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Ⅲ.倉知編
「プライベートの時間」
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浅見先生の車は、トヨタのなんとかという赤いスポーツカーだ。
二人乗りだから、親近感を覚える。車に対して頭を下げ、次に浅見先生に一礼した。
「よろしくお願いします」
「はい、礼儀正しいね」
車に乗り込み、シートベルトを締めると浅見先生が言った。
「適当に個室の居酒屋でいいかな?」
車なのに居酒屋を提案するのは、浅見先生が下戸だからだ。飲み会はいつもソフトドリンクかノンアルコールの甘いカクテルだ。
「はい、どこでも。あの、ちょっと一件連絡を入れてもいいですか?」
「どうぞ」
「浅見先生は、奥さんに連絡しましたか?」
浅見先生は自分のことを語らない人だったが、他の教師や生徒との会話から、既婚で子どもはいないということはわかっていた。
「ああ、今奥さん日本にいないから」
「え? どちらに?」
「ニューヨーク」
冗談かなと思ったが、測りかねた。浅見先生は冗談を言うことはあるが、顔に出ないからわかりづらい。
「ニューヨーク……、すごいですね」
「うん、すごいね」
他人事な口ぶりで言って、エンジンをかけ、ハンドルを握る。奥さんがなんの仕事をしているのか、突っ込んで訊く雰囲気でもない。それ以上何も言えなくなった。
車が動き出すと、俺はスマホを取り出した。
七時十二分。通知は何も届いていない。ということは、加賀さんはまだ仕事中だろう。
俺たちには四月から取り入れた新ルールがある。
仕事が終わった時点で連絡を入れること。そうすることでどちらが夕飯を作るかの心づもりもできるし、お互いの帰宅時間が大体わかるので、便利だ。
LINEのトーク画面を開き、「か」と入力すると、画面下に予測変換が出た。
加賀さん、加賀さんは、加賀さんが、と加賀さんがずらりと並んでいる。俺は本当に加賀さんばかりだなと微笑んだ。そっと、「加賀さん」を撫でると、続いて「好きです」が予測変換のトップに出る。
加賀さん好きです、と打たざるを得ない。
送信してから、改めて文章を作成する。
『お疲れ様です。今日は浅見先生と話があるので、外で食べてきます。突然ですみません。』
送信して、しばらく画面を見ていたが、既読はつかなかった。仕事が忙しいのだろう。
「浅見先生」
スマホを握りしめて運転席の浅見先生を見た。
「プライベートの話になっても大丈夫ですか?」
浅見先生は前を見たまま「うん」と小さく返した。
「というか、俺はこう見えて倉知先生に興味津々だよ。いいの? いろいろ訊いても」
「はい、セクハラで訴えたりはしません。逆にセクハラになってしまったら本当に申し訳ないです」
「倉知先生ってたまに面白いこと言うよね」
面白いと言いながら、浅見先生の横顔は変化がない。表情でつかめないが、声色から多分、この状況を楽しんでいるようだった。
この人に、全部話そう。と思った。
受け入れて貰えるかどうかはわからない。
話している最中でも、受け入れられているのかわからなかったが、止めなかった。
居酒屋の個室で向かい合い、料理とビールには手をつけず、正座をして、浅見先生の目を見て、全部話した。
すごく、大切な人がいる。一生、離したくない、大切な人。
高校生の頃に出会った十歳上の男性と、恋をして、一緒に暮らしている。
一言で言えばこれで済む。
でも、順を追ってつぶさに語った。浅見先生は俺から目を話さず、腕を組み、一切口を挟まずに最後まで聞いてくれた。
「大学生のとき、友人に知られて、反対されました。教師になるなら別れたほうがいいって。でも俺は、同性と付き合ってるからって教師になれないのはおかしいって、突っぱねました」
橋場の主張は正論だと加賀さんが言っていた。確かに世間一般の、代表の声かもしれない。
俺はそれと戦う覚悟を持って、教師になった。
