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第1部 子爵家の次男
"噂の彼"と"目の前の彼"
しおりを挟む応接室で、僕はレオニス様とエイルたちの到着を待っていた。
母上は先に席を外してしまい、部屋には僕とレオニス様のふたりきり。
こんな状況、初めてだった。どう切り出せばいいか分からず、沈黙が続く。
先に口を開いたのは、レオニス様だった。
「ルアン。君は、エイル君の婚約者がリュカリオなのは不安かい?」
突然の直球の問いに、僕は目を見開いた。
「え、あの、その……」
不安かと聞かれれば、正直、不安だ。
だって、彼の噂はあまりにも有名で、その内容も、勉強も鍛錬もせず我儘放題の困った坊ちゃん、なんだから。
でも、それをそのまま、リュカリオ様の実兄であるレオニス様に口に出すほど、僕は無謀でも無神経でも愚かでもない。
「不安、というより、まだ早すぎるんじゃないかと、思うんです。エイルは、まだ三歳ですし。僕にだって、まだ婚約者なんていませんし」
それでも正直な思いを吐露した。
でも、僕の思いはバレてしまっていたようで。
「不安な気持ちもわかるよ。たしかに、リュカは噂通りの子だったよ。勉強も鍛錬も嫌いで、何かあるとすぐ癇癪を起こしてた。エイル君に会うまではね」
レオニス様は手にしていたカップを一度置き、ゆっくりと両手を膝の上に戻す。その所作が、どこか慎重な重みを帯びて見えた。
そして一旦区切って、手元に落ちていた視線を、まっすぐ僕へと向けてくる。
「僕はね、これからのリュカを、エイル君と出会ってからのリュカリオを、見てほしいんだ。」
言葉と同時に、細く長い指がテーブルの端をなぞる。静かな時間が、部屋を満たした。
「あの日のお披露目会の後ね、リュカは“また会いたい”ってすぐに言い出してね。でも、当然却下されたさ。今のままじゃ会わせられないって、父上も母上も声を揃えてね」
「それでも、彼はその日のうちに予定を立て直して、自分で勉強計画まで立てて、僕にも“次の逢瀬で恥をかかないように助言してくれ”って」
ふと、レオニス様は言葉を切り、視線をわずかに伏せた。その瞳の奥に、どこか感慨深そうな色が揺れた。
「頭を下げてきたんだよ。あの子が自分の意志で変わろうとしているんだ。こんなに誰かのために努力してるのは初めて見た。そしてそれは君の弟のエイル君のおかげなんだよ」
「っ……」
僕は知っていた。
初めて見た時から、あれが有名な噂の坊ちゃんなのかと疑っていた。
その噂が嘘なんじゃないかと思った位、エイルと一緒にいる彼は、わがままでも癇癪持ちでも無かったからだ。噂の彼は、僕の前には一度も現れていないんだ。
「ただいま戻りましたー!!!」
突然ドアが開いたと同時にエイルの元気な声が響いた。
「お帰り2人とも。しっかり乾かしてきたかい?」
僕の代わりにレオニス様がやさしく声をかけてくれた。
あの張り詰めた空気が、エイルのひと声であっけなく霧散し、心做しかホッとする。
「はいっ!リュカ様の尻尾が濡れてぺしょんってなってたのに、乾かしたらふわふわって気持ちよくなったの!触らせて貰ったの!」
「ん?」
「え、エイルっ……!」
あれだけ"耳と尻尾は不用意に触るな、話題に出すな"と言ったのに!
「俺が良いって言ったから、いいんだ。気にするな」
そう言ってリュカリオ様は腕を組み、なぜか自慢げに鼻を鳴らした。
「……あのね、リュカ様のお耳も触らせてもらったの。あったかくて、やわらかくてね、最初ふにふにしてたんだけど、途中からもみもみしても怒らなかったよ?根元の方が先と違って太くてかたいの!」
「もみ、エイル……!」
……なんてこった!耳と尻尾は仲が良くても普通そんなに簡単に触らせないものなんだろう!?
「“もみもみ”……?」
レオニス様の目がすぅっと細くなる。
リュカリオ様ははっと、そして気まずそうに目を逸らし、しどろもどろの言い訳を始めた。
「いや、その、"もみもみ"事故っていうか……えっと、俺としては全て合意のもとで……だから!」
「ふぅん」
レオニス様の笑顔は穏やかなのに、目がまったく笑っていない。
背筋が寒くなる程だ。リュカリオ様本人にとっては、きっともっとだろう。
それでもリュカリオ様が“俺は悪くない”とでも言いたげに視線を逸らした時、僕はふと、エイルに残る魔力残滓に気づいた。
「……リュカリオ様」
「はいっ!?」
僕の一言に大袈裟に反応するリュカリオ様。
「魔力の痕跡、ありますよね?おでこに。……まるでこの前のエイルに接触した直後にそっくりの」
「……っ」
もうその反応が、答えだった。
「っっ!?キスしたんですね!?」
「なっ!?」
さすがのレオニス様も咳き込む。
「え?魔力ってキスでも残るの?」
そんな天使のような笑顔で聞かないでくれエイル。兄はショックで心臓がどうにかなってしまいそうだよ。
「……リュカ」
レオニス様が低く名を呼ぶ。
「す、すみません……でも俺、ちゃんと了承を取って……!」
リュカリオ様はあわあわと弁明するが、説得力は皆無だった。
「よし、今日はもう帰ろうか」
レオニス様がにっこりと笑った。声のトーンだけが恐ろしく低かった。
「へっ……?」
「エイル君の顔が火照っているし、少しのぼせてしまったみたいだ。遊びは次にしよう。次“が”あれば、ね?」
「えっ、まだかくれんぼとかお絵描きとか……!」
「今日はおしまい」
レオニス様の微笑みに逆らえる者など、ここにはいなかった。
リュカリオ様も、恐ろしく低い声に感化されたエイルも、「はい……」と申し訳なさそうにうなだれる。
エイルの耳先の赤みがまだ残っている。
ほんのりと蒸気したそのおでこに、魔力の痕跡がまだふわりと残っていた。
「……ほんと、まだ早すぎるんですよ。レオニス様」
「うん、僕もそう思った」
けれど、同時に。
「……でも、レオニス様の言葉を聞いて安心もしました。変わろうとしてるのは、確かのようですし」
エイルを守るのは僕の役目だ。
けれど、彼の未来に手を伸ばす誰かを、変わろうとしている彼を、頭ごなしに否定するのは……やめてもいいのかもしれない。
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