はい」
「他に、苦しいとか、辛いとかは?」
「な、ないです……」
「そっか、とりあえずよかった」
舜永の勢いに押されながらも、重華はなんとか答えを返した。
すると、舜永はあからさまにほっとしたようにふぅっと息を吐き出した。
(心配、してくれてたんだ……)
重華にとっては非常に意外なことだった。
同時に、それほど悪い人でもないらしい、と重華の中で少しだけ舜永の印象が良くなった。
「陛下に聞きました。舜永様が、助けてくださったって」
「は?助けたのは、兄上でしょ?俺は偶然倒れてるのを見つけただけで……って、何笑ってんの?」
「ご、ごめんなさい……っ」
重華は慌てて謝ってはみたものの、込み上げる笑いは簡単には収まってはくれなかった。
必死に声を抑えながら、身体を震わせる重華を、舜永はただただ訝しげに見つめることしかできない。
「陛下と、似たようなことを仰るから……っ」
重華の笑いは、まだ収まらない。
舜永の一言は、重華に晧月のことを思い出させた。
助けたのは舜永だと言う晧月と、晧月だと言う舜永。
妙なところが似ている、そう思うと失礼だと思いながらも込み上げる笑いを止められなかったのだ。
「んな、笑わなくても……」
一方で、舜永は急激に居たたまれなさに襲われていた。
晧月にも先日、似たところがあると言われたばかりである。
舜永としては決して似ている兄弟だなんて思ってもいなかっただけに、こうも立て続けに似ていると言われると落ち着かない気分になった。
「私、ちゃんと、お二人に助けていただいたって、思っていますよ」
笑いすぎたために目尻に溜まった涙を拭いながら言うと、舜永のじとっとした視線が重華へと向けられた。
「そんな、笑いながら言われても……」
そうは言いながらも、舜永は悪い気はしなかった。
むしろ嬉しいとすら思っていて、そんな気持ちをごまかすかのように目の前にあったお茶をあおった。
「あ、このお茶……」
「舜永様も、お好きですか?それ、陛下にいただいた茶葉なんです」
おいしいでしょう、と言わんばかりににこにこと笑う重華を余所に、舜永はまじまじと湯飲みを見つめる。
(あれ、本当だったんだな……)
晧月に淹れてもらったものと、同じ味のするお茶。
それを、嬉しそうに紹介する重華。
あの時はまだどこか半信半疑だった、重華が気に入っていると言っていた晧月の言葉は、嘘ではなかったようだと舜永は思った。
「やはり、ここに居たか」
舜永から少し遅れて、晧月もまた重華の元を訪れた。
晧月は目の前で談笑する重華と舜永を見て、予想通りの光景だと思った。
舜永からは、重華を冷宮から出した後、何度となく見舞いをさせて欲しいと懇願されていた。
それが重華の体調を案じてのことだとはわかっていても、万が一にも重華の体調を悪化させるようなことがあってはいけない、と晧月は決して了承することはなかった。
それでも舜永は食い下がったが、せめて熱が下がるまでは待つようにと告げることで、ようやく納得させた。
そして、昨日、ようやく熱が下がったから、明日からならば会ってもよいと連絡したばかりである。
だが、居ても立ってもいられなかったのか、舜永は昨日の今日で重華の元を訪れた。
おそらくそうするだろうと思った、晧月の予想通りに。
「何?俺と珠妃が二人でいるのが、心配だった?」
「そうではない、おまえに用があっただけだ:
そう言いながらも、晧月は舜永の横をあっさりと通りすぎ、重華の傍へと向かう。
舜永は、どこがだ、と言いたくなるような気持ちをなんとか抑え込んだ。
「横になっていろ。長く起き上がっていたら、辛いだろう」
「少しくらいなら、大丈夫ですよ?」
「駄目だ。まだ、体調は万全ではないのだから」
晧月は、そう言って重華の身体を寝台へと横たえる。
それから、射るような視線を向けて舜永を振り返った。
「珠妃に無理はさせないよう、伝えてあったはずだが」
「起き上がるのも駄目とか、知らなかったし」
「へ、陛下、私なら、大丈夫ですから」
なんだか今にも喧嘩がはじまってしまいそうな気がして、重華は慌てて晧月の手を掴んだ。
「まさか、兄上がこんなに過保護だったとは……珠妃も苦労するね」
重華にはどこまで柔らかい視線を向け、自身には恐ろしいほどの鋭い視線を向ける晧月を見ながら、舜永は呟くようにそう言った。
重華は苦労をする、とは思っていないけれど、過保護だという点に関しては同意できると思った。
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