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Ⅱ.加賀編
「八月十八日」
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総務から内線が入り、「明日、有給届出てないけど、大丈夫?」と訊かれた。
「え? ああ、八月十八日ですか?」
卓上カレンダーを見て、笑いが零れた。
ここ数年、八月十八日は必ず有給休暇を取ってきた。それを総務も把握していて、書類が出ていないことを親切に教えてくれたらしい。
「いいんです、今年は」
今年はその必要がない。
学生は夏休みでも教師は当然仕事がある。研修や講習が多くてむしろ忙しいと言っていた。俺だけが休んでも仕方がないのだ。
倉知の誕生日に、俺のすべてを捧げてきた。時間も、体も、何もかも。
好きなようにさせて、甘やかして、甘やかされる。
大切な、幸せな一日だった。
だった、と過去形で完結させたくない。今年はどうなるのか。どうしようか。何かしたい。絶対したい。社会人一年目で頑張っている倉知を労いたい。
せめて気の利いたプレゼントを渡したい。
そう思うのに、毎年有給をプレゼントしてきたせいで、倉知が喜ぶものは、必要とするものは、俺しかないだろうという傲慢な結論にしか至らず、結局無難にネクタイを買ってみたが、我ながら、めちゃくちゃつまらない。
「明日、俺の誕生日ですね」
シャワーを止めて、顔を拭い、倉知が言った。自分から誕生日アピールとは、世にも珍しい。
「うん、あれ、もしかしてなんか欲しいものあるとか?」
「ないです。ただ、明日、校内研修なんですけど、終わるの七時で、早く帰れないかもって」
倉知が風呂場の椅子から立ち上がった。濡れた全裸の股間に目がいく。ぶら下がった先から、水滴が滴っていた。俺はひそかにこれを見るのが好きだった。
「なんか食べたいものは?」
股間を凝視しながら訊いた。倉知は濡れた髪を撫でつけてから、バスタブに脚を入れ、身を沈めると、向かい合った俺の脚を揉みながら言った。
「なんでもいいです。俺の望みはただ一つ。セックスしたい」
「ロマンティック」
「誕生日なので、加賀さんを、俺の好きにします」
「お、おう」
俺のふくらはぎを揉む動きが止まった。顔つきが、変化する。男の顔だ。
「加賀さん、勃ってきた」
視線を動かし、股間を見る。お湯の中で漂う倉知のペニスが、でかくなっている。
「前夜祭? それとも溜める?」
「前夜祭です」
倉知の手が内股を滑り、下腹部に潜り込んでくる。お湯を波立たせ、覆いかぶさってきた。
唇が、触れ合う。目を閉じて、舌を迎え入れた。
舌先が絡み合い、唾液の音が浴室に響く。
興奮した倉知の息遣いが愛しくて、それだけで胸が熱くなる。
首にしがみつき、キスに没頭する。
俺の股間をまさぐっていた手が、尻に潜り込み、入ってくる。ゆっくりと前後し、優しく押し広げられる感覚。指の腹が奥に触れると、体がびく、と反応した。気持ちいいところをわかっていて、意図的に何度もノックしてくる。「あっ」と震える声が勝手に喉を突いて出た。
「あ、んっ、あっ、しつこい、あっ、やめ……」
「加賀さん、可愛い、ここ、気持ちいいですか?」
耳に口をつけて、息を吹きかけながら問われ、情けない喘ぎしか出てこない。
倉知が増長する。
耳を甘噛みし、中に舌を差し込んでくる。ぴちゃ、という水音と、倉知の高揚した呼吸の音が混ざり合い、ざわざわとした快感が、腰から首の裏にかけて這い上がってくる。
「イク……っ、あっ、出る……!」
目の前が白くなり、恍惚が全身に広がった。はあ、と息をつき、脱力して、「馬鹿」と倉知の耳を引っ張る。
「出ちゃったじゃん。どうすんのお湯」
「すいません、可愛くて」
倉知が俺の頭を抱きしめて、たっぷりと頬ずりをしてから、言った。
「ちゃんとつかまってて。持ち上げます」
「ん」
両手両脚を絡ませて密着すると、倉知が俺を抱えて腰を上げた。バスタブから離脱すると、浴室のタイルの上で、持ち上げられた格好のまま、どうやら倉知が入ってこようとしている。
