17 / 22
紅華
四
しおりを挟む
鬱金はそのまま山を降りると、馬を走らせて役所へと向かう。
普段から鬱金が買い物に出かける市場を抜けて、役所を目指す。
麓に住んでいる人々が、驚いた顔で山を見ていた。
数人は、鬱金と一緒に弁当の屋台に並んでいる顔なじみだし、市場で商いをしている人々や、野菜を売りに来ている百姓たちも、荷台を停めて見ている。
「あれ……なんだい?」
麓からでは、物の怪の群れがなんなのかがよく見えない。
麓の人々からしてみれば、黒点の波にしか見えず、それが山の若木をどんどん食らって暴走しているなんてことを教えたら、たちまち騒乱状態になってしまうだろう。
鬱金は必死に、馬を走らせて叫ぶ。
「どいて! お願いだから、どいて……!」
畑を通り過ぎ、山を見上げる人々をどうにか道の端に追いやって、役所前に到着すると、震える手でどうにか馬の手綱を繋げる。
「……ここで、待っててね」
馬の鬣を撫でてそう告げると、鬱金は踵を返して役所へと走り出す。
役所内では役人たちがばたばたと走っているのが見える。どう考えてもあの山の物の怪を目撃しているからだろう。
そこに鬱金が必死に声を上げる。
「救援要請! 山の上には、櫻守の棟梁と紅華がいるから……! 助けて!」
声を必死で上げると、そこで役人のひとりがやって来た。
狩衣を着たその人物は、鬱金の言葉を聞いて「薄墨殿の部下の?」と尋ねてくるので、必死で首を縦に振る。
「そう! ぼくは鬱金で……棟梁の部下!」
「わかった……至急、他山の櫻守に救援要請を! あと庭師に連絡を!」
それに鬱金は「あ……」と声を上げる。
「庭師が、山に入ってから、山の様子がおかしくなって……でも抗議をずっと続けていても無視されてて……あの人たち、いったいなにをやっているの……?」
鬱金の要領を得ない言葉に、役人は困ったように眉を下げた。
これは鬱金が子供の櫻守だと思って侮っているのか、それとも庭師は貴族であり帝の部下なんだから悪さはしないと思われているのか、どちらなのかはわからなかった。
「……このことは?」
役人に尋ねられ、鬱金は指を折りながら答える。
「紅華……ぼくと同じ櫻守……も、棟梁もずっと抗議を入れているけれど、庭師がおかしなことをやっている理由がわからなくって……棟梁も、誰かが不用意に物の怪の巣をつつかなかったら、物の怪がなだれ込むような真似なんてしないって……」
そこまで言うと、役人は押し黙り、やがて意を決したように鬱金の肩を叩いた。
「……このことは朝廷に報告します。報告本当にありがとうございます」
そう硬い口調でお礼を言ったあと、ばたばたと走り回って各地に報告や救援要請を飛ばしている役人たちの中に戻っていってしまった。
鬱金は役所を出て、もう一度山を見上げる。
麓の人々は呆然とした顔をしているが、未だに肉眼で見えるあの黒点の波がなんなのかまではわかってないようだ。鬱金も鼻を動かしてみるものの、まだ物の怪のにおいはしない。
なだれ込んで来ているはずの物の怪も、まだ麓にまでは降りてきてはいない。だがこのまま人郷が襲われ、さらに最下層にまで到達するのも時間の問題だ。
このまま再び山に戻って手伝うか……そこまで考えて鬱金は首を振った。
自分は物の怪を殺せるだけの毒を出せるとは聞いたが、自分だと使い方がわからない。なによりもむやみやたらと物の怪を殺して回りたくない。
だが、このまま麓から見上げているだけで本当にいいんだろうかと、鬱金は漠然とした不安に襲われる。どう考えたって、たったふたりであの量の物の怪を相手するのは無理だ。
救援要請は出したものの、これがいったいいつになったら他所の櫻守や庭師に行き渡るのかわかったもんじゃないし、それまでふたりが持ちこたえられるのかがわからない。現に麓にいる人々は山の危機を誰も理解できてはいないようだし、そもそも誰もふたりを助けに行こうとしていない。
登る? 待つ?
