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第1部 子爵家の次男
遠乗り *リュカリオ視点
しおりを挟む森に入ると、さっきまで降り注いでいた陽射しは木々にさえぎられ、ひんやりとした空気に包まれた。木の葉が擦れ合う音が風に乗って耳に届き、小川の方からは水の流れる軽やかなせせらぎが聞こえる。その音が、さらに涼しさを深めてくれるようだった。
王都を出れば魔物に遭遇する危険はある。けれど、この森は王都の強力な結界の範囲内で、魔物を避ける薬草もあちこちに自生している。だからこそ、こうして気軽に足を延ばせる場所だ。
「エイル、気をつけて」
馬上のエイルの腰に手を回し、抱き下ろす。何度もやってきた動作だし、彼がひとりで降りられるのはわかっている。それでも、ほんの数秒でも、触れ合える時間は逃したくない。
「ありがとうございます。川の水、触ってもいいですか?」
「あぁ、一緒に行こう」
馬を護衛に預けながら、ふと頭を巡らせる。
どうやって兄上たちを巻こうか。いや、巻かずとも、話しかけられない距離さえ保てればそれでいい。
「少し上流に、渡れるくらい浅いところがあったはずだ。行ってみないか?」
「っ!行きたいです!渡れるくらいなんですね? 渡っちゃいます?」
「渡って、ぐるっと回って戻ってこよう」
「じゃあ私たちも——」
「兄上たちは、そこでゆっくりしてください。気分転換に来たのでしょう?あそこの木陰なんて、居心地が良さそうですよ」
「いやしかし——」
「レオ様、見える範囲にいますし」
ルアン、ナイスアシストだ。
今のうちにと、俺はいそいそとエイルを連れて川沿いを歩き出す。護衛の半分は、ランチボックスを抱えて後に続いた。正直先程の場所でも俺は渡れるのだが、小柄なエイルは腿近くまで浸かってしまうだろう。そこからバシャバシャと川を歩いたら濡れるのはそれ以上になってしまう。
浅瀬に着くと、澄んだ水が小石の上をさらさらと流れ、陽の光を反射して銀の糸のようにきらめいている。エイルが慎重に足を踏み入れ、水の冷たさに肩をすくめる様子が愛らしい。
「わぁ……冷たい! でも、気持ちいいです」
パシャパシャと足踏みをして、水が跳ねるのを楽しむエイル。水を蹴りあげるのに失敗して、蹴り上げた水が自分にかかってるし。
運動神経が良いんだか悪いんだかよく分からない失敗に、くすくすと笑いながらタオルを手渡す。
「ほら、風邪ひくぞ」
「えへへ……ありがとうございます。あっ、魚が——」
「……魚より俺を見ろ」
思わず口から出た言葉に、エイルが目を丸くする。けれど、すぐに頬を染めて微笑んだ。その笑顔だけで、今日の遠乗りを企画した甲斐があると思えた。
ふと、視線を感じて顔を上げる。
……遠くの木陰で、兄上が肘をつきながらニヤニヤしていた。ルアンは隣で呆れ顔だ。
……くそ、見られていたなんて。
「しかし、実際に泳いでる魚なんてここまで来ないと見れないからな。充分に堪能しようか」
再びエイルの方に目を向ける。
兄上の視線なんか、今だけはどうでもいい。
この時間を邪魔されないように、全力で護りきってやる。
「そろそろ、お昼にしようか」
ひとしきり小川を堪能したあと、護衛が木陰に敷物を広げてくれていた場所へ誘う。ふかふかの芝生に敷かれた布の上からは、柔らかく土と草の匂いが漂う。小川が見渡せる位置に腰を下ろすと、エイルがわくわくと目を輝かせた。
「今日はこれを持ってきた」
蓋を開ければ、香ばしく焼いた肉やふわふわの卵、色とりどりの野菜を挟んだサンドイッチ。干し肉とチーズ、瑞々しい果実、それに、エイルが好きなザクザククッキー。
「すごい……!外でこんな豪華なお昼なんて」
「ほら、口開けて」
「え?あ、あー……」
差し出したサンドをぱくりと頬張るエイル。ふにっと頬が膨らむ様子が可愛すぎて、思わず笑みがこぼれる。
「……美味しいです!」
「だろう。お前の好きそうなものだけ詰めたからな」
頬を緩ませるその横顔は、水面の輝きよりもずっときらきらしていた。
午後は森を散策し、おやつのクッキーを分け合いながら、時間を忘れて過ごす。やがて兄上たちの待つ場所に戻ると、川面が夕日を受けて淡く光っていた。赤とも紫とも言えぬ、儚く美しい色が水面に揺らめく。
「きれいだな」
そう呟き、ふと木陰を見ると、兄上とルアンが馬の手綱を整えている。
エイルがきょとんと見ている隙に、その腕を引き寄せた。
「……リュカ様?」
「今、あいつらこっち見てない」
「え?」
言葉と同時に、頬に額を寄せ、軽く唇を触れさせる。一瞬で離れると、エイルは真っ赤になって周囲を見回した。
「み、見られたら……!」
「だから見てないって言っただろ。……俺だけ見てろ」
俯きながらも小さく笑うその表情に、また触れたくなる衝動を必死に抑える。
「おーい、準備できたぞー!」
兄上の声に振り向き、何事もなかったかのように手を取り合って歩き出す。
馬のそばに近づいた途端、兄上がにやりと口角を上げた。
「ずいぶんと涼しい顔で戻ってきたな。……森の中は、景色だけじゃなくて“他にも”楽しめたようで?」
「さぁ?何のことだか」
リュカはさらりと流し、馬の鞍を確認し始める。その態度に、真っ赤になったエイルは否定もできず、ますます俯いてしまう。
「……はぁ」
その様子を横目で見たルアンが、呆れと諦めの混じったため息をひとつ零した。
再び馬に乗ると、森の緑が後ろへ流れていく。前に座るエイルの背中から、夏の陽射しと、ほんのりとした温もりが伝わる。
その温かさを胸に刻みながら、王都への道をゆっくりと駆け抜けた。
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