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86. 悩
しおりを挟む「で、用件は何?珠妃じゃなくて、俺に用があったんでしょ?」
重華の体調ばかりを気にしている様子の晧月に、舜永はやはり邪魔しに来ただけなのではないかという疑念を抱きながらも問いかけた。
すると、晧月はようやく思い出した、といわんばかりに、手にもっていた紙の束を舜永に投げた。
「え?何これ?」
突然そんなものを渡されても意味がわからない、と思いながらも、舜永は渡された紙の束に視線を落とした。
「おまえを近々、親王に封じようと思っている。それは、おまえに与える領地の資料だ」
まだ、内容を読み進めてすらいない状態なのに、舜永は勢いよく紙から目を離し、驚きの表情で呆然と晧月を見上げた。
つい先日まで敵対する立場にあった者に対し、そのような地位が与えられるとは舜永は夢にも思わなかったのだ。
「え?いいの……?」
「皇位継承権もなくなったんだ。それくらいの地位がなければ、今後何かと困るだろう」
舜永は皇位継承権を放棄したことで、今や晧月の弟たちの中で最も力のない皇子になったと言っても過言ではない。
現に、舜永を皇帝にしようとしていた役人たちの多くが、舜永の元を離れ、代わりに第四皇子を支持しようと画策している。
「思ったより、皇宮に近い領地なんだな。もっと国境付近の辺境の地とかを与えられるかと」
舜永を驚かせたのは、与えられた地位だけではなかった。
領地もまた、つい先日まで敵だったものに与えるとは思えないような、首都に近い良い場所だった。
てっきりどこか遠くの田舎にでも追いやられるのだろうと思っていた舜永は、信じられない気持ちで渡された資料を見つめる。
「そんなに遠くては、皇宮まで来るのに時間がかかるだろう。これからは、事あるごとに呼び出してこき使ってやるから、覚悟しておけ」
そう言ってにやりと笑みを見せる晧月を見ていると、舜永は嫌な予感しかしなかった。
いっそ、遠くの田舎に追いやってしまってもらった方が、楽できるのではないかとさえ思ってしまう。
「あ、いや、俺、もっと端っこの方の領地でいいかな……」
「国境付近は、俺が信頼できる将軍たちに任せてある。おまえがちょろちょろすると、邪魔にしかならん」
「ちょろちょろって……」
舜永だって知っている。
北方の国境付近は白将軍、南方の国境付近には秦将軍、どちらも晧月が最も信頼する将軍に任されていることは有名である。
とはいえ、あんまりな言われようだと、思わずにはいられなかった。
「それに、そんな田舎ではおまえはよくとも、婉貴太妃は嫌がるだろう」
「え……?それって……、母上も、一緒でいいってこと……?」
通常、先帝の妃嬪だったものは、皇帝の妃嬪が暮らす後宮とは別の場所に用意された宮で過ごすか、出家するかのどちらかであった。
息子が領地を貰ったからといって、その領地で息子とともに過ごすということは、皇帝の許可も必要であるし、歴代の皇帝の妃嬪たちを見てもあまり例のないことだった。
「ああ。ともに領地で過ごすことができれば、婉貴太妃も少しは落ち着くだろう」
舜永が皇位継承権を放棄したことで、婉貴太妃は絶望し舜永は未だ婉貴太妃とまともに会話ができていなかった。
それを晧月に伝えたことはなかったが、相手は皇帝だ、なんらかの方法でそのことを知ったのかもしれないと舜永は思った。
「ありがとう、兄上。これを見せて、もう一度母上と話してみるよ」
舜永は皇帝になれなかったし、婉貴太妃も皇太后にはなれなかった。
けれど、ともに領地で過ごせるということが、婉貴太妃にとって新しい希望になってくれるかもしれない。
今度こそちゃんと話をしよう、そんな思いで舜永はぐっと資料を握りしめた。
「封号は何か希望があるか?あれば、考慮してやらんこともないが」
晧月がそう言うと、舜永はなぜか重華を見た。
自分は無関係だ、そんな思いでただぼんやりと2人のやり取りを眺めていただけだった重華は、突然舜永と目があってしまってびくりと身体を震わせた。
「珠妃が、考えてくれない?」
「はい?」
「俺の封号、珠妃が決めたのがいい」
「え……?ええっ!?」
重華は困ったように晧月を見た。
その瞳が、自分には絶対無理だからなんとかしてほしい、と訴えているようで、晧月は苦笑する。
「時間はまだある。少し、考えてみたらどうだ?」
「えっ?で、でも……っ」
重華はまだ、文字そのものをそんなに多く知っているわけではない。
知識も少ないし、そんな大事なものを考えられるような気がしなかった。
「考えてみて、それでも思いつかなかったら、俺が適当に考えるから心配するな」
「ちょっと待ってよ!」
何やら聞き捨てならない一言があった気がして、舜永は思わず声をあげた。
「なんだ、不満か?」
「いや、珠妃が思いつかなかったら兄上が考えるってのはいいんだけど、適当じゃなくてちゃんと……」
舜永だって、重華に無理をさせるつもりもない。
どうしても思いつかなかった場合は、晧月によって決められたものでも良いとは思っている。
だが、適当に決めるというのは、あんまりだと思ったのだ。
「別になんでもいいだろ」
「いや、良くないって。それ、一生使うんだけど……」