棟梁の指示に反してよかった例はまずないが、数が多過ぎる物の怪に対して、たったふたりの櫻守では荷が重い。だが鬱金はそもそも物の怪を殺すことはできない。
もしかしたら自分では出し方のわからない防衛本能による毒で、少しは殺せるかもしれないが、自主的に物の怪を屠ることができない鬱金は、どれだけ毒を出せば物の怪を止められるかがわからない。
でも……そこまでぐるぐると考え続け、だんだんと吐き気を催してきた中、ひとつだけ妙案が思いついた。
鬱金は意を決して山まで走る。だんだん走っていけば、道が険しい場所へと辿り着く。木々がどんどん山道を織りなす中、空洞が存在している。
鬱金はその空洞目掛けて、飛び降りた。
山の最下層。
麓よりも下の場所目指して、どんどんと最下層まで引きずり降ろされていく。
最初に間違って最下層に落ちたときは怖かったし、何度も何度も木刀で衝撃を殺していたというのに、今の鬱金は背中に佩いた木刀すら抜かずに、そのまま落ちている。
やがて、腐葉土の積もった柔らかい土に着地すると、そのまま走り出した。
物の怪たちが桜の木を襲うのは、腹を減らしているから。今の桜は柔く脆く、彼らの飢えを満たすことができず、冬眠する時期でもなお、腹を減らして起きてしまう。
櫻守からしてみれば、そう何度も何度も桜の木を食われてしまったら、ただでさえ弱っている桜がますます弱く脆くなってしまうのだから、殺すしかなくなる。
どちらも千年花がなければ生きていけないのに、千年花が枯れかけているのが原因で殺し合わなければいけなくなっている。だとしたら、千年花の代替わりが滞りなく終えられればいい。
「九尾の狐、九尾の狐……!」
鬱金は必死で声を張り上げた。
さんざん考えた末に、鬱金はあの美しい物の怪に助けを求めることにしたのだ。
何度も何度も声を上げて呼び、探し回ったところで、あのふさふさとした尻尾が揺れ、鬱金の傍に寄って来るのが見え、鬱金は心底ほっとした。
──よくわたしの居場所がわかりましたね?
九尾の狐の声に、胸が熱くなり、涙が目尻を流れるのがわかる。心底ほっとしているのだ。だが、まだ九尾の狐に会えただけで、なにひとつ解決してはいない。
鬱金は必死に涙を拭きながら、頷いた。
「あなたは、他の物の怪と違うから……あのなだれも物の怪の中に混ざっているとは思わなかったし……あなたは冬眠を必要ないようだったから。それに何度も何度も千年花の代替わりの方法を教えてくれたんだから、代替わりをするためだったら、千年花の母樹の近くにいるんじゃないかと思ったんだ」
鬱金の返答に、九尾の狐は満足げに頷いた。
──そうですね。それで、わたしになんの用ですか?
九尾の狐の問いに、鬱金は真っ直ぐに山の上を指差す。
「……冬眠していた物の怪が起きて、ものすごい勢いで麓目指してなだれ込んでるんだ。あの物の怪たちを全員止めたいんだけれど、手伝ってくれないかな? あそこには棟梁と紅華がいるんだ……原因を止めたら、多分止められると思うんだけれど。このままいったら、どちらかがいなくなるまで殺し合いになってしまうから……」
──まったく愚かなことです
今まであまりにも達観した物言いが目立った九尾の狐の言葉尻に、嫌悪の感情が入り混じる。それに鬱金は困惑した。
「九尾の狐?」
──あなたに言ったのでも、物の怪に言ったのでも、櫻守に言ったのでもありません。物の怪の巣を暴いた者たちに言っているのです
そういえば、薄墨も言っていた。
こんなに物の怪のなだれが起こるなんて、誰かが物の怪の巣をつつかなければありえないと。そして薄墨はそれを庭師だと言っていた。
「……巣をつついたのは庭師じゃないかって言っていたけれど。庭師は、どうして物の怪を殺して回っていたり、櫻守に無断で山に入るんだろうね?」
鬱金の言葉に、ひとまず九尾の狐は伏せる。柔らかな背中を見せるのに鬱金が首を傾げていると、九尾の狐が静かに言った。
──乗ってください。移動しながら話をしたほうが早いでしょう。それに、あの雪崩の中にあなたの大切なものがいるのでしょう?
