電車の男ー社会人編ー番外編

月世

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電車のふたり ※

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〈倉知編〉

 エレベーターのドアが開くと、加賀さんが立っていた。
 一日の疲れが瞬時に吹き飛んで、自分の顔が輝いていくのがわかる。帰宅時間が重なると、こういうことはまれにある。俺はそのたびに、心の中で「よし!」と叫ぶ。
「よし!」
 声が出た。スマホを注視していた加賀さんが顔を上げ、遅れて俺に気がついた。二度見してからスマホをスーツのポケットに押し込んで、綺麗に笑う。
「おかえりただいま。今のよし! って何? いいことあった?」
「いや、あの」
 心の声が出てしまった。加賀さんがおかしそうに笑う。耳が熱い。
「いいことはありました。一秒でも早く会えたのが嬉しくて……、すいません、ただいま、おかえりなさい」
「はは、うん」
 微笑みながら、人差し指を唇にあてた加賀さんが、俺の背後に目配せをする。振り返ると人がいた。よく会う上の階の住人だ。彼は階数パネルの「9」と「閉」のボタンをリズミカルに押すと、俺たちに頭を下げた。
「こんばんは。お熱いですね」
 暑いですね、じゃなく、確かにお熱いですねと言った。心臓が、ギクッとなった。
 息を止めて硬直する俺とは違い、加賀さんは冷静だ。
「こんばんは。変なところをお見せしてすみません」
「いえいえ、和みました。いつも仲良しで安心します」
「恐縮です、お心遣い痛み入ります」
 二人のやり取りを聞きながら、俺はというと、熱く火照った顔を上に向け、エレベーターの天井を眺めていた。
 エレベーターが上昇し、八階で静かに止まる。おやすみなさいと挨拶をし、ドアが閉まるのを見届けると、俺たちは踵を返して無言で部屋に向かった。
 ドアを開け、玄関に入って、ドアが閉まる。
「すいません」
 俺は顔を覆い、肩を落とした。
「人がいると思わなくて……、愛が溢れてごめんなさい」
「愛が溢れて、うん」
 加賀さんがおかしそうに笑い声を上げた。
「知ってる人はとっくに知ってるから気にすんな。長年住んでたら自然とバレるって」
「でもやっぱり恥ずかしいので、以後気をつけます」
「うん、ああいう可愛い姿は俺以外に見せるの禁止」
 通勤カバンを廊下に置いて、加賀さんが俺を抱きしめた。
「叱らないんですか?」
「叱って欲しいなら叱ってやるよ」
「お願いします」
「よし」
 上目遣いで面白そうに俺を見て、頬を軽くつままれた。
「こら、倉知君、めっ、悪い子」
 キュン、と胸が鳴る。急いで加賀さんを抱きしめて、頬ずりをする。
「満足した?」
「はい、可愛い」
「じゃあ馬鹿なことしてないでなんか食うか」
 何か食べるよりも馬鹿なことをしていたいと思ったが、素直に「はい」と返事をした。
 一緒に着替えて、一緒にキッチンに立ち、一緒に冷蔵庫を覗き込む。
「何しよ」
「何しましょう」
「パッと作れて洗い物が少なくて済むやつがいいな。イチャつく時間が惜しい」
「同意見多数です」
「はは、多数なんだ。この部屋誰かいる?」
「間違えました、完全同意です」
 最近はお互い仕事が忙しくて、すれ違いが多かった。夕飯を一人で食べたり、どちらかが土日にいないこともあったり、圧倒的にイチャイチャ不足だ。
 今日は時間がある。期待で胸が高鳴った。ああして、こうして、いろいろしたい。
「俺が作ります。加賀さんは休んでてください」
 冷蔵庫の在庫を頭の中で組み合わせながら、缶ビールを取り出して加賀さんに手渡した。
「サンキュ、めっちゃ頼もしい」
 ソファに寝転んでリラックスしていて欲しい。と思ったのに、加賀さんは、俺を見ている。ダイニングテーブルに片肘をついて、俺を見ている。まるで酒のつまみのように、一口飲んでは俺を見る。テレビも点けないし、スマホも見ない。視線は、俺だけに注がれている。
