電車の男ー社会人編ー

月世

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Ⅰ.倉知編

「浅見先生」

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 校内は静かだった。
 生徒がいないからだ。
 始業式と入学式を来週に控え、職員室だけが慌ただしい。
「はい、注目」
 教頭が手を打った。
 びっしりと予定が書き込まれたホワイトボードの前に、新しく配属になった教員と職員が一列に並ぶ。俺の横で若い女性がしきりに震えている。出会ったときからずっと震えていて、陰で手のひらに何度も人という字を書いて飲み込んでいた。わかりやすく緊張している。
 そういうときは、目の前の人の全裸を思い浮かべるといいですよとアドバイスをしたかったが、効果がなかったらただの変態だと気づき、思いとどまった。
「今日から新しく一緒に働く仲間のみなさんです。時間もないから一人ずつ、教科と名前だけ、言ってって」
 校長が言うと、隣の女性が「教科と名前、教科と名前」と小声でつぶやき、祈るポーズをした。
 本当に大丈夫だろうか、と人のことなのに不安になった。教師というのは人前で喋る仕事だ。こんなにあがり症で、果たして勤まるのだろうか。
 彼女は順番が回ってくるのを戦々恐々として待ち構えていたが、いざ自分の番になると突然人が変わった。
「英語担当、杉浦です」
 キリッと眼鏡のフレームを持ち上げて、知的に微笑んでさえいる。こんなにも変われるものかと感心していると、教頭が「次、倉知先生、倉知先生ですよ」と急かした。慌てて
「はい」と背筋を伸ばす。
「倉知七世です。担当は数学です。よろしくお願いいたします」
「はい、以上のみなさんです、拍手」
 教頭が早口で締めくくると、パチパチ、とあちこちからまばらに拍手が起きた。見知った先生の顔も見える。手を振られて、丁寧に頭を下げた。
「じゃあそれぞれ指導教員に従って、会議に遅れないように」
 校長が間延びした声で言って、教頭が「解散」と急いで言葉を継ぐ。
 校長が鼻歌を歌いながら校長室に戻っていくと、教室の中は再生ボタンを押した録画映像のようにバタバタと動き出す。
「倉知先生、こっち」
 職員室のドアを開けて、廊下から手招いている人物がいた。はい、と返事をして、人の隙間を縫って駆けていくと、彼は俺を見上げて軽く仰け反った。
「でか」
 白髪交じりの髪はボサボサで、無精ひげを生やし、青色のジャージは若干くすんでいた。一瞬煙草を咥えているように見えて驚いたが、どうやら棒つきの飴を食べているらしい。
 片方の頬を膨らませたまま、ポケットからストラップがぐるぐる巻きになった名札ホルダーを取り出した。巻かれたストラップを振りほどき、顔の高さに持ち上げると、「あなたの指導教員、浅見《あさみ》です」と名乗った。名札には浅見楽人らくととある。
「浅見先生、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」
 頭を下げると、浅見先生が「おー」とのんびり返事した。
「とりあえず校内を案内してやろう」
「ありがとうございます、でも」
 その必要はない。この高校は、数年前まで通っていた母校なのだ。と説明しようとしたが、浅見先生が言葉をかぶせてきた。
「母校なんだろ」
「はい」
「知ってる先生いる? 懐かしい?」
「はい!」
 本当に懐かしくて、気持ちが盛り上がり、やたらと気合の入った声が出てしまった。
「元気だね」
 浅見先生は顔色を変えずにうなずいて、ぺったぺったと足音を響かせ、俺の前を歩く。
「新任の先生はとにかく期待されるけど、あんまり気負わないで、一生懸命になりすぎないでね」
 期待される、と言われて肩に力が入った。浅見先生は足を止め、ポケットに手を突っ込んで、振り返った。
「潰されないように守るから、適度にがんばって」
 名は体を表すというが、楽な人、というのが第一印象だった。にこにこしているわけじゃないのに、優しい人だというのがわかる。まったりした空気をまとい、上手に緊張をほぐしてくれる。
 出会って数分で、この人が好きになっていた。
 それに、守る、と言った言葉はそのままの意味なのだと、あとの会議で実感した。
「倉知先生、ダンス部の顧問どう? ダンス上手そうな顔だよねえ」
 部活の顧問の話になり、校長がなぜかそんなことを言い出して、メモを取る手が止まった。ダンスは苦手分野で、知識も何もない。
「いえ、全然です。残念ながら」
「でもテレビで踊ってなかった?」
 前にも誰かにそんなことを言われた気がしたが、まったく身に覚えがない。教頭が、「踊ってた踊ってた」とアシストしたが、そこで浅見先生が手を上げた。
「倉知先生はうちの副顧問に欲しいんですが」
「浅見先生、倉知先生のこと欲しがるねえ。独占禁止法違反じゃない?」
 校長が妙な言い回しをしたが、指導教員かつ、浅見先生が担任を受け持つ二年二組の副担任を命じられているので、そういう意味だろう。
