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君に逢いたかった、ありがとうを言いたかった
君は僕には似ていない
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「ここはきっと、現実と電脳の間を象徴しているんだね」
柳は、奇妙な物理法則の変化を感知した。この浮遊感に慣れていないだろうクリスを支えるように、そのまま繋いだ手から二の腕を合わせ、柳はそっと重心を教える。
2人にとって、深海から水面への旅をしたかのような感覚だった。明るく眩しい空間に出て、柳とクリスは周囲の環境が変化したことに気づき、寄り添い浮かんでいた。視界いっぱいに敷き詰められた景色は万華鏡のようでもあり、ガラス細工のようでもある。どこが上で、どこが下なのかもわからない。柳は、これがネオトラバースの低重力タイプの各物理法則に近いことに気づいていた。
クリスは、現実ではないはずなのに震えてしまいそうな自分の身体を、目線を下ろして何度も確認する。そうして、終わりの見えない時間をどうにかやり過ごそうとしていた。
「む、無重力空間みたいな……?」
声が上擦った。緊張している彼女をよそに、柳は冷静に応える。
「うーん、どうかな……近いかもしれないね……」
ずっとトランジョンの最中のような感覚だ。
柳はプロ試合用領域の物理法則として体験する機会が多いが、クリスは未だ、現実から大きくかけ離れた空間に慣れていない。彼女が体験したのは何れも、学生大会用の範囲内での領域であった。
「……そ、そか」
三半規管の具合は電脳現実領域上のため関係ないが、乗り物酔いの記憶があると酔ったように錯覚し、実際に現実の脳が乗り物酔いと同じ認識を起こして、気持ちが悪くなってしまうこともある。
柳はクリスの顔を覗き込んで言葉をかけた。
「大丈夫? クリス、車酔いとかする方だっけ」
クリスはびくりと身を竦ませるようにして、次に視線を泳がせた。顔色を確認した柳は、じっと視線を合わせる。
「酔ってるの見たことないけど……どう?」
「……ちょっと怖いだけだよ……でも、柳がついててくれるから、今は平気」
少し硬い笑みは、それでもクリスの顔色が悪くない、むしろ頰は紅潮していることを柳に教えていた。
「……クリス、時間の感覚は? ここに来てからどれくらい経った気がしてる?」
「3日くらい経ったような気がしてる」
「うーん、じゃあ……競技を始めた時期から換算したら……多分大丈夫か……」
クリスは、柳の方をぼんやりと見ていた。体調の確認方法を反芻する柳に、彼女はややあって、ふわりと淡く柔らかな一言を発した。
「いろんなこと知ってるね、柳は」
「え?」
確かに、勉強を教えたり、わからないことを訊かれて答える機会は柳の方が多い。しかし、それは本質的に重要ではないと彼は感じている。人の知識は興味関心によって、個々に偏っている。学校の勉強が出来なくても社会的に成功する人間はいるし、勉強が出来たのに仕事面で成功できず、挫折する場合さえある。
だが、彼女が今言いたいことは、そうではないだろう。今は心を開示するときで、柳自身は知識を活用して、クリスの体調を確かめたかっただけなのだ。わかりあうために、柳は言葉を繋いだ。
「クリスだって、僕の知らないことを色々教えてくれるでしょ」
「……なんのこと?」
クリスは、自分の価値を知らないのかもしれない。柳は心が痛みを発したことを認識したように、そっと自分の胸元に触れた。そこには石がある。
ようやく動き出した、柳自身の心。つまり、人生。クリスがいるからこそ、柳はこの痛みの味を知ることができるのだ。甘くても、苦くても、辛くたって、柳には大切なものに違いなかった。
「……リリアのぼやきとか、最近は体のラインが少し出る服が流行りだとか、流行色が紫だとか、あと写真加工に便利なツールとか、あと」
「や、役に立たないことばっかりじゃない!」
クリスは恥ずかしそうに拳を握って訴えていた。いつでも、他愛も無い話に含まれる彼女の言葉を、柳は好んでいる。
「大事なことだよ、僕にとってはね」
──これは、何だろう?