「あの、スマホでも見ててください」
「なんで? スマホにはこれっぱかしも興味がねえ」
 キャベツを千切りにしながら、確かに、と苦笑する。現に今もスマホはリビングのテーブルに放置されている。
「でもさっき、エレベーターで随分熱心に見てましたよね」
「あれは倉知君の写真を見てたんだよ。本物が目の前にいるならもうスマホなんて用済みだろ」
 黙って照れ笑いを浮かべるしかなかった。
 加賀さんは俺が大好きだ。俺も負けないくらい、加賀さんが大好きだ。
 いや、勝ちも負けもない。俺たちの愛の熱量は、いつでも拮抗している。同じ分だけ、お互いを想っている。自信を持ってそう言えることが、幸せだと感じた。
 この上ない幸福感に包まれながら、夕飯を完成させた。ダイニングテーブルに丼茶碗を二つ並べると、加賀さんが湯気の中に顔を突っ込んで息を吸った。
「いい匂い」
 吐くと同時にそう言って、行儀よく両手を合わせ、俺が座るのを待っている。
 可愛い。
「いただきます」
 向かい合い、手を合わせ、声を揃えた。
「うま」
 大きな一口を頬張って、加賀さんが言った。
「よかったです」
「倉知君がこういうの作るのなんか珍しいな」
 ご飯にキャベツの千切りをのせ、豚肉と玉ねぎを濃いめの味付けで炒めたものを重ねた丼物だ。
「出会ったばっかりの頃に加賀さんが作ってくれたやつを再現しました」
「んー? 俺が? そうだっけ。よく覚えてんな」
「人生で一番美味しかったから、覚えてます」
「思い出した。泣いてた」
「はい」
 高校二年のとき、俺の人生は突然、加賀さんでいっぱいになった。
 寝ても覚めても加賀さんのことを考えていた。
 一緒に暮らして、落ち着くどころか年々愛しさは増して、できることなら一瞬たりとも離れたくない。それは加賀さんも同じだ。今日みたいに二人とも早く帰宅した日は、やることをさっさと済ませて一刻も早くくっつくぞという意気込みを隠そうともしない。
 三分で食事を終え、片づけを済ませると、バスルームに直行した。
 キスをしながら服を脱ぐ。浴室になだれ込み、舌を絡ませることに没頭する。密着した二人の肌は、汗で湿っていた。
「加賀さん好き。加賀さん大好き。好き、好き、好き」
 狂ったように「好き」を連呼しながら、喉元に吸いついた。
「あー、めっちゃ勃った。めっちゃ気持ちいい。もうイキそう、やっべえ」
 なまめかしい声色でそう言うと、俺の太ももに脚を巻きつけ、股間を押しつけてきた。
 硬いものが、俺の太ももを往復している。
「七世」
 首にしがみついて、反り返った裏側をこすりつけてくる。あ、ん、と押し殺した声が愛らしい。おでこにキスをしながら、尻を撫で、揉んで、ほぐす。加賀さんが体を震わせ「入れて」とねだる。ゆっくりと押し込んで、しっかりとつながった。
 抱き合って、体を弾ませる。硬いタイルの上で、体位を変えつつまぐわって、最終的には立ったまま、後ろから挿入する体位に収まった。
 鏡があるから、顔もよく見える。鏡越しに視線を合わせたまま、奥に進む。加賀さんの腹が波打って、ペニスが跳ねた。
 気持ちよさそうな顔。
 鏡から目を離さずに、深く押し込んだ。根元まで全部入れて、濡れた体を両腕で抱きしめる。首や肩に舌を這わせ、あらゆる箇所を両手で丁寧にまさぐった。右手で胸を撫で、小さな突起を優しくこすりながら、左手は太ももの付け根を撫でさする。
 もう、どこに触れても気持ちいい状態になっている。
 なまめかしい呼吸の音。ときおり零れるしとやかな喘ぎ声。小刻みに痙攣する内腿。
 たまらず、腰を振る。大きく抜き差しをして、腰を尻に緩く当てた。抜けそうなギリギリまで腰を引いて、先端を引っかけ、一気に押し込む。皮膚を打つ音が、小さくこだまする。一定のリズムで出し入れを続けていると、加賀さんが「もうダメ」と泣き声で小さく叫んだ。
「イキそう?」
 余裕ぶって訊いてみたが、正直今すぐ俺がイキたい。
