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第二章 2002年 春
サバイディー、南方上座部仏教国の夕陽 ㊽
しおりを挟む48 ミステリアスな光景
エクスプレス列車でも、バンコクのドムアン駅から終点のノンカイ駅までは十時間あまりを要する。
昨年はバンコク・ホアランポーン駅を午後八時半の寝台エキスプレスに乗り、あいにくエアコン寝台席がFullで、天井で扇風機が生暖かい空気をかき回しているだけの二等ファン寝台席でノンカイまで行ったのだが、暑いながらも疲れていたので何とか寝ることができたものだ。
今回はソフトシートの二等指定席といっても、扇風機がカラカラ回っているだけで、やはりちょっと猛烈かなり暑く、みるみる汗が湧き出てきた。
汗が出るとミネラルウオーターを補給するのだが、それと同量の汗が体内から押し出されるため、トイレに用足しに立つ必要がないのだ。
何と僕は夕方五時過ぎにノンカイ駅に到着するまで、座席から腰を浮かしたことはわずかに三度だった。
そのうちの一度は隣のタイ人女性がウドンタニーで下車する時に立ったもので、あとの二度は彼女がトイレに立った時に通路側の僕がやむなく腰を上げたというもので、実質座席から一度も離れなかったのである。
かといって途中ずっと眠っていたかというとそんなことはなく、夜行列車では見ることのできないタイ東北部の広大な原野や田園風景、途中の停車駅周辺の雑踏や人々などを興味深く見ていたのだった。
あれはどの辺りだったのだろう?
ふと窓の外を見ると、まるで列車が海の上を走っているような感じで、川などという生易しいものではなく、対岸が見えないどころか三百六十度見渡しても、どう考えても列車は水上を走っているのだ。
しかもそれは鉄橋を走っているのではなくて、海の上に列車が走る分だけが陸地になっているという状態に思えた。
僕は急いでガイドブックの巻頭にあるタイの地図を取り出し、目を皿のようにして見たが、おそらくこの辺りだろうと思われる位置にそのような大きな川や湖は存在していなかった。
延々と水上を走り続ける列車の窓から見える風景を指差して、僕は隣のタイ人女性に、「これは川ですか?湖ですか?だとしたらこの地図のどの辺りですか?」と半ば興奮状態で訊いた。
しかし、彼女は全く英語が分からないし、地図を提示しても、もちろん地図は日本語表示なので、微笑みながら首を横に何度か振るだけで、要領を得ないという仕草だった。
サンシャインがギラギラと照り返す広大な海の上を列車はガタゴトと走って行く。
海の上には何も見えない。
それは本当に存在するのか、それとも水の上ではなくてそれは大雨で沈んでしまった水田なのか、などという疑問も頭をよぎったが、タイはこの時期、降水量が少ない季節なのでそんな筈はない。
やがて列車は海(海のように思えた湖)を横切り、もとの原野をドンドン走りぬけて行ったのだが、今でもあの光景はいったいどの辺りで何という川或いは湖なのか、僕の心の中にミステリアスな情景として残っている。
暑い国に来ると日本での食生活から一変してしまう。
明け方に機内食を食べたきり、ミネラルウオーターを流し込むだけでもお腹が全然空かない。
焼き飯の上にチキンを乗せて、さらに目玉焼きを乗せた、何ともいえない良い匂いの食べ物を売りに来たが、体調が悪い訳ではないのになぜか食べたいとは思わない。
「ガイヤーン、ガイヤーン!」と男性がバリトンのダミ声で美味しそうな大きな焼き鳥も売りに回ってきたが、残念ながら買う気にはならなかった。いったいどうしてしまったのだろう?
列車は東北部の大都市であるウドンタニーに到着し、ここで多くの乗客が降りて行き、それから一時間程走って終着駅ノンカイに午後五時過ぎに着いた。
見覚えのある駅舎を抜けて外に出る前から、トゥクトゥクの男性が僕のそばを離れない。
今日のうちにラオスに入国しようか、ノンカイでゆっくり一泊しようかを迷った。
グルリと周りを見渡しても旅行者らしき人物は誰もいない。
やっぱり旅行者は夜行列車で来るんだろうなと思っていたら、ひとりの女性が遅れて駅から出てきた。
どう見ても日本人に思われたので、僕は救われたような気持ちで話しかけた。
「こんちは、今日中にラオスに入る予定ですか?」
すると彼女は笑みをたっぷり顔に表して、「今夜はここに一泊しようと思っています」と答えた。
僕は何のためらいもなく、「じゃあ、もしお邪魔でなければご一緒させていただいてよろしいでしょうか?」と丁寧に訊いた。
このように旅先では特に女性と話をする場合、最初の言葉や態度がとても大切なのだ。
僕のように中年は、若者のノリで「一緒に行こうよ!」とか、「夜一緒に食べようよ」なんて軽く言ってはいけないのだ。
年輪を感じさせるような穏やかな物腰で、しかも丁寧に相手の気持ちを気遣いながら、控えめにかつ強引に話すことがポイントである。(笑)
このときの彼女の返事はもちろん「いいですよ」だった。
彼女は、内心は分からないが外見上はとても好意的に接してくれて、トゥクトゥクをシェアして乗り込み、ノンカイの街中に向かって僕たちは走り出した。
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