「……そう……? なんで……」
この空間でのクリスの体には、羽根や翼を連想させるあしらいが巡る。アバターは象徴だ。纏う薄い外套の向こうで、彼女が空間のきらめきを跳ね返しているのを、柳は瞳に写し込んでいる。
「教えてくれてありがとう、クリスのこと」
未だ、柳ははっきりとはわからなかった。何年も動かさずにいた心は、すっかり鈍感になってしまっている。この不恰好な感情をふさわしい言葉に形容するには、暫くこの思考を繰り返す必要があるのだろう。
――どうしてなんだろう?
「…………ひえ」
「なに、その鳴き声?」
「……うう」
クリスの顔は赤い。
◆◆◆
「シノは、隠蔽者の一部にさせられつつあったんだ、帰ってきたくても何かが足りなくて、隠蔽者の支配から完全には抜けられない」
渋川は、3人の話し合いを思案顔で見つめていた。正確には、玲緒奈は先程の意見が精一杯のところであったため、その後のユエンと流磨の言葉を静聴していた。2人の話し合いに置いていかれているのかと思いきや、時折兄から確認を求められる。
経験が足りないというだけで、話し合いに参加しなくて良い理由にはならない。逆に、経験がないという理由で、玲緒奈をこの場に参加させない理由にもならない。
兄は玲緒奈のことを頭数に入れた話し合いになるよう、配慮しているようだった。
「抜け出す最後の鍵が機能しない……シノの一番大切なものは明らかに、クリスの存在そのものだろ……渋川さん?」
彼はそのまま渋川にも言葉と共に目配せしたが、渋川は立ったまま聞くことを選んだ。
「きっと一緒にいる。向こうでクリスがシノを求めて動くなら、何が起きたってシノは、最終的にクリスを放っておくわけにいかなくなる。それに、クリスはシノが本当はクリスのこと心配してるって確信を得てる」
そう。本当に嫌いになったのなら、咄嗟に電脳ノイズの狭間に吸い込まれそうになったクリスを抱きしめて助けることなど、なかったことだろう。あの綻びこそ真実だ。
柳はどうにか距離を置こうとしていたようだが、クリスも必死だ。どうにかして柳の関心を曝け出させれば、あとはクリスが、帰ってくるよう説得できるに決まっている。
「社長!」
東雲柊が入室した。隣には夕子の姿もある。大人たちが一声にざわめき、忙しなく動いた。ヴィジョンデジタルテックス社員が駆け寄る。
「社長、エイジスさんとの連携について、島のスパコンを5機手配しました。物理的には可能です」
「わかった。引き続き頼むよ。私はその前に、少しあの子達と話がある」
柊はこちらを見た。玲緒奈は、その眼光にどきりとする。テレビで見る様子と少し違い、気のせいかもしれないが今の彼は、ギラギラと捕食者のような目をしていた。
夕子が先にこちらに近づいて、随伴の部下らしき数名は技術者の群れに合流した。
「息子は」
ただ一言。確認するように、兄の目線が来た。玲緒奈は頷いてみせ、目線で答えた。
「おじさん、シノは戻りたいと思ってる」
「……戻りたい?」
柊の視線は、その一言の正確さを吟味するかのように、流磨に留まる。ユエンが具体的な事実を説明した。
「精神の値が、モニタリング可能になったんですが」
「本当か?」
「ええ、一緒に向こうにいるクリスは、安定し始めています」
少しだけ目尻が下がり、大きく目が見開かれた。そうしていると柳とそっくり同じだ。もしかして、疲れと寝不足が出ているのかもしれない。玲緒奈はユエンと柊を交互に見た。
「……そうか!」
玲緒奈の背後で、渋川が近付く気配がした。ユエンの声が続く。
「で、でも……」
「何か足りないものが?」
柊は、息子の安否に関する発言を聞いたところで、比較的に冷静だった。社長ともなると、感情のコントロールが高いレベルで必要なのかもしれない。
「電脳世界に、その構成を改変するほどの邪魔が入らないよう、組織側による妨害が組まれている可能性が高いです。これを突破するには時間を要する、と……おれは思います」
ユエンは迷いながら説明している。事実と感情がせめぎ合い、言葉を慎重に選んでいるのだろう。彼が説明できないでいる決定的な言葉を、渋川が代弁した。