「いざ教師になってみると、ちょっとだけ、不安になってきたというか……、揺らいでます。もし、知られたときに、どうしたらいいのか……、あの、もしかして先に学校側に話すべきなんでしょうか。どうすればいいのか、浅見先生に助言をいただきたくて」
声が掠れ、喉を押さえた。喋り続けているせいだ。
「まあ、ビールでも飲んで」
浅見先生がほとんど氷の溶けたカルピスソーダのグラスを持ち上げて、口をつける。ビールは泡が消え、温くなっていたが、喉は潤った。半分ほど一気に飲んで、ジョッキを置く。
テーブルにジョッキの水滴が落ちて、底の跡が円になって浮かんでいる。それを見つめながら、顔を上げることができなくなっていた。
本当に、言ってもよかったのだろうか。
「話してくれてありがとう」
浅見先生が言った。恐る恐る顔を上げると、「とりあえず食べようか」と箸を翳した。
「は、はい、いただきます……、あの、浅見先生」
ほっけの身をほぐしながら、浅見先生が「はい」と返事をする。
「引きましたか? 気持ち悪いとか、その、大丈夫、でしょうか。男同士に嫌悪とか……、あの、俺は男が好きなんじゃなくて、加賀さんだけが好きなので、だから浅見先生は安心して欲しいというか」
浅見先生はほっけをほぐしながら、ブツブツ言う俺を止めた。
「大丈夫、わかるよ。健気で可愛いなとは思ったけど、なんにも気持ち悪くないよ」
「かわ、可愛いですか?」
「あ、今のセクハラかな」
滅相もない、と首を横に振る。
「恋愛は千差万別。俺はそういうので個人の評価は変えない。あなたは頑張ってるし、いい教師だよ」
カチカチ、と音がした。自分の持っている箸が、皿に触れて音を立てている。手が震えていることに気づき、箸をゆっくりと置いた。
「泣きそうです」
両手で顔を覆い、腹の底から安堵のため息を吐き出した。ふ、と浅見先生がかすかに笑った雰囲気を感じ取り、慌てて手をどけたが、残念ながらそこにはいつもの無表情があるだけだった。
気を取り直し、箸を持ったところで、テーブルの上の携帯が震えた。通知が見えた。加賀さんだ。
「見たら?」
「いえ、失礼なので」
「ここは学校じゃないし、業務外なんだから。脚も崩して。ほら、それ、加賀さんからじゃない?」
浅見先生の口が「加賀さん」と発音したことに謎の衝撃を受け、体がびりっと痺れた。
「あ、あれ、俺、加賀さんって、名前出しました?」
「言ってたよ、さっき。加賀さんだけが好きなのでって」
ぶわっと汗が噴き出して、首から上が瞬時に熱くなる。
「赤い」
浅見先生がつぶやいた。
「とりあえず、加賀さんに返事しないとね」
「……はい、すいません、ありがとうございます」
なんだろう、この恥ずかしさは。浅見先生が「加賀さん」というたびにいちいち体がびくついてしまう。冷やかされているわけでもないのに、落ち着かない。
あわあわしながらLINEを開く。
『今仕事終わった。おつかれ。倉知君はまだ外? 帰ってくるの遅い? めっちゃ寂しいけど俺もなんか外で適当に食って帰るわ』
読み終わると同時に、新しいメッセージが下に現れた。
『倉知君好き』
可愛い。一人だったらにやにやしているか、スマホを抱きしめている。
浅見先生の視線を感じる。
頬の内側を噛んで平静を装い、返信を打つ。
『すいません、まだ外です。遅くなるかもしれませんけど待っててください。』
すぐに既読になり、「おう。一緒に風呂入ろ」と返ってきた。息を止めて、奥歯を噛む。
「加賀さん、なんて? 大丈夫?」
ご飯茶碗を持ち上げて、浅見先生が訊いた。
「大丈夫です。仕事終わったから、ご飯食べて帰るとのことです」
「ああ、まだ食べてないなら呼んだらどうかな」
「え?」
「ここに」
サラダを取り分けながら、浅見先生が平然と言った。
「なん、え、なんでですか」
「ここ、居酒屋だけど料理美味しいし」
「いえ、そうではなくて」
「話聞いてたら、加賀さんを見たくなったんだ」
サラダを盛った小皿を俺の前に置いて、はたと目を上げた。