「結果的にそうなりますね。駄目ですか」
「駄目とは言ってないよ。彼経験者みたいだし、まあ、いいんじゃない。はい決定」
 校長があっさり承認し、教頭が俺を見て言った。
「じゃ、倉知先生はバスケ部の副顧問ね」
 バスケ部、と口中で復唱した。ロの字型の会議室内のテーブルで、対面に座った浅見先生と目が合った。無表情だったが、俺には彼の体温が伝わるようだった。
「すまん、勝手に副顧問にして」
 昼になり、会議は一時中断され、職員室で休憩をとっている。浅見先生が隣の席でメロンパンをかじりながら謝った。
「ダンス部はまあ、遊びみたいな部だし、顧問も楽っちゃ楽なんだけど、苦手だよね? 本当にテレビで踊ってる人だったらすまん」
「踊ってないです、あの、助かりました」
「あれはパワハラぽかったねえ」
 対面の机から、にょきっと顔を出したのは、歴史の西村先生だった。俺がこの学校の生徒だった頃からここで教師をしていて、お世話になった一人だ。ちょうど母親くらいの年代で、「おかん」と呼ぶ生徒もいた。小さくてふくよかな感じがどこか安心できて、生徒から好かれる先生だった。
「パワハラよりセクハラ? ごめんねえ、うちの校長が。気持ち悪かった?」
 ダンス部のくだりを言っているらしいが、俺はパワハラともセクハラとも感じなかったし、気持ち悪いなんて滅相もない。
「楽しい校長と教頭でよかったと思ってます」
「まあね、二人ともここに来て浅いんだけど、校長はゆるいし、教頭はせっかちだし、でも基本はいい人たちよ」
 西村先生が胸を叩く。うちの校長、という彼女の言い方には愛を感じる。人間関係は良好そうで、安心した。
「バスケ部の副顧問、がんばります」
 よろしくお願いします、と浅見先生に頭を下げると、モグモグしながら俺を見て、首を横に振る。
「うち弱小だから。ただ楽しくやってるだけだし、そんながんばらなくていいよ」
 俺が卒業したあと、マネージャーの手腕もあって少しずつ成績を伸ばし、ベストエイトに入ったはずだ。弱小に逆戻りしたらしい。ああ……、と残念な声が出てしまった。
 でも、勝ち負けを抜きに、楽しんでバスケをするというのも素晴らしいことなのだ。俺はバスケ部だった三年間に、後悔はない。
「んんっ、そのお弁当、もしかして彼女? それともお母さん?」
 俺の弁当に気づいて、西村先生が立ち上がり、こちら側に飛んできた。
「いえ、これは自分で」
「はー? やるもんだ」
 うなりながら弁当を覗き込んでいた西村先生が「そうだ」と手を打って、再びデスクに戻り、スマホを手にして帰ってきた。
「LINE交換しよ。教師のグループあるから」
「はい、お願いします」
 スーツのジャケットからスマホを出すと、通知が目に入り、ドキッとした。加賀さんだ。
「その顔は、彼女だね」
 西村先生に指摘され、顔を撫でる。嬉しい気持ちが透けて出ていたかもしれない。
「えっと……」
「あっ、これもセクハラ? ごめんね、息子が同じくらいの歳だから、構いたくなっちゃって」
「大丈夫です、どんどん構ってください」
 咄嗟にそう言うと、西村先生は豪快に笑い、「そうそうそう」と俺の背中を、体全体を使って叩いてくる。
「こういうキャラだった、うん、思い出した。真面目だけどちょっと抜け作なところが面白かったっけ」
 抜け作という言葉で評価されたのは初めてで戸惑っていると、西村先生が唐突にウインクをした。
「先、彼女からのメッセージ、見てあげて。あと、時間ないから早くお弁当食べなさい。始業式と入学式の準備もあるからね、やることいっぱいよ」
 最後は母親の口調だった。自分の席に戻っていく西村先生を目で追ってから、隣の浅見先生を確認した。職員室でスマホを見てもいいものか、と思ったのだが、当の本人がスマホを触っていた。
 浅見先生はこっちを見ずに、チョコがコーティングされた菓子パンを開けて、「どうぞ」と言った。
「音だけ出さないでね」
「はい、じゃあ失礼します」
 姿勢を正し、深呼吸をしてから、心を落ち着けて、いざ、加賀さんからのLINEを開く。
『おつかれ。学校どう? 倉知君のお弁当いいだろーってみんなに自慢しまくった。めっちゃうまいお弁当。お弁当しあわせ』
 お弁当の連呼に頬が緩む。あえて「お」をつけるのが可愛い。即座に「お弁当、可愛いです」と送信すると、「自画自賛(笑)」と返ってきて、そこで気がついた。
 昨日の夜、加賀さんが「可愛い」と言ったのはそういうことだったのか、とやおら赤面し、ごまかすように素早く返信を打つ。
 学校なつかしいし楽しいです。みんないい人です。今から弁当食べます。加賀さんも午後から頑張って。
 送信して、既読がつくとすぐに返事がきた。
『弁当可愛い』
 今度は意識して「お」を削ったのに、もうこの人はなんでも可愛いと言うのだなあ、と愛しさが込み上げる。
 手を合わせ、いただきますとつぶやいて、箸を持つ。
 咀嚼しながら、微笑みが止まらない。
 愛しい人をフル充電した、つかの間の休息。
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