「あとは息子さんの生命力と……こちらの技術力で突破までの時間をどれだけ縮められるかが勝負かと」
いつのまにか、部室内は説明を聞こうとする者たちが口を閉じたことで静寂に包まれていた。技術者のブースが役割を思い出したように再び動き出す。
「……ふ」
「おじさん」
流磨が気遣うように立った。多忙の中で乱れた髪が、柊の表情を隠している。夕子は、なぜか微笑んでいた。
「ふふ、ははは……」
「……おじさん?」
「はは、そうか! そうか……それなら、俺の出番だ……!」
「え」
流磨は、親友の父の初めてみせる声に、表情に戸惑っている。玲緒奈も同じだった。やはり、先程の違和感は気のせいではなかった。
「あなた、自分のこと説明しないと」
柊の二の腕あたりをそっと触り、夕子は優しく促した。彼ははっきりと切り取られたような口調で、演説する。
「俺は精神没入型電脳スポーツの黎明期、自分でいくつもの新スポーツを試した。英語圏は日本の市場規模よりも広く競争率が激しい。電脳領域テロ厳重警戒の危険な時代だった。妨害の突破術も身をもって知っているよ」
まさしく、この人こそがヴィジョンデジタルテックス代表取締役社長なのだ。玲緒奈は、よく知る父親としての柊も、テレビで取材を受けるビジネスマンとしての柊も、彼の作り出した幻影だったのかもしれないと思い至る。
「おじさん、何かあるんですか?」
流磨はいつも、玲緒奈が不思議に思うことを不思議に思う。似ていない兄妹と言われるのに、こういう時の兄は、玲緒奈の分身のようだった。
柊の出立は、よく知るものと変わらない。開示された情報だけが、今の彼が別人であると言っているかのようだ。
「何か、と言うほどのものではない……しかしね、流磨くん。今は現役引退しているが、ライセンスは今も生きているんだよ」
「ら、いせんす?」
その言葉が今示すものは。知っているものが一つだけある。しかし、そんなことが? どうして? 部室中がざわめく。ユエンは一拍おいて、誰より先に可能性の最も高い情報と結びつけ叫んだ。
「……あ?! 流磨、ヒイラギ・シノノメか?!」
「は?!」
東雲柊は、そこにいるその人だ。確認の意味を測りかねた流磨が反射的に返したが、ユエンはその一言が不満のようだった。手のひらを宙に掲げながら、流磨に食ってかかる。
「防御全振りアバター持ってんのに知らないのかよ!」
「遊びで作っただけだから、知らねえよ!なんだってんだ」
「10代の頃のシノノメ・ヒイラギさんは、ネオトラバース全米チャンピオンだぞ!? その後アメリカ国内のダークウェブを暴きまくった、伝説の!」
「いや、伝説なんていうのは本当に後から勝手に言われているだけで……」
柊が謙遜してみせた。だが、自信に溢れる立ち振る舞いからは、その話が本当であるように見える。
誰かが、シノノメ・ヒイラギの若かりし頃の情報を大写しにして、部室の大型立体モニターに展開した。ネットニュース、情報番組のスポーツ報道動画、新聞記事。その内容はユエンの説明に相違がないことを示しており、玲緒奈は流磨と顔を見合わせる。
「……まじですか」
「マジだね」
「ていうかなんか、おじさん性格が……」
その場にいた全員が抱いていた疑問を、ついに流磨がぶつけた。部内の誰もが返答を待つ。夕子が柊の両二の腕を支えつつ、かわりに答えた。
「この人、電脳スポーツのこととなると性格が違うのよ」
「いやあ、悪い癖でね。でも若い子には敵わないよ。きっと今の繭に入ったらもうヘトヘトだろう」
流磨は慌てながら大声で言った。
「行く気ですか?!」
なぜ、彼が? 彼は指示を出すだけで精一杯のはずだ。その上、安否がかかっているのは一人息子。目の下の深い隈は痛々しく、彼がこの立場でなくても、今のトランジョンは引き止めるべきものだろう。
「今俺が行かないでいつ行くんだ?」
柊は怯まない。これは父親としての矜持、意地なのだろうか。玲緒奈はよく柊を知らないが、柊が少しだけ楽しそうに思えた。
「あなた、一人称お忘れ?」
「おっと……私、だったな」
