後宮なりきり夫婦録

石田空

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医局に向かう

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 月鈴は通された屋敷を見て回る。
 部屋は小ぶりだが、寝台も調度品も品がいい。
 それらを見て回ってから、月鈴はひとまず香炉を見つけ出してきて、その上に粉末をかけた。桃の木を乾燥させて削ったものである。そして火を点けると、たちまち屋敷全体が樹木の匂いに包まれた。
 それに月鈴は「ふう」と満足げに息を吐いたら、扉が叩かれた。

「失礼します。服をお持ちしました」
「ありがとう」

 月鈴はそれらを寝室へと持っていき、さっさと着替える。袖は妃のものよりもひらひらしておらず、重くもない。最後に彼女は袖に自身の得物を折り畳んで入れると、寝室を出てきた。
 浩宇は困った様子で香炉を見ていた。

「いったいなにを焚いたんですか? 森みたいな匂いがしますが……」
「桃の木だな」
「……この香りがお好きで?」
「浩宇はこの匂いが嫌いか?」
「……申し訳ありません」

 月鈴はにこやかに頷いた。

「後宮内のかどわかし事件があるからな、それの予防策として焚くことにしたんだ。でもあまり好きではないようだから、少し調合を考えておくことにしよう」
「かどわかしに木……ですか? 香木でもなんでもなく?」

 香りのいい木の匂いを好む者も中にはいるが、いがいがする匂いが好きな者はなかなかおるまい。それを理解している月鈴は「ああ」と頷いた。

「三魂七魄を食らう妖怪は、この匂いを嫌うからな」
「……まさか、あなたは陛下たちの昏睡事件も、宮女たちのかどわかしも、妖怪のしわざと……?」
「そこまでは言っていない。ただ、方士が動いている可能性があるから、念のためという具合だ」

 これ以上はさすがに浩宇も困るだろうと判断した月鈴は「少し調査に向かいたいが」と一旦止める。

「まだなにか?」
「すまない、医局はどこにある?」
「医局……ですか?」

 宦官として数多の宮女や妃と対話しただろうが、なにをしでかすかわからない月鈴の言動は、どうも苦手のようだった。

****

 長い廊下を歩きながら、月鈴は浩宇が渡してくれた地図を眺める。
 それぞれの妃たちの住まう館が存在し、その合間合間に宮女や宦官が使う廊下が伸びている。中央には、妃たちの食事を用意する大きな厨房があり、宮女や宦官はそこで食事をするようだ。
 宮女も妃たちが連れてきた侍女以外に、宮女狩りで連れてこられた下働きの女たちがいて、それらの管理を宦官が行っているらしい。
 話を聞いている限り泰然は後宮内での評判はかなりよく、どの時代も妃たちが皇帝の寵愛を巡って血で血を争うことが頻発するのだが、どの妃も大事にし、彼女たちの実家にも気配りをする彼の後宮では、逆に妃たちがそれぞれ連携を取っているようだが、度重なる宮女のかどわかしにより、それぞれが館に篭もりがちになり、またおかしなことが起こるのではないかと怖れられているらしかった。

(なるほど……空燕も跡継ぎ問題が原因で出家していたのだから、泰然様の代では仲のいい妃たちも、綻びが生じたら弱いといったところか……)

 医局はそれぞれが共同で使用している場所にあり、食堂付近にあるらしかった。
 月鈴がそう考えながら歩いていたら「そこのあなた」と凜とした声をかけられた。月鈴とほとんど変わらない宮女の服を着ているが、彼女の目の鋭さといい、立ち振る舞いの洗練されている様といい、どう考えても下働きではなく、いずれかの妃の侍女だろうことは察することができた。

「申し訳ございません。現在急いでおりますので」
「見慣れない顔ですね、この時間帯は宮女は待機を命じられているのは知らなくて? 今は私たち花妃《かひ》様の元の宮女が使う時間のはずです」
「時間……ですか?」

 どうにも要領を得ない話である。そこで月鈴は周りを見た。
 この辺りは皆、目の前の宮女と同じような格好をして、冷たい視線を月鈴に送っている。そして、気付けば女兵士たちが歩いているのだ。