「すげ、いい、もっとして、そこ、あ、あっ……」
 ぽたぽたと、タイルに何かが滴る音が聞こえた。動きを止めずに、加賀さんの肩口から股間を覗き込む。勃起した先端が揺れて、潮を噴いているのが見えた。瞬間、愛しさが胸の中で渦を巻き、爆ぜた。声にならない声を上げ、加賀さんの体を背後から掻き抱いて、精を放つ。
 快感で、目がくらむ。固く瞼を閉じ、きつく加賀さんを抱きしめた。
 二人分の荒い息が入り乱れ、それが落ち着くと、加賀さんがつぶやいた。
「やべえ、もう、すげえ、やべえ」
「大丈夫ですか?」
 腰を引いて抜け出そうとすると、加賀さんが「待った」と止めた。
「抜かないで」
「でも、中に」
「まだイキそう」
「え」
「触って」
 加賀さんの腹を支えていた俺の手が、下腹部に導かれた。熱くて硬いそれを握らされると、加賀さんが「こすって」と懇願する。
 言われるままに、右手を動かした。しばらく上下させていると、イク、イク、と加賀さんがうめいた。
 手の中で、脈打つ手ごたえ。
 精液が吐き出される映像と、手のひらの熱。中がうねり、きゅう、と締めつけてくる。中に入れたままの俺の股間はみるみる復活した。
「うわ、なんか、でかくなってる?」
「すいません」
「はは、すげえ、さすが絶倫」
 加賀さんだって、充分絶倫だ。俺の性欲を受け止めているのだから間違いない。
 それから快感を貪って、気が済んだ俺たちは眠ることにした。
 ベッドに膝をつけた途端、加賀さんが「うわー」とうつろな声で言った。
「すぐ寝そう。もう寝そう。今すぐ寝そう」
 シーツに転がって、「寝そう寝そう」とうつ伏せで繰り返す。
「寝てください」
 笑って加賀さんの背中をポンポンする。
「ダメ……、待って……、もっと顔見てたい……、俺の、七世」
 加賀さんの目が閉じていく。すう、と寝息が聞こえた。この寝つきのよさが可愛くて仕方がない。
「また明日、会えますよ」
 目が覚めたらとなりにいる。
 明日も明後日もその先も。
 眠る加賀さんの頬に、キスをした。


〈加賀編〉

 しこたまセックスしたせいで、泥のように眠った。
 目が覚めると朝。とはならず、カーテンの向こう側は、まだ暗い。
 まるで朝みたいにスッキリした寝起きだが、夜明け前だ。
 すぐにもう一度寝ようと試みたが、倉知の寝息があまりにも可愛くて、完全に覚醒してしまった。
 暗闇に目が慣れてくる。寝顔が目の前にある。
 可愛い。
 寝ている。俺のとなりで、眠っている。
 ただそれだけなのに、やけに感動して、わけがわからなくなって、俺は倉知にむしゃぶりついていた。
 またがって、髪を撫でる。薄闇の中で、顔のどこかに唇を押し当てる。何度もチュッチュと音を立てた。こんなにされても起きる気配がない。愛しさが加速する。脱力した声で「好きぃ」と囁き、頬ずりをする。
 性欲ではなく、愛情の暴走だ。
 たまにこういうことになる。何か可愛いことを言ったとか、可愛い顔をしたとか、きっかけがなくたって、こうなるのだ。そこに存在するだけで、好きだと思う。なんの前触れもなく、好きでたまらないと自覚する。この感情を表現する言葉が見当たらない。
 もどかしくてたまらない。 
 好き好き好き可愛い可愛い愛してる。なんでこんなに可愛いんだよ。
 ギュウギュウと抱きしめていると、倉知が「きゅう」みたいな声を出した。すまん、起こした、という科白を準備して待っていたが、どうやら寝ている。俺の体にしがみついて、「むにゃむにゃ」と言った。やけにはっきりした「むにゃむにゃ」だった。人というのは、本当に「むにゃむにゃ」と発音するのだ。
 全部可愛い。一生可愛い。
 倉知の腕の中で身悶えていると、そのうち眠っていた。
 まぶたを開けると朝で、めちゃくちゃ穏やかな顔で俺を見つめる倉知と目が合った。俺の寝顔を観察するのが日課なのだ。
 朝日に照らされた倉知は神々しかった。目を細め、「好き」と無意識につぶやいていた。
「俺も。大好きです」
 倉知が笑って、俺の頬を手の甲で撫でた。