夕子は、柊のサポートが好きなようだ。柊の目線とほぼ同時に、彼女の瞳も流磨を映す。
「そうね、流磨くんには手伝ってほしいわ。この人はとても強いけど、やっぱり電脳空間で行われるスポーツは若さが大切なのよ。アバターもそれだけ高性能で、労力を消費するから」
柳は、奇妙な物理法則の変化を感知した。この浮遊感に慣れていないだろうクリスを支えるように、そのまま繋いだ手から二の腕を合わせ、柳はそっと重心を教える。
2人にとって、深海から水面への旅をしたかのような感覚だった。明るく眩しい空間に出て、柳とクリスは周囲の環境が変化したことに気づき、寄り添い浮かんでいた。視界いっぱいに敷き詰められた景色は万華鏡のようでもあり、ガラス細工のようでもある。どこが上で、どこが下なのかもわからない。柳は、これがネオトラバースの低重力タイプの各物理法則に近いことに気づいていた。
クリスは、現実ではないはずなのに震えてしまいそうな自分の身体を、目線を下ろして何度も確認する。そうして、終わりの見えない時間をどうにかやり過ごそうとしていた。
「む、無重力空間みたいな……?」
声が上擦った。緊張している彼女をよそに、柳は冷静に応える。
「うーん、どうかな……近いかもしれないね……」
ずっとトランジョンの最中のような感覚だ。
柳はプロ試合用領域の物理法則として体験する機会が多いが、クリスは未だ、現実から大きくかけ離れた空間に慣れていない。彼女が体験したのは何れも、学生大会用の範囲内での領域であった。
「……そ、そか」
三半規管の具合は電脳現実領域上のため関係ないが、乗り物酔いの記憶があると酔ったように錯覚し、実際に現実の脳が乗り物酔いと同じ認識を起こして、気持ちが悪くなってしまうこともある。
柳はクリスの顔を覗き込んで言葉をかけた。
「大丈夫? クリス、車酔いとかする方だっけ」
クリスはびくりと身を竦ませるようにして、次に視線を泳がせた。顔色を確認した柳は、じっと視線を合わせる。
「酔ってるの見たことないけど……どう?」
「……ちょっと怖いだけだよ……でも、柳がついててくれるから、今は平気」
少し硬い笑みは、それでもクリスの顔色が悪くない、むしろ頰は紅潮していることを柳に教えていた。
「……クリス、時間の感覚は? ここに来てからどれくらい経った気がしてる?」
「3日くらい経ったような気がしてる」
「うーん、じゃあ……競技を始めた時期から換算したら……多分大丈夫か……」
クリスは、柳の方をぼんやりと見ていた。体調の確認方法を反芻する柳に、彼女はややあって、ふわりと淡く柔らかな一言を発した。
「いろんなこと知ってるね、柳は」
「え?」
確かに、勉強を教えたり、わからないことを訊かれて答える機会は柳の方が多い。しかし、それは本質的に重要ではないと彼は感じている。人の知識は興味関心によって、個々に偏っている。学校の勉強が出来なくても社会的に成功する人間はいるし、勉強が出来たのに仕事面で成功できず、挫折する場合さえある。
だが、彼女が今言いたいことは、そうではないだろう。今は心を開示するときで、柳自身は知識を活用して、クリスの体調を確かめたかっただけなのだ。わかりあうために、柳は言葉を繋いだ。
「クリスだって、僕の知らないことを色々教えてくれるでしょ」
「……なんのこと?」
クリスは、自分の価値を知らないのかもしれない。柳は心が痛みを発したことを認識したように、そっと自分の胸元に触れた。そこには石がある。
ようやく動き出した、柳自身の心。つまり、人生。クリスがいるからこそ、柳はこの痛みの味を知ることができるのだ。甘くても、苦くても、辛くたって、柳には大切なものに違いなかった。
「……リリアのぼやきとか、最近は体のラインが少し出る服が流行りだとか、流行色が紫だとか、あと写真加工に便利なツールとか、あと」
「や、役に立たないことばっかりじゃない!」
クリスは恥ずかしそうに拳を握って訴えていた。いつでも、他愛も無い話に含まれる彼女の言葉を、柳は好んでいる。
「大事なことだよ、僕にとってはね」
──これは、何だろう?
「……そう……? なんで……」
この空間でのクリスの体には、羽根や翼を連想させるあしらいが巡る。アバターは象徴だ。纏う薄い外套の向こうで、彼女が空間のきらめきを跳ね返しているのを、柳は瞳に写し込んでいる。
「教えてくれてありがとう、クリスのこと」
未だ、柳ははっきりとはわからなかった。何年も動かさずにいた心は、すっかり鈍感になってしまっている。この不恰好な感情をふさわしい言葉に形容するには、暫くこの思考を繰り返す必要があるのだろう。
――どうしてなんだろう?
「…………ひえ」
「なに、その鳴き声?」
「……うう」
クリスの顔は赤い。
◆◆◆
「シノは、隠蔽者の一部にさせられつつあったんだ、帰ってきたくても何かが足りなくて、隠蔽者の支配から完全には抜けられない」
渋川は、3人の話し合いを思案顔で見つめていた。正確には、玲緒奈は先程の意見が精一杯のところであったため、その後のユエンと流磨の言葉を静聴していた。2人の話し合いに置いていかれているのかと思いきや、時折兄から確認を求められる。
経験が足りないというだけで、話し合いに参加しなくて良い理由にはならない。逆に、経験がないという理由で、玲緒奈をこの場に参加させない理由にもならない。
兄は玲緒奈のことを頭数に入れた話し合いになるよう、配慮しているようだった。
「抜け出す最後の鍵が機能しない……シノの一番大切なものは明らかに、クリスの存在そのものだろ……渋川さん?」
彼はそのまま渋川にも言葉と共に目配せしたが、渋川は立ったまま聞くことを選んだ。
「きっと一緒にいる。向こうでクリスがシノを求めて動くなら、何が起きたってシノは、最終的にクリスを放っておくわけにいかなくなる。それに、クリスはシノが本当はクリスのこと心配してるって確信を得てる」
そう。本当に嫌いになったのなら、咄嗟に電脳ノイズの狭間に吸い込まれそうになったクリスを抱きしめて助けることなど、なかったことだろう。あの綻びこそ真実だ。
柳はどうにか距離を置こうとしていたようだが、クリスも必死だ。どうにかして柳の関心を曝け出させれば、あとはクリスが、帰ってくるよう説得できるに決まっている。
「社長!」
東雲柊が入室した。隣には夕子の姿もある。大人たちが一声にざわめき、忙しなく動いた。ヴィジョンデジタルテックス社員が駆け寄る。
「社長、エイジスさんとの連携について、島のスパコンを5機手配しました。物理的には可能です」
「わかった。引き続き頼むよ。私はその前に、少しあの子達と話がある」
柊はこちらを見た。玲緒奈は、その眼光にどきりとする。テレビで見る様子と少し違い、気のせいかもしれないが今の彼は、ギラギラと捕食者のような目をしていた。
夕子が先にこちらに近づいて、随伴の部下らしき数名は技術者の群れに合流した。
「息子は」
ただ一言。確認するように、兄の目線が来た。玲緒奈は頷いてみせ、目線で答えた。
「おじさん、シノは戻りたいと思ってる」
「……戻りたい?」
柊の視線は、その一言の正確さを吟味するかのように、流磨に留まる。ユエンが具体的な事実を説明した。
「精神の値が、モニタリング可能になったんですが」
「本当か?」
「ええ、一緒に向こうにいるクリスは、安定し始めています」
少しだけ目尻が下がり、大きく目が見開かれた。そうしていると柳とそっくり同じだ。もしかして、疲れと寝不足が出ているのかもしれない。玲緒奈はユエンと柊を交互に見た。
「……そうか!」
玲緒奈の背後で、渋川が近付く気配がした。ユエンの声が続く。
「で、でも……」
「何か足りないものが?」
柊は、息子の安否に関する発言を聞いたところで、比較的に冷静だった。社長ともなると、感情のコントロールが高いレベルで必要なのかもしれない。
「電脳世界に、その構成を改変するほどの邪魔が入らないよう、組織側による妨害が組まれている可能性が高いです。これを突破するには時間を要する、と……おれは思います」
ユエンは迷いながら説明している。事実と感情がせめぎ合い、言葉を慎重に選んでいるのだろう。彼が説明できないでいる決定的な言葉を、渋川が代弁した。
「あとは息子さんの生命力と……こちらの技術力で突破までの時間をどれだけ縮められるかが勝負かと」
いつのまにか、部室内は説明を聞こうとする者たちが口を閉じたことで静寂に包まれていた。技術者のブースが役割を思い出したように再び動き出す。
「……ふ」
「おじさん」
流磨が気遣うように立った。多忙の中で乱れた髪が、柊の表情を隠している。夕子は、なぜか微笑んでいた。
「ふふ、ははは……」
「……おじさん?」
「はは、そうか! そうか……それなら、俺の出番だ……!」
「え」
流磨は、親友の父の初めてみせる声に、表情に戸惑っている。玲緒奈も同じだった。やはり、先程の違和感は気のせいではなかった。
「あなた、自分のこと説明しないと」
柊の二の腕あたりをそっと触り、夕子は優しく促した。彼ははっきりと切り取られたような口調で、演説する。
「俺は精神没入型電脳スポーツの黎明期、自分でいくつもの新スポーツを試した。英語圏は日本の市場規模よりも広く競争率が激しい。電脳領域テロ厳重警戒の危険な時代だった。妨害の突破術も身をもって知っているよ」
まさしく、この人こそがヴィジョンデジタルテックス代表取締役社長なのだ。玲緒奈は、よく知る父親としての柊も、テレビで取材を受けるビジネスマンとしての柊も、彼の作り出した幻影だったのかもしれないと思い至る。
「おじさん、何かあるんですか?」
流磨はいつも、玲緒奈が不思議に思うことを不思議に思う。似ていない兄妹と言われるのに、こういう時の兄は、玲緒奈の分身のようだった。
柊の出立は、よく知るものと変わらない。開示された情報だけが、今の彼が別人であると言っているかのようだ。
「何か、と言うほどのものではない……しかしね、流磨くん。今は現役引退しているが、ライセンスは今も生きているんだよ」
「ら、いせんす?」
その言葉が今示すものは。知っているものが一つだけある。しかし、そんなことが? どうして? 部室中がざわめく。ユエンは一拍おいて、誰より先に可能性の最も高い情報と結びつけ叫んだ。
「……あ?! 流磨、ヒイラギ・シノノメか?!」
「は?!」
東雲柊は、そこにいるその人だ。確認の意味を測りかねた流磨が反射的に返したが、ユエンはその一言が不満のようだった。手のひらを宙に掲げながら、流磨に食ってかかる。
「防御全振りアバター持ってんのに知らないのかよ!」
「遊びで作っただけだから、知らねえよ!なんだってんだ」
「10代の頃のシノノメ・ヒイラギさんは、ネオトラバース全米チャンピオンだぞ!? その後アメリカ国内のダークウェブを暴きまくった、伝説の!」
「いや、伝説なんていうのは本当に後から勝手に言われているだけで……」
柊が謙遜してみせた。だが、自信に溢れる立ち振る舞いからは、その話が本当であるように見える。
誰かが、シノノメ・ヒイラギの若かりし頃の情報を大写しにして、部室の大型立体モニターに展開した。ネットニュース、情報番組のスポーツ報道動画、新聞記事。その内容はユエンの説明に相違がないことを示しており、玲緒奈は流磨と顔を見合わせる。
「……まじですか」
「マジだね」
「ていうかなんか、おじさん性格が……」
その場にいた全員が抱いていた疑問を、ついに流磨がぶつけた。部内の誰もが返答を待つ。夕子が柊の両二の腕を支えつつ、かわりに答えた。
「この人、電脳スポーツのこととなると性格が違うのよ」
「いやあ、悪い癖でね。でも若い子には敵わないよ。きっと今の繭に入ったらもうヘトヘトだろう」
流磨は慌てながら大声で言った。
「行く気ですか?!」
なぜ、彼が? 彼は指示を出すだけで精一杯のはずだ。その上、安否がかかっているのは一人息子。目の下の深い隈は痛々しく、彼がこの立場でなくても、今のトランジョンは引き止めるべきものだろう。
「今俺が行かないでいつ行くんだ?」
柊は怯まない。これは父親としての矜持、意地なのだろうか。玲緒奈はよく柊を知らないが、柊が少しだけ楽しそうに思えた。
「あなた、一人称お忘れ?」
「おっと……私、だったな」
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