(……この辺りは別に嫌な気配はしないし、彼女たちはさしずめ妖怪に脅えて使う時間をそれぞれの妃たちの宮女で使い分けていると言ったところか。さすがに勝手に宮女たちが決めた話を、宦官たちが知る訳もないし)

 実際にそんな言いがかりは、通り過ぎた際に見かけた宦官たちは特になんの反応もしていなかった。
 月鈴は仕方なく答える。

「申し訳ございません。新しく後宮に入りました妃様の侍女でございます。妃様の体調が優れませんので、医局で薬をいただきに参りましたので、先を急がせていただいてもよろしいでしょうか?」
「……新しく、妃……?」

 周りは寝耳に水だったのか、途端にざわめく。
 どうにも、妃付きの侍女たちには話が回っていなかったらしい。

(引きこもっていた上に、後宮内政治に疎くなってしまったのか……ここまで過剰反応を起こしているところからして、彼女たち、既に犠牲者が出ていないか?)

 さすがに泰然の妃や、侍女にこれ以上犠牲が出ても目覚めが悪いだろうと、月鈴はできる限りたおやかに言う。

「ええ。そういえば陛下は、このところ桃の花を見たいとしきりにおっしゃっているようですので、今桃の皮の香油がないか医局にお伺いに向かうのですが、よろしければいかがですか?」

 そう月鈴が誘うと、目の前の侍女は他の宮女たちを代表して、凜とした仕草のまま向かう。

「花妃様は、陛下の第一の妃であらせられます。療養の帰りをお待ちしていた仲、新しく妃を連れて帰るなんて、いくらなんでも我が主に対して失礼ではございませんか?」
「勘違いなさらないでくださいませ。我が主も、療養の手伝いをしている中で出会い、後宮に戻ってからの療養に切り替えなさるとおっしゃっているので同行しただけです。参りますか? 参りませんか?」
「……参ります。陛下に毒を盛られたら事ですから」

 こうして、先程から疑り深い目で月鈴を睨んでくる侍女を伴って、医局へと向かうこととなったのである。

(しかし……泰然様には後宮の人々が皆好くと聞いていたけれど、彼女は花妃……だったか? 彼女以外は目に入らないって感じだな。でもひりついた対応を取っているのも、別に方術で操られている訳でもなさそうだし、それはいいことだ)

 そう思いながら医局に向かう。
 医師らしき宦官が「どうされましたか?」と尋ねる中、疑り深い月鈴を睨む侍女の視線を無視して、月鈴は答えた。

「すみません、桃の香油がございませんか? あと」

 月鈴は侍女の視線を受け流しながら続ける。

「陛下が倒れた際の話を伺ってもよろしいでしょうか?」

 途端に侍女は釣り上がった目を細めて月鈴を見た。
 医師は「おやおや」と声を上げる。

「陛下が療養から帰ってこられたと伺いましたが」
「はい。元々療養先で、我が主が陛下の看病をしましたが、未だ不具合が多いために。倒れた前後の話が後宮内のことなため、我が主も状況があまりよくわかっておられず心配しております」
「……肉体自体には、本当になんの問題もございませんでした。しかし、いつまで経っても目が覚めませんでした」
「このことは、他の方からもお聞きしましたが。その中で、後宮内で変わったことはございませんでしたか?」

 元々、月鈴が医局に向かってきたのは他でもない。
 医局は後宮内でも数少ない中立地帯だからである。
 今の妃たちは仲がそこそこいいものの、本来妃は子を産むために存在している。妃が自分の子を次の皇帝にしたいと思うのは自然な流れなため、他の妃や生まれた皇子たちに危害を加えたり、今の皇帝を亡き者にしてしまおうというのは自然な流れであった。
 宦官の場合は、美貌に自信があれば、妃をたぶらかして自分の権力を得るために利用することもあるため、中立とは言いがたい。
 もっとも、現状泰然には世継ぎが生まれておらず、妃たちの仲も悪化はしていなかったとは侍女たちの証言でも確認が取れているが。だとしたら、方士がなにかしら企んでいる証拠はないだろうかと確認したかったのだ。
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