「今日は早起きですね、おはようございます」
「おはよ」
 しがみついて、服の中に手を突っ込み、腹筋を撫でながら訊いた。
「今何時?」
「五時十分です」
「もうこんなに明るいんだな。目ぇ覚めた」
 ふわあ、とあくびを噛み殺すと、倉知が俺の目尻の涙を親指で拭った。
「起きますか」
「あー、今日休みならよかったのに」
「イチャイチャしたい?」
「うん、昨日のセックスめっちゃよかったから、余韻がすげえ」
 服の中から手を抜いて、そのまま下に侵入すると、硬いものを発見した。手のひらに収め、先端をくすぐって、ほくそ笑む。
「これも余韻かな」
「あっ、そこ、気持ちいいです」
「ここ、こうされるの好きだよな」
「加賀さん」
「うん」
「します?」
 倉知が俺の尻を撫でながら、ワクワクした顔で訊いた。
「じゃあ先っぽだけ」
「えっと、どっちの先っぽ?」
「はは、ウケる」
 倉知の上に乗って、シャツをまくり上げる。美しく割れた倉知の腹筋に先端を押しつけ、腰を振る。
 朝からそういう行為をしてはしゃいでいたせいで、まあまあやばい。時間はどんどん過ぎていく。
 慌ただしく洗濯機を回し、超特急で朝食を作り、会話を交わさずに平らげた。口をもぐもぐさせて二人で食器を洗い、並んで歯磨きをする口元は緩んでいた。鏡越しに笑い合う。
 こういう日もあってもいい。 
「大丈夫? 遅刻しない? 洗濯干しとくから先出ていいよ」
 スーツに着替え、腕時計を装着すると、倉知の背中にそう言った。スタンドミラーの前でネクタイを締める倉知が「いえ」と即答する。
「一緒に出ます。夏休み中だし、時間は大丈夫です。ダメだ、どうしてもネクタイが言うこと聞かない」
「何それ、どうした」
「見てください」
 振り向いた倉知のネクタイは、恐ろしくバランスが悪かった。大剣がやたら短い。ネクタイ生活三年目でもこうなってしまうなんて、才能だ。
「なんつー可愛さだ?」
「加賀さん助けて」
「はいはい、任せろ」
 ネクタイを解いて結び直している間、倉知の両手は俺の腰に添えられていた。やりづらくてしょうがなかったが、どこかに触れていたい気持ちはわかる。
 倉知が俺を見ている気配がする。あえて目を上げず、気づかないふりをした。
 また欲しくなってしまう。
 洗濯物を光速で干し終えて、小走りで玄関に向かう。
 靴を履きながら、キスをする。
 挨拶みたいないつもの軽いキスなのに、今日は妙に名残惜しい。
 もう一回したい。
 と思った瞬間に、倉知が顔を寄せた。今度はすごく丁寧なキスだった。唇が離れたあと、充足感に包まれ、ため息が漏れる。
「以心伝心」
 つぶやくと、倉知が嬉しそうに笑った。
 まるで新婚だな、と思った。イチャイチャしすぎだし好きすぎる。
 仕方がない。好きだから。きっと、永遠に俺たちはこうだろう。
 いつにもまして、離れがたい。
 エレベーターの中。誰もいないのをいいことに、指を絡ませた。七階、六階とカウントダウンするのを、二人で見上げた。
 四階で人が乗り込んでくると、素直に手を放し、距離を取る。乗り込んできた住人に、声を揃えて「おはようございます」と会釈する。彼女は満面の笑みで、挨拶を返した。
 過度な干渉はしないが、このマンションの住人はおおむねフレンドリーだ。二階の住人も同じく笑顔で乗り込んできた。
 一階に着くと、それぞれ軽く頭を下げてエレベーターを降りた。倉知もそれに続き、回れ右をすると、ニコリと笑った。
「いってらっしゃい、いってきます」
「いってきます、いってらっしゃい」
 エレベーターのドアが閉まる。遮断されてしまう。咄嗟に手が出た。閉まりかけていたドアが腕にぶつかって、再び開く。
「どうしました?」
 倉知が驚いた顔で訊いた。キョロキョロして辺りを確認したあとで、照れ臭そうな顔で声を潜めた。
「あ、あの、キスですか?」
 まんざらでもない顔がおかしい。少し吹き出してからエレベーターを降りて、倉知の脇を通り抜けた。