「あ、これパワハラ?」
「いえ、そういう圧は感じてません」
浅見先生に加賀さんを会わせたい気持ちがある。
でも、落ち着かない。
どんな顔をしていればいいのかわからないし、何かやらかしそうで怖い。
「あくまで個人的にだよ。上司としてじゃなくて、ただの浅見さんが加賀さんと会ってみたいなってだけ」
会いたいと言ってくれるのが、嬉しかった。
加賀さんにはよく浅見先生の話をしている。いつか全部話したいとも言ってあった。そのいつかが今日だとは、加賀さんも思ってはいないだろうが、浅見先生と会うことはやぶさかではないはずだ。
「遠回りなら無理にとは」
「いえ、この店、自宅の近くです」
実家からもマンションからも近いおかげで、ここは行きつけの店だ。
「軽い感じで訊いてみてよ。浅見先生がご一緒にどうですかって言ってるって」
「……わかりました」
深呼吸してからスマホを持ち上げた。
加賀さんは、運転中は絶対に携帯を見ない。もし運転中なら既読はつかないし、その場合は縁がなかったということだ。
経緯は省いて簡潔に、浅見先生がご一緒にどうですかとおっしゃっています、とだけ送ってみた。既読がついたのは三秒後。「マジか(笑)」と短く返ってきた。
『話したの? 大丈夫だった?』
はい、と素早く返す。
加賀さんは俺を信頼している。学校側にはバレないようにしろとか、誰にも言うなとか、悪いことを隠すみたいなスタンスじゃない。
もう子どもじゃないんだし、いつ、どのタイミングで誰に明かすかは任せると言われていた。
『どこの店?』
加賀さんが、来る。自然と背筋が伸びた。
『あそこの居酒屋です』
『掘りごたつ?』
『はい。です。一番奥の個室です』
妙な緊張で頭が回らず、店の説明すらまともにできないのに、「あそこの居酒屋」で通じるのがすごい。
『了解。じゃああとで』
『はい。運転気を付けて』
『うい』
駆け足でトークを終わらせると、スマホの画面を暗くして、うなだれた。LINEをしている間ずっと浅見先生が俺を見ているらしかった。手の甲でひたいの汗を拭う。
「来るそうです」
「そう。よかった」
頭を抱えて「どうしよう」とうめくと、浅見先生が笑いを含んだ声で訊いた。
「どうかした?」
「だって、俺、加賀さんがいると頭の中が加賀さんだけになっちゃって、ちょっと、その、お見せできないというか、変なこと言ったりやったりしかねないので、今のうちに謝っておきます。本当にすいません」
ぶふ、と込み上げたみたいな笑い声が聞こえた。顔を上げる。浅見先生が、笑っていた。歯を見せて、楽しそうに笑っている。
「そうか、そういう感じになるのか。プライベートの倉知先生、新鮮で面白いな。幼いっていうか、やっぱり可愛いのかな?」
「は、はあ……、あの、浅見先生、笑ってるとこ初めて見ました」
感動で胸を押さえると、浅見先生が笑顔のままでカルピスソーダのグラスを持ち上げて、首を傾げた。
「これアルコール入ってる? 酔ったかな」
「えっ、大丈夫ですか?」
慌てる俺を見て、さらに浅見先生が笑う。
「倉知先生が全部さらけ出してくれたから、俺も素顔を見せられたのかな。プライベート解禁ってことで」
浅見先生はカルピスソーダを飲み干すと、からのグラスを置いて「本題に入ろう」と真顔に戻った。
「本題?」
「これは個人の意見だけど。学校側に言う必要はないかな」
自分で質問したことをすっかり忘れていた。掘りごたつに下ろしていた脚を正座に戻し、「はい」とうなずいた。
「中にはそういうの気にして自分から言う教師もいるけど、学校側は持て余すだけ。個人の性的指向はデリケートな問題だからむしろ触れたくないだろうね」
「……わかりました」
語尾が、安堵のため息と混じり合った。息をついて、太ももの上で握りしめていた両手の拳を解く。
「仮に校内に広まったとしよう。男と同棲してるからって、教師辞めろなんて誰も言わないし、言ったそいつに非難が集中するのは明らかだね。今はそういう時代だから。ただ」