「あ、うわ、ここで? 駅弁?」
「入りました」
「うあ、ちょ、やばい、イッたばっか……、あっ」
体を上下に揺さぶってくる。これは、まずい。この体位は、非常に危険だ。めちゃくちゃ、いい、気持ちいい、知っている、わかっている。下から突き上げられ、体がバウンドし、深く、届く。
ほとんど絶叫しながらしがみついて、倉知が達する前に、また、先に、イッてしまった。弾む体の動きに合わせて、精液が小刻みに出てくる。止められない。
気がつくと、朝だった。
「え? は? 何時……?」
いつもと同じ場所で、スマホが充電器に刺さっている。引き抜いて、時間を確かめた。
七時過ぎている。
何時に寝たのかもわからないが、異様にスッキリしている。めちゃくちゃよく寝た。
それにしてもまったく記憶がない。風呂場でイカされて、それからどうやってベッドに辿り着いたのか、覚えていない。
「おはようございます」
ベッドから腰を浮かすと、ちょうど寝室のドアが開き、倉知がにこ、と天使の笑みを浮かべた。
「よく眠れました?」
「うん。いや、駄目だろ。朝ご飯作って洗濯も済ませて、今日はゆっくり寝かせてやろうって企んでたのに。何をよく眠ってんだよ俺は」
倉知がおかしそうに「いいですよ」と頭を掻いた。
「気絶させちゃったの俺なんで」
「気絶」
「顔洗ってきてください。ご飯食べましょう」
やはり、あれはとても危険な体位だ。気持ちがよすぎる。
「もう、駅弁禁止な」
ダイニングの椅子を引きながら言うと、倉知がみそ汁のお椀を二つテーブルに置いてきょとんとした。
「なんで……、あ、あの体位の名前でしたっけ。なんで駅弁って言うんだろう」
「駅弁、体位、由来で検索したら出てきそうだな」
「あとで調べます」
「さすが、勉強熱心」
手を合わせて、いただきますと口を揃えた。
「あ、言ってなかった。おめでとう。誕生日おめでとう。めっちゃおめでとう」
「へへ、ありがとうございます」
可愛い。へへ、が可愛い。
もう、なんだろうか、わけがわからないくらい可愛い。
こいつのこのまばゆいばかりの可愛さは、なんなのだ。
ただ食べているだけなのに、可愛すぎて、好きだ、と脈絡もなく叫びたくなった。
「好きだ」
「へっ、あ、俺もです。好きです、加賀さん」
よくもこんな、意味不明なタイミングで好きだとか言ってくるおっさんに、笑顔で付き合ってくれるものだ。
本当に、いい子だ。
向かい合って、朝食を食べられる喜びに、浸る。
誕生日を一日中一緒に過ごすのも、勿論幸せなことだ。
でも、ずっと一緒じゃないからこそ、限られた二人の時間がすごく濃密で、好きと可愛いに拍車がかかる。
付き合って七年目の新たな発見だ。
「俺今日定時予定だから、買い物して帰るわ。なんか食べたいもの決めてよ。なんかあるだろ?」
エレベーターを待ちながら、倉知が快活に答えた。
「じゃあしゃぶしゃぶで」
「了解」
「しゃぶしゃぶより加賀さんのほうが絶対美味しそう」
顔を近づけて、倉知が囁いた。おっさんみたいなことを言う、と笑って見上げると、少し顔が赤い。
「自分で照れるなよ、くっそ可愛いな」
エレベーターに乗り込み、ドアが閉まると倉知が勢いよく自分の顔を叩き始めた。
「はあ、嬉しくて、顔が笑う。わー」
「こらこら、俺の大事な可愛い顔を叩くんじゃない」
「えっ、はい、……すいません」
赤くなった顔を、撫でてやる。視線が合って、たまらなくキスしたくなってきた。
「駄目ですよ」
「うん、わかってる」
エレベーターが停まる。しばし、別れの時間だ。
八月十八日に、一緒にいない。
ただそれだけのことなのに、驚くほど寂しかった。
軟弱だ。
今の俺の心情を、周囲の人間が知れば、おそらく嘲笑う。
でも仕方がない。今日は八月十八日なのだ。
時間よ進めと念じれば念じるほど、時計の針が遅くなる気がした。
だから、頭を切り替え、仕事に集中した。仕事というやつは、時間泥棒だ。あっという間に定時を過ぎた。ダッシュで職場を離れ、買い物をして、帰宅する。