「……うん、ありがとう。九尾の狐」
鬱金はそのふかふかとした毛並みのよさに恐々としながら乗ると、沈み込む感覚を覚え、その毛並みに埋まりながらしがみつく。
そのまま九尾の狐は走りはじめた。
その九尾の狐の走りの軽快さに、鬱金は驚いた。馬に乗っているときは、びっくりするくらいに足の感覚が尻に直結したというのに、九尾の狐の背に乗っているときは、その感覚が一切ない。空を漂う雲に乗っていたら、そんな具合なんだろうと想像できる。
九尾の狐は最下層から母樹の太い枝を伝って、するすると上へと目指して走っていく。
──庭師が櫻守と連携を取っていたら、こんなくだらないことは起こらなかったのでしょうが、起こってしまったからには仕方ありません
「あなたは、庭師がなにをしたいのか知っているの?」
意外なことを言い出した九尾の狐に、鬱金は戸惑う。九尾の狐は続ける。
──本来、庭師は朝廷から帝と共に千年桜を、櫻守たちに指示を出しながら守る役割を果たしていましたが、彼らは持つ権限が大きくなってからは、実務を全て櫻守に押し付けてしまい、知識は持ちながらも経験で培われた知識が欠損してしまいました
それらの話は、たしかに薄墨も語っていたことだ。庭師はあまりにも、櫻守の仕事を知らな過ぎる。九尾の狐は続ける。
──ですから、代替わりを滞りなく行うために必要なものを、彼らは探していても、既に櫻守が禁則としていることすら欠如してしまった彼らでは、物の怪たちの怒りを買うだけです
要は、彼らは櫻守であったらまずしない、冬眠中の物の怪の巣に押し入ったことも、彼らを刺激して起こしてしまったことも、彼らの無知が招いたということらしい。
知識が欠落しているとは聞いたが、なにをしたらまずいのかということすら、想像ができなかったというのに、鬱金は歯がゆくなった。
「その……庭師が行おうとしているのは、千年花の代替わりってことだよね? 代替わりに必要なものって、ぼくに言っていた物の怪との契約ってこと?」
──少し違います。あなたが物の怪と契約できなければなりませんが、庭師はなにも物の怪と契約使役する必要がありませんから。彼らが探しているのは千年花の化身です
「え……けしん?」
初めて聞く言葉であった。
この話は座学を見てくれた紅華からだけではなく、薄墨から聞いたことがない。
その化身の意味を問いただす前に、だんだん視界が裸の木々に覆われてきた。
普段から鬱金が買い物に出かける市場を抜けて、役所を目指す。
麓に住んでいる人々が、驚いた顔で山を見ていた。
数人は、鬱金と一緒に弁当の屋台に並んでいる顔なじみだし、市場で商いをしている人々や、野菜を売りに来ている百姓たちも、荷台を停めて見ている。
「あれ……なんだい?」
麓からでは、物の怪の群れがなんなのかがよく見えない。
麓の人々からしてみれば、黒点の波にしか見えず、それが山の若木をどんどん食らって暴走しているなんてことを教えたら、たちまち騒乱状態になってしまうだろう。
鬱金は必死に、馬を走らせて叫ぶ。
「どいて! お願いだから、どいて……!」