「え、あれっ」
「俺も電車で行く」
 振り返らずに言うと、倉知がバタバタとついてきた。
 なんで、どうして、とは訊かなかった。ただ、喜びのオーラがひしひしと伝わってくる。
 駅に向かうときも、ホームで電車を待つときも、浮かれているのが顔を見なくてもわかった。
 俺たちにとって電車は出会いの場で、原点のようなものだった。
 倉知が俺を見つけてくれた。おかげで毎日が楽しい。幸せだ。出会えてよかった。もし出会えていなかったら。考えたくもない。倉知がいない人生は、ありえない。
 懐かしい早朝の満員電車に揺られ、追憶する。
 初々しい学ランの少年が、熱っぽい視線で遠慮がちに俺を見て、目が合うとはにかんで。可愛かった。とにかく可愛かった。
 でも今のほうがもっと可愛い。
 もう大人なのに、不思議と可愛い。
 スーツをきちんと着こなした、大人の男。
 カッコイイ。倉知は完璧だ。
 愛情深い笑みを浮かべ、俺を見ている。めちゃくちゃ成長した、と実感する。
 不意に感慨のようなものが押し寄せ、ぐ、と喉を詰まらせた。
 涙が出そうになるのを堪えていると、倉知に伝染した。今にも泣きそうな顔で唇を尖らせている。笑いを噛み殺し、窓の外に目をやった。
 流れる景色も、至近距離で観察されるこの感覚も、懐かしい。たまには電車も悪くない。
 減速し、駅に停まり、加速する。何度か繰り返し、あと一駅。次の駅で降りなければならない。
「ちょっと、通ります、ごめんなさい、ほんとごめんなさい、申し訳ございません」
 若い女性の声が上がる。倉知がハッとなって振り返る。
「先生っ」
 どうやら生徒に見つかったらしい。倉知は人よりでかくて目立つ。
「やっぱり倉知先生だ、おはようございます……っ」
 電車の中で騒いではいけないという認識はあるらしく、周囲を気にしつつ抑えた声で興奮している。
「おはよう。夏休みなのに、あ、部活かな?」
「はい、部活続けててよかったぁ、グッジョブ私、あっ、黙りますね、しーっ」
 彼女の声から好意がにじみ出ている。電車で教師を見つけても、人を掻き分けてまで話しかけるものだろうか。
 ちら、と倉知の肩越しに覗き込む。見覚えのある女子生徒だった。倉知を尾行し、マンションを突き止めた子だ。もし俺の顔を覚えていたら、まずい。
 倉知に背を向け、顔を伏せる。
 他人のフリをしなければ。
 別にどうということはない。今までだってそういうことがあった。
 隠さなければならない関係。
 この先ずっとこうなのかと思うとやはり複雑ではある。
 胸が痛い。
 静かに深呼吸していると、左手に指が絡まった。倉知の手の感触だ。
 混んでいるとはいえ、なかなか大胆なことをする。
 バレてもいいのかよ、と思ったが、手を振り払うことはできなかった。
 やがて降りる駅が近づいて、電車が減速し、停まる。近くのドアが開いて、人がぞくぞく下りていく。
 倉知の指が離れた。このまま他人を装って電車を降りるのはどうしてもいやだった。
 顔を上げる。目が合った。
「いってらっしゃい」
 倉知が、めちゃくちゃ男前な顔で笑っている。
「……いってきます」
 ホームに降りると、乗り込む人が目の前を流れていく。倉知のとなりで女子生徒が目を丸くしている。俺と倉知を見比べて、「あっ」と声を上げた。
「今の、あれっ、あの人って……、えっ、先生のお知り合いですか?」
「うん。あの人は俺の」
 発車ベルが鳴り、ドアが閉まる。
 あの人は俺の。
 続く言葉は聞こえなかった。
 電車が動き出す。
 ガラスの向こうで手を振る倉知は、優しい顔をしていた。
 軽く手を振り返し、笑って肩をすくめた。
 俺を無視すれば済んだのに。
 いくらでもごまかせたのに。
 でもまあ、できないよな。
 電車を見送り、大きく息を吸い込んだ。
 眩しい朝日と澄んだ空気。
 一日が始まる。

〈おわり〉
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