着替えはせずに、ジャケットだけを脱いでソファに放り投げ、ワイシャツを腕まくりすると、そのまましゃぶしゃぶの準備に取り掛かった。
しゃぶしゃぶというやつは、手軽でいい。いい肉を使えば贅沢もできるし、野菜も摂れるし、ありがたい。重複するが、何よりも手軽でいい。
倉知はつけだれを手作りするが、俺の場合は市販のものだ。鍋に昆布を入れて放置すれば完成だ。洗い物も少なくて、助かる。
ダイニングテーブルに皿と箸をセッティングし、準備万端だ。
しつこいようだが、しゃぶしゃぶは手軽で素晴らしい。倉知はきっと、だから今日、しゃぶしゃぶを指定した。
時間には限りがあり、何に重きを置くか、配分が重要なのだ。
「ただいま」
玄関が開く音と同時に、倉知の声が聞こえた。廊下を飛んでくる気配。
「おつかれ、おかえり」
振り返ると、り、と同時に抱きしめられた。倉知の体は熱かった。全身が汗でしっとりしていて、息は上がり、心臓の鼓動が速い。おそらく駅から走ってきたのだろう。背中に腕を回し、労うように撫でさする。
「スーツだ」
「おう、裸エプロンとどっちにしようか迷ったけど、仕事上がりの汗臭いの、好きだろ」
「加賀さんは汗臭くないですけど、え? 裸エプロン?」
「裸エプロンがよかった?」
「究極の選択ですね」
呼吸が落ち着かないまま、倉知が待ちきれない様子でキスをしてきた。はあはあ言いながら角度を変えて、何度も唇を吸ってくる。
「しゃぶしゃぶは?」
「先にメインディッシュをいただきます。しゃぶしゃぶはデザートです」
なんだか、倉知のこういうおやじ臭い発言は、おっさんの俺に染まったのではないかとたまに心配になる。
わずらわしそうにスーツのジャケットを脱ぎ捨てた倉知が、ネクタイを緩めながら小刻みにキスを続ける。密着した下腹部は当然のように、すでに硬い。
めちゃくちゃ興奮してるな、と思うと、俺もめちゃくちゃに興奮してきた。
お互いがお互いに絡みつき、くんずほぐれつの状態で、寝室のベッドに直行した。
服を脱ぐのももどかしい。下だけ取っ払って、とっとと体を合わせ、激しく揺する。
七世、七世と呪文のように、数えきれないほど、名前を呼んだ。倉知は俺を見下ろして、慈しむように、優しく髪を撫で、頬を撫で、緩く、たまに強く、腰を振った。
しばらくそうやって、同じ体位のまま快感を貪っていたが、やがて倉知が動きをみせた。
正常位の状態から、俺の背中に腕を回す。上体を起こされ、太ももを抱え上げられたとき「あ」と声が出た。
「駅弁禁止って言っただろ」
「でも、したい。今日、俺の誕生日です」
「駄目、ほんと、またイキまくるじゃん」
意識をなくして強制終了になるのが惜しいから言っているのだが、倉知が言うことを聞かない。
「いいじゃないですか。イキまくる加賀さん、すごく可愛いです。イキまくるとこ、見せて」
嘘だろ、あの、倉知が。俺の言うことはなんでも尊重するあの倉知が。折れる様子がない。
これが、大人になるということか。
妙な感動がある。目頭を押さえる俺を見て、倉知が慌てた。
「やめた、やめます、やめましょう」
「何その三段活用」
「駅弁でお腹いっぱいになって、しゃぶしゃぶ食べられなくなりますもんね」
「さすが誕生日。絶好調じゃねえか。ていうか、すげえドヤ顔だなおい」
倉知のほっぺたを両手でつねってこねくり回す。
二人で爆笑する。
キスをする。
律動を再開し、セックスに、熱中する。
二人ともが達すると、シャワーで汗を流し、夕飯を食べることにした。
テーブルの中央に置いたカセットコンロに、しゃぶしゃぶ用の鍋をセットする。
「ビール? ワイン? ウイスキー? チューハイ? なんでもあるよ」
「ビールで」
冷蔵庫からビールの缶を二つ出して、乾杯した。
「誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
喉を鳴らしてビール缶を傾ける倉知を見ながら、微笑んだ。
大人になった。
「あ、そうだ、プレゼントあるんだった」
「えっ、こんなに幸せな時間をいただいたのに、さらに?」