畑を通り過ぎ、山を見上げる人々をどうにか道の端に追いやって、役所前に到着すると、震える手でどうにか馬の手綱を繋げる。
「……ここで、待っててね」
馬の鬣を撫でてそう告げると、鬱金は踵を返して役所へと走り出す。
役所内では役人たちがばたばたと走っているのが見える。どう考えてもあの山の物の怪を目撃しているからだろう。
そこに鬱金が必死に声を上げる。
「救援要請! 山の上には、櫻守の棟梁と紅華がいるから……! 助けて!」
声を必死で上げると、そこで役人のひとりがやって来た。
狩衣を着たその人物は、鬱金の言葉を聞いて「薄墨殿の部下の?」と尋ねてくるので、必死で首を縦に振る。
「そう! ぼくは鬱金で……棟梁の部下!」
「わかった……至急、他山の櫻守に救援要請を! あと庭師に連絡を!」
それに鬱金は「あ……」と声を上げる。
「庭師が、山に入ってから、山の様子がおかしくなって……でも抗議をずっと続けていても無視されてて……あの人たち、いったいなにをやっているの……?」
鬱金の要領を得ない言葉に、役人は困ったように眉を下げた。
これは鬱金が子供の櫻守だと思って侮っているのか、それとも庭師は貴族であり帝の部下なんだから悪さはしないと思われているのか、どちらなのかはわからなかった。
「……このことは?」
役人に尋ねられ、鬱金は指を折りながら答える。
「紅華……ぼくと同じ櫻守……も、棟梁もずっと抗議を入れているけれど、庭師がおかしなことをやっている理由がわからなくって……棟梁も、誰かが不用意に物の怪の巣をつつかなかったら、物の怪がなだれ込むような真似なんてしないって……」
そこまで言うと、役人は押し黙り、やがて意を決したように鬱金の肩を叩いた。
「……このことは朝廷に報告します。報告本当にありがとうございます」
そう硬い口調でお礼を言ったあと、ばたばたと走り回って各地に報告や救援要請を飛ばしている役人たちの中に戻っていってしまった。
鬱金は役所を出て、もう一度山を見上げる。
麓の人々は呆然とした顔をしているが、未だに肉眼で見えるあの黒点の波がなんなのかまではわかってないようだ。鬱金も鼻を動かしてみるものの、まだ物の怪のにおいはしない。
なだれ込んで来ているはずの物の怪も、まだ麓にまでは降りてきてはいない。だがこのまま人郷が襲われ、さらに最下層にまで到達するのも時間の問題だ。
このまま再び山に戻って手伝うか……そこまで考えて鬱金は首を振った。
自分は物の怪を殺せるだけの毒を出せるとは聞いたが、自分だと使い方がわからない。なによりもむやみやたらと物の怪を殺して回りたくない。
だが、このまま麓から見上げているだけで本当にいいんだろうかと、鬱金は漠然とした不安に襲われる。どう考えたって、たったふたりであの量の物の怪を相手するのは無理だ。
救援要請は出したものの、これがいったいいつになったら他所の櫻守や庭師に行き渡るのかわかったもんじゃないし、それまでふたりが持ちこたえられるのかがわからない。現に麓にいる人々は山の危機を誰も理解できてはいないようだし、そもそも誰もふたりを助けに行こうとしていない。
登る? 待つ?