言葉を切った浅見先生が箸を伸ばして唐揚げを一切れ摘む。
「不安なのはわかるよ。すごくわかる。あることないこと言われたり、相手に迷惑かかるんじゃないかって、怖いよな」
俺は目顔で同意した。そうなのだ、巻き込むことが、何よりも怖い。
「わかる。俺もあったよ。好き勝手言われたこと」
「え? 浅見先生が?」
「うちの奥さん、元教え子なんだよ」
なるほどと思った。どういう目に遭ったのか、何を言われたのか、想像できる。
「在校中に手ぇ出してたんだろうとか、淫行教師とか散々言われたよ。付き合いだしたのは卒業後の同窓会だし、別にねえ、許してくださいよって話なんだけど、当初はまあ、汚いものでも見るような目で見られたね」
「ひどい」
憤る俺を見て、浅見先生は眉を下げた。
「真面目にやってれば、見てくれる人は必ずいる。倉知先生は大丈夫だよ。味方はきっと多い。俺もいるから、心配しないで」
「ありがとうございます」
土下座のつもりで頭を深く下げると、ひたいにテーブルがぶつかった。
「痛い」
はははは、と豪快に笑う浅見先生が、箸の先を突きつけてくる。
「倉知先生、食べないの?」
「ちょっと、緊張で食欲が……、食べます」
サラダを口に放り込む。不安は解消したが、今から加賀さんがやってくる。俺は普通でいられるだろうか。浅見先生に醜態をさらすわけにはいかない。
「あ。あの、もう一つ相談があるんですけど」
思い出して、再び箸を置く。浅見先生が二つ目の唐揚げをつかんで、俺を見る。
「なんでしょう」
「いまだにいろいろ、個人のことを訊いてくる生徒がいて」
「ああ、ファンクラブの子」
「どう対処したらいいでしょうか」
浅見先生はうーんとうなりながら唐揚げを頬張って、飲み込んでから口を開いた。
「倉知先生は個人情報をかたくなに守りすぎてる。好きな食べ物とか好きな芸能人とか、血液型、誕生日、身長、体重、趣味とかなんかその辺、女子が喜びそうなネタくらいは提供してやればいいと思うよ」
「なるほど、わかりました」
次に持田に何か訊かれたら、教えよう。
それからは学校の話をしたり、浅見先生のプライベートを聞き出したり、楽しかった。見たことがない表情も見られたし、距離が縮まった気がする。
会話に夢中で、すっかり忘れていたというより、気が逸れていた。
襖の向こうから「お連れ様がお見えです」と店員の声がかかると、俺の中は瞬時に加賀さんで埋め尽くされる。
二人乗りだから、親近感を覚える。車に対して頭を下げ、次に浅見先生に一礼した。
「よろしくお願いします」
「はい、礼儀正しいね」
車に乗り込み、シートベルトを締めると浅見先生が言った。
「適当に個室の居酒屋でいいかな?」
車なのに居酒屋を提案するのは、浅見先生が下戸だからだ。飲み会はいつもソフトドリンクかノンアルコールの甘いカクテルだ。
「はい、どこでも。あの、ちょっと一件連絡を入れてもいいですか?」
「どうぞ」
「浅見先生は、奥さんに連絡しましたか?」
浅見先生は自分のことを語らない人だったが、他の教師や生徒との会話から、既婚で子どもはいないということはわかっていた。
「ああ、今奥さん日本にいないから」
「え? どちらに?」
「ニューヨーク」
冗談かなと思ったが、測りかねた。浅見先生は冗談を言うことはあるが、顔に出ないからわかりづらい。
「ニューヨーク……、すごいですね」
「うん、すごいね」
他人事な口ぶりで言って、エンジンをかけ、ハンドルを握る。奥さんがなんの仕事をしているのか、突っ込んで訊く雰囲気でもない。それ以上何も言えなくなった。
車が動き出すと、俺はスマホを取り出した。
七時十二分。通知は何も届いていない。ということは、加賀さんはまだ仕事中だろう。
俺たちには四月から取り入れた新ルールがある。
仕事が終わった時点で連絡を入れること。そうすることでどちらが夕飯を作るかの心づもりもできるし、お互いの帰宅時間が大体わかるので、便利だ。
LINEのトーク画面を開き、「か」と入力すると、画面下に予測変換が出た。
加賀さん、加賀さんは、加賀さんが、と加賀さんがずらりと並んでいる。俺は本当に加賀さんばかりだなと微笑んだ。そっと、「加賀さん」を撫でると、続いて「好きです」が予測変換のトップに出る。
加賀さん好きです、と打たざるを得ない。
送信してから、改めて文章を作成する。
『お疲れ様です。今日は浅見先生と話があるので、外で食べてきます。突然ですみません。』
送信して、しばらく画面を見ていたが、既読はつかなかった。仕事が忙しいのだろう。
「浅見先生」
スマホを握りしめて運転席の浅見先生を見た。
「プライベートの話になっても大丈夫ですか?」
浅見先生は前を見たまま「うん」と小さく返した。
「というか、俺はこう見えて倉知先生に興味津々だよ。いいの? いろいろ訊いても」
「はい、セクハラで訴えたりはしません。逆にセクハラになってしまったら本当に申し訳ないです」
「倉知先生ってたまに面白いこと言うよね」
面白いと言いながら、浅見先生の横顔は変化がない。表情でつかめないが、声色から多分、この状況を楽しんでいるようだった。
この人に、全部話そう。と思った。
受け入れて貰えるかどうかはわからない。
話している最中でも、受け入れられているのかわからなかったが、止めなかった。
居酒屋の個室で向かい合い、料理とビールには手をつけず、正座をして、浅見先生の目を見て、全部話した。
すごく、大切な人がいる。一生、離したくない、大切な人。
高校生の頃に出会った十歳上の男性と、恋をして、一緒に暮らしている。
一言で言えばこれで済む。
でも、順を追ってつぶさに語った。浅見先生は俺から目を話さず、腕を組み、一切口を挟まずに最後まで聞いてくれた。
「大学生のとき、友人に知られて、反対されました。教師になるなら別れたほうがいいって。でも俺は、同性と付き合ってるからって教師になれないのはおかしいって、突っぱねました」
橋場の主張は正論だと加賀さんが言っていた。確かに世間一般の、代表の声かもしれない。
俺はそれと戦う覚悟を持って、教師になった。
「いざ教師になってみると、ちょっとだけ、不安になってきたというか……、揺らいでます。もし、知られたときに、どうしたらいいのか……、あの、もしかして先に学校側に話すべきなんでしょうか。どうすればいいのか、浅見先生に助言をいただきたくて」
声が掠れ、喉を押さえた。喋り続けているせいだ。
「まあ、ビールでも飲んで」
浅見先生がほとんど氷の溶けたカルピスソーダのグラスを持ち上げて、口をつける。ビールは泡が消え、温くなっていたが、喉は潤った。半分ほど一気に飲んで、ジョッキを置く。
テーブルにジョッキの水滴が落ちて、底の跡が円になって浮かんでいる。それを見つめながら、顔を上げることができなくなっていた。
本当に、言ってもよかったのだろうか。
「話してくれてありがとう」
浅見先生が言った。恐る恐る顔を上げると、「とりあえず食べようか」と箸を翳した。
「は、はい、いただきます……、あの、浅見先生」
ほっけの身をほぐしながら、浅見先生が「はい」と返事をする。
「引きましたか? 気持ち悪いとか、その、大丈夫、でしょうか。男同士に嫌悪とか……、あの、俺は男が好きなんじゃなくて、加賀さんだけが好きなので、だから浅見先生は安心して欲しいというか」
浅見先生はほっけをほぐしながら、ブツブツ言う俺を止めた。
「大丈夫、わかるよ。健気で可愛いなとは思ったけど、なんにも気持ち悪くないよ」
「かわ、可愛いですか?」
「あ、今のセクハラかな」
滅相もない、と首を横に振る。
「恋愛は千差万別。俺はそういうので個人の評価は変えない。あなたは頑張ってるし、いい教師だよ」
カチカチ、と音がした。自分の持っている箸が、皿に触れて音を立てている。手が震えていることに気づき、箸をゆっくりと置いた。
「泣きそうです」
両手で顔を覆い、腹の底から安堵のため息を吐き出した。ふ、と浅見先生がかすかに笑った雰囲気を感じ取り、慌てて手をどけたが、残念ながらそこにはいつもの無表情があるだけだった。
気を取り直し、箸を持ったところで、テーブルの上の携帯が震えた。通知が見えた。加賀さんだ。
「見たら?」
「いえ、失礼なので」
「ここは学校じゃないし、業務外なんだから。脚も崩して。ほら、それ、加賀さんからじゃない?」
浅見先生の口が「加賀さん」と発音したことに謎の衝撃を受け、体がびりっと痺れた。
「あ、あれ、俺、加賀さんって、名前出しました?」
「言ってたよ、さっき。加賀さんだけが好きなのでって」
ぶわっと汗が噴き出して、首から上が瞬時に熱くなる。
「赤い」
浅見先生がつぶやいた。
「とりあえず、加賀さんに返事しないとね」
「……はい、すいません、ありがとうございます」
なんだろう、この恥ずかしさは。浅見先生が「加賀さん」というたびにいちいち体がびくついてしまう。冷やかされているわけでもないのに、落ち着かない。
あわあわしながらLINEを開く。
『今仕事終わった。おつかれ。倉知君はまだ外? 帰ってくるの遅い? めっちゃ寂しいけど俺もなんか外で適当に食って帰るわ』
読み終わると同時に、新しいメッセージが下に現れた。
『倉知君好き』
可愛い。一人だったらにやにやしているか、スマホを抱きしめている。
浅見先生の視線を感じる。
頬の内側を噛んで平静を装い、返信を打つ。
『すいません、まだ外です。遅くなるかもしれませんけど待っててください。』
すぐに既読になり、「おう。一緒に風呂入ろ」と返ってきた。息を止めて、奥歯を噛む。
「加賀さん、なんて? 大丈夫?」
ご飯茶碗を持ち上げて、浅見先生が訊いた。
「大丈夫です。仕事終わったから、ご飯食べて帰るとのことです」
「ああ、まだ食べてないなら呼んだらどうかな」
「え?」
「ここに」
サラダを取り分けながら、浅見先生が平然と言った。
「なん、え、なんでですか」
「ここ、居酒屋だけど料理美味しいし」
「いえ、そうではなくて」
「話聞いてたら、加賀さんを見たくなったんだ」
サラダを盛った小皿を俺の前に置いて、はたと目を上げた。
「あ、これパワハラ?」
「いえ、そういう圧は感じてません」
浅見先生に加賀さんを会わせたい気持ちがある。
でも、落ち着かない。
どんな顔をしていればいいのかわからないし、何かやらかしそうで怖い。
「あくまで個人的にだよ。上司としてじゃなくて、ただの浅見さんが加賀さんと会ってみたいなってだけ」
会いたいと言ってくれるのが、嬉しかった。
加賀さんにはよく浅見先生の話をしている。いつか全部話したいとも言ってあった。そのいつかが今日だとは、加賀さんも思ってはいないだろうが、浅見先生と会うことはやぶさかではないはずだ。
「遠回りなら無理にとは」
「いえ、この店、自宅の近くです」
実家からもマンションからも近いおかげで、ここは行きつけの店だ。
「軽い感じで訊いてみてよ。浅見先生がご一緒にどうですかって言ってるって」
「……わかりました」
深呼吸してからスマホを持ち上げた。
加賀さんは、運転中は絶対に携帯を見ない。もし運転中なら既読はつかないし、その場合は縁がなかったということだ。
経緯は省いて簡潔に、浅見先生がご一緒にどうですかとおっしゃっています、とだけ送ってみた。既読がついたのは三秒後。「マジか(笑)」と短く返ってきた。
『話したの? 大丈夫だった?』
はい、と素早く返す。
加賀さんは俺を信頼している。学校側にはバレないようにしろとか、誰にも言うなとか、悪いことを隠すみたいなスタンスじゃない。
もう子どもじゃないんだし、いつ、どのタイミングで誰に明かすかは任せると言われていた。
『どこの店?』
加賀さんが、来る。自然と背筋が伸びた。
『あそこの居酒屋です』
『掘りごたつ?』
『はい。です。一番奥の個室です』
妙な緊張で頭が回らず、店の説明すらまともにできないのに、「あそこの居酒屋」で通じるのがすごい。
『了解。じゃああとで』
『はい。運転気を付けて』
『うい』
駆け足でトークを終わらせると、スマホの画面を暗くして、うなだれた。LINEをしている間ずっと浅見先生が俺を見ているらしかった。手の甲でひたいの汗を拭う。
「来るそうです」
「そう。よかった」
頭を抱えて「どうしよう」とうめくと、浅見先生が笑いを含んだ声で訊いた。
「どうかした?」
「だって、俺、加賀さんがいると頭の中が加賀さんだけになっちゃって、ちょっと、その、お見せできないというか、変なこと言ったりやったりしかねないので、今のうちに謝っておきます。本当にすいません」
ぶふ、と込み上げたみたいな笑い声が聞こえた。顔を上げる。浅見先生が、笑っていた。歯を見せて、楽しそうに笑っている。
「そうか、そういう感じになるのか。プライベートの倉知先生、新鮮で面白いな。幼いっていうか、やっぱり可愛いのかな?」
「は、はあ……、あの、浅見先生、笑ってるとこ初めて見ました」
感動で胸を押さえると、浅見先生が笑顔のままでカルピスソーダのグラスを持ち上げて、首を傾げた。
「これアルコール入ってる? 酔ったかな」
「えっ、大丈夫ですか?」
慌てる俺を見て、さらに浅見先生が笑う。
「倉知先生が全部さらけ出してくれたから、俺も素顔を見せられたのかな。プライベート解禁ってことで」
浅見先生はカルピスソーダを飲み干すと、からのグラスを置いて「本題に入ろう」と真顔に戻った。
「本題?」
「これは個人の意見だけど。学校側に言う必要はないかな」
自分で質問したことをすっかり忘れていた。掘りごたつに下ろしていた脚を正座に戻し、「はい」とうなずいた。
「中にはそういうの気にして自分から言う教師もいるけど、学校側は持て余すだけ。個人の性的指向はデリケートな問題だからむしろ触れたくないだろうね」
「……わかりました」
語尾が、安堵のため息と混じり合った。息をついて、太ももの上で握りしめていた両手の拳を解く。
「仮に校内に広まったとしよう。男と同棲してるからって、教師辞めろなんて誰も言わないし、言ったそいつに非難が集中するのは明らかだね。今はそういう時代だから。ただ」
言葉を切った浅見先生が箸を伸ばして唐揚げを一切れ摘む。
「不安なのはわかるよ。すごくわかる。あることないこと言われたり、相手に迷惑かかるんじゃないかって、怖いよな」
俺は目顔で同意した。そうなのだ、巻き込むことが、何よりも怖い。
「わかる。俺もあったよ。好き勝手言われたこと」
「え? 浅見先生が?」
「うちの奥さん、元教え子なんだよ」
なるほどと思った。どういう目に遭ったのか、何を言われたのか、想像できる。
「在校中に手ぇ出してたんだろうとか、淫行教師とか散々言われたよ。付き合いだしたのは卒業後の同窓会だし、別にねえ、許してくださいよって話なんだけど、当初はまあ、汚いものでも見るような目で見られたね」
「ひどい」
憤る俺を見て、浅見先生は眉を下げた。
「真面目にやってれば、見てくれる人は必ずいる。倉知先生は大丈夫だよ。味方はきっと多い。俺もいるから、心配しないで」
「ありがとうございます」
土下座のつもりで頭を深く下げると、ひたいにテーブルがぶつかった。
「痛い」
はははは、と豪快に笑う浅見先生が、箸の先を突きつけてくる。
「倉知先生、食べないの?」
「ちょっと、緊張で食欲が……、食べます」
サラダを口に放り込む。不安は解消したが、今から加賀さんがやってくる。俺は普通でいられるだろうか。浅見先生に醜態をさらすわけにはいかない。
「あ。あの、もう一つ相談があるんですけど」
思い出して、再び箸を置く。浅見先生が二つ目の唐揚げをつかんで、俺を見る。
「なんでしょう」
「いまだにいろいろ、個人のことを訊いてくる生徒がいて」
「ああ、ファンクラブの子」
「どう対処したらいいでしょうか」
浅見先生はうーんとうなりながら唐揚げを頬張って、飲み込んでから口を開いた。
「倉知先生は個人情報をかたくなに守りすぎてる。好きな食べ物とか好きな芸能人とか、血液型、誕生日、身長、体重、趣味とかなんかその辺、女子が喜びそうなネタくらいは提供してやればいいと思うよ」
「なるほど、わかりました」
次に持田に何か訊かれたら、教えよう。
それからは学校の話をしたり、浅見先生のプライベートを聞き出したり、楽しかった。見たことがない表情も見られたし、距離が縮まった気がする。
会話に夢中で、すっかり忘れていたというより、気が逸れていた。
襖の向こうから「お連れ様がお見えです」と店員の声がかかると、俺の中は瞬時に加賀さんで埋め尽くされる。
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彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。
そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。
社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。
イケメン天才画家に溺愛されて、灰色の世界が色づきました
砂原紗藍
BL
描いて、触れて、好きになる。
“色が見えない僕”を、イケメン天才画家が全力で甘やかす。
大学生の七瀬ユウは、透明感のある美少年としてちょっとした噂の的。
けれどユウは“色”が見えない。
一年前、心が壊れ、灰色に沈んだ日々を送っていた。
そんなユウの前に現れたのは、イケメンの若手画家・高来 湊。
出会って早々、湊はユウをモデルにスカウトしてきて――
「君、すっごく可愛い。俺に描かせて?」
強引だけど面倒見がよく、意外と優しい湊。
実は彼は、作品が三億で落札されるほどの“とんでもない天才画家”。
そして、週一のセッションで、ユウの世界は少しずつ“変化”し始める。
ところが、とあるトラブルをきっかけに距離が縮まりすぎてしまい、湊の溺愛スイッチが完全に入ってしまって……?
「ユウは俺が守る。絶対に」
これは、色を失っていた大学生が、イケメン天才画家に甘やかされて恋に落ちていく物語。
【完結】※セーブポイントに入って一汁三菜の夕飯を頂いた勇者くんは体力が全回復します。
きのこいもむし
BL
ある日突然セーブポイントになってしまった自宅のクローゼットからダンジョン攻略中の勇者くんが出てきたので、一汁三菜の夕飯を作って一緒に食べようねみたいなお料理BLです。
自炊に目覚めた独身フリーターのアラサー男子(27)が、セーブポイントの中に入ると体力が全回復するタイプの勇者くん(19)を餌付けしてそれを肴に旨い酒を飲むだけの逆異世界転移もの。
食いしん坊わんこのローグライク系勇者×料理好きのセーブポイント系平凡受けの超ほんわかした感じの話です。
【完結】抱っこからはじまる恋
* ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。
ふたりの動画をつくりました!
インスタ @yuruyu0 絵もあがります。
YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。
プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!
完結しました!
おまけのお話を時々更新しています。
BLoveさまのコンテストに応募しているお話を倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
後輩の幸せな片思い
Gemini
BL
【完結】設計事務所で働く井上は、幸せな片思いをしている。一級建築士の勉強と仕事を両立する日々の中で先輩の恭介を好きになった。どうやら先輩にも思い人がいるらしい。でも憧れの先輩と毎日仕事ができればそれでいい。……と思っていたのにいざ先輩の思い人が現れて心は乱れまくった。
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