「はは、ただのネクタイだよ、ごめんね」
肉をくぐらせながら肩をすくめると、倉知が天を仰ぎ、胸を押さえた。
「嬉しいです。ネクタイ、嬉しいです。加賀さんに貰ったネクタイ、毎日学校に着けていけるなんて、夢のようです」
「え、そんなに?」
「早く明日にならないかな。あ、駄目だ、今日俺の誕生日だった。明日より今日、今日より明日、どっちかな、選べない。加賀さん、大好きです」
「なんか倉知君面白いな」
率直な感想が漏れた。
倉知が肉を口に放り込んで、目を閉じる。
「幸せ」
つぶやく倉知は少し、涙ぐんでいた。
食事を終えて、後片付けをして、また、ベッドに戻った。
一心不乱に、セックスに、耽る。
好き、好き、と囁かれ、体も心も満たされて、とろけていく。
ひたすらに、甘い夜。
〈倉知編につづく〉
「え? ああ、八月十八日ですか?」
卓上カレンダーを見て、笑いが零れた。
ここ数年、八月十八日は必ず有給休暇を取ってきた。それを総務も把握していて、書類が出ていないことを親切に教えてくれたらしい。
「いいんです、今年は」
今年はその必要がない。
学生は夏休みでも教師は当然仕事がある。研修や講習が多くてむしろ忙しいと言っていた。俺だけが休んでも仕方がないのだ。
倉知の誕生日に、俺のすべてを捧げてきた。時間も、体も、何もかも。
好きなようにさせて、甘やかして、甘やかされる。
大切な、幸せな一日だった。
だった、と過去形で完結させたくない。今年はどうなるのか。どうしようか。何かしたい。絶対したい。社会人一年目で頑張っている倉知を労いたい。
せめて気の利いたプレゼントを渡したい。
そう思うのに、毎年有給をプレゼントしてきたせいで、倉知が喜ぶものは、必要とするものは、俺しかないだろうという傲慢な結論にしか至らず、結局無難にネクタイを買ってみたが、我ながら、めちゃくちゃつまらない。
「明日、俺の誕生日ですね」
シャワーを止めて、顔を拭い、倉知が言った。自分から誕生日アピールとは、世にも珍しい。
「うん、あれ、もしかしてなんか欲しいものあるとか?」
「ないです。ただ、明日、校内研修なんですけど、終わるの七時で、早く帰れないかもって」
倉知が風呂場の椅子から立ち上がった。濡れた全裸の股間に目がいく。ぶら下がった先から、水滴が滴っていた。俺はひそかにこれを見るのが好きだった。
「なんか食べたいものは?」
股間を凝視しながら訊いた。倉知は濡れた髪を撫でつけてから、バスタブに脚を入れ、身を沈めると、向かい合った俺の脚を揉みながら言った。
「なんでもいいです。俺の望みはただ一つ。セックスしたい」
「ロマンティック」
「誕生日なので、加賀さんを、俺の好きにします」
「お、おう」
俺のふくらはぎを揉む動きが止まった。顔つきが、変化する。男の顔だ。
「加賀さん、勃ってきた」
視線を動かし、股間を見る。お湯の中で漂う倉知のペニスが、でかくなっている。
「前夜祭? それとも溜める?」
「前夜祭です」
倉知の手が内股を滑り、下腹部に潜り込んでくる。お湯を波立たせ、覆いかぶさってきた。
唇が、触れ合う。目を閉じて、舌を迎え入れた。
舌先が絡み合い、唾液の音が浴室に響く。
興奮した倉知の息遣いが愛しくて、それだけで胸が熱くなる。
首にしがみつき、キスに没頭する。
俺の股間をまさぐっていた手が、尻に潜り込み、入ってくる。ゆっくりと前後し、優しく押し広げられる感覚。指の腹が奥に触れると、体がびく、と反応した。気持ちいいところをわかっていて、意図的に何度もノックしてくる。「あっ」と震える声が勝手に喉を突いて出た。
「あ、んっ、あっ、しつこい、あっ、やめ……」
「加賀さん、可愛い、ここ、気持ちいいですか?」
耳に口をつけて、息を吹きかけながら問われ、情けない喘ぎしか出てこない。
倉知が増長する。
耳を甘噛みし、中に舌を差し込んでくる。ぴちゃ、という水音と、倉知の高揚した呼吸の音が混ざり合い、ざわざわとした快感が、腰から首の裏にかけて這い上がってくる。
「イク……っ、あっ、出る……!」
目の前が白くなり、恍惚が全身に広がった。はあ、と息をつき、脱力して、「馬鹿」と倉知の耳を引っ張る。
「出ちゃったじゃん。どうすんのお湯」
「すいません、可愛くて」
倉知が俺の頭を抱きしめて、たっぷりと頬ずりをしてから、言った。
「ちゃんとつかまってて。持ち上げます」
「ん」
両手両脚を絡ませて密着すると、倉知が俺を抱えて腰を上げた。バスタブから離脱すると、浴室のタイルの上で、持ち上げられた格好のまま、どうやら倉知が入ってこようとしている。
「あ、うわ、ここで? 駅弁?」
「入りました」
「うあ、ちょ、やばい、イッたばっか……、あっ」
体を上下に揺さぶってくる。これは、まずい。この体位は、非常に危険だ。めちゃくちゃ、いい、気持ちいい、知っている、わかっている。下から突き上げられ、体がバウンドし、深く、届く。
ほとんど絶叫しながらしがみついて、倉知が達する前に、また、先に、イッてしまった。弾む体の動きに合わせて、精液が小刻みに出てくる。止められない。
気がつくと、朝だった。
「え? は? 何時……?」
いつもと同じ場所で、スマホが充電器に刺さっている。引き抜いて、時間を確かめた。
七時過ぎている。
何時に寝たのかもわからないが、異様にスッキリしている。めちゃくちゃよく寝た。
それにしてもまったく記憶がない。風呂場でイカされて、それからどうやってベッドに辿り着いたのか、覚えていない。
「おはようございます」
ベッドから腰を浮かすと、ちょうど寝室のドアが開き、倉知がにこ、と天使の笑みを浮かべた。
「よく眠れました?」
「うん。いや、駄目だろ。朝ご飯作って洗濯も済ませて、今日はゆっくり寝かせてやろうって企んでたのに。何をよく眠ってんだよ俺は」
倉知がおかしそうに「いいですよ」と頭を掻いた。
「気絶させちゃったの俺なんで」
「気絶」
「顔洗ってきてください。ご飯食べましょう」
やはり、あれはとても危険な体位だ。気持ちがよすぎる。
「もう、駅弁禁止な」
ダイニングの椅子を引きながら言うと、倉知がみそ汁のお椀を二つテーブルに置いてきょとんとした。
「なんで……、あ、あの体位の名前でしたっけ。なんで駅弁って言うんだろう」
「駅弁、体位、由来で検索したら出てきそうだな」
「あとで調べます」
「さすが、勉強熱心」
手を合わせて、いただきますと口を揃えた。
「あ、言ってなかった。おめでとう。誕生日おめでとう。めっちゃおめでとう」
「へへ、ありがとうございます」
可愛い。へへ、が可愛い。
もう、なんだろうか、わけがわからないくらい可愛い。
こいつのこのまばゆいばかりの可愛さは、なんなのだ。
ただ食べているだけなのに、可愛すぎて、好きだ、と脈絡もなく叫びたくなった。
「好きだ」
「へっ、あ、俺もです。好きです、加賀さん」
よくもこんな、意味不明なタイミングで好きだとか言ってくるおっさんに、笑顔で付き合ってくれるものだ。
本当に、いい子だ。
向かい合って、朝食を食べられる喜びに、浸る。
誕生日を一日中一緒に過ごすのも、勿論幸せなことだ。
でも、ずっと一緒じゃないからこそ、限られた二人の時間がすごく濃密で、好きと可愛いに拍車がかかる。
付き合って七年目の新たな発見だ。
「俺今日定時予定だから、買い物して帰るわ。なんか食べたいもの決めてよ。なんかあるだろ?」
エレベーターを待ちながら、倉知が快活に答えた。
「じゃあしゃぶしゃぶで」
「了解」
「しゃぶしゃぶより加賀さんのほうが絶対美味しそう」
顔を近づけて、倉知が囁いた。おっさんみたいなことを言う、と笑って見上げると、少し顔が赤い。
「自分で照れるなよ、くっそ可愛いな」
エレベーターに乗り込み、ドアが閉まると倉知が勢いよく自分の顔を叩き始めた。
「はあ、嬉しくて、顔が笑う。わー」
「こらこら、俺の大事な可愛い顔を叩くんじゃない」
「えっ、はい、……すいません」
赤くなった顔を、撫でてやる。視線が合って、たまらなくキスしたくなってきた。
「駄目ですよ」
「うん、わかってる」
エレベーターが停まる。しばし、別れの時間だ。
八月十八日に、一緒にいない。
ただそれだけのことなのに、驚くほど寂しかった。
軟弱だ。
今の俺の心情を、周囲の人間が知れば、おそらく嘲笑う。
でも仕方がない。今日は八月十八日なのだ。
時間よ進めと念じれば念じるほど、時計の針が遅くなる気がした。
だから、頭を切り替え、仕事に集中した。仕事というやつは、時間泥棒だ。あっという間に定時を過ぎた。ダッシュで職場を離れ、買い物をして、帰宅する。
着替えはせずに、ジャケットだけを脱いでソファに放り投げ、ワイシャツを腕まくりすると、そのまましゃぶしゃぶの準備に取り掛かった。
しゃぶしゃぶというやつは、手軽でいい。いい肉を使えば贅沢もできるし、野菜も摂れるし、ありがたい。重複するが、何よりも手軽でいい。
倉知はつけだれを手作りするが、俺の場合は市販のものだ。鍋に昆布を入れて放置すれば完成だ。洗い物も少なくて、助かる。
ダイニングテーブルに皿と箸をセッティングし、準備万端だ。
しつこいようだが、しゃぶしゃぶは手軽で素晴らしい。倉知はきっと、だから今日、しゃぶしゃぶを指定した。
時間には限りがあり、何に重きを置くか、配分が重要なのだ。
「ただいま」
玄関が開く音と同時に、倉知の声が聞こえた。廊下を飛んでくる気配。
「おつかれ、おかえり」
振り返ると、り、と同時に抱きしめられた。倉知の体は熱かった。全身が汗でしっとりしていて、息は上がり、心臓の鼓動が速い。おそらく駅から走ってきたのだろう。背中に腕を回し、労うように撫でさする。
「スーツだ」
「おう、裸エプロンとどっちにしようか迷ったけど、仕事上がりの汗臭いの、好きだろ」
「加賀さんは汗臭くないですけど、え? 裸エプロン?」
「裸エプロンがよかった?」
「究極の選択ですね」
呼吸が落ち着かないまま、倉知が待ちきれない様子でキスをしてきた。はあはあ言いながら角度を変えて、何度も唇を吸ってくる。
「しゃぶしゃぶは?」
「先にメインディッシュをいただきます。しゃぶしゃぶはデザートです」
なんだか、倉知のこういうおやじ臭い発言は、おっさんの俺に染まったのではないかとたまに心配になる。
わずらわしそうにスーツのジャケットを脱ぎ捨てた倉知が、ネクタイを緩めながら小刻みにキスを続ける。密着した下腹部は当然のように、すでに硬い。
めちゃくちゃ興奮してるな、と思うと、俺もめちゃくちゃに興奮してきた。
お互いがお互いに絡みつき、くんずほぐれつの状態で、寝室のベッドに直行した。
服を脱ぐのももどかしい。下だけ取っ払って、とっとと体を合わせ、激しく揺する。
七世、七世と呪文のように、数えきれないほど、名前を呼んだ。倉知は俺を見下ろして、慈しむように、優しく髪を撫で、頬を撫で、緩く、たまに強く、腰を振った。
しばらくそうやって、同じ体位のまま快感を貪っていたが、やがて倉知が動きをみせた。
正常位の状態から、俺の背中に腕を回す。上体を起こされ、太ももを抱え上げられたとき「あ」と声が出た。
「駅弁禁止って言っただろ」
「でも、したい。今日、俺の誕生日です」
「駄目、ほんと、またイキまくるじゃん」
意識をなくして強制終了になるのが惜しいから言っているのだが、倉知が言うことを聞かない。
「いいじゃないですか。イキまくる加賀さん、すごく可愛いです。イキまくるとこ、見せて」
嘘だろ、あの、倉知が。俺の言うことはなんでも尊重するあの倉知が。折れる様子がない。
これが、大人になるということか。
妙な感動がある。目頭を押さえる俺を見て、倉知が慌てた。
「やめた、やめます、やめましょう」
「何その三段活用」
「駅弁でお腹いっぱいになって、しゃぶしゃぶ食べられなくなりますもんね」
「さすが誕生日。絶好調じゃねえか。ていうか、すげえドヤ顔だなおい」
倉知のほっぺたを両手でつねってこねくり回す。
二人で爆笑する。
キスをする。
律動を再開し、セックスに、熱中する。
二人ともが達すると、シャワーで汗を流し、夕飯を食べることにした。
テーブルの中央に置いたカセットコンロに、しゃぶしゃぶ用の鍋をセットする。
「ビール? ワイン? ウイスキー? チューハイ? なんでもあるよ」