棟梁の指示に反してよかった例はまずないが、数が多過ぎる物の怪に対して、たったふたりの櫻守では荷が重い。だが鬱金はそもそも物の怪を殺すことはできない。
もしかしたら自分では出し方のわからない防衛本能による毒で、少しは殺せるかもしれないが、自主的に物の怪を屠ることができない鬱金は、どれだけ毒を出せば物の怪を止められるかがわからない。
でも……そこまでぐるぐると考え続け、だんだんと吐き気を催してきた中、ひとつだけ妙案が思いついた。
鬱金は意を決して山まで走る。だんだん走っていけば、道が険しい場所へと辿り着く。木々がどんどん山道を織りなす中、空洞が存在している。
鬱金はその空洞目掛けて、飛び降りた。
山の最下層。
麓よりも下の場所目指して、どんどんと最下層まで引きずり降ろされていく。
最初に間違って最下層に落ちたときは怖かったし、何度も何度も木刀で衝撃を殺していたというのに、今の鬱金は背中に佩いた木刀すら抜かずに、そのまま落ちている。
やがて、腐葉土の積もった柔らかい土に着地すると、そのまま走り出した。
物の怪たちが桜の木を襲うのは、腹を減らしているから。今の桜は柔く脆く、彼らの飢えを満たすことができず、冬眠する時期でもなお、腹を減らして起きてしまう。
櫻守からしてみれば、そう何度も何度も桜の木を食われてしまったら、ただでさえ弱っている桜がますます弱く脆くなってしまうのだから、殺すしかなくなる。
どちらも千年花がなければ生きていけないのに、千年花が枯れかけているのが原因で殺し合わなければいけなくなっている。だとしたら、千年花の代替わりが滞りなく終えられればいい。
「九尾の狐、九尾の狐……!」
鬱金は必死で声を張り上げた。
さんざん考えた末に、鬱金はあの美しい物の怪に助けを求めることにしたのだ。
何度も何度も声を上げて呼び、探し回ったところで、あのふさふさとした尻尾が揺れ、鬱金の傍に寄って来るのが見え、鬱金は心底ほっとした。
──よくわたしの居場所がわかりましたね?
九尾の狐の声に、胸が熱くなり、涙が目尻を流れるのがわかる。心底ほっとしているのだ。だが、まだ九尾の狐に会えただけで、なにひとつ解決してはいない。
鬱金は必死に涙を拭きながら、頷いた。
「あなたは、他の物の怪と違うから……あのなだれも物の怪の中に混ざっているとは思わなかったし……あなたは冬眠を必要ないようだったから。それに何度も何度も千年花の代替わりの方法を教えてくれたんだから、代替わりをするためだったら、千年花の母樹の近くにいるんじゃないかと思ったんだ」
鬱金の返答に、九尾の狐は満足げに頷いた。
──そうですね。それで、わたしになんの用ですか?
九尾の狐の問いに、鬱金は真っ直ぐに山の上を指差す。
「……冬眠していた物の怪が起きて、ものすごい勢いで麓目指してなだれ込んでるんだ。あの物の怪たちを全員止めたいんだけれど、手伝ってくれないかな? あそこには棟梁と紅華がいるんだ……原因を止めたら、多分止められると思うんだけれど。このままいったら、どちらかがいなくなるまで殺し合いになってしまうから……」
──まったく愚かなことです
今まであまりにも達観した物言いが目立った九尾の狐の言葉尻に、嫌悪の感情が入り混じる。それに鬱金は困惑した。
「九尾の狐?」
──あなたに言ったのでも、物の怪に言ったのでも、櫻守に言ったのでもありません。物の怪の巣を暴いた者たちに言っているのです
そういえば、薄墨も言っていた。
こんなに物の怪のなだれが起こるなんて、誰かが物の怪の巣をつつかなければありえないと。そして薄墨はそれを庭師だと言っていた。
「……巣をつついたのは庭師じゃないかって言っていたけれど。庭師は、どうして物の怪を殺して回っていたり、櫻守に無断で山に入るんだろうね?」
鬱金の言葉に、ひとまず九尾の狐は伏せる。柔らかな背中を見せるのに鬱金が首を傾げていると、九尾の狐が静かに言った。
──乗ってください。移動しながら話をしたほうが早いでしょう。それに、あの雪崩の中にあなたの大切なものがいるのでしょう?