よほどのことがない限り、封号が変わるということはない。
一生付き合っていくことになる自身の称号が、兄によって適当につけられたものにならないためにも、舜永は重華が良い封号を決めてくれるのをただただ願うばかりだった。
「舜永とは、どんな話をしていたんだ?」
舜永が先に立ち去り、室内に重華と晧月だけになると、晧月はすぐさま気になって仕方がなかった質問を重華へとぶつけた。
「たいした話では、なかったですけれど……」
思い返してみても、晧月が知っておかなければならないような、重要な話があるようには重華には思えなかった。
本当にたわいもない話でしかない、重華がいくらそう伝えてみても、晧月はその内容が気になって仕方がなかった。
なぜなら、重華がとても楽しそうに笑っていたような気がしたから。
「んーと……私っぽいって言われました」
重華は舜永が訪問してきた辺りから、順に思い返しながらぽつりと呟いた。
本当に特別何か気に留めるようなことがあったわけではないため、思い出すのに少し苦労しながら。
「何が?」
「春燕さんたちに、敬語使うのが」
そう言うと晧月は一瞬驚いた表情を見せたけれど、思い出すことに必死だった重華は、残念ながらそれに気づくことはなかった。
「おかしいって言われるかと思ったのに、私みたいなのが居てもいいんじゃないかって言われて、ちょっとびっくりしました」
その時の舜永を思い出すと、重華はくすりと笑みを漏らした。
自身も変わっているのかもしれないが、舜永もなかなか変わり者であるような気がして。
「確かに、それも、悪くないのかもしれないな……」
そうぽつりと呟いた晧月の言葉は、あまりにも小さく重華に届くことはなかった。
「あとは……陛下と舜永様が、そっくりだなって」
そう言うと、重華はまたしてもくすくすと笑い出す。
非常に珍しいものを見たような気がして、晧月はまたしてもほんの一瞬だけ驚きの表情を見せた。
「俺と、舜永、が……?」
「はい。お二人とも、似たようなことを仰って。やっぱり、兄弟なんだなって、思いました」
そう言われると、舜永同様、晧月もまた居たたまれなさを感じた。
しかしながら、自身でもつい最近、それを自覚したばかりだったために、否定することもできなかった。
「あっ、そういえば、はじめて舜永様にお会いした時も、笑った顔が陛下に似ていらっしゃるなって思ったんです」
「そんなこと、はじめて言われたな……」
どちらかといえば、あまり似ていない兄弟だと本人たちも思っていたし、周囲にもそう認識されていたと思っている。
落ち着いた雰囲気の晧月と、賑やかな雰囲気の舜永。
そういった違いからも、より二人が違って見えたのかもしれない。
さらには、他の兄弟との方が似ている部分も多かったこともあって、あえて似たところをあげるような人は、誰もいなかったのだ。
「私は妹と似たところなんて何もなかったので、羨ましいです」
重華と似ているなんて言えば、鈴麗が怒り狂うことは間違いないので、使用人たちは誰もそんなことは口にしなかった。
また、自身で似たところはないかと探してみたところで、些細なことであっても、似ていると感じられるようなことは何もなかったのだ。
「何も?」
「はい、なんにも……」
それを聞くと、少し残念そうな重華を横目に、晧月はしばし難しい顔で考え込んでしまった。
「あ、あのっ、ところで、陛下……さっきの……」
「ん?ああ、封号の話か」
言いにくそうな、そしてどこか困ったような表情を見るだけで、晧月はすぐに重華の言いたいことがわかった。
やはり自分には無理だから、考え直してほしいといったことを伝えたいのだろうと。
「せっかくの機会だ。考えるだけ、考えてみろ。いい経験になるだろ?」
晧月も念のため、候補をいくつか考えておくつもりだ。
もし、重華が何も思いつかなかったところで、困りはしない。
しかし、そう告げたところで、重華はより一層困った表情を浮かべるだけだった。
「相談なら、いくらでも乗ってやるから」
そう言ってみても、曇ってしまった重華の表情が、晴れることはなかった。
その日から、重華はずっと舜永の封号に頭を悩ませることになる。
せっかくならば、晧月と舜永が兄弟として仲良く過ごせるような、そんな願いがこもった封号がいい、と重華は思った。
しかし、あからさまに兄弟仲を意識した封号にするのも、なんだか違うような気がしたのだ。
重華は『珠』という封号を晧月から与えられた時、本当に嬉しかった。
できれば、舜永にもそんな風に思えるものを、と思うけれど、そうして考えれば考えるほど何も思い浮かんでこない、と思い知らされるようだった。
そこで、重華はいろんな書物を読めば何か思いつくのではないかと思い、書物を手に取ったのだが、体調を心配する晧月にすぐに取り上げられてしまった。
(どうしよう、全然思いつかない……)
一度、自身には無理だと、早々に諦めようともした。
けれど、それを晧月に伝えてみても、まだ時間はあるのだしぎりぎりまで考えてみればいい、と言われるだけだった。
舜永が親王に封じられる日まで、この悩みは続きそうだと重華は思った。
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