「ビールで」
冷蔵庫からビールの缶を二つ出して、乾杯した。
「誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
喉を鳴らしてビール缶を傾ける倉知を見ながら、微笑んだ。
大人になった。
「あ、そうだ、プレゼントあるんだった」
「えっ、こんなに幸せな時間をいただいたのに、さらに?」
「はは、ただのネクタイだよ、ごめんね」
肉をくぐらせながら肩をすくめると、倉知が天を仰ぎ、胸を押さえた。
「嬉しいです。ネクタイ、嬉しいです。加賀さんに貰ったネクタイ、毎日学校に着けていけるなんて、夢のようです」
「え、そんなに?」
「早く明日にならないかな。あ、駄目だ、今日俺の誕生日だった。明日より今日、今日より明日、どっちかな、選べない。加賀さん、大好きです」
「なんか倉知君面白いな」
率直な感想が漏れた。
倉知が肉を口に放り込んで、目を閉じる。
「幸せ」
つぶやく倉知は少し、涙ぐんでいた。
食事を終えて、後片付けをして、また、ベッドに戻った。
一心不乱に、セックスに、耽る。
好き、好き、と囁かれ、体も心も満たされて、とろけていく。
ひたすらに、甘い夜。
〈倉知編につづく〉
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けれどユウは“色”が見えない。
一年前、心が壊れ、灰色に沈んだ日々を送っていた。
そんなユウの前に現れたのは、イケメンの若手画家・高来 湊。
出会って早々、湊はユウをモデルにスカウトしてきて――
「君、すっごく可愛い。俺に描かせて?」
強引だけど面倒見がよく、意外と優しい湊。
実は彼は、作品が三億で落札されるほどの“とんでもない天才画家”。
そして、週一のセッションで、ユウの世界は少しずつ“変化”し始める。
ところが、とあるトラブルをきっかけに距離が縮まりすぎてしまい、湊の溺愛スイッチが完全に入ってしまって……?
「ユウは俺が守る。絶対に」
これは、色を失っていた大学生が、イケメン天才画家に甘やかされて恋に落ちていく物語。
【完結】※セーブポイントに入って一汁三菜の夕飯を頂いた勇者くんは体力が全回復します。
きのこいもむし
BL
ある日突然セーブポイントになってしまった自宅のクローゼットからダンジョン攻略中の勇者くんが出てきたので、一汁三菜の夕飯を作って一緒に食べようねみたいなお料理BLです。
自炊に目覚めた独身フリーターのアラサー男子(27)が、セーブポイントの中に入ると体力が全回復するタイプの勇者くん(19)を餌付けしてそれを肴に旨い酒を飲むだけの逆異世界転移もの。
食いしん坊わんこのローグライク系勇者×料理好きのセーブポイント系平凡受けの超ほんわかした感じの話です。
【完結】抱っこからはじまる恋
* ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。
ふたりの動画をつくりました!
インスタ @yuruyu0 絵もあがります。
YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。
プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!
完結しました!
おまけのお話を時々更新しています。
BLoveさまのコンテストに応募しているお話を倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
後輩の幸せな片思い
Gemini
BL
【完結】設計事務所で働く井上は、幸せな片思いをしている。一級建築士の勉強と仕事を両立する日々の中で先輩の恭介を好きになった。どうやら先輩にも思い人がいるらしい。でも憧れの先輩と毎日仕事ができればそれでいい。……と思っていたのにいざ先輩の思い人が現れて心は乱れまくった。
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