「……うん、ありがとう。九尾の狐」
鬱金はそのふかふかとした毛並みのよさに恐々としながら乗ると、沈み込む感覚を覚え、その毛並みに埋まりながらしがみつく。
そのまま九尾の狐は走りはじめた。
その九尾の狐の走りの軽快さに、鬱金は驚いた。馬に乗っているときは、びっくりするくらいに足の感覚が尻に直結したというのに、九尾の狐の背に乗っているときは、その感覚が一切ない。空を漂う雲に乗っていたら、そんな具合なんだろうと想像できる。
九尾の狐は最下層から母樹の太い枝を伝って、するすると上へと目指して走っていく。
──庭師が櫻守と連携を取っていたら、こんなくだらないことは起こらなかったのでしょうが、起こってしまったからには仕方ありません
「あなたは、庭師がなにをしたいのか知っているの?」
意外なことを言い出した九尾の狐に、鬱金は戸惑う。九尾の狐は続ける。
──本来、庭師は朝廷から帝と共に千年桜を、櫻守たちに指示を出しながら守る役割を果たしていましたが、彼らは持つ権限が大きくなってからは、実務を全て櫻守に押し付けてしまい、知識は持ちながらも経験で培われた知識が欠損してしまいました
それらの話は、たしかに薄墨も語っていたことだ。庭師はあまりにも、櫻守の仕事を知らな過ぎる。九尾の狐は続ける。
──ですから、代替わりを滞りなく行うために必要なものを、彼らは探していても、既に櫻守が禁則としていることすら欠如してしまった彼らでは、物の怪たちの怒りを買うだけです
要は、彼らは櫻守であったらまずしない、冬眠中の物の怪の巣に押し入ったことも、彼らを刺激して起こしてしまったことも、彼らの無知が招いたということらしい。
知識が欠落しているとは聞いたが、なにをしたらまずいのかということすら、想像ができなかったというのに、鬱金は歯がゆくなった。
「その……庭師が行おうとしているのは、千年花の代替わりってことだよね? 代替わりに必要なものって、ぼくに言っていた物の怪との契約ってこと?」
──少し違います。あなたが物の怪と契約できなければなりませんが、庭師はなにも物の怪と契約使役する必要がありませんから。彼らが探しているのは千年花の化身です
「え……けしん?」
初めて聞く言葉であった。
この話は座学を見てくれた紅華からだけではなく、薄墨から聞いたことがない。
その化身の意味を問いただす前に、だんだん視界が裸の木々に覆われてきた。
0
あなたにおすすめの小説
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた
下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。
ご都合主義のハッピーエンドのSSです。
でも周りは全くハッピーじゃないです。
小説家になろう様でも投稿しています。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
~春の国~片足の不自由な王妃様
クラゲ散歩
恋愛
春の暖かい陽気の中。色鮮やかな花が咲き乱れ。蝶が二人を祝福してるように。
春の国の王太子ジーク=スノーフレーク=スプリング(22)と侯爵令嬢ローズマリー=ローバー(18)が、丘の上にある小さな教会で愛を誓い。女神の祝福を受け夫婦になった。
街中を馬車で移動中。二人はずっと笑顔だった。
それを見た者は、相思相愛だと思っただろう。
しかし〜ここまでくるまでに、王太子が裏で動いていたのを知っているのはごくわずか。
花嫁は〜その笑顔の下でなにを思っているのだろうか??
【大賞・完結】地味スキル《お片付け》は最強です!社畜OL、異世界でうっかり国を改革しちゃったら、騎士団長と皇帝陛下に溺愛されてるんですが!?
旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞で大賞をいただきました】→【規約変更で書籍化&コミカライズ「確約」は取り消しになりました。】
佐藤美佳子(サトウ・ミカコ)、享年28歳。死因は、過労。連日の徹夜と休日出勤の果てに、ブラック企業のオフィスで静かに息を引き取った彼女が次に目覚めたのは、剣と魔法のファンタジー世界だった。
新たな生を受けたのは、田舎のしがない貧乏貴族の娘、ミカ・アシュフィールド、16歳。神様がくれた転生特典は、なんと《完璧なる整理整頓》という、とんでもなく地味なスキルだった。
「せめて回復魔法とかが良かった……」
戦闘にも生産にも役立たないスキルに落胆し、今度こそは静かに、穏やかに生きたいと願うミカ。しかし、そんな彼女のささやかな望みは、王家からの突然の徴収命令によって打ち砕かれる。
「特殊技能持ちは、王宮へ出仕せよ」
家族を守るため、どうせ役立たずと追い返されるだろうと高をくくって王都へ向かったミカに与えられた任務は、あまりにも無謀なものだった。
「この『開かずの倉庫』を、整理せよ」
そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。